3.「イッテコイ カエッテコイ」
塚原は硬い寝床で夜明けを待っている。二時間前には目が覚める。そのまま動かずにいる。窓辺が明るくなり、表に散歩の人が通る。大抵子犬を連れている。毎朝毎朝吠えまくる。塚原も寝床で唸る。一日の内の今だけが、自分の中の狂暴性を剥き出しにしても良い時間だとでも言うように唸る。誰も見ていないからではなく、木彫りの聖母像が自分を見ているからこそ、ありのままの自身を曝け出す。そのまま自ら慰める事もある。
塚原は教会に住み、聖職者の振りをしているが、何の資格があるわけでもない。まだこの街が底に沈む前に、神父である叔父を頼って教会に来た。教会本部から土地ごと見放されてからもなお、塚原の叔父は献身的に働き、倒れ、亡くなった。塚原自身に信仰心はなく、敬愛する叔父の真似事を続けているに過ぎない。敷地内で育てた野菜を煮込み、シチューとし、教会に集う者に分け与える。叔父ならその際に聖書から引用した何かしらの話でもしただろうが、塚原は反対にここに集う者から話を聞く。愚痴や懺悔や決意や諦めの言葉を。
少年リクが塚原を神父に見立て、まだ犯さない罪の懺悔をしている。
「俺はまだ憎むべき相手を見つけていません。誰も傷付けたいとは思っていません。でも俺と俺の姉に対して、この街は決して優しくはない。この世界はいずれ俺達をひどく傷付けに来ると思う。本当はとっくに手酷く傷付けられているのに、俺達がまだ子供だから、その事に気付いてないだけかもしれない。神父さん、今日もシチューをありがとう。灰が入ってるし、砂も噛んだ。でも俺達はこれで生きていられる。俺達は今日を生き延びられる。
神父さん、俺はいずれ誰かを傷付けてしまう。きっと姉を守る為に。俺達に伸びてくる悪意ある手をぶった切ってしまう。行き過ぎた復讐をしてしまうと思う。その時にはもうここには戻って来れないと思うから、今ここで先に懺悔をしておくんだ。
神父さん、許してくれとは言わない。たまに思い出してくれるだけでいい。俺達には名前があり、生きていた事を、誰かが覚えてくれていたら、それだけで生きていた意味があったと思える気がする」
要約するとそのような事をリクは塚原に話した。実際にはもっとたどたどしく。
リクのように炊き出しを食べに来る人達の中で、突然姿を見せなくなった人は大勢いる。炊き出しの必要のない生活に戻れたか、事故や事件に巻き込まれたか、塚原には知る術もない。
「リク、忘れないよ」と塚原は語りかける。
「ここに来た人の事を忘れた事なんてない」塚原は嘘をつく。
運悪く度重なった自然災害や、やる気のない市政やら他の街への人口流出やらで、急激に落ちぶれていったこの街の現状が、永遠に続くわけではない。後回しにされているだけで、少しずつ復興を遂げている街もある。あと数年も経てばこの街も今よりましにはなるだろう、と塚原は思っている。だが浅はかな希望をリク達には話さない。真っ当な街に戻れば、逆にここには居る事を許されない連中も多数居る。塚原もその一人である。叔父の残した遺産もいずれ尽きる。リクよりも早く塚原が消えるかもしれない。
リクを送り出す。ボロボロのリュックに入れた何かの感触をリクは確かめている。「行ってきます」とリクは言った。近頃「また明日」とは言わなくなった。
「行ってらっしゃい」と塚原は言う。声にならない声で「帰って来いよ」と付け足す。
(続く)