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あの子の写真は瞼の裏に。

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 喉が乾燥して、声が声でなくなるような日になると僕はいつも1枚の写真を思い出す。
 確かその写真を撮影したのは3年前……だったはず。僕の中でだいぶ遠いものになっているせいか、それよりもあまり深く思い出したくないのか、正確な撮影時期はわからない。ただ、今日のようなうだる季節であったのは間違いない。
 代わりにはっきり覚えていることといえば、そこに写っているのは幼馴染と、僕と、ベンチと、木と、転がったペットボトルは日差しでぐにゃぐにゃになっている。公園が改装前だったから、そもそも幼馴染は引っ越してもう地元にいないのでこの景色をもう一度見ることはできない。
 はっきり言うと、僕は幼馴染に恋をしていた。その写真は学校以外で僕と一緒に幼馴染が写った最初で最後の写真だった。撮影したのは、兄のお下がりのスマホで、なんとかセルフタイマーで撮れないかと四苦八苦。結果、地面においたスマホを石で角度をつけることでようやく僕らは写真の中で満足に並ぶことができた。
 少し低めのアングルだったせいか、それとも写っているのが半信半疑だったのか、僕はスマホを覗き込むように、ベンチから少し腰を上げた前かがみのような姿勢だった。幼馴染は風に煽られないように後ろ髪を手で抑えながらクリンとした目をしていた。
 撮れたときに僕は「すぐに共有するね」と言ったが幼馴染が引っ越した今もそれは叶っていない。しかも今ではその写真も兄の次のスマホと交換するとともに処分されてしまい、どこにもない。
 だからこそ、僕はこうして瞼の裏であの写真を描くことしかできない。

 写真越しでも感じるいかにも肌を焦がしそうな太陽の照り加減。
 幼馴染は写真の外へ流されそうになっている髪を少し日焼けした手で押さえる。
 はためく白のブラウスは少し土色に汚れているので、次の日は怒られただろう。
 その下の薄青色のスカートが驚いたような表情をし、中からは黒い何かが顔を出していた。

 僕は一度目を開け、視界の色を眼球の中に溜め込み、また瞑った。今度もより鮮明にあの子のスカートの中が、まるで真珠貝に潜むブラックパールのように妖しく輝いた。
「ああ、これスパッツなんだよな……」
 このスパッツさえ見えなかったら、僕は幼馴染に写真を共有していたし、引っ越し前で疎遠になることもなかったし、この胸のチクリと痛む恋がどうにかなっていたかもしれない。
 今更嘆いてももう遅い。僕は、このスパッツのせいで猿になり、一つの恋を失った。

 戻ることができるのならば、あの日に帰りたい。

 その暁には思う存分、スカートの中を見てやるんだ。そんな勇気はないけど。


***

 15時過ぎに家を出たときは若干曇だったから油断していた。自転車でものの数分ペダルを漕いだだけで雲も僕に合わせて速度を上げる。擬音で表すならチリチリか、ギラギラか、雲に隠れるシャイボーイなら可愛いあの太陽が子供の買い物を見守る親のように微笑ましく僕を見つめている。
 暑い、辛い、しんどい、苦しい。でももう少し行けばオアシスがある。そこで2時間ぐらい時間を潰せば太陽なんて怖くない。
 僕はそう心に言い聞かせ、アスファルトを流し見していた顔を上げる。


 背中にTシャツをべったり貼り付け、僕が自転車を漕いだ先はフードコートがあるショッピングモールだった。小学校の頃から僕が自転車で行くとすればここだった。映画も見られるし、ゲームセンターもある。本屋も、CDショップも、食事も、なんだってある。世の中の娯楽をすべて集めたというと流石に言いすぎだが、だいたい揃っている、僕の人生の中では特に。
 自動ドアをくぐり抜けると、季節が逆転したかのような冷涼な空気がお出迎えしてくれる。
 今日はとびきり暑かったのだろう。いつもの休日より人っ気が多いような感じがした。ゆっくり見渡せばおそらく僕と同じ学校の奴らが何十人といるかも知れないが、そんなことは今の僕にとってさして関係のない話であった。
 フードコートのどちらかというと専門店よりの方にあるパステルカラーの店に僕は近づく。その店は親子連れや、女性に人気らしく、列には僕のような男子は並んでいない。けれど僕は臆することなくその列の最後尾に足を並べた。
「あれ、ヨータじゃん」
 急に今は呼ばれていないあだ名が聞こえたので僕は戸惑いつつ振り向いた。しかし、僕の近くに誰もいない。いや、10メートルぐらい先に僕の方に手を振る女の子がいた。
 だれ……? と一瞬戸惑ったが、その女の子が指で狐を作ったので誰かすぐにわかった。だから僕はすぐに目を逸らしてしまった。
 幼馴染の森下だ。いや、森下は引っ越していないはず。なのに……。いや、そんなことはありえない。僕がさっきまで妄想をしていたからそれが現実世界と混合しているだけで、森下はここにはおらず、僕はさっきの声を聞いていない。
「また無視するの?」
 今度の声は真横だった。森下はテーブルを立ち上がり、僕のそばまで来ていた。その顔は、髪型があの時の写真から短くなってより明るさが際立ったぐらいで、あとは肌が焼けていた。それ以外は昔のまま、あまり変わっていなかった。
「いや……突然過ぎて」
「そりゃ突然なのは私も一緒だよ。だって、まさかヨータと5年ぶりに会えるとはね」
「あー、もう5年も会ってなかったっけ。すっかり忘れてたよ」
「ひどいひどい。いつからヨータはそんな人間になったんだ。昔ならごめんって地面に頭……ってメガネかけるようになったんだ。視力いくつ?」
「低いことしかわからん。去年ぐらいから急に落ちてさ。森下は?」
「まだまだ裸眼でいけるよー。にしても視力は変わったけど、食べるものはあれから変わってないね。またカスタードチョコクレープでしょ。ヨータのそれ、甘ったるくてゲーってなっちゃうやつなんだよね」
 僕が並んでいた店はクレープだった。家の近所にあったが、潰れてしまって、今ではこのフードコートにあるのが僕のオアシスだ。
「そもそも、森下がゲーって食べたことあるのかよ?」
 僕は森下に悪態をつきながらクレープの注文を済ませる。もちろん、カスタードチョコクレープだった。

