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「POPCORN」電気グルーヴ

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動画はこちら

https://www.youtube.com/watch?v=x-bNNjFzhLU



 しばらく前に読んだ、樋口恭介「生活の印象」という本の最初の頁から引用する。


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 この文章は読者の存在を想定していない。
 この文章は純粋に私的に、自身の生活を守ることを目的に、つまりは自己治癒のために書かれている。あるいはどこにも目的はなく、単に苦痛な時間をやり過ごすようにして書かれている。
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 筆者は自身が発案したSFの企画で各方面から袋叩きにあったり、Twitterで炎上してしまいそうな発言を止めることが出来なかったりした人であるらしい。人に見せるから危険なことになるというので、誰に見せるわけでもない文章を一人黙々とGoogleドキュメント上で書き連ねたものをまとめたのが「生活の印象」である。結局は電子書籍として発表しているじゃないか、とこれまた総ツッコミが入りそうではあるが、Twitterだと140文字以内の文章になることで、人に誤解を与えてしまうところで終わりがちな文章も、制限がなければ、自身の想いを開陳するのに適したものとなる。GEZANが好きだったり、会話相手の外国人にROTH BART BARONを勧めるあたり、好感を抱かざるを得ない。

 筆者が繰り返し書く、Twitterやインターネットの恐ろしさというのは、悪意に囲まれたことのない私には実感しにくかったが、安易にネットに発表し過ぎることによる弊害といったことには心当たりもあった。事実、日々少しずつ長編小説を書いている、などとここで書いてから、ぴたっとその筆は止まってしまった。

 話は変わるが、以前Twitterで自由律俳句を書いていた。ほとんど日々の生活を題材にしたもので、一日十二句詠み、その中から五句を選んで発表していた。その習慣は就職と共に終了してしまった。覚えることの多い日々だから、題材は自然と仕事内容に踏み込まざるを得ない。そうすればコンプライアンスに引っかかる。何もかもが新鮮に映った日々が過ぎていくうちに、十五年ほど前がそうだったように、再び俳句からは離れていた。

 かといってその他のタイピングを総て創作に向けられるわけではないし、と思っていたところで「生活の印象」を読んだ。日記でもありメモでもあり、時には詩やあるいは遺言といった内容のものでもいい文章を、発表する前提ではなしに書きたくなった。書いているうちに、他のことも書きたくなる。何かを書いている最中に休憩として書く。「読書に疲れたら本を読む」ように、「書くのに疲れたら一息つくために書く」場所として、Googleドキュメント内に一つ文書ファイルを作った。時にはそこに書いたメモから別の小説を書いたりした。そのままでは食べられない硬い豆でも、熱することで割れて弾けて食べられるものになる。そんな意味を込めて、文書ファイル名は「POPCORN」とした。「POPCORN」からは、二十の掌編小説、七編の詩、二編の短編小説、書きかけの長編小説が巣立っていった。

 後半は嘘だ。
「POPCORN」を思いついたのはつい先日の話で、何も巣立ってはいない。まだ種は弾けてもいない。ファイル名「POPCORN」の意味も後付けで、電気グルーヴの曲からいただいた(実際はカバー)。

 小中高と同じ学校に通っていた男に、テクノ好きがいた。電気グルーヴは彼に借りた。高校の途中で学校を辞めてしまった彼の家を、何度か訪れたことがある。シンセサイザーやらテクノ関連の何やらの機器が置いてあった。私の貸したディープ・パープルの「LIVE IN JAPAN」で、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」の単純なリフをリッチーが豪快に(わざと?)間違えている箇所をサンプリングして、延々と流したりもした。クラブでDJやらやっていたらしいが、私は彼のDJっぷりを見たことはない。というかクラブという場所に行ったことがない。というか昔の同級生のその後をろくに知らない。


