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第四章

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(一)

 待ち人は現れなかった。
 僕は、端のほうに積まれた鉄骨に座って一時間余りを過ごし、十分に無為を確かめてから腰を上げた。
 廃倉庫をあとにしてからは、来た道を引き返して自宅を覗いた。
 玄関で帰宅を告げ、何事もなかったかのように迎えが現れることも期待したが、返ってくるのは静寂ばかり。
 無人の家には、一分一秒も居たくなかった。急き立てられるように飛び出して、あてどもなく住宅街をさまよう。足裏が痛くなるほど歩いてから、同じような道筋を堂々巡りしていると気づいた。
「ダメだ、冷静にならないと。デタラメに歩いたって見つかるはずがない。でも、手がかりって言ったら……」
 懐から地図を取り出す。目的地を表す黒点と、その周辺を表す模様。
 フウリが向かった先と無関係であるはずがない。残された文章からして、任務を遂行しようとしていた推測は成り立つ。
「もしかして地図を読み間違えたのか? 黒点が表してるのは別の場所だった? 実際、ィユニュルはあの場所にいたのに」
 ィユニュルの首を突き刺して殺した。あれだけ鮮烈だった出来事なのに、白昼夢を見たような気分になっていた。
「いいや、この際、読み間違えてたと仮定してみるしかない。そもそも、僕は地図の正確な座標を読み取れていないんだ。廃倉庫へ向かったのは、駅前のモニュメントと似たイラストがあって基準にできたから。……そうだ、基準からして勘違いしてたとすれば?」
 暗号解読と呼べるほどのものでもない。現世界人にとって易しくない表記について、僕はおぼろげに察してきていた。
 異世界から送られる地図の目印が、交番やショッピングモールでないのは無理もない。なぜなら、異世界人からすれば馴染みがないから。彼らにとって親しみ深いのは、ヒトにつくられた施設ではなく、自らでつくった建造物だ。フウリが、現世界侵略の尖兵になり得ると言い表したもの。ネアリアルを用いた認識阻害によって、最初からそこにあったように錯覚させるという。
 駅前のモニュメントだけではない。制作の意図がわからないオブジェなど、至る所で見かけたことがある。考えてみれば、住民にとって意味不明なものが、自治体によって置かれていることからして不可解なのだ。現代美術という曖昧な定義で受け入られていたふうだったものは、すべて異世界人の仕業だった……。僕はきっと、現世界ではじめて真相に気づいた人物だろう。
 ともかくとして、僕の勘違いを確かめる方法はハッキリしている。
「夜空を読み解くときに、星座を探すのと同じだ。一つの点にこだわっていても仕方ない。他を調べないと」
 方針を定めて、タクシーを止める。
「お客さん、こんな時間に手ぶらで海なんて、何しにいかれるんですか」
 目的地を告げると、運転手は訝しそうにしている。時刻は夜になろうというのに、荷物も持たずに冬の海は不自然なのだろう。入水自殺でも疑われているのかもしれない。
 空いた道を走ってしばらく、後部座席を下りると水平線が広がっていた。
 林と海の境目をコンクリートで整備したエリア。立ち位置の駐車場からは、三百六十度を広大に見渡すことができる。
 探索はものの数分で済んだ。
「あった……」
 駐車場の外れ、波の寄せる海岸にオブジェが置かれている。針を突き刺された親指のデザインは、地図のイラストと一致する。
「やっぱり間違えてなかったんだ」
 他も当たってみなければ確定とは言えないが、ほとんど決まりだろう。
 予想していた通りではある。僕がィユニュルに会ったのは事実なのだ。勘違いしていたとすれば、あいつは地図で示されているのとは別個体であり、遭遇したのは偶然ということになる。あまりあり得そうもない。
 確認によって、前向きな推論が導かれた。つまり、僕は正しく対象を殺せていたのだから、フウリがィユニュルに喰われてしまったセンはない。
 しかし同時に、事態はさらに難しくなったともいえる。フウリがどこへ消えたのか、行方を探る手がかりは尽きてしまったのだ。
(二)

