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時雨の章

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 八雲立つ。



 雲が湧き出る千年の都に、八重垣を巡らすように、雲が立ち昇った。



 降り、降らず、定めなき時雨が、季の移り変わりを都に伝えた。



 雫は葉を色付かせ、やがて、それを散らす。



 湿りは水墨の香りを漂わせ、金梨地の漆器の気品を放つ。



 いずれ、薄墨の寒い雲に灯が差し込み、止む感傷に追われた。



 あの影は、渡り鳥。



 遠ければ遠いほど空は青く映え、濡れた都の地に、一羽が影を落とす。



 あの影は、渡り鳥。



 遠い晩景の渡り鳥が旅人の姿となり、透明な青空を超えていった。

 月が顕れ出で、北東から風が吹き始めた。



 王を凝視めている一羽のワタリガラスは被り物を取った。そして、羽を広げると、一振りの短槍を手の先に伸ばした。



「千寿の王が、無様だな。それでも、貴様はまだ王のつもりか?」



「これが、我の望んだ事だ。還るべき場所へ往くというだけだ。」



 月灯に照らされながら、白銀の短槍が煌めいた。シグレは薄明りの中に残像を残し、ゴンゾウの眼前に立つと、左手の拳銃を叩き落した。



「私の短槍が貴様の命を刈り取る前に、聞きたい事がある。」



 その声に宿るのは怒りか、憎しみか、哀しさか。首筋に槍先を突き付けたまま、シグレはゴンゾウの瞳に自分の貌を映した。



「今でも、ワタリ・チグサを愛しているか?」



「美しくなったな、シグレ。」



「ちゃんと答えろ。答えによっては、苦しまず殺してやる。」



 ゴンゾウはふっと笑うと、震えた左手で槍をぐっと掴んだ。



「死人など愛するものか。我が愛しているのはお前だ、シグレ。」



「殺してやる!」



 シグレは槍を首に突き入れようとするも、万力の様な握力で掴まれた短槍は、ぴくりとも動かなかった。



「シグレ、よく聞け。愛すべき娘の為に、我が命を差し出してやろうというのだ。」



「黙れ。今更になって、父親の様に振舞うな。これ以上、私を苦しませるな!」



 月光に反射しているシグレの瞳から雫が落ち、一滴がゴンゾウの顔に落ちた。



 僅かな飛沫音が鳴る中で、ゴンゾウはじっと涙に腫らした赤い顔を見上げていた。



「お前は何者をも恐れない殺し屋だろう、シグレ。そして今、この父の血を浴びて、お前は、お前になれる。雄々しく生きろ。怯むな、躊躇うな。己の道の上で、孤独に歩め。」



 シグレは顔から徐々に熱が引いていく感覚を覚えた。そして顔を伏せると、左手でゴンゾウのがっしりとした肩を掴んだ。



「問おう、ワタリ・ゴンゾウ。母と私を捨てて歩んだ道とは、天とは、何だったんだ。闘争の果てに、貴様は何を観たんだ。」



「如何なる者にも、歩むべき道があり、天命がある。我を見よ、娘よ。これより、我が闘争が往く果てを見せよう。」



 顔を上げたシグレの瞳に、ゴンゾウの微笑みが映ったとき、短槍を掴んでいた力が、ふっと抜けた。



 身体が前のめりに傾き、袖から伸ばしている短槍で肉を裂いた感触が、右手の腕を通じて伝わってきた。今まで、何十と味わった感覚だった。自らの手で、目の前の命を奪い、噴き出した血の飛沫が、全身に飛び散る。紅い血が槍身を通して手から滴り落ち、地面に血の斑点が落ちる。

