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6.「茫洋」

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 茫洋が歩いている。下を向いて。ぶつぶつと呟きながら。自らの名前や、誰かの名前や、誰でもない名前などを並べ立てて呟き歩く。金でも落ちてないかと地面をくまなく眺めて歩く。錆びたネジが落ちているので、Gパンの尻ポケットに突っ込む。ポケットは底が破れているから、しばらくもぞもぞした後道端に落ちていく。帰っていく。丸めた背中にゆっくりと空が落ちてくる。

 茫洋は本名ではない。茫洋の故郷はもう存在しない。国境線は塗り替えられ国の名前は変わり、茫洋の家族は全て殺された。海を渡りやってきたこの国に知り合いはいない。ただ転々と、地面を見つめ小銭を探し、見つからなければ拾って食える物は何でも食べ、食べ物がなければ人から奪って食べた。人の命も軽々しく奪った。

 食べ物の匂いを嗅ぎ付け、茫洋は塚原のいる教会に辿り着く。炊き出しの行列に並び、シチューを待つ。茫洋は列の先にいる親子を見ていた。ズゥが塚原に子供達が世話になった礼を言っていた。リンとリクは満面の笑みでズゥを塚原に紹介していた。
「ママが帰ってきたんです」というリクは以前の「罪を犯す前の先取り懺悔」の事を忘れているかのように見えた。けれども彼の背負うボロボロのリュックの中にはまだナイフが収まっていた。茫洋は親子を見ながら、食欲が満たされた後の事をぼんやりと考えていた。ボー、と、ヨー、と呟く。輝いた雲が茫洋の背中に落ちてくる。獰猛な獣の気配でも感じたように、リンが顔を上げて行列を見渡す。生気のない人の群れに見える。本物の怪物は自らの危険性を隠す事に長けているのをリンはまだ知らない。

 初見の男にも塚原は優しくシチューを差し出す。しかし塚原は茫洋にどこか違和感を抱く。「本当に人間か?」という思いが頭をよぎる。茫洋の過去など知らないはずなのに、塚原は危険信号を感じている。その日の炊き出しの行列に参加した常連の内二人が二度と姿を見せなくなる。シチューの味を気に入った茫洋は、男達の腹の中にあるシチューを狙った。命を奪われ、シチューごと茫洋の腹に収まった中年男達にもかつては家庭や職があった。彼らは茫洋の腹の中でもう何の思い出にも苦しむ事もなく消化された。

「美味しいね」とズゥは塚原の作ったシチューを頬張る。ごろりと大きすぎる切り方の人参を事の他好んだ。このような切り方をして子供らにカレーライスを作ろうとズゥは思う。決して多くはないのですぐに食べ終えてしまったが、余韻は終生ズゥの口の中に残った。帰宅して子供らに囲まれた幸せな記憶と共に。茫洋の視線が彼らを捉えていた事にズゥは気付いてない。

(続く)

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