トップに戻る

<< 前 次 >>

「ネイティブダンサー」サカナクション

単ページ   最大化   

動画はこちら
https://youtu.be/IiqfKF9BlcI


 僕の中にある、初めて踊った記憶は父の弾く適当なギターに合わせてのもの。でも父の話では、僕は立ち上がるより先に踊り出していたそうだ。おむつを代える際に手足をバタバタさせて。あるいはなかなか眠れない夜に、子守唄として聴かされた父の好きなロック・ナンバーに合わせて。

 元々姉が踊っていた。テレビから流れてくるCMソングに合わせて。Eテレでやっていた「ムジカ・ピッコリーノ」という音楽教育番組で取り上げた楽曲に合わせて。自ら作る、日常を唄うオリジナルソングに合わせて。埃舞い上がり咳き込んでも。道行く人が呆気に取られていても。僕はいつだって姉の後ろに付いていった。姉が歌えば歌い、踊れば踊った。寝ている父にツープラトンでボディアタックを仕掛け悶絶させた。

 父が言っていた。
「うちにはお金があまりない。車もないし、行きたい所にも行かせてあげられない。でも好きな曲を聴かせるくらいなら出来る。たくさん好きな曲を増やして、好きに歌って、楽しい気持ちになって欲しい」
 父の育った家庭も決して裕福ではなかったという。金のかからない生活に自分を合わせた。本は図書館で借り、CDは買わず、新しい知り合いが出来れば、その人の持っているCDを全て借りたという。「好き」の幅を広げる為に。なるべく安価に、大量に物語や音楽を自身に取り込む為に。

 僕は父が望んだから踊ったのではない。僕が歩くより先に躍りを覚えたのは、体が踊りたがったからだ。本能の一つに「踊れ」が加わっていたのだ。食べる、眠る、踊る。ちなみに性欲には踊らされる。生まれついてのものなのだ。それぞれ人にはどうする事も出来ない本能があるのだ。父の場合それは「書く」だった。父が書いた、あちこちに発表した小説を僕も大きくなってから読んだ。姉や僕が出てくる話も多かった。幼い僕らが書いた事になっている話まであった。僕が一歳の頃に書いたとされるものがあった。姉なんて母にお腹の中にいる頃に書いたとされる話があった。もちろん父の創作である。ノンフィクションのような書き方のものでさえ、百パーセント事実ではなかった。僕と姉の通っていた小学校の名前は「マッドカプセルマーケッツ小学校」なんて名前ではなかった。

 父の書く小説の中で、父的な存在の人物はよく死んだ。もしくは既に死んでしまった人として書かれた。父は自分がそう長く生きる人間ではないと思っていたのか、父としての自分に自信がなかったのか、その両方かもしれない。そんな父を思いながら姉と僕は踊り、揺れる。そういう気になって。窓ガラスの外に降り落ちている雪のようになって。

 僕が父のギターで遊んでいた写真が残されている。弾くのではなく、フレットの上にミニカーを並べて悦に入っている。
49, 48

  

 ボロボロのそれは、「中学2年生の時に買ってもらった、アンプやソフトケース、チューナー、シールド全部セットで23,800円」のものだったとか。「俺の弾くギターでノリノリになってくれたから、次の日練習してたら、チョコレートに夢中で全く見向きもしてくれなくてな」と愚痴っていたのを覚えている。子供なんてそんなもんだ。一つの遊びに永遠に夢中になったりしない。

 僕も父を倣ってこうして少しは物を書いたりもするが、自身の事や父の思い出を書く以上の物にはならず、小説を書くという行為もよく分からないでいる。真夜中目を覚ますと、父がスマホで文章を打っている光景を時折見かけた。そんな事を続けていたから、実年齢よりも遥かに老け込んでしまったのかもしれない。自身が書いた話の中に出てくる父親像をなぞるように、父は生きた。よせばいいのに。

 僕は父と違う道を行く。書き続けるのではなく、踊り続ける。長く踊れる体力を付け、ベストコンディションを保つ為にたっぷりと眠る。睡眠時間を削って執筆し、休日にも関わらずあまり休まず子供の相手をしていた父の生き方は、正しかったとは思えない。肝心の仕事でも色々やらかしてしまっていたようだし。そんな父との思い出にいつまでも立ち止まっていては先に進めないし、悪いけど僕は僕の道を進むから。感謝はしつつも、適当に忘れながら、生きていくよ。

 ちなみに父はまだ僕と同じ屋根の下で生きていて、今でも何か書き続けている。

(了)
50

泥辺五郎 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る