幾度となく、自分が生きる為に行ってきた事だった。



 首から短槍を引き抜くと、目の前の大きな身体が仰向けに倒れた。



 シグレは力が抜けた様に、ぺたんと座り込んでいた。



 糞尿塗れのまま路地を彷徨っていた頃から、何かを失う事が怖かった。



 ずっと憎んでいた。殺したいと思っていた。そして漸く、その命を奪った。



 だが、今もなお目から流れ出てくる雫は何なのか。胸を締め付ける喪失感は何なのか。



 貴方は貴方であればいい、とイザヤは言った。



 お前はお前として歩め、と目の前の男は言った。



「殺しの術しか知らない私は、どうあればいい。どう歩めばいい。」



 答えは返ってこなかった。その代わり、遠くから獣の雄叫びが聞こえてきた。



 まるで荒ぶる鬼人が激しく慟哭したかの様に、怒りと悲しみが入り混じった叫びだった。



 シグレは怒りの獣と化した呂角の姿を見定めると、その場でゆっくり立ち上がった。



 決着を付けなければならない。



 両袖から銀の短槍を取り、遠目に見える呂角に向かって突進した。



 血に塗れた呂角の身体は、誰の血であるのか分からないほど赤く染まり、その眼からは大粒の涙が流れていた。左の頬は抉られた様に裂け、下顎は外れて涎が滴り落ちている。



「言葉まで失くし、鬼人と化したか、呂角!」



 シグレは空高く跳んだ。以前、呂角から襲撃を受けて敗れたときに、既にその間合いは見切っていた。だが、絶人の域となった今の呂角に通じるかは分からない。



 鬼人に、間合いは存在しない。此方が遠間に感じていても、鬼人にとっては一足一刀以下の距離となる。目測を少しでも誤れば、九尺の大方天戟は意図も簡単に自分を両断する。大地には、大方天戟を下段に構えた呂角が見える。



 シグレは空中で身体を錐揉み状に身を捻らせた。回転する勢いのまま繰り出された両手の短槍は月明りに煌めき、辺りを照らした。右手の槍先が呂角の胸元に伸びていく。



 そのとき、シグレは時間が止まった感覚に襲われた。自分に向けて、月牙を逆袈裟に斬り上げようとした呂角の動きが、ぴたりと止まっていたからだった。



 ほんの小さな偶然が、戦いの結果を変える事がある。



 それにも関わらず、その勝利が、新たな伝説を生む事がある。



 もし、ゴンゾウがその手で短槍を強く握りしめていなければ、そして、もしシグレが、ゴンゾウの血を全身に浴びていなければ、戦いの結果は異なったものとなっていたかもしれない。シグレの身体や短槍の根本から跳ねた血の雫が、呂角の顔に飛び散ったとき、呂角の目の前にはゴンゾウがいた。



「爸、爸――」



 繰り出された銀の短槍が、呂角の心臓を貫いた。その槍先は背中にまで達し、夥しい量の血が溢れ出た。シグレは瞬時に左の短槍で呂角の首を真横から刺し通した。



「人中の鬼人よ、ワタリ・ゴンゾウを、頼む。」



 シグレが短槍から手を離したとき、無双の鬼人が大地に崩れ落ちた。



 鬼人の亡骸から、それまで弾ける様に発していた膨大な気が、霧が晴れる様に跡形も無く消え失せていく。



 肩で息をしながら、シグレは天を仰いだ。



 王を殺し、最強の者を倒した。此れが、自分が自分として生きる道なのか。



 闇から出で、鋭利な銀の槍を携えてその道を往く。此れが、自分の天命の中身なのか。



 夜空には箒星の通った筋が見え、無表情の月が浮かんでいた。

87, 86

  

 三日前、全身を啄まれる痛みで起こされた。見知らぬ天井が見えたとき、自分の置かれた状況どころか、眠りについた経緯も分からなかった。病室のベッドに寝かされている事、胸元に巻かれた包帯や、点滴の管が繋がっている右腕に気付いてから、手繰り寄せる様に記憶を思い起こそうとするも、まるで頭が働かなかった。



 頭を抱えて考えあぐねていると、病室のカーテンが開いた。



 目の前には、ツツジと名乗る女医がいた。肋骨が折れ、全身に軽い火傷を負った状態で診療所へ担ぎ込まれたという。その後、ツツジから髑髏の面を渡されたとき、脳内にサキの姿が去来し、全てを思い出した。



 建物全体が炎に包まれ、自分は三階の窓から飛び降りようとした。だが飛び出す直前に、背後からの猛烈な熱風に弾き飛ばされ、大地に叩きつけられた。まるで幼い頃、母が自分を逃がす為にベランダから放り出したときにも似た感覚だった。