 それから僕は森下が陣取っていたテーブルに座ると、遅れて森下が茶色い飲み物を持って僕の隣りに座った。得体の知れない茶色の飲み物はそこに黒くて気持ち悪い何かが転がっている。
「ヨータさあ、なにそれって言うような顔やめてよ。タピオカジュースしらない? 女子の間では流行りまくってるよ」
「男子の中ではブームのブの字もないけどな。まあ、このクレープも同じか」
 クレープをかじると中から温かいカスタードが口に流れ込んできた。この甘さはプリンやアイスでは到底かなわない程の暴力性を持っていた。だからこそ、僕は異様に欲するのだろう。対して、森下は太いストローでタピオカジュース(流行り)をすすっている。その評定は僕にとって面白いものだった。
「まずいのか?」
「いや……たまたま……その、口に合わなかっただけ」
「馬鹿だろお前。どうせ、初めて飲んだんだろ?」
 森下は図星と言わんばかりなしかめっ面をする。するとどうしてか、そのタピオカジュースを僕の方へと動かす。僕はこの意図が理解できず、空いた手で森下の方に押し返した。だが、また僕にタピオカジュースを。僕が馬鹿じゃないかと思っていると、森下は不服そうな声を出す。
「美味しかったらあげる」
「いや……美味しくなさそうだし」
「じゃあクレープ渡して」
「甘ったるくて嫌いなんだろ?」
「急に好きになったから。ほら、はやくはやく」
 森下は半ば強引に僕からクレープを奪い取ると、桃色の唇でパクっとクレープの真ん中に半月の跡を付けた。
「ああああああ! 一番うまいところをおお!」
「へへーん、これは人質だ。このタピオカジュースを飲まないと、このクレープは……あま……私の胃袋の中に行くのさ!」
「はいはい、飲みますよ、飲みます。僕の口に合わなかったら突き返すからな」
 と、僕はコップを握る。ストローを口の前まで持っていくと、急に脳裏に一つの単語がよぎった。
 ――間接キス。
 手が震える。おそらく小刻みすぎて森下には伝わっていないだろうが、というよりもこれが間接キスというのが森下は理解しているのか不明だ。でも思い返してみたら僕のクレープを即座に口に運んでいる。そんな些細なことで僕みたいに恥を感じる性分を森下は持ち合わせていないのだろう。
 ストローはあと数ミリで口に触れる。上目で森下を見ると、僕のことはさておき、クレープを一口、また一口と食い進めている。考えているのが馬鹿らしい、僕は大胆に口につけてストローから美味しくなさそうな液体を吸い込んだ。
「…………」
「どう?」
「甘くて美味しい」
「じゃあ、交換だね」
 と森下は残りのクレープも口に運んだ。食べるのが早い、異様に早い。会わない間に人間掃除機に生まれ変わっていた。ちなみに僕はたった今、森下の残飯処理に生まれ変わらされた。悔しい。
「森下はいつこっちに戻ってきた感じ?」
「今年の春な感じ」
「今日も学校に行ってた感じ?」
「部活があった感じ。何部か当てれる感じ?」
「日焼けするから……ボディビル……じゃなくてテニス部とか?」
「はい、残念。回答権を失ったヨータは私の部活を知ることができず、将来を終えたのであった。まる。正解は陸上でした」
「答え言うんだ。最近の森下は優しいな」
「それって昔の私は優しくないっていうの?」
「うーん、あながち」
 この他愛ないやり取りもあの日とそんなに変わっていない。外が真っ暗になるぐらいでもこの懐かしさに浸りたかったが、森下はそうではなかった。フードコートにある時計を見るや、森下は僕に提案をしてきた。
「あのさ、夕方から塾があるからさ。久々にあの公園に寄っていきたいと思うけど、土地勘がなくてさ、連れてってくれない?」
「相変わらずの方向音痴で、一体どうやって通学しているか、気になるよ。いいけど、帰り道ぐらいは覚えておけな」
「ありがとう、ヨータは優しくなったね」
「昔の僕らってどっちも優しくないんだな」
 森下がクレープの残骸を捨てている間に、僕は残ったタピオカジュースを無理やり飲み干した。


