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「Hungry Spider」槇原敬之

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動画はこちら(静止画、ライブバージョン)
https://youtu.be/8dEc2Ed9cxU


 私は餓えた蜘蛛で。彼は美しい蝶で。恋い焦がれた所で彼は私にとっては餌でしかなく。彼にとって私は恐ろしい捕食者でしかない。
 私が八つの青い葉にかけた、朝露に光る巣を見て「きれい」だなんて彼が言わなければ良かったのだ。そんな言葉を私は聞かなければ良かったのだ。蝶の気まぐれの一言に私は羽根も無いのに舞い上がってしまった。巣についてそんな事をかつて言われた事などなかった。忌み嫌われ恐れられた。人間の子供に意味もなく石を投げて壊され、命乞いをする餌達からは憎まれた。そんな扱いに慣れていたのに。そんな生涯で良かったはずなのに。夢を見てしまった。彼と並んで暮らす日々を。

 彼ではない蝶を捕らえて食す。腹が減ってしまうのだから。巣に獲物がかかってしまうのだから。食わねば生きてはいけないのだから。
「何をつらそうな顔をしているんだい」彼ではない蝶が私に問う。
「早く食べてくれないか。この美しい鱗粉が全て落ちてしまう前に」
「お前は助かりたくはないのか」
「どうせもって後数日程度の命だ。交尾も終えた。思い残す事など何もない」
 私は愛してしまった彼の特徴を、この捕らえた蝶に説明してみた。
「そいつは俺よりずっと長く生きる種だ。どうしたんだ。恋でもしたか? 蜘蛛が? 蝶に?」私は会話を打ち切り、食事を始めた。口数の多い蝶の体液を吸い尽くした。鱗粉は風に溶けた。

 ある夜、私が青い八つの葉にかけた巣に獲物がかかった。嫌な予感がした。聞き覚えのある羽音がしていたのだ。私は闇に紛れ、正体を隠して彼に忍び寄った。彼がきれいだと誉め称えてくれた巣に彼は絡め取られていた。こうなるのだ結局。恋い焦がれようが、思い悩もうが、どうしようもない本能が私を突き動かすのだ! もっと狩れ、と。もっと食え! と。
 彼は暗闇の中で私の顔を確かめもせずに「助けて」と繰り返していた。私の巣を誉めた事などもう忘れているのだろう。死にたくないという思いでいっぱいなのだろう。私は腹が空いていた。いくら食べようとも満たされる事はなかった。鱗粉など腹の足しにはならなかったが、私は彼の美しい羽根に触れてみた。怯える彼はより大きな声で命乞いをした。私の恋心などに構わず、どこにでもいる哀れな餌として。

 私は餌以外で私の腹を満たそうとしていたのだ。本能に背いてまで、愛や恋に溺れようとしていたのだ。それもこれも、気まぐれな蝶の一言に踊らされての事だった。しかしどうしようもなく嬉しかった。私の巣を「きれいだ」と言ってくれたその一言が。種を超えた愛が生じるほどに。全て捨ててしまってもいいと思えるくらいに。餓えた蜘蛛でしかない自分が、それ以外になれるのではと錯覚してしまうくらいに。

 私は愛だけを食べ、彼を逃がした。振り返りもせずに逃げ出した彼の姿は、透き通る羽根の先に月が見え隠れし、夢の中のような美しさであった。それを眺めたまま死んでしまえれば、この時が永遠になるのだと思った。しかし私は次にかかった獲物を、顔も声も確認せずに食して、命を繋げた。
 翌朝も私は八つの青い葉に糸をかけて巣を作った。きれいだと言ってくれる者は、もういなかった。

(了)
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