#4
本当だってば 本当だってば 嘘じゃないわ
本当だってば 本当だってば 運命・だ・わ
「何の歌うたってんの」
ううん、別に。
本当だってば 本当だってば 信じていいわ
本当だってば 本当だってば 今にわかるわ
ツダヌマ君がシャワーから戻ってきた。しばらくドライヤーの音を響かせていたくせに、髪の毛はまだしんなりと水を含んだように見える。ってことは。
ちょっとむこう向いてみて。
「へ?」
ツダヌマ君はそろりと自分の出てきた洗面所のほうへ振り返る。やっぱり背中が濡れている。この人ってばいつもそう。背中にまだ水の粒が残っているのに肌着を着ようとしはじめる。慌てて私はベッドから降りて彼に近づく。首からさげたタオルを引き抜くように奪って、背中を拭いてやる。
「あれ、濡れてた」
まったくさあ、子どもじゃないんだから。
でも、そういう子どものツダヌマ君が、私は好きだったりする。
「飛行機と新幹線、どっちが安いんだろうね」
ううん、どっちもどっちだと思うよ。
「ふたりで半分ずつ出して、月2くらいで会えればいいね」
またその話する。あと二週間はこっちいるよ。
「そう、だけどさ」
あとは腰まわり、というところで彼がこっちを向く。まったく、子どもはこういうところに気が利かないから、かわいい。
オフィス●●●●●のサカグチと名乗る男からメールが届いたのはちょうどその頃だった。正確にいうと、メールは本社の広報部から私のもとに転送されてきた。
- - -
ベンリーキング
広報部 御中
はじめまして。
オフィス●●●●●のサカグチと申します。
このたび、弊社で「子どものためのおしごと探検隊」というシリーズ本を制作することになりまして、その第一巻【コンビニエンスストア】編で、御社の店舗の撮影および店員さんへのインタビューをさせていただくことはできませんでしょうか。
計画している書籍の詳細と希望する撮影場所・インタビュー内容を添付のWordファイルにまとめておりますので、ご確認いただけますと幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。
- - -
これはヘブンイレブンにもローソクにも断られてウチに回ってきたんだろう。添付のファイルを開けると、いささかヘヴィな希望が書いてあった。テレビのキー局がいくらか出して取材するなら話は別だが、名前も聞いたことのない出版社……? なのか何なのかわからない人たちに無料で取材をさせるほど業界は暇じゃない。――ウチのように、そんな業界の隙間をのらりくらりと生きながらえるような会社じゃなければ。
「舞浜グランドホテル店での取材を許可する予定です。つきましては、社員が出勤するシフトを教えてください。あとツダヌマAMにもシフトをきいておいてください。当日はAMとハラカミさんの二人に付いてもらう予定です」
私はツダヌマ君に電話をかけた。社用のスマートフォンには「エリア・マネージャー」の表示が出る。
「ハイ、ツダヌマです」会社の電話に出るときはたとえ私相手でもちゃんと出る。そこが好き。
そこがすき。
「へ?」
ああ、ちがうちがう、なんでもない。
「何でもないわけないでしょう。会社のケータイで無駄話するような人じゃないですよねハラカミさん」
うん、違うよ。いま、メール転送したんだけど。
「あ、じゃあ確認してかけ直しますよ」
すぐ、大丈夫かな。
「至急連絡ほしい感じですか」
たぶん、早めのほうがいいと思う。
「大丈夫ですよ。いまパッとメール確認して、すぐ折り返し……あーいや、スマホだからこのまま見られますね。つないでてください」
ツダヌマ君が隣にいたら、私はシャレのつもりで彼の手を握っていただろう。「そのつなぐじゃないから」「うん、そう思った」「『思った』ってなに」「そうツッコむと思った」「出た出たカヨコのまるっとお見通し」「急に名前で呼ぶなよな」「そっちも呼べばいいじゃんか」「ツダヌマ君」「名前で」「ヨシキ」「ふふ」「ちょ……笑わないでよ」妄想は水のようにつながったりはぐれたりして、脳みそのスライダーを転がり落ちていく。
「ハラカミさん、ハラカミさん」うっかりぼんやりしていたら、受話器がうるさくなっていた。
あーごめん。
「確認しましたよ」
面倒くさいね。
「このオフィス●●●●●って聞いたことないすね」
ね。
「あー……でも、出版元のカナザワ書店って『やねうら妖怪 ペコ』とか出してる出版社らしいですよ」
ああ、それちっちゃい頃に読んだことある。
「僕もです。だいたいの図書館とか児童館とかに置いてあるやつじゃないですか」
うん、そういうイメージある。いま調べたの?