 内心を明かせば、僕は諦めかけていた。フウリの消失から三日が経っても捜索を続けていたのは、惰性というほかない。
 シャワーと短い就寝以外では家に帰らず、ひたすら歩いた。イラストに描かれたオブジェを回りきってから、出会いの場所である公園にも訪れたが、茂みを覗いてもいたのは野良猫だけだった。
 行き先を失った僕は、まさにゾンビの様相だった。フウリ、フウリとうわごとのように呟きながら、無秩序に徘徊する。
 思考が霞んでまとまらないのは空腹のせいもあるだろう。公園の水道で給水はしているが、固形物を口にした覚えがない。
 自分の身に起こった出来事はすべて、夢幻だったのではないか?
 疑いが浮かぶのは一度や二度ではなかったが、否定することができた。
 動かぬ物的証拠だ。懐にはフウリの残したエルミアーがしまってある。
 過去の記憶を確かめるようにして、手に取ってみる。刀身に纏わりついた血液は乾いて固まっている。なんの気なしに、指で擦ってみた。
 茶っぽく変色した色はひび割れから粉になって落ちていく。剥がれた部分からは元の群青色が現れると思っていたが、不思議な現象が起こった。
 血の下に隠れていたのは、くすんだ鈍色だったのだ。現世界でよく見る刃物と同じ金属の光沢がある。
「なんだ? これ」
 さらに観察しようとしたとき、別の問題に気づく。
 背後から通り過ぎた中年女性が、振り向きながら驚愕の表情をしている。そして目が合うなり、慌てて小走りで去っていった。
 しまった。僕は一般の歩道で立ち止まり、刃物を眺めていたのだ。まるっきり危険人物ではないか。
 急いでエルミアーをしまい直す。
 向かい側の道が騒がしくなりはじめたのはそのときだった。
 もう不審者情報が回ったのだろうか。怯えながら目を向けると、学生服を着た集団が校門から流れ出している。
 一瞬、日頃の癖で登校してしまったのかと思ったが、制服のデザインが違う。校門の端には学校名が記されていた。
「ビップラ学園……。中学のやつが何人かいってたっけな。ってことは、隣町まで歩いてきてたのか」
 しかも知らぬ間に、下校時刻になっていたらしい。たったの三日放浪していただけで、世間の流れからはじき出された気分だった。そういえば、自分の学校へ休みの連絡はどうしたのだったか。記憶があやふやだが、適当な理由で誤魔化したような気もする。
 いままでは一種の忘我状態だったのだろう。正気に返ると、足腰の疲労が押し寄せた。
 立っていることもままならず、ふらついて近くの段差に座り込む。そこは公民館の敷地内にある階段だった。植え込みから転がってきた枯れ葉を拾い上げて握りつぶす。粉々になった破片が風に乗って消えていく。
 不意に、ポケットが震えた。
 スマホを耳に当てると、音割れした声が聞こえる。
「陸人!」
「志麻子か」
「ああ、よかった、生きてた。何度も電話したのに出ないから心配したのよ。風邪、長引いてるの? 動ける? 寝込んでるのなら、看病にいこうか」
「ああ、風邪、風邪ね……」
「え、風邪で休んでるんじゃないの? もしかして私と顔を合わせたくないからズル休みしてる? そんなことダメよ」
「違うって。うん、ちょっと体調不良で参っててさ。でもたいしたことない、大丈夫だよ。志麻子の声を聞いたら少し落ち着いた」
「どうしたの、急にしおらしいこと言って。ねぇ、やっぱりだいぶ悪いんじゃない」
「大丈夫だってば」
 僕は、押し問答をしながら正面を眺めていた。反対側の歩道では変わらず、生徒たちの波が緩やかな流れをつくっている。
 偶然だった。
 たいていは二人以上のグループになって談笑しているなかで、ひっそりと紛れている人影に目が留まった。
 一人で歩いている少女はうつむきがちで、塞ぎこんだ心境が読み取れる。
 たまたま一緒に帰る友人がいなかったのか、いつも一人でいるのか。いずれにせよ、どうってことはない光景のはずだった。しかし、ざわざわという胸の訴えに従わされるまま、視線が釘付けになる。
 僕は階段に立ち上がっていた。
 返事がないのを不審に思った志麻子が、電話越しに呼ぶ。
「陸人?」
「ごめん、急用ができた」
 言ったときには、電話を切って走り出していた。
「フウリ!」
 信号のない車道を無理やり横断すると、クラクションが鳴り響いた。生徒たちが一斉に振り向いても構わず、少女の肩に手を置く。
「どうしてこんなところにいるんだ、探したんだぞ!」
「な……」
 絶句する少女の顔を改めて観察する。
 ウィッグだろうか、髪は長くなって、しかも黒色になっている。服装も周囲に紛れた制服に変わっているが、僕にはわかった。
 整った顔かたち、翠色をした独特の虹彩。見間違えるはずがない。ネアリオが纏うオーラはヒトとは違うのだ。人波に紛れたって溶け込まない。
「無事だったのか。怪我は? あんな手紙を置いていなくなるなんて酷いじゃないか。僕はてっきり……。でも、そうか、生きていたならよかった。辛かっただろうけど、もう心配いらないから」
「や……」
 フウリが生きて存在しているだけで、疲労は吹き飛んでしまった。再会の喜びのまま抱きすくめようとして――胸を突き放される。
「やめてください!」
 拒絶する声は雑踏を切り裂いた。道行く生徒たちは流線形に距離を空けながら、不躾な興味をよこしてくる。
 僕は声のトーンを一つ落とした。
「ど、どうしんたんだフウリ、僕のことを忘れたなんて言わないだろ。ほら、家に帰ろう。お腹が空いただろ。フウリが好きな魚肉ソーセージもある。今日は遠慮せずに好きなだけ食べていい」
「人違いです。わたしは、あなたの言っている人ではありません」
 フウリは迷惑そうに言った。僕は五秒くらい固まったあと、あまりの突拍子のなさに笑いがこみ上げてくる。
「僕をからかってるのか?」
「腕を離してください」
「声だってまったく同じじゃないか。冗談ならやめてくれよ、三日三晩探し回った相手にはキツ過ぎるだろ」
「離して……っ」
「つまらないコスプレで騙そうったってダメだ。僕を危険なことに巻き込みたくないから他人の演技をしてるのか。でも、僕らは一蓮托生だって決めただろう。どっちかが勝手に死ぬなんて間違ってる。
 それに、本当に大丈夫なんだ。ああ、そうだった、これを一番最初に言わなくちゃいけなかったんだ。ごめん、気が動転してたよ。なあ聞いてくれ、僕には才能があったんだ。フウリが置いていったエルミアー、あれを使ってィユニュルを簡単に殺せた。つまりこれって、僕が普通じゃないネアリアルを持っているっていうことなんだろ?」
「意味が解りません。離してっ!」
 フウリは拘束する手を払いのけて、逃げ去っていこうとする。僕は追いすがった。しかし、
「ちょっと、君」
 背後から肩を掴まれる。「何があったんだい。女の子に暴力しちゃいかん」
 話しかけてきたのは、壮年で色黒の警備員だった。騒ぎが学校まで伝わって駆けつけたらしい。
「暴力なんてしてません。彼女とは知り合いで、迎えに来ただけなんです」
「そうなのかい?」
 警備員がフウリに水を向ける。
「い、いえ、会ったことありません」
「そんな、違うんです、きっと誤解があるだけなんだ。頼むよ、話を聞いてくれ!」
「わかったわかった、難しい事情があるんだな。でも、往来で騒ぐと皆が怖がるだろう。今日のところは諦めて帰ってもらえんか、な?」
 警備員は穏便な口調だが、僕を厄介者扱いしているのは明らかだった。
「邪魔しないでください。ああ、そうか! もしかして君はフウリじゃなくて他のネアリオなんだな。だから姿が似ているんだ。だったら、ええと、フウリナ・メイクゥルネア・エピネスっていう娘を知ってるだろ。君らは仲間同士で信号を送り合えるって聞いた。だったら連絡を取ってほしい。フウリがいまどこにいるのか教えてくれ!」
「おう、おう、もうやめときなって言っとるだろう」
 説得もむなしく、少女は顔を背けて去っていく。
 それに歩み寄ろうとして、今度は強く羽交い絞めにされる。非力なうえに空腹状態の僕では、警備員を振りほどくことはできなかった。
 最後の望みに懸けて、大声を張り上げる。
「他に手がかりがない。君だけが頼りなんだ! フウリの命が危ないんだよ!」
 制服の後ろ姿がどんどん小さくなっていく。
 結局、彼女は一度たりとも振り返ってくれなかった。
22, 21

  

(三)

 その後、警備員の詰所に連れていかれたが、尋問は最低限だった。あからさまな犯罪行為を働いたわけでもないのだし、警備員も面倒を抱えたくなかったらしい。とはいえ、しばらく学校に近づくなと釘を刺されたために一時の撤退を余儀なくされた。
 捜索は一旦中止。僕は自宅の居間で椅子に座り、天井を眺めていた。
 フウリの姿をした女の子に、他人だと突っぱねられたのはショックが大きい。一方で、八方ふさがりだった状況に光明が見えたのも事実だ。
 落ち込むのもそこそこに、スマホの地図アプリを開く。ビップラ学園を調べると、僕が捕まった正門以外にも入れる場所はあった。反対側の裏門は当然として、業者が出入りする通用口も候補だ。写真を見るにフェンスも超えられるだろうから、顔が割れていることを考えるとそちらのほうがいいかもしれない。
 目的地なく街を徘徊するよりも、学校への侵入経路を探すのは張り合いがあった。スパイ映画さながらだ。しかし冷静になると、警備をかいくぐったとしても本人に拒絶されているのではどうしようもない。
 液晶を指で叩きながら策を案じていると、点けっぱなしにしていたテレビニュースが耳に入った。思索の最中でも意識に届いたのは、キャスターが伝える言葉のなかに、身近な単語が混じっていたからだ。
『――ゴチャン県ブンゲイ市ニイトシャの廃倉庫で男性の遺体が見つかりました。身元確認の結果、遺体は行方不明になっていた上村正史さんと判明。正史さんはビップラ学園に通う二年生で、発見現場から五キロ離れたワロスで独り暮らしをしていました――』
 僕はスマホを取り落とした。それを拾うこともできず、テレビに映される被害者男性の顔写真を見つめる。
 あどけなさのある、一見普通の男だ。しいて特徴と挙げるとすれば、額の中央に痛ましく刻まれた傷跡。その一筋を起点にして、彼の目つき、口元、耳の形、すべてが既視感に満たされた。
「ああ、ああ……」
 僕は白痴のように口をひらき、テレビを指さした。
『――ゴチャン県警は殺人とみて捜査を――』
 全身が大きく震えはじめる。非道な犯人に殺されたという男に、僕は特異な容姿を重ねることができる。毒々しい紫色の肌、額に生える二本の角。
「こいつは、ィユニュルだ」
 どうして……。こぼした疑問が虚空に吸い込まれる。
 この手で殺したはずのィユニュルが、上村正史という殺人被害者として報道されている。
「何かの間違いだろ、そうに決まってる。僕が殺したのはィユニュルだ、人類の敵だ。ヒトじゃない」
 言い聞かせながら、頭を抱える。
 様々な情報が浮かびあがり、バラバラの点が線として繋がれていく。
 いなくなったフウリのこと。そして、ビップラ学園にいたフウリそっくりな女生徒。彼女の態度が意味するところを想像し、凄惨な帰結をもたらそうとしていた。
「いいや、まずは、確かめるんだ」
 テレビの電源を切り、纏わりつく悪寒を追い払うように立ち上がった。
(四)