 たとえばこんな風に書いている。

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2022/11/01

 昨晩、ココに「天然ってどういう意味?」と聞かれた。
「狙って笑いを取るのではなくて、本人は笑いを取ろうとしていないのに、とても面白い状態になっていること」という説明をした。
 ふと顔を上げると、ココが鼻くそをほじりながら「ほうほう」と言っていた。
 私と妻は長い間笑い転げてしまった。
 後で鼻をかむと、その時食べていた焼きそばの欠片が出てきた。


 書きながら考えるために書く。


2022/11/04

 粒。粒が弾ける。

 これまで書いたものをそれで終わりとせず、原案として膨らませる、違う角度から書く。
 たとえば「芋虫」、たとえば「夜明けのBEAT」。原案から離れようと、良くなれば良し。

 締め切りを設けないと結局ずるずる書かない方を選ぶ。
 落選にしろ不評にしろ、締め切りを設けて書いたものには緊張感があったし質も上がった。

 読書の秋2022に以下の本の感想を投稿する。
「城を蹴った男」「ヒルは木から落ちてこない」「フェイタル・コネクション」「生活の印象」「人間椅子小説集」

*

「俺が住んでた子どもの頃と比べたら、すっかりこの辺りも変わってしまったなあ」と、初めて訪ねる土地で「懐かしごっこ」をする話。

そしたら地元の人が「久しぶり」とか話しかけてきて。乗ってみる。
「人殺しておいてよく帰ってこれたな」みたいな話に。
「あの子の勝手な自殺だったでしょ」みたいにまた知らない人が。
「自殺ってのは、追いやったやつが犯した殺人のことだよ」

 身に覚えのないことで追い詰められていく。
 しかし遠い昔に見知らぬ女の子から慕われたが、避けた覚えはあった。
 その後死んだとかいう話は、自殺だったのか。

 自分の育った町を訪れて感慨に耽ったことはあった。
 しかしそれは久しぶりに外出した時の話であった。
 グーグルマップを利用して、見知らぬ土地を歩く気分に浸るのが趣味になった。
 家に居続けた。
 両親は彼を見放して、自分たちで死を選んでいた。
 彼はそれを自らが殺したと思い込んだ。包丁で刺し殺したと。

 彼はふらふらと久しぶりに出かけた公園の、鏡のように映る池を覗き込んでいただけだった。彼に絡む男は、年を取って老けたおっさんになっている自分自身の姿だった。誰も殺していないし包丁を手に持ってもいない彼は、通報されることもなく、警察に捕まって楽になることもなかった。

*


 健三郎が幼稚園で豪快に転んで擦りむいた傷が染みるというので、三日間、一人で風呂に入った。私が洗い終えた後、健三郎を呼んで頭と体を洗う。擦りむいたところは優しく洗う。途中からどうも、染みるのではなくてゲームで遊び続けたいから、という感もあったが。一人のんびり湯船に浸かるというのも久しぶりのことだった。自然と歌が口から流れた。人間椅子「芋虫」を歌いながら、上記の話を考えたりした。

 健三郎が好きな女の子の名前を恥ずかしがらずに言っている。良いことだ。

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 ポップコーンで思い出した。話はあちこちに飛ぶ。意識的に飛ばしている。昔働いていたつぶれかけのゲームセンターの店頭に、ポップコーンを作るアンパンマンの筐体があった。店とともに機械も歳を取り、時折不具合が起きて、ポップコーンが出ないことがあった。そういった場合はお客に返金して対応していた。食べたかったポップコーン、ハンドルをぐるぐる回して作る(的な操作)はずだったポップコーンを、手に入れることが出来ない、という悲劇を信じられないでいる三歳くらいの男児の表情が、あっという間に笑顔から泣き顔に変わる。その一瞬の劇的な変化をいまだに忘れられないでいる。似たような変化を健三郎に見たこともある。楽しいおでかけの終わり、勢い余って家のドアにぶつかり、この世の終わりのように泣き出してしまう。アンパンマンは来ない。

 顎男先生の「わが地獄(仮)」が好きで、特に最新更新分「忘れ続けて」が心に響いた。
https://neetsha.jp/inside/comic.php?id=9427&story=205