「ええ、検索ワード入れたらサジェストされるくらいなんで、割と有名かも」
でさ、舞浜。
「ああ、そうですよね。統括案件なんですね」
うん。私もだし、ツダヌマ君もだって。
「統括とエリアマネージャーが両方出動するほどのことなんですかね」
なにそれ。会いたくない?
「いやいやいや。単純に、そんな手続きいっぱいあることなのかなって。僕ひとりでもできそうな用事な気がして」
会いたくない?
「違います、違います…………怒ってるの?」
ふふ。冗談。
「まったく。カヨコ、電話だと表情読めないからビビるよ」
終わったあと直帰じゃないかな。
「舞浜でご飯食べて帰りましょうか」――おっ、敬語にもどった。
ジェリーランド行っちゃう?
「あれ、ハラカミさんそんなにジェリーマウス好きでしたっけ」
うーん、いやあ、別に。でもほら、行ったら行ったで楽しいと思う。
「そうですね。仕事終わりの時間帯なら大人のデートって感じしますね」
大人ねえ……。
「まあ、シフト送りますんで、続きはお互い帰ったあと、ラインとかで話し合いましょう」
ツダヌマ君から彼と社員のシフトが送られてくる。取材にバイトは関わらせないから、舞浜店に社員が出勤する日をまず確認し、その中でエリアマネージャーのツダヌマ君と統括エリアマネージャーの私が舞浜に行ける日程を選んで本社に報告する。
「ではその日程の中から第3希望くらいまでこちらで指定して、先方に返信してください。できればホテルにより人がいない時間帯がいいのですが、把握できますか」
取材を受けるのは舞浜グランドホテルのロビーにある店舗だ。ホテルに泊まる人はほぼ全員が隣接する東京ジェリーランドに遊びに行くから、日中はがらんどうになる。本社もそこなら取材を受けられると踏んだらしい。ジェリーランドの反対側はうらさみしい海岸だ。私は夏の終わりの肌寒い風に揺られるパームツリーを想像して、少し萎えた。
(つづく)
本当だってば 本当だってば 運命・だ・わ
「何の歌うたってんの」
ううん、別に。
本当だってば 本当だってば 信じていいわ
本当だってば 本当だってば 今にわかるわ
ツダヌマ君がシャワーから戻ってきた。しばらくドライヤーの音を響かせていたくせに、髪の毛はまだしんなりと水を含んだように見える。ってことは。
ちょっとむこう向いてみて。
「へ?」
ツダヌマ君はそろりと自分の出てきた洗面所のほうへ振り返る。やっぱり背中が濡れている。この人ってばいつもそう。背中にまだ水の粒が残っているのに肌着を着ようとしはじめる。慌てて私はベッドから降りて彼に近づく。首からさげたタオルを引き抜くように奪って、背中を拭いてやる。
「あれ、濡れてた」
まったくさあ、子どもじゃないんだから。
でも、そういう子どものツダヌマ君が、私は好きだったりする。
「飛行機と新幹線、どっちが安いんだろうね」
ううん、どっちもどっちだと思うよ。
「ふたりで半分ずつ出して、月2くらいで会えればいいね」
またその話する。あと二週間はこっちいるよ。
「そう、だけどさ」
あとは腰まわり、というところで彼がこっちを向く。まったく、子どもはこういうところに気が利かないから、かわいい。
オフィス●●●●●のサカグチと名乗る男からメールが届いたのはちょうどその頃だった。正確にいうと、メールは本社の広報部から私のもとに転送されてきた。
- - -
ベンリーキング
広報部 御中
はじめまして。
オフィス●●●●●のサカグチと申します。