「久しぶりに出てきたかと思えば、どうした息を切らして」
 窓の外は橙色に溶かされている。校舎にいる生徒は少なくなっていたが、部室で運よく優作を捕まえることができた。
 優作は僕を見るなり、テレビ台から取り出した常温の缶コーヒーを投げてくる。
「ただごとじゃなさそうだな」
「ビップラ学園の知り合いを紹介してほしい」
 プルタブを開ける暇さえ惜しんで頼み込む。
「なるべく校内の人間について詳しくて、口が軽い奴がいい。優作は顔が広いだろ」
「ビップラ学園か。最近、生徒が殺されたところだな。それに関係ある用事なのか?」
「用事の内容は……話せない。少なくとも今はまだ。一方的な頼みだってことはわかってる。でもお願いだよ、この通り」
 腰を折って頭を垂れる。
「おいおい、頭を上げろ。人を紹介するくらいなら大した手間でもないし構わん。心当たりもあるしな。で、会う日はいつがいいんだ?」
「僕のほうはいつでもいい。でも、できるだけ早くしてほしい」
「わかった」
 優作はスマホを取り出して手際よく操作する。
 やり取りは円滑に進んだらしく、僕がコーヒーを飲み終わるころには終わった。
「いまからでも大丈夫だそうだ。駅前のモニュメントで待ち合わせ。情報を渡す代わりにおごれとさ。行けるか?」
「行ける」
「ビップラ学園の制服を着たキノコ頭の男だ。電話番号送るぞ。一応、向こうにもお前の特徴を伝えておく」
「ありがとう優作」
「礼には及ばんさ。用事が済んだら、事の顛末くらいは聞かせて貰いたいが」
「善処するよ」
 飲み終わった缶をゴミ箱に捨てて部室を出る。ロッカー周りの障害物を避けながら廊下を急いだ。
「きゃっ」
 曲がり角で、女子の集団に危うくぶつかりかける。
「危ないじゃない」
 と文句を言ったひとりは志麻子だった。相手が僕だと認めると目を白黒させる。
「陸人、学校来てたの!?」
「説明は今度。急いでるから!」
 お小言モードに入りそうな志麻子を置いて走り出す。振り返らなくても機嫌を損ねたがわかったが、二の次だ。
 そういえば、今日はバイトのシフトも入っていた。マスターに迷惑をかけるのは心苦しいが仕方ないだろう。僕には、あらゆる雑事を差し置いて優先するべき事項がある。
 もしかしたら僕はいま、破滅に向かって直進しているのかもしれない。それでも、止まれないのだ。
「志麻ちゃん、報われないねぇ……」
 遠ざかっていく背後で、志麻子の友人が言うのが聞こえた。
24, 23

  

(五)