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 小説を書かなくなって、もう何年にもなるけれども、ネタ出しはしていたりする。いまだに七年前からのプロットをいじくっている。もうやめればいいのに。書くことが楽しかったりメリットがあったりするならやる動機もあるが、俺の場合はひたすら自分を痛めつける自傷行為に近い。だからやるのはリスクがある。こうやって文章を垂れ流しているだけでも、一種の中毒的な感じがある。事故で指がなくなったやつが、仮あての指を外して傷口の名残を眺めているのに似ている。なくなった指は戻らない。かといって、仮あての義指を本当の指と思い込むこともできない。だから定期的に確かめる。俺に指はないのだと。
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「POPCORN」に文章を書き足していく。それだけで脳のどこかが喜んでいる。物足りなくなって他の文章に手を出していく。合間に何か呟く。「人間椅子小説集」を読み終えたので、人間椅子のギター&ボーカル、和嶋慎治の自伝「屈折くん」を読む。エレキギターに目覚めた中学時代の彼がさらっと書いている恐ろしい練習量の話がある。

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昼から起きてギターの練習をし、晩御飯を食べちょっとだけテレビを見て、また二階へ上がってギターを弾く。ここからはストラップをつけての練習だとばかりに立って弾いたらこれがまた面白く、興に乗って体を動かすうちに白々と夜が明けていた。「慎治、お前いったい何してるんだ」。あきれた顔で僕の部屋のふすまを開けた父の姿が、忘れられない。
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 遅い起床から晩飯までの数時間、夜中じゅうの練習とをさらっと書いている。その練習量を苦労とは書いていない。一瞬で過ぎていく夢中になっていく時間。

 子どもらと本気で鬼ごっこをした翌日、足の付け根の筋肉痛に苦しむ。二日連続は早々にギブアップした。緩やかに追いかける「ゾンビごっこ」にシフトしたので、「ゾンビだぞー、ゾンビだぞー」と言いながらゆっくりと追いかける。途中「曹丕だぞー」と、魏王を僭称してみたが誰にも気付かれなかった。

 健三郎に手を引かれてぐるぐると振り回される。中島みゆき「時代」が口をついて出る。「回る回るよ時代は回る出会いと別れを繰り返し今は倒れた恋人たちも生まれ変わって歩きだすよ」歌詞が合ってるかどうかは分からない。

 帰り道、ココがアパートの廊下をカツカツと足音を立てて歩き、スマホで録画していた。帰ってから「サクラスクールシミュレーター」というゲームをしながらその動画を流している。動画内のキャラクターの足音として利用しているのだという。

 公園のすぐ側にあるガレージのある家で飼われている黒猫と頻繁に会う。ココも健三郎も昔は「シャーッ」とやられて泣いた猫なのに、すっかり年老いたのか、公園に訪れる子どもたちに撫でられるがままにされている。私も仕事の行き帰りに会うと挨拶くらいはする。子どもたちと行ってもまず私と目を合わせて寄ってきてくれるのは嬉しいが、子どもたちに引き合わせる為に私は一歩引いて接している「。

 繰り返して消えていく日々の泡。それらを種として残し、いつか弾けさせたり咲かせたり出来たらいいなと思いつつ、記していく。どこかの誰かにですらなく、いつかの自分に響くためだけに鳴らす音。
「POPCORN」はそもそも1969年にガーション・キングスレイが発表した楽曲で、クラフトワークや電気グルーヴだけでなく、800人以上にカバーされているとか。種はあちこちで弾け、無数の人々の耳や口に入っていった。入るだけでなく、別の形となり飛び出していった。私の蒔いた種を咲かせるのは、未来の自分ではなく、別の誰かなのかもしれない。

 走っていく。
 健三郎がトイレに向かって駆け出していく。
「もれるもれるもれる」と言いながら。
 間に合わなくてたまにもらしている。

(了)

 黒猫と子どもたちを撮った動画を見直してみると、途中で健三郎がクイーンの「WE WILL ROCK YOU」を歌いだしているのだが「ドンドンチン、ドンドンチン!」と歌っている。ちんちん言いたい年頃。
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