 ツツジに経緯を話すと、彼女はすぐに自宅へ連絡をした。そして十分ほど経った頃、血相を変えたサキが診療所へ駈け込んで来た。目があったとき、サキは傍に寄ってきて、吸い寄せる様に唇を重ねてきた。



 生きている。そう実感したとき、身体中の力が抜けた。



 だが、診療所の三日間は地獄の様な日々だった。



 尻に秘伝の座薬を詰め込まれたり、酷く染みる液体を全身に塗られた。驚くべき速度で回復して退院するも、ツツジの診療所にはもう二度と行くまいと誓った。



 その夜、退院祝いとして、サキをディナーに誘った。



 身なりを整え、ホテルのレストランで彼女とグラスを合わせた。青いドレスを着たサキは美しかった。目鼻立ちの整った氷の美貌が映え、まるで艶やかな女神の様だった。



 他愛もない話をしながら、二人で窓に映る千寿の夜景を見た。



 以前に比べて灯は少ない。だが、静かで、平穏だった。そして、星が何倍も美しく見える。



 サキは此方に顔を向けると、微笑みを浮かべた。



「ウツミ・タクヤは、コーポスは、これからどうするの? 今が、髑髏の仮面を脱ぐ機会なんじゃない?」



「私はこれからも、コーポスであり続けるよ。平穏な千寿が、いつまでも続く様に。」



「それが、ウツミ・タクヤの魂だもの、ね。」



 闇の勢力は消え、千寿には光が照らされた。やがて、コーポスも必要なくなるだろう。だが、代わりに得たものがある。それは、アイハラ・サキという掛け替えのないパートナーだ。今後も、自分はコーポスとして、影から千寿の人々を見詰め、護る。彼らは勇気を振り絞り、自らの手で闇を払った。彼らは、目に見えぬ以上の力を持っている事を知った。



 私はウツミ・タクヤ。又の名をコーポス。この平穏が、いつまでも続く事を祈りながら、命ある限り、此処で、生き続ける。
 崇高な力が命じるところによって、詩人がこの憂鬱に落ち込んだ世界へと現れたとき、彼の母は慄き、呪詛の言葉に満ち溢れて、神に向かってその拳を握り締めた。



「ああ! こんな情けないものを育てるくらいなら、どうして私はマムシの塊でも産み落とさなかったのでしょうか!



 呪うべきは、私の腹が贖罪を宿した儚い快楽の日々でございます!



 あらゆる女の中から、御身が私を選び、私の不運な夫に嫌悪を抱かせたのですから。



 そして私は、この背の歪んだ怪物を、恋文のように、炎の中へと投げ捨てることが出来ないのですから。



 私を苦しめている御身の憎しみを、御身の悪意が奏でる呪われた楽器の上に投げ返し、そして、この憐れな木を力いっぱい捻じりあげて、病毒に侵されたその新芽が生えてこないようにしてしまいましょう!」







「その詩は、お前自身の事か?」

 シグレは不機嫌そうにイザヤの言葉を遮った。



 夜、酒を飲んだ後のイザヤは普段の何倍も饒舌になり、酔いが覚めるまで謡い続ける。



 酷い時は三日三晩謡い続け、シグレは不眠症になった事がある。



「私ではありません。ある非凡な詩人のものです。闇があるからこそ、光があります。そして闇から出てきた者ほど、本当の光の有難さが分かります。」



「酔いが回ったな、イザヤ。暫くは酒を慎め。」



 シグレはコートのポケットに手を入れると、イザヤの潜む闇へ顔を向けた。



「私は千寿を出る。此処は眩しくて敵わん。」



「我が主に告げます。貴方が道に迷われたとき、傍には必ず私がおります。」



 それきり、イザヤの声は途切れた。そして、路地裏に残った小さな闇が、霧散する様に消え去った。



 シグレは煙草に火を灯すと、星々が照らす夜空を見上げた。



「次は、何処の宙へ往こうか。」



 血に濡れたワタリガラスは、何処へと飛び去っていった。



 時季の変わり目を知らせる、雨となって。







                     【時雨の章  完】

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