 会社帰りにはまだ早い時間だったが、駅前はそれなりに混雑していた。
 目印のモニュメント周辺で人混みを探していると、
「おーい、ここ、ここ。どーも、噂の陸人だよね?」
 斜め後ろから脇腹をつつかれる。
 死角に潜んでいたらしい。キノコ頭の男はいたずらっぽく狐のような目を細めている。背が低く、雰囲気も地味めだ。かといって根暗さが前面に出ているわけでもなく、集団に溶け込むタイプというのが印象だった。
「ああ、うん、優作に仲介してもらって……。しまった、ごめん、名前を聞いてなかった」
「増子阿斗里だよ。友達にはアトリーって呼ばれてる」
「よろしく、増子」
「ちぇっ、他人行儀で寂しいなァー」
「いや、そういうつもりじゃないんだけど。じゃあ、アトリー」
「いいよいいよ、名字のほうが呼びやすいなら名字で。気が合わないからって話し渋ったりはしないから。なんせ、報酬にたっぷりおごってもらうんだからね」
 増子はどこか嘘くさい笑みを浮かべながら、モニュメントを離れる。先行するからには当てがあるようだ。
「飯をおごればいいんだっけ」
「そのとーり。着いてきてよ、ちょうどいい店があるんだ。すぐ近くだから」
 僕は財布を確認しながら後を追う。途中で金を下ろしてきたから、足りなくなることはないと思うが。
 増子の言葉は本当で、店は、駅の出入り口と一体化しているといっていい場所に構えていた。
 『天国亭』と行書体で書かれた暖簾をくぐる。すると店員の挨拶とともに、香ばしい肉の匂いが漂ってくる。
「ミキさん、さっき予約したでしょ。個室いい?」
 増子は店員がうなずくのを確認すると、慣れた足取りで奥に向かう。
「ささ陸人、どーぞ座って」
 案内されたのは堀座卓の個室だった。
 壁が厚く防音性が高い。表のスペースとは距離もあるので、肉を焼く音はぼやけて聞こえた。
「内緒話をするにはぴったりでしょ? 親戚が経営しててサービスしてくれるから、よく来るんだよね」
「ふぅん……」
 生返事をしつつ、個室を見回す。
 ほの暗い照明のなかで、掛け軸と生け花だけが奥ゆかしく主張している。普段行くファミレスとは比べるまでもなくランクが上だ。恐ろしい気持ちでメニューをめくると、予期していた上をいく値段が並んでいた。正直どれもおごりたくない。
「どれにする?」
「じゃあ、これ」
「へー、小食なんだ。じゃあ、ボクはシャトーブリアンにしようかな」
「ちょ」
「冗談だって」
 増子はおかしそうに歯茎を露出させた。
 内心で優作に毒づく。口が軽いやつという要望からして善人が出てこないのは仕方ないにしても、もっとマシな人材はいなかったのか。
 店員が注文を取りに来る。飲み物は何にするかという問いに増子が答えた。
「オレンジジュース二人分、よろしくね」
「いや、僕は」
「いいから、いいから」
 僕の異を押しとどめて目配せすると、店員は去っていく。
 飲み物はすぐに運ばれてきた。
「かんぱーい」
「ああ、乾杯……」
 不審に思いつつも増子に倣ってグラスを傾ける。
「…………」
 口に含むなり、違和感があった。柑橘の風味に紛れて、独特の味と匂いが主張している。
「これ、アルコール入ってない?」
「入ってないことになってるよ」
「ってことは、入ってるんじゃないか」
 しかも結構、度数が強そうだ。
「話をしやすくするためにね」
「僕は聞くほうなんだけど」
「ま、ま、一人で飲むのは寂しいから、付き合ってよ」
 本題に入ったのは食事が運ばれてきて、しばらく味を確かめてからだった。急いで話を進めようとする僕をあしらったくせに、
「それで、誰について聞きたいんだっけ?」
 とぼけたように切り出してくる。
「……上村正史。と、それに関係がある人物」
 名前を告げると、増子は唇の脂を拭いた。
「あーやっぱり。他校の生徒がこのタイミングでっていうなら“悪鬼村正くん”のことだと思ってたんだ」
「悪鬼?」
「陸人は、直接本人に会ったことはあるの?」
 僕は少し逡巡してから答えた。
「いや、ない。まだ詳しくは全然知らないんだ」
「ふーん……。全然知らないのに調べたいんだ?」
「……僕は話す側じゃないだろ」
「怖い顔しないでよ。わかってるってば」
 噂好きといっても、人の悪評をばら撒くだけではネタ切れになる。放出した分だけ仕入れる必要があるのだ。増子は両方同時にやってしまいたいのだろう。
 僕は酒の入ったグラスを置いた。こちらには、探られて痛い腹がある。
 増子は表情から察したのか、観念したように話し出す。
「直接に会ってなくても、ニュースの顔写真は見たでしょ? でもあれって、昔の写真なんだよね。学園に入ってからの村正くん見たら絶対、ビビるよ」
「どうして?」
「なんて言えばいーかな。とにかく、おどろおどろしいっていうかね、人間離れしたカッコしてるんだよ。肌が紫色で角が生えてて……って、画像見せたほうが早いよね」
 口頭の説明だけでも悪寒が走った。早鐘を打つ心臓を自覚しつつ、差し出されたスマホの画面を覗く。
「ほら、悪鬼って感じでしょ?」
「……ああ」
 そこには、例の廃倉庫にいた生物がいた。いや、生物などという括りでごまかすことはできない。僕は、人間を殺したのだ。
 指先が震えはじめる。先ほどまでの決心はあっという間に挫け、現実逃避のために酒をあおった。
「おー、いい飲みっぷり」
「先を話してほしい。彼はどういう人物なんだ?」
「どういうねぇ……。まー、一言で言っちゃえば素行不良青年なんだろうけど。うちの学校は私立で髪の色とか緩い方だけど、いくらなんでも度が過ぎてるから先生たちもいい顔はしてなかったよ。
 でも、よくいる不良とはまたちょっと違うよね。群れて悪さするっていうよりも、悪趣味が行き過ぎちゃってる系みたいな。このカッコも、髪をピンク色に染めたとかだって話なら直せたんだろうけど、村正くんのは身体改造だもん。どうしようもない。知ってる? 身体改造」
「いいや」
「よくあるのだと入れ墨とかなんだけど。それ以外にも体中のいろんなところにピアスとかの金属つけたり、舌を蛇みたいに分かれさせたりして。普通の人間の姿から遠ざかろうみたいなロマン? っていうのは本人から聞いたんだけど。
 あとほら、ボディサスペンションっていうのがあるんだよ。皮膚にぶっといフックを引っ掛けて、体を宙づりにする儀式。信じられないでしょ、生身にそのまま穴開けて全身を持ち上げるの。wetubeで動画を見たけど、見ながら痛い痛い痛いって思わず言っちゃったよ。
 一年生のときの夏だったっけ。村正くんが二週間くらい欠席してて、学校に戻ってきたから聞いたら、ボディサスペンションの大会に出るために海外旅行してたんだとか。クラスメイトを片っ端から捕まえては『俺は常人にはできない体験をしたんだ。生まれ変わったんだ』って威張ってたよ。ボクらからすれば、生まれ変わるどころかますます変人ぷりが進行してたってのが笑えるところね」
「クラスメイトって言ったけど、友達は多かったの。あとは、親しい間柄の人はいたのか。……たとえば、恋人とか」
 すると増子は、顔を伏せて忍び笑いをした。遠慮がちだったが笑いは止まらず、やがて体が痙攣し始める。僕が呆気にとられているあいだも苦しそうに酸素を求めて喘いでいた。
「なに?」
「いやー」
 半笑いで呼吸を整えてから、ようやく居直る。
「いい質問だねぇ。まるで事情を知ってるみたいだ。ふっふ……。あーえっと、友達? 友達っていうか取り巻きはまあまあいたんじゃない。気軽に学校休んで海外行くくらい実家が金持ちだから、うさんくさそうなのが取り囲んでたイメージあるなー」
 “うさんくさそうなの”のなかに自分は含まれているのだろうか。僕の疑念を意に介する様子もなく、増子は再びスマホを取り出す。
「恋人もいたんだよねー」
 言いながら画面を操作して、僕に差し出す。
 開かれたページは動画ファイルを表示していた。
「ちょうど一週間くらい前かなぁ。村正くんは例によって学校休んでたんだけど、たぶん生きてたときだ。クラスの男子が仲の良い面子をこっそり集めて教えてくれたんだよね。“ビップクオリティ動画”って知ってる? 素人の投稿がたくさんアップロードされてるアダルト動画サイトなんだけど、そこに恋人のハメ撮りがあったんだよ。撮影者は声だけなんだけど、あからさま村正くん。もう、大ニュース大ニュース!」
 増子は興奮気味に両腕を広げた。
「女子って噂好きだけど、特に重要な話ほど、女子のコミュニティから外に漏れないじゃん。そこのところは団結力がさすがっていうか。でも、エロに関しては男子の団結力も捨てたもんじゃないなって、今回で思ったね。ボクの知る限り、この動画について校内の女子は誰も噂にしてないよ。あ、再生の仕方わかる? イヤホンは持ってるなら自分の使ってね」
 二の足を踏んでいるとスマホが奪われ、再生ボタンが押される。動画は始まってしまった。片耳にイヤホンを挿すと没入感が増す。もう引き返せないのだという気がした。
 ガサガサという物音と真っ暗な画面のあと、カメラは一人の少女を捉える。
「なに……。撮ってるの? やめてよ」
「いいじゃんいいじゃん」
「やだ」
「あとで自分で見返すだけ」
「それがいやなの」
 音質は悪いが、喋っている内容は聞き取ることができた。
 生活感のあるベッドの上だ。少女は撮影を嫌い、手で目線をつくっている。しかし、あまり意味のない抵抗のようだった。
「ふたりの愛の記録、燃えるだろ?」
「……なにそれ」
 撮影者の男がカメラの角度を変えた一瞬、少女の瞳が映る。宝石のような翠の輝き。
 間違いない。彼女はビップラ学園で出会ったあの女生徒だ。そして、長らく共に過ごしたフウリであることも認めざるを得なかった。
 内側から響くような頭痛がする。アルコールによって活発になった心臓が脈打つたび、破れんばかりに血管が膨らむ。
「かわいいでしょ? リンドブラード有栖って名前で、ハーフなんだよ。確か、母親が日本人で父親がスウェーデン人だったかな。もう離婚してたはずだけど」
 増子が横から補足を加える。
 動画では、少女が撮影者の男性器を咥えたところだった。撮影を嫌がりつつも場の雰囲気に乗せられているのか、積極的に行為をしているように見える。フェラチオには慣れているらしい。淀みなく顔をうごかしながら、卑猥な水音を鳴らしている。
「学園に入ってから、割とすぐに付き合ってたかな。有栖ちゃんのほうはそんな美人のくせに教室の隅っこで本ばっかり読んでるような娘だったから、異色カップルとして有名だったんだよ。まーでも、ボクとしてはビックリしなかったけどね。浮いてるって意味ではふたりとも同じだし、案外、お似合いカップルだったと思うよ。
 ほら、そーいうタイプの人ってたまにいるじゃん。イタンってやつ? 自分の世界に閉じこもって、他人からしたら意味のわからないこだわりみたいなのがある感じね。有栖ちゃんは小・中の頃いじめられてたらしいし。
 村正くんもさ、おもてっつらを過剰に取り繕ったりするのって結局、自信のなさの裏返しというか、後ろめたいことがある証だと思うわけ。で、そういうことを周りも察しちゃうから、真っ当な人ほど離れてって、さらに悩みの種が増えるのよ。傍から見てると、もっとテキトーに生きればいいのになーって思っちゃったりするね。たとえば、ボクみたいにさ。ふっふ……。
 話が逸れちゃったな。それはさておき、さっきも言った通り、その動画がアップされたのって一週間くらい前なんだよね。つまり、村正くんが死んだ数日前ってこと。これって、偶然にしてはできすぎでしょ? 男子たちのあいだじゃ専ら、有栖ちゃんが村正くんを殺したんじゃないかって噂されてるよ。
 有栖ちゃんも元から不登校気味で、ここ数か月、まったく学校来てなかったんだよ。もう留年確定だろうに彼氏が殺されてから突然登校してくるし、タイミング怪しすぎなんだって。いまじゃ噂に尾ひれがついて、有栖ちゃんが実は魔女で、村正くんを呪い殺したとかも言われてる」
 画面のなかで、少女が体勢を変える。仰向けになり、顔を隠すことも忘れて脚を開き、陰部をさらけ出す。撮影者との接続が果たされる前に、僕は動画を止めた。
「あれ、もういいの? 一応、本番まで撮影されてるよ。最後は尻切れトンボだけど」
「…………」
 黙ってスマホを突き返す。
 僕の憔悴した様子を見て、増子が下品に口を歪めた。
「てかさ、陸人やっぱり、村正くんとか有栖ちゃんとなんかあったでしょ。気になるなー、教えてよ、誰にも言わないからさー」
「増子、その有栖って女の連絡先を教えてくれ。教えてくれたら今度、僕が持ってるとっておきの情報を全部話すよ」
 僕は財布を取り出しながら尋ねる。教えてくれないのなら、殴ってでも聞き出すつもりだった。
 増子もこちらの必死さを察してくれたのか、もったいぶるようなマネはしない。
「そ、そんな怖い顔しなくても教えるって」
 伝えられたアドレスをスマホに登録する。
 僕は短く礼を言って、財布からあるだけの金を放る。驚いたように口を半開きにする増子を尻目に店を出た。
(六)