このたび、弊社で「子どものためのおしごと探検隊」というシリーズ本を制作することになりまして、その第一巻【コンビニエンスストア】編で、御社の店舗の撮影および店員さんへのインタビューをさせていただくことはできませんでしょうか。
計画している書籍の詳細と希望する撮影場所・インタビュー内容を添付のWordファイルにまとめておりますので、ご確認いただけますと幸いです。
何卒よろしくお願い申し上げます。
- - -
これはヘブンイレブンにもローソクにも断られてウチに回ってきたんだろう。添付のファイルを開けると、いささかヘヴィな希望が書いてあった。テレビのキー局がいくらか出して取材するなら話は別だが、名前も聞いたことのない出版社……? なのか何なのかわからない人たちに無料で取材をさせるほど業界は暇じゃない。――ウチのように、そんな業界の隙間をのらりくらりと生きながらえるような会社じゃなければ。
「舞浜グランドホテル店での取材を許可する予定です。つきましては、社員が出勤するシフトを教えてください。あとツダヌマAMにもシフトをきいておいてください。当日はAMとハラカミさんの二人に付いてもらう予定です」
私はツダヌマ君に電話をかけた。社用のスマートフォンには「エリア・マネージャー」の表示が出る。
「ハイ、ツダヌマです」会社の電話に出るときはたとえ私相手でもちゃんと出る。そこが好き。
そこがすき。
「へ?」
ああ、ちがうちがう、なんでもない。
「何でもないわけないでしょう。会社のケータイで無駄話するような人じゃないですよねハラカミさん」
うん、違うよ。いま、メール転送したんだけど。
「あ、じゃあ確認してかけ直しますよ」
すぐ、大丈夫かな。
「至急連絡ほしい感じですか」
たぶん、早めのほうがいいと思う。
「大丈夫ですよ。いまパッとメール確認して、すぐ折り返し……あーいや、スマホだからこのまま見られますね。つないでてください」
ツダヌマ君が隣にいたら、私はシャレのつもりで彼の手を握っていただろう。「そのつなぐじゃないから」「うん、そう思った」「『思った』ってなに」「そうツッコむと思った」「出た出たカヨコのまるっとお見通し」「急に名前で呼ぶなよな」「そっちも呼べばいいじゃんか」「ツダヌマ君」「名前で」「ヨシキ」「ふふ」「ちょ……笑わないでよ」妄想は水のようにつながったりはぐれたりして、脳みそのスライダーを転がり落ちていく。
「ハラカミさん、ハラカミさん」うっかりぼんやりしていたら、受話器がうるさくなっていた。
あーごめん。
「確認しましたよ」
面倒くさいね。
「このオフィス●●●●●って聞いたことないすね」
ね。
「あー……でも、出版元のカナザワ書店って『やねうら妖怪 ペコ』とか出してる出版社らしいですよ」
ああ、それちっちゃい頃に読んだことある。
「僕もです。だいたいの図書館とか児童館とかに置いてあるやつじゃないですか」
うん、そういうイメージある。いま調べたの?
「ええ、検索ワード入れたらサジェストされるくらいなんで、割と有名かも」
でさ、舞浜。
「ああ、そうですよね。統括案件なんですね」
うん。私もだし、ツダヌマ君もだって。
「統括とエリアマネージャーが両方出動するほどのことなんですかね」
なにそれ。会いたくない?
「いやいやいや。単純に、そんな手続きいっぱいあることなのかなって。僕ひとりでもできそうな用事な気がして」
会いたくない?
「違います、違います…………怒ってるの?」
ふふ。冗談。
「まったく。カヨコ、電話だと表情読めないからビビるよ」
終わったあと直帰じゃないかな。
「舞浜でご飯食べて帰りましょうか」――おっ、敬語にもどった。
ジェリーランド行っちゃう?
「あれ、ハラカミさんそんなにジェリーマウス好きでしたっけ」
うーん、いやあ、別に。でもほら、行ったら行ったで楽しいと思う。
「そうですね。仕事終わりの時間帯なら大人のデートって感じしますね」
大人ねえ……。
「まあ、シフト送りますんで、続きはお互い帰ったあと、ラインとかで話し合いましょう」
ツダヌマ君から彼と社員のシフトが送られてくる。取材にバイトは関わらせないから、舞浜店に社員が出勤する日をまず確認し、その中でエリアマネージャーのツダヌマ君と統括エリアマネージャーの私が舞浜に行ける日程を選んで本社に報告する。
「ではその日程の中から第3希望くらいまでこちらで指定して、先方に返信してください。できればホテルにより人がいない時間帯がいいのですが、把握できますか」
取材を受けるのは舞浜グランドホテルのロビーにある店舗だ。ホテルに泊まる人はほぼ全員が隣接する東京ジェリーランドに遊びに行くから、日中はがらんどうになる。本社もそこなら取材を受けられると踏んだらしい。ジェリーランドの反対側はうらさみしい海岸だ。私は夏の終わりの肌寒い風に揺られるパームツリーを想像して、少し萎えた。
(つづく)
- - -
ベンリーキング
ハラカミ様
お世話になっております。オフィス●●●●●のサカグチです。
それでは、m月d日のh時からうかがいます。
・店員のかた1名にお店での仕事のこと
・ハラカミ様とツダヌマ様に管理職や本社勤務のかたの仕事のこと
それぞれ取材させていただきます。
こちらは、カメラマン1名、私、上司のイシグロの3名でうかがいます。
では、当日はよろしくお願いいたします。
- - -
サカグチさんからはメールと、添付で簡単な台本じみたものが送られてきた。再びツダヌマ君に会ったのは、それから数日後だった。
「まさか、九州行く前の日になるとはね」
そうなの。こっちでは最後の仕事。
「じゃあ、打ち上げでやっぱりジェリーランドだね」
大人のデート、か。
「おとな?」
言い出したのはツダヌマ君なのに、おぼえてなかったのか。私は恨めしい視線を送る。
「な、なに」おそるおそる藪を分け入るような彼の目。
ううん。別に。
「家は、もう決めたの」
決めた。あなたと違って、ひとり暮らしだからいくらか簡単なの。
「……言わない約束だったよね、それは」彼は静かに憤った。
たしかに言わない約束だったけれど、口がすべったのは淋しさのせいだろうか。でもどこか、この話題を切り出すのが予定通りだったような気もする。
ごめんね。
「いや、わかるよ。気持ちは、わかるから」
実際問題、地理的に離れたら、気持ちも離れやすくなるだろうし。
「…………」
月2で会うってのも、私が福岡でどれくらい忙しくなるかもわからないし。
「そう、だなあ」
彼のいまのパートナーや、お互いの仕事。それを超える熱量でふたりが結びつかないなら、所詮それまでの関係だとなにも知らぬ人はいう。だけど、実際に社会で働いてみれば、小さき人間たる私たちの熱量は、常時360度全方位に向けてフル出力され続けていることに気がつく。ツダヌマ君の水滴のついた背中の愛おしさも、九州ブロックマネージャーへの昇進にも、私は同じだけの熱量を注いで生きている。24時間が短く感じるのも、夜テレビを観ながら寝落ちしちゃうのもきっとそのせいだ。とにかく、私はすべてに体当たりで生きている。まわし始めたエンジンのどれか一部分だけを、途中で止めることなんてできない。それらはたがいに連関し合って、不思議な歯車でつながっている。
でも、いびつかもしれないけど、お互いが納得いくまでこの関係は続けたいの。福岡行ったからって、ふたりの関係に手を抜くつもりはないから。
「わかってる」
うん……中洲のおいしい屋台ラーメン、探しておくから。
「それ、他の男と行っておいしかったとこ、とかだったら嫌だよ」
なに言ってんの。
ベッドサイドの白湯のはいったマグカップを引き寄せたら、持ち手がうまく指にかからず少しこぼれてしまった。もうすっかりぬるくなっている。
あー、ごめん。
「そのマグカップ、持ちづらいでしょ」
確かに。
「カヨコ、持ち方似てるんだよね」と自分もマグカップを持ってみせる。
「ほら、この持ち手だと持ちづらいでしょ。今度新しいの一緒に買いに行こう」
そういえば、昇進祝い、まだもらってなかったね。
九月の終わりの舞浜は、吹きすさぶ風のせいで気温以上の寒さを感じる。一番テンションの上がるグレーのパンツスーツは、うっかり先に福岡に送ってしまった。手元にあった夏用の黒いスーツでは、風が吹くたび足先が少し冷たい。ホテルの社用車駐車場に車を停めて早足でロビーに向かうと、大理石を模した柱にツダヌマ君が寄りかかって待っているのが見えた。
今日はお願いね。
「あ、ハラカミさん。お疲れ様です。先方はまだです」
受付を左に見ながら、通路の少し奥まったあたりで鈍く光る「ベンリーキング」のロゴマークに向かって歩く。やはり客はいない。
今日のシフトって……
「ヨモギダさんです。舞浜には月に何回か来てくれるので、勝手もわかってる感じです」
レジに立つ黒髪の女性が、会話を聞いているかのようなタイミングで私たちを見つけて目礼した。私も軽く頭を下げ、歩調を速めた。何度か見たことはある顔だ。セミロングで、顔が整っていて、「なぜコンビニなんです」という質問が何度か口から出かかったことがある。人当たりも悪くないし、今回の取材対応にはうってつけだった。
「こんにちは」ツダヌマ君が挨拶する。私も続く。
「こんにちは。取材、ですか。私なんかで……大丈夫でしょうか」
うんうん、大丈夫。「たいした取材じゃないからあなたでも」とうっかり言いかけて思いとどまる。あなたなら、任せられます。
「そうですかね」
サカグチさんたち一行が来るまでは十五分ほどあった。軽く打ち合わせればちょうどいい時間だ。要領がいい彼女は、ここに来るまでの時間でメールに添付した取材事項をさらっと読んできてくれていた。
「私、説明係なんですかね、それとも、モデルなんですかね」
どうだろう。もしモデルになることがあっても、頼めるかな。
「こんな格好ですけど……」
こんな格好って、うちの制服なんだけど。
「あ、すいません、いや、そういうことではなくてですね、全体的な見た目、というか」
わかるわかる、自分でいいのかってことでしょ。あなたが良ければ、お願い。
「何かあったら、僕もやりますから」ツダヌマ君がバックヤードからエプロンを持って出てきた。うちの制服はいまどき珍しくなった紺のエプロンだ。「ねえ、あの……ほら、」と背中でリボン結びをしながらこちらの会話に加わろうとして、手も口も中途半端になっている。
私は全体の進行管理をし、ヨモギダさんは制服着用で実際の店員として動く。ツダヌマ君はその中間で、制服を着ながら質問への補足をしたり、ヨモギダさんが答えに窮するような質問に答える。想定できるだけの流れを確認していると、外がわずかに騒がしくなっている。
「すみません、ハラカミ様、ツダヌマ様……」
グレーのジャケットにベージュのパンツの若い男がサカグチさんだった。後ろには腰のあたりに小さなクーラーバッグを抱えた白髪混じりの男性と、いちばん背の低い、でもいちばん「その手の」業界の人っぽい雰囲気の男性がいた。前者はカメラマンのなにがし、後者はイシグロであるとそれぞれあとで名乗った。
メールの内容で多少は感じていたが、向こうは向こうである程度この業界のことは勉強しているらしく、POSシステムの端末を撮りたいだの、ウォークインの飲料補充の手順を知りたいだのと、聞くことをまとめてきていた。思っていた以上にモデルを入れて撮りたいという要望が多く、ヨモギダさんが来るかもしれない客のためにレジに気を配っている間は、私も着慣れないエプロンを羽織って飲料を補充するふりをした。
サカグチさんは、こちらの返答に「はあ、はあ、あー、なるほど」など相づちを打ちながら、手持ちのクリップボードにシャカシャカ書き込んでいる。イシグロさんはその横で自分の着てきたジャケットを広げてカメラマンと話をしている。ガラス面の光の反射が気になるらしい。
「全体の画が欲しいんだったよね」
「そうです、お願いします」
「イシグロさん、ここもふさいでもらえますか」
「サカグチくん、次どこ」
こちらが考えていた以上に手際よく取材を遂行しようとしているのだと感じた。別にそこまでテキパキしなくてもいいのに。
――あの、レジ打ちのときの一連の流れを教えてもらえますか。
「あー、はい、まずはこのボタンを押しまして……はい、男性か女性か、あと年代ですね、見た感じで押して、あとは商品のバーコードを読み取ります」
ヨモギダさんとサカグチさんの肩ごしに、大きなレンズが出っ張ったり引っ込んだりしている。「ああ、いいんです、いまの指さしたまんまでお願いできますか」と言われて、ヨモギダさんがカチコチしながらボタンを指で示し、しばし微動だにしなかった。
――レジ台bの下には何が入っているんでしょう。
「袋はもちろんですが、お箸にスプーンにストローに、あとは料金支払いで使うものはこのカゴに入れてます、