***


「全然違う……。遊具がなんかちゃっちいし、ああ、バスケットゴールがなんかカラフル!」
 僕が先導して公園まで案内したはずが、森下の威圧感によりなぜかいつもより速い速度で自転車を漕がされてしまった。そのせいで、せっかく癒やされた体も元通り、気だるさ100倍である。
 一方、森下はちょっと前まで陸上をしていたと思えないぐらい元気。そこらの小学生と同じぐらい元気を有り余らせている様子であった。一言で表すなら暑苦しい。
「えー、こんなに変わったの、なんで教えてくれなかったの? だって、カッチカチの滑り台が閉鎖されているし、というか小奇麗! ここは異世界だったかー。もっと早く知っていたら絶対来ていたのにね」
「はいはい、ごめんごめん」
「まあ、写真一つも共有できない性根なしのヨータには無理か」
 写真のことは僕も引きずっているからあまり引き合いには出してほしくないが、森下はお構いなしだった。
「この公園は遊び倒したのに、また遊べられるようになっているって、なんかアプリがアップデートされたみたいだね」
「なんかゲームとかしている?」
「歩くとその分強くなる万歩計みたいなゲームしているよ。陸上とかで他県行ったときは、それはもうめちゃくちゃ強くなったよ」
「森下らしいゲームだな。僕は家にいてもできるようなゲームしかしていないなあ」
 あの頃は広かった公園だが、森下と歩いているとすごく小さく感じた。遊具が集まるスペース、バスケができる広場、未だ人気の砂場、突っ込んで誰かが怪我したと噂の柵。今本気で遊べば物足りないだろうと思ってしまう。特に森下となら。
「あ、あのベンチあるじゃん」
「いやいや撤去されてたよ。……ってある」
 そのベンチは、公園の隅にある木陰にあった。木製のベンチで、僕の写真の記憶よりも真新しい色となっていた。おそらく置き換えたのだろう。としか言いようがない。僕が以前見たときにははっきりなかったのだから。
「今日は久々にヨータと会えた記念としてさ、あの日の写真撮り直さない?」
「……いいよ。でも絶対共有してくれよな」
 僕はドキッとしながら返事をした。
「どっかの誰かさんのように共有未遂で終わるような人ではないから大丈夫だって」
 だが、あのときと同じように僕ら二人を撮影するためには、何かしら工夫が必要だった。森下は迷わず石を持ってき、携帯に角度をつけてセルフタイマーを起動した。
「手際が良いね。いつも撮影するときは地面において撮る派?」
「そんなわけないじゃない。こんな撮り方したのは5年前と今日で二回目。あのときは、ほんっと風が強くて台風が来ていると思っていたの懐かしい」
「あの日から森下と接点がなくなるとは思ってなかったな」
「まあ、あんなダサダサTシャツ来てくる人は遅かれ早かれそうなっていたから安心して」
「森下だってだいぶ肌が焼けたな。昔の僕のようにこんがりとなって」
「ヨータは座高だけ一人前に伸びちゃって、かわいそうに」
「成長しているだけマシだろ、何も成長していないくせに」
「はい、セクハラ―。逮捕案件。なんとまあ、そっち方面に育っちゃって悲しいよ」
 懐かしさが堰を切り、あの日と今日の思い出が混ざり合う。写真が撮れたに気づくまで、お互いに話通した。やっぱり楽しい。自然と笑顔になるのがわかる。森下も同じような気持ちらしく、あの日よりも輝かしい顔をしていた。
 そんな森下が携帯を拾い上げ、写真を確認する。すると顔を真っ赤にし、何かの操作をしようとした。僕にはわかる、おそらく写真を削除しようとしているのだ。
「おいおい、森下さんよー。写真を共有してくれないのか?」
「だめ、絶対イヤ。こんなの共有したら変態じゃん……ってキャアッ!」
 風になびかれて一瞬だけ紺のスカートが捲れ上がり、僕の瞳を真っ黒にする。僕がタイムスリップまでしてみたかった森下のスカートの中が、5年越しに、初めて叶った。
「絶対忘れて! 今すぐ忘れて!」
 森下の顔には明らかに怒りマークが出ているが、5年も写真を鮮明に覚えられる僕が、瞬時だろうが忘れたくない光景を忘れられるわけがなかった。
 しかしこの日を境に、うだるような暑さでもあの日のスパッツは思い出すことはできなくなった。代わりに、この日のスパッツが僕のまぶたに焼き付いて、僕を猿にした。
 不思議な感じだが、僕の恋は5年越しに動き始めたんだろうと、そう断言できる。
 僕は森下のSNSアカウントを見て、気持ち悪い笑みを浮かべた。
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