 駅前は夜の空気に様変わりしていた。
 電飾看板の煌々とした光に照らされて、スーツ姿のサラリーマンが闊歩してる。
 僕は衆目から逃れるように足を早めた。
 冬の鋭い寒さが衣服を貫いて、内臓まで凍らせるみたいだ。白い息を吐くたびに、酔いが急速に引いていく。
 脳裏にはフェラチオの映像がへばりついていた。淫猥に口をすぼめた少女は上目遣いにこちらを見ている。それは紛れもなく、僕を誑かして支配した、汚らわしい女の性そのものだ。
 僕は彼女に騙されたのだ。
 以前とは正反対の前提から推理が出発する。断片的な傍証を伴ってもたらされた結論は猛毒だった。全身を隅々まで巡り、神経を爛れさせる猛毒。
 スマホでメッセージ画面を開き、教えられたアドレスを宛先に設定する。歩きながら文面を作成し、消去し、何度も同じ作業を繰り返した。
 送信が叶わないまま顔を上げると、歩道わきに交番が建っていた。ガラス扉を隔てて一瞬、警官と向き合う格好になる。
「…………っ」
 視線がかち合う寸前、すぐに道を折れて建物を離れる。心臓が痛いくらいに鳴っていた。
 走って逃げ出したくなるのを必死に押しとどめる。後ろを振り返って確かめる勇気はなかった。
 怪しまれなかっただろうか。
 動揺はしたが、明らかに不審な行動はとっていないはずだ。まだ補導されるような時間帯ではないし、僕よりも怪しい人相をしている大人はいくらでもいる。大丈夫だ。
 言い聞かせつつも、安全などどこにも保障されていないことを思う。
 三日前に上村正史の死体が見つかったのなら、捜査がまったく進んでいないことはないだろう。幸い凶器は残さなかったが、鑑識によって痕跡が洗われれば特定は可能なのかもしれない。
 もしも警察が目星を付けているなら、末端署員にも顔が割れているのでは?
 僕の懐には、被害者を殺した刃物がしまわれている。職務質問のついでに探られれば終わりだ。
 日本の警察は優秀と聞く。人を殺しておいて、最後まで逃げおおせられるとは思えない。
 恐怖に震え上がる。奥歯からカチカチと鳴る音を抑えられない。
 社会から罰せられるべき罪を負うなんて、少し前まで思いもしなかった。
 ただ、逃げ出したかったのだ。退屈なくせに落ち着かなくて、煩わしいばかりの猥雑な日常から。子供じみた願いに対する報いにしては重すぎる。
 警官は追ってこなかった。僕は知らず早歩きになっていた足を止め、街外れの十字路に立ち尽くす。
 隣接する公園は寂れており、点滅する街灯に羽虫が集っている。
 その奥、公園の茂みの隙間から気配を感じた。目を凝らすと、ロウソクに火を灯したみたいに二つの点が現れる。
 あれは、瞳だ。
 そのことを認識すると、周囲の闇に隠れていた瞼が一斉に開いた。
「う、うわあぁ……ああああぁぁ……」
 無数の瞳が僕を監視している。睨む目つきで咎めるように。
 人殺し。人殺し。人殺し。
「違うんだ、僕は悪くない! 僕は騙されて……そうだ、あの女が全部悪いんだ! そんな目で僕を見るな! うぅ……ぐうぅぅぅぅ……ぅぅ……」
 半狂乱になって顔を覆う。
 わかっている。これは現実ではない。罪に苛まれる意識がつくり出した幻だ。
 訴える理性とは裏腹に、瞳はさらに数を増やしていく。
 耐えきれず、僕は走り出した。
 逃げるのだ。誰にも見られない、人間社会から打ち捨てられた場所に。そして、あの女が元凶であると突き付ける。神に無実を証明するのだ。
 気がつくと、メールの送信が終えられていた。
26, 25

  

(七)

