動画はこちら
https://youtu.be/mOGu938ZP6o
私の話をしよう。
39歳、
二児の父親、
バイト上がりの万年主任で
出世の兆しはない。
バンド少年、
引っ越しを機に、
父の蔵書で読書に目覚め、
図書館に入り浸り文学を知る。
筒井、安部、大江
カフカ、マルケス、そして
高校三年夏休み、
課題図書の中、挑まれるようにあった
「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー。
何もかも知らなきゃ良かったとか
ギター弾き続けてりゃ良かったとか
思った事は無かった
流れの中で
なるようになって
そんで
とまあ無理してリリックぶろうとしたけれど長くは続かないわけで。最近仕事で部署内での情報共有の為の日報でライムしてたら怒られた。どうしてだろう。
新旧洋邦メジャーマイナー満遍なく取り上げたいと思いつつも、気付けばいつも90年代後半~2000年代前半の邦楽オルタナティブロックに入り込みがちになる。違うジャンルにも手を出したくなる。職場の若者達はラッパーのライブに足しげく通ったりしてるというのも聞いた。その中でカート・コバーン(発音的にはコベインが正しいのだけれど、浸透しているこちらの表記で)について歌っているこの曲に出会い、離れられなくなった。
私は時折NIRVANAしか聴く気になれない時がある。カート・コバーンの激しい声が私には優しく響く。どの曲がというわけではなく、ただ無償にNIRVANAの音とカート・コバーンの声を、心が、体が、魂が、求める時がある。NIRVANAを初めて聴いた中学生の頃から、定期的にそれはやって来る。
ネット上で初めて文章を発表したのは、ラップ風に書いた物だった。「ドラゴンアッシュ風に話そうぜ」というスレッドを立てた。1999年、2ちゃんねる黎明期の「ロビー」という雑談系の板での事だ。各種専門板の閉鎖的雰囲気に嫌気が差していた私は、どうでもいい事で真夜中だべっているようなそこが好きだった。やがて「名無しさ」という名で即興小説を書くようになった。自作のまとめサイトが作られると逆に名前を隠して書いたり、断片的な物を発表したり、自サイトを作るも長くは続かなかったりした。
やがてその場所も荒れ始めた為に離れていった。そんな中、2006年、ふと思い出したように連載形式で書いた童話「首がもげたキリン」が今風に言うとバズった。一番大手のまとめサイトはもう消えてしまっているため、当時の反響は今では分かりにくくなっているが、怖いくらいに検索結果が増えていった。
その頃の私は自分の書いた物に反発していた。「そんなに気合いを入れて書いた物じゃない」
「自分が本当に書きたい事はこれじゃない」
だからといって、それ以上の物をその後書けた、とは言い切れない。
「新人賞に向けての長編を書こう」という時に、私は固まってしまう。何も浮かばなくなる。掌編や断片的な物を書くのに慣れすぎた、ネットで書いてすぐに反応を貰う事に溺れ過ぎた、もしくは、長く書くに足る物語が自分の中にはない事に気付いてしまった、そのどれもが本当だと思う。
一日一編詩を書くようになり、その中から選んだ3編を「詩と思想」という雑誌に「楢山孝介」名義で毎月送るようになった。掌編小説の元になりそうな物を選んで小説化し、「携帯電話で送る、1000文字以内の掌編小説」が応募規定の「きらら携帯メール大賞」に送るようになった。どちらも初投稿で採用された。投稿欄に載ると、掲載誌が郵送されて来た。「きらら携帯メール大賞」では、佳作で千円分の図書カード、月間賞で賞金三万円、半年間の月間賞の中から選ばれるグランプリ賞で賞金十万円と副賞(編集者にご飯をおごってもらい、三万円相当の商品を買ってもらえる。私は当時壊れかけていた炊飯器を選んだ)。月間賞2回、グランプリ1回、佳作十何回か、が私の戦績だった。2009年、その賞も幕を閉じる。私は編集者に催促された「本になるような長い話も!」という期待に応えられなかった。
今思えば、その賞で稼いだ金額は、フルタイムのバイト一ヶ月分の給料にも満たなかった訳だ。
長年勤めた、仕事中に野球中継を観ながら本を読んでいられる環境の、寂れたゲームセンターの店番というバイト先がとうとう潰れたのが2008年頃。新都社デビューの「食いタンのみのタモツ」が2009年、泥辺五郎名義デビュー作「小説を書きたかった猿」を書いていた頃は、人生のどん底期だった。
日雇い派遣であちこち行く内に一つの会社に入り浸るようになり、日雇いを止めたのが2010年。その中で妻と出会い、子供が出来、結婚し、その会社の正社員になったのが(幾つか順番がおかしいが気にしない)2012年。しばらく読書や執筆から遠ざかったり作品発表間隔が空いたりしたものの、スマホ執筆に切り替えたり、読書習慣を再開すれば自然と書きたくなるもので、それが2018年後半以降、という流れの今。
カート・コバーンは人気絶頂期に、愛する妻子を遺して自殺した。明確な意志を持ち、猟銃で頭を撃ち抜いた。彼の遺書は検索すればすぐに読める。彼の顔がプリントされたTシャツは誰でも着てる。
「俺は別の道を行く」とSALUは歌う。
「I love my funs
何を返せる?
俺は音楽を続ける
自殺しないKurt Cobain」で終わる。
私は再びNIRVANAに浸る。
一人の派遣従業員の契約を打ち切った。
朝注意した事と同じ事を夕方繰り返した。
ずっと働きは悪かった。
バンドマンだった。芽の出ない、売れないバンドのギタリスト。
私が歩んでいたかもしれない道にいる彼とは、どんなマイナーなバンドの話もすんなり出来た。彼のTwitterでは、勤め先からの契約解除の事など一言も触れず、次のライブ告知を行っている。
私は別の道を行く。
この道が正しいかどうかなど分からないまま。
少し早起きした休日の朝に一気にこの文章を書き上げる。
もうすぐ子供達が起きてくる。
(了)