 ヤングビップ橋の下には、じめじめとした空気が充満している。放置されたゴミに生モノでも混じっているのか、肉が腐ったような悪臭が鼻をつく。川から立ち昇る湿気がそれをさらに際立たせていた。
 すぐに来てくれと書いたのに、かれこれ一時間は経つ。僕は待ちくたびれていた。
 人群れを避けてこんな場所に逃げ込んだけれど、心の安寧は取り戻せていない。コンクリートに遮られた空、星明りの残滓、積み上げられたゴミ袋。それらに紛れて、まるで最初からあったように、ギョロついた目が並んでいる。
 正気と狂気の境目は溶け合っていくばかりだ。彼女が来なければ流出は止まらないだろう。
「早く来い……早く……」
 恐慌に押されて叫べば、タガが外れてしまう。震える歯を食いしばりながら呟いた。
 静寂のなか。微かに、反響が聞こえた。やがて連続した音が耳に届き、誰かが歩いているのだとわかる。
 外界から訪れた人物は、着実に近づいてきている。
 僕は乱れたローブを整えて客を待った。目を凝らすと人影が姿を現す。
 白い肌、翠の瞳、学校の制服。
 僕にとってはアンバランスな取り合わせだが、彼女にとっての真実はこちらなのだろう。
 ひとまず、歓迎の意を示す。
「ようこそ。待ちわびたよ」
「…………」
 少女は立ち話にはやや遠い距離で立ち止まり、眉間を寄せた。
「やっぱり陸人さん、ですよね。その恰好は……?」
「ああ、これ?」
 僕は付けていた仮面を外した。
「演劇の衣装かな。ゴミに混じって捨ててあったからさ。ちょうどよかったから貰ったんだ。ボロボロだけどね」
「……どうして?」
「君を驚かせたくて。死んだ上村正史が地獄から蘇ったと思っただろう?」
 仮面を足元に放り捨てる。コンクリートに打ち付けられた端の部分が、音を立てて欠けた。
「メッセージ、見てくれたんだよね」
「はい。知らない送信元からで、びっくりして。本文に『上村正史より』とありましたけど」
「ごめん、ごめん。正直に名乗ったら来てくれないと思ったんだ。死んだ恋人からだったら、何事かと確認したくなるだろ。なんたって、ただ死んだだけじゃなく、君が殺した相手なんだ。幽霊からの怨念がこもったメッセージ、ゾっとした?」
「…………」
「あれ、否定しないの。上村正史を殺したのは君だ」
「……わたしは、彼を殺していません」
「そうこなくちゃ。犯行を否定する君を説き伏せるために、僕は来たんだから。ああ、逃げ出すのはやめてよ。推理は最後まで聞いてから帰ってくれ。一度はちゃんと聞いてくれたんだ、今回もいいだろ。
 そうだ、ところでなんだけど、僕は君のことをなんて呼べばいいんだ。本名はリンドブラード有栖だっけ? 有栖の方が名前か」
「どう呼んでもらっても構いません」
「ああ、そう。じゃあ、有栖って呼ばせてもらう。あと、できればその他人行儀もやめてほしいんだけど。僕らって同学年らしいじゃん。女の子にさん付けで呼ばせて興奮する趣味もないし。いや、あったのかな。実際、結果が出ちゃったんだから。まあ、別にそれはいいや」
 僕は自分自身の長広舌に酔いしれながらも、意外な気持ちだった。
 本心では、有栖が馬鹿正直に現れるとは予想していなかったのだ。もし現れたとしても、僕を見るなり引き返すだろうと思っていた。
 彼女は、どういった心境で佇んでいるのだろう。僕は嫌われているのだろうか。いまさらになって、そんな女々しい考えが頭をもたげる。
 唐突に、気弱になってしまった。
 子どものように泣きながら、駄々をこねて懇願したい。都合のいい嘘に溺れさせてほしい。僕の推理はすべて勘違いで、これからもフウリとして一緒にいると言ってくれれば、この身を尽くすことができるのに。
 僕が黙ってしまったので、有栖は警戒している素振りを見せた。布団のなかで抱き合った女の子はもういない。ふたりの間には、話をするにも不便な距離が横たわっている。この距離こそが真実なのだ。
 後戻りはできない。決死の覚悟で一声を放った。
「要するに有栖は、上村正史を殺したかったんだ。しかも自分の手を汚さず、潔白を確保したうえで。そのために、僕を利用した」
 有栖は表情を変えずに聞いている。
 僕は続けた。
「前に言ったよね。君を無力な異世界人と仮定すれば、物事の辻褄が合うって。僕は、君を信じるという結論ありきで推理を展開したんだ。でも、この論には欠点があることも承知だった。つまり、君をただの人間と仮定しても、辻褄が合わないわけじゃないってことだ。
 真っ当な分別を持っていれば、選ぶ前提は決まってる。異世界なんていう荒唐無稽なものは存在しない。変な格好をしてたって、女の子はただの人間だ。行動の動機はつまらない愛憎関係。……反吐が出るね。
 十月下旬の夜、僕らが出会ったのは偶然じゃない。僕が散歩を日課にしていて、緑地公園に訪れることを知ったうえで、有栖は仮装して待ち伏せをしていた。そして、誘いにまんまと乗せられた僕の自宅に上がり込んだ。これが、計画の第一段階。違う?」
 反論の機会を与えてみるが、有栖はうんともすんとも言わない。苛立たしかったので、少し意地悪をしてやる。
「ところで、インターネットの動画サイトに有栖のハメ撮りが流出してたよ」
 すると、有栖はわずかに顔をしかめた。
「フェラが上手そうで感心したよ。あれって上村正史に仕込まれたの? それとも、結構、男性経験豊富だったりして。思い返すと、他の男のアレを咥えた口でキスされたのって複雑だな。はは、考えすぎか」
「……やめてください」
「残念だったね。あの動画が出回る前に殺したかったんだろ。たぶん、上村正史も身の危険を感じてたんじゃない。先手を打たれて、相打ちにされたわけだ」
 不快な気分にさせられたみたいなので、少し満足した。
「そうだな、話が出たし、せっかくだから動機を先に処理しよう。まず最初、有栖と上村正史は交際してた。でも、うまくはいってなかったんだろう。円満なカップルからああいう動画が流出するとは思えないから。たまには、ふたりともの趣味が合って合意で……っていうケースもあるんだろうけど、有栖は個人利用のための撮影でも渋ってたみたいだし。
 リベンジポルノっていうんだっけ。こういうのは大概パターンが決まってるらしい。円満なときに撮影したものが、破局するときになって脅しの道具になるんだ。
 あくまで想像だよ。交際中に仲が悪くなって有栖は別れたくなったけど、上村正史のほうは嫌がったんだろ。で、『別れるなら動画をばら撒くぞ』と言ってきた。こうなれば八方塞がりだ。名誉を守るためには別れられないし、脅し道具を手に入れた男は強権的にエスカレートしていく。
 有栖は相当、追い詰められたんだろう。リストカットを始めたのがその頃なのかはわからないけど。とにかく、交際相手を殺さなければどうにもならないと思った。でも、人を殺してその罪を背負う覚悟はなかった。唯一の方法は完全犯罪を成し遂げることだけど、これも簡単じゃない。
 学校ではふたりの恋愛関係が広まってる。上村正史の他殺体が発見されれば、警察が痴情のもつれを疑わないわけがない。被害者との関係が明確な以上、容疑を免れるためには、他により明確な犯人がいることが必要だ。
 そこで目を付けたのが僕ってわけだ。どうして僕だったのかは正直わからない。というより、意図して無作為に選んだのか。なるべく無関係の人物のほうが都合がよかったはずだから。男に酷い目に遭わされておいて、他の男を利用しようっていうのも見上げた根性だと思うけどね」
 話しているうちに、沸々と怒りがこみあげてくる。人は己を擁護するためならば、いくらでも卑怯になれるのだ。僕は幼少期からさんざん学んできたはずだったのに。裏切られてきた経験すら無駄にしてしまった。
 頭に血が上っている。深呼吸して、気持ちを落ち着けた。
「話を戻そう。僕に上村正史を殺してもらうことを思いついても、素直なやり方は通じない。当たり前だけど、対象の人間を殺させるために、さらに別の人間を唆すのも犯罪だ。最悪、自ら実行するのと変わらない刑の重さになったりもするはず。
 でも、限りなく犯罪の立証までを難しくすることはできる。第三者を唆したという証拠を残さなければいいんだ。
 僕の家に上がり込んだ有栖は、計画のうちの準備段階に入った。やろうとしたことは主に二つ。僕にフィクションを信じ込ませることと、フウリという架空のキャラクターに好意を抱かせること。
 前者はしばらくうまくいかなかったね。設定だとか世界観だとか事前に詰めてはきてたんだろうけど、僕を騙せなかった。もっとも、口頭での説明を並べたてるだけで信じてもらえるとは、有栖自身も思ってなかっただろうけど。
 一方で、後者はすんなりと成功した。手段に色仕掛けを選んだのは正解だったみたいだ。僕にはそういう耐性がまったくなかったから、いきなりキスされたり、正直、女の子と一緒に暮らすってだけで舞い上がってた。僕はさぞチョロかったんだろ。適当に好意がありそうな素振りをするだけで甘い態度になっていくんだから、面白くてたまらなかったはずだ。
 そして、フウリに惚れさせてしまえば、前者もおっつけどうにかなるって寸法さ。
 有栖は同棲生活のなかで、色々なヒントをばら撒いてた。
 異世界人のフウリは不憫な境遇に置かれていて、ケージに飼われたハムスターに共感している。異形の敵を殺すことが使命だけれど、正攻法では叶わない。だから、彼女の命を救うためには、代わりに僕がやるしかない。もちろん、これらは空想に基づいたフィクションなんだけど。
 恋は盲目っていうのは偉大な格言だね。僕は撒かれた餌を都合のいいように解釈して、進んで奴隷になってたってわけだ。
 それにしたって、大した仕事だったとは思うな。だって四六時中、アドリブと軌道修正の連続だっただろ? 最終的に上村正史を殺させるゴールに辿り着けばいいとはいえ、相手の反応を窺いながら即興で物語をつくるなんて。脚本と女優と監督を兼任しているようなものだ。
 ああそういえば、ステイハムを殺したのも有栖なの? 物語の演出のために、世話する名目で弱らせてたのか。まさに、天性の悪女だね。恐れ入ったよ。
 ところで計画には、僕を騙す以外にもポイントがあった。つまり、僕ら以外の人間に気づかせないことだ。殺害対象である上村正史はもちろん、無関係の人に知られることすら避けなくちゃいけない。怪しい恰好をした女が加害者と親しくしていたって話が出てこれば、警察に嗅ぎつけられる可能性が高いから。
 一時的に第三者の目を逃れるため、有栖は設定を利用した。人目を忍ぶ任務であると称して僕の口を塞ぎ、できるだけ家に引きこもる。そうして失敗の芽を摘んでおく。ニートみたいな生活を送っていた理由だ。
 とはいえ、まったくトラブルが起こらなかったわけじゃない。僕の母親の愛人に見つかったときは慌てただろう。最悪、計画を白紙に戻すことも考えたはず。だから、僕にあいつとの関係を聞いたんだろ。まぁでも、血縁でないのを確認したうえで、少々のリスクだと飲み込んで強行した。
 ポイントはもう一つある。凶器だ。上村正史を殺したあと、僕が現場に凶器を残してしまう事もわずかだけどありえた。そうなった場合、もしもあのナイフが有栖の私物だったら、入手経路から辿られてしまう危険がある。だから、あれは元々有栖の持ち物ではない。
 殺しを終えた後さ、塗装が剥げてきちゃったよ。ステンレスに色を定着させるのは、きちんと足付けをしても素人じゃ難しい。台所にあった三徳包丁を使ったろ。塗装のスプレーはもちろん、グリップの加工に使ったのも家にあった紙粘土か。思い込みの力ってすごいな。当時は、異世界の未知の素材でつくられてるんだろうなとか思ってたけど、いまはどこから見たって素人手製のガラクタだ」
 隠し持っていたナイフを取り出してみせる。ほんの少し前までは、この一振りが僕をどこまでも連れて行ってくれると信じていた。脆いものだ。張りぼての理想は容易く剥がれ落ちて、馴染みのある鈍色が顔を出した。
 ナイフを手の中で弄びながら、続ける。
「他にも見えない紆余曲折はあったんだろうけど、計画は最終段階まで進んだ。雨の日の一件で僕が陥落したことを確信して、有栖は姿を消した。ご丁寧に、殺人に必要な道具――地図とナイフを用意しておいてね。その一方で有栖として連絡し、適当な理由をつけて上村正史を廃倉庫に呼び出した。僕と彼は一度しか顔を合わせなかったけれど、あの邂逅は、長く仕組まれた必然の交点だった。
 結果、計画は成功した。僕がまんまと殺人を実行して、有栖は雲隠れ。表面上、事件の加害者と被害者は明らかだ。
 もしも警察が、無垢のままだった僕から取り調べをしたら、どう思っただろうな。異世界からやってきた少女を救うためだったんです。世界の平和のためにも必要なことなんです。……はは、精神鑑定の結果、投獄は免れたりして。
 笑えるだろう? 笑えよ。僕のことを愚かだって思ってるんだろう。見事に台本通り踊ってやったんだから、せめて笑い飛ばしてくれるのが情けってものじゃないのか。陳腐なヒロイズムに囚われて、こんな行き止まりまで来てしまった。おい、いつまで能面みたいな顔してるんだ。ひとつくらい、言いたいことはないのか?」
「…………」
「そうか。なら、もう少し話そう。言っておくけど、有栖のほうだって安心するにはまだ早いんだぞ。上村正史の殺害っていう目的は達成できたけど、なにもかも万全ってわけじゃない。
 まず、フウリの顔を見たのは僕以外にもひとりいるだろう。あの男が絶対に黙っているとは限らない。いくら僕のことが邪魔でも、警察の捜査が及べば従順に見たままを話すんじゃないか。
 あと、僕に現実の素性を知られたのも有栖の誤算だ。ビップラ学園で出くわしたのは完全な偶然だから当たり前だけど。警察に捕まれば、僕は一般人としての有栖を挙げることができる。異世界人としてのフウリが妄言だって切り捨てられるとしても、実際に存在するリンドブラード有栖なら話は別だろう。はたして、有栖はつつかれて困る部分がひとつもないんだろうか。僕の家に落ちた毛髪や指紋は残らず処分してあるのか。それとも、実行犯との接触はいっそ認めて、唆したつもりはなかったって主張するか。僕が勝手に勘違いしたんだって。裁判には詳しくないけど、そういう手もあるだろうね。好きにすればいい。
 でも、もしも罪を逃れたって平穏な未来が待ってるわけじゃない。ビップラ学園では、男子の間で例のハメ撮り動画が出回ってる。学校中に広まるのも時間の問題だろう。恋人が死んだっていう状況もセンセーショナルだ。学校だけじゃない、地域中から奇異の目で見られる。きっと息苦しいに違いないよ。いっそ引っ越しでもして、すべてを捨ててやり直してみるか。そうやって世間からも罪からも逃げ続けられるのか。よく考えてみたらいい」
 僕の話を聞き終わっても、有栖は激しい感情を表さなかった。精一杯に挑発してみたにもかかわらず、怒りも、恐怖も、洗い流されたかのように澄んだ表情をしている。動画の件を明かしたときには少なからず苦しそうにしていたのに、僕が話すにつれて平静を取り戻していったような気さえする。
 むしろ、怯えているのは僕のほうだった。
 目の前で佇む少女が、何を考えているのかわからない。そのことがただただ恐ろしかった。
 やがて、薄い唇がおもむろに開かれる。
「陸人さんを初めて見つけたのは緑地公園の展望台でした。フウリとして会ったときよりも五か月くらい前です。陸人さんと同じで、わたしも散歩に来ていたんです。たまたま普段とはコースを変えていて、そこで。
 なんとなく気になって、計画に利用する候補として調べていくうちに、陸人さんはわたしに似ていると思いました。寂しくて、傷ついていて、どこか遠くへ行ってしまいたいと願っている。だから、選んだんです。
 当時、言われた通り、正史くん……上村正史との交際はうまくいっていませんでした。彼はとても嫉妬深くて、わたしが他の男の子と話しているのを見つけると、あとで暴力を振るってきました。そのうち、親から与えられているというマンションの一室にわたしを呼びつけて、軟禁のようなことを繰り返すようになりました。わたしを傷つけたあと、彼はいつも泣いて謝るのですが、次の日には同じように暴力を振るうんです。
 わたしは次第に疲れていって、耐えられなくなりました。彼の隣に居続けることはできなかった。そこはわたしの居場所ではなかったから。
 たいして長く生きていない子どもですけど、わたし、逃げ出した経験だけは豊富なんですよ。恋人の元からだけではありません。思い返せば、いつも何かから逃げ出すことばかり考えていました。
 両親が離婚したあとに母親に引き取られましたが、折り合いが悪くなって独り暮らしをするようになりました。幸い養育費の支払いと割のいいバイトがあったので生活費が賄えて、たまに自立していると褒められたりもしたけれど、嬉しくありませんでした。わたしは、当たり前にあった理想の家庭が崩れてしまって、母親と向き合うことができなくなったんです。理想の家庭とはいかなくても、壊れてしまった残骸を繋ぎ合わせれば、それなりに満足のいくものができたはずなのに。
 学校の友達ともうまくいきませんでした。ハーフという要素があって、良くも悪くも目立ったんですが、わたしは埋没してしまいたかった。色々な人とぶつかりながら地位を確立していくのは大変な苦労に思えたんです。だから最初は自衛のために、人を拒絶して孤独な世界に閉じこもりました。けど、不思議なものですよね、身を守るために仕方なくと思っていたはずなのに、そのうち自分を正当化するようになりました。わたしは人とは違っていて、優れていて、だから学校の仲間には入らないんだって。能力は平凡で特技なんてありませんでしたから、普通の子には理解できない内面にこそ価値があるとか自分を騙して。
 けれど所詮、思春期の気の迷いに信念なんかありませんから。運命の相手だなんて言い聞かせて、恋人をつくったりもしました。結局、優しくされたかったんですね。陸人さんの言う通りです。わたしは貞淑な女の子ではありません。
 でも、そんなわたしでも、話したこともない男の子とキスをするのは嫌だったんですよ。陸人さんの家に上げてもらったあのとき、計画のためとはいえ唇を合わせるのはためらいました。悩んだ末に出た発想がキスから始まる恋物語なんて、少女漫画チックですよね。恥ずかしくて、何度も別の方法にしようかって考えたんですけど、他にいい案が浮かばなくて。……本当に、嫌々だったんです」
 有栖は微かにはにかむ。その表情は、これまで見たことがない、等身大の少女としてのものだった。
「嫌々……だったのに。おかしいですよね。冬になって雨の日の夜、陸人さんが迎えに来てくれて、家まで連れ帰ってくれて。布団のなかでしたキスは嫌じゃありませんでした。計画がうまくいってほっとする気持ちも、陸人さんに触れて嬉しくなった気持ちも、どちらも両方あったんです」
 有栖の言葉を聞いてこみ上げた感情は形容しがたい。ともかく、それは巨大で、抗いがたい衝動に形を変えた。
「陸人さんの指摘はひとつも間違っていません。謝って済むことじゃないともわかっています。けれど、わたしにとってもここが行き止まりなんです。陸人さん、もしも、いまでもわたしを好きでいてくれるなら、わたしと――」
「黙れ!」
 続く言葉をかき消すように叫ぶ。
 もう、うんざりだ。
 激情に任せ、ナイフの歪なグリップを握り込む。
 切先を向けてにじり寄ると、有栖は怯えるように後退した。
「お、落ち着いてください」
「僕は人を殺してしまったんだ。後戻りなんかできないんだよ。お前の嘘に二度と騙されてやるもんか。もしも僕に対して誠実でいたいと思うなら、ここで詫びながら死んでみせろ!」
 体は自動的に動いていた。
 踏み込んだ地面からは反発がなく、無重力にいるような浮遊感ばかり。それでも僕はまっすぐに、猛然と突き進んでいた。
 甲高い悲鳴が耳をつく。
 有栖は恐怖に負けて背中を向けたのだ。武器を振り上げた僕にとって、絶好の的だった。
 次の瞬間には、肉を裂く感触。
「痛い、痛いよぉ……」
 有栖は痛みに悶えてうずくまる。
 浅い。
 ブレザーは斜めに切り刻まれて血が滲んでいるが、致命傷には程遠い。
 殺せるだけの隙は十分にあったはずだ。僕はそこで、自分が彼女を殺すことをためらったのだと理解した。
 手が震えている。
 もう一度ナイフを握り、今度は上から突き刺せばいい。心臓を狙える。冷徹な判断とは裏腹に、殺意は鋭さを失っていた。
 そうして硬直しているあいだに、有栖は四つん這いの姿勢をとった。背中の傷を晒し、のろのろと遠ざかりながら振り向く顔は汗と恐怖にまみれている。まるで芋虫だ。生にしがみつく醜い肉の塊。いくら綺麗ごとを言ったって、こいつは結局、保身しか考えていない。
 僕は決定的なアクションを取れないまま、あとをついて歩いた。
 この女がすべての元凶なのだ。
 この女さえいなければ。
 恨みを振り絞るようにしてナイフを構え直す。
 そのときだった。
 まばゆい光が奔った。
 背後から放たれた膨大な光量が、一帯を照らしている。
 瞬きをする暇もなく、次いで轟音が響く。弾けた雷鳴が内側から心臓を揺らす。
「≪Hear attentively the noise of his voise≫」
 雷鳴に紛れた言葉は意味がわからなかったが、声には聞き覚えがあった。僕は反射的に後ろを振り向く。
 そこには僕の体から伸びる光があり、さらに奥に、複雑な機械群を従えた志麻子の姿があった。
 驚愕に見開かれた眼と視線がかち合う。「うそ」。彼女の唇はそう発したようだった。
 どうして志麻子がこんなところにいるんだろう。
 降ってわいた疑問を解する前に、別の事実に気が付く。
 僕の体――正確には鳩尾付近から伸びる光は、志麻子の肩口にある、オプションのような機械に繋がっている。
 いや、そうではない。
 オプションから放たれた光の槍が、僕の中心を貫いているのだ。
 じわりと、痛みが広がっていく。
「うぶっ……」
 人形の糸が切れたように力が抜ける。強かに地面に倒れ伏したかと思うと、大量の血が口からあふれ出した。
「ぐ……あぐっ……」
 防衛のための機能が働いたのか、意識をすりつぶす痛覚は即座にシャットダウンされた。
 他のあらゆる五感も鈍っていく。現実世界の出来事は遠く響く潮騒のようだ。
 志麻子がそばに駆け寄ってきてわめいている。「どうして」、「だって恰好が」、「そんなわけない」。断片的に届く台詞は悲痛に染まっている。一通り取り乱してから救助を要請したようだが、手遅れなのは明らかだった。自分のことは自分が一番わかっている。僕は間もなく死ぬだろう。
 死を目前にしてうろたえないのは諦めに達したからでもあるが、脳が別の処理に追われているせいもあった。
 血の絨毯に横たわりながら、僕は奔流のただなかにいた。
 凍結されていた記憶の氷塊が溶け出して、怒涛のように押し寄せている。いまのいままで忘れていたのが不思議なほど、現れた場面は鮮明だった。
 フウリのために買い物をした帰り。同じ時間帯、同じ場所で見た肉片と死神、そして閃光を連れた志麻子。僕は、本物の超常体験に出会っていたのだ。
 最後の力を振り絞って、仰向けに転がる。霞む視界では、ふたりの少女が上から覗き込んでいた。
 僕は泡立った血をしぶきにしながら笑う。
 あまりに滑稽だった。最後の最後、死の手前まで勘違いをしていただなんて。張りぼての英雄譚に裏切られて、それでもなお悲劇の主人公を気取っておきながら、演じていたのはおもしろおかしい喜劇だった。
 なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。
 僕は笑う。笑い続ける。
 吐き出すばかりで息が苦しくなってくる。気がつけば目の端が温かい。笑い過ぎて涙が出てきたのだ。
 視界が暗い。いよいよ終幕が近づいている。だから、言葉を探した。締めにふさわしい一言を。
 今生は思い通りにならないことばかりだった。舞台上でさんざん踊らされたのだから、最後くらい本当の気持ちで。
 途切れかける意識で台詞を探して――愛しい名を選んだ。
 それは、掬い上げた砂漠の砂に見つけた、一粒の金のような。
 一つだけ確かなこと。僕は、彼女を狂おしいほどに愛していた。
「フウリ――」
 呼びかけは、行方も知れず闇に消えた。

(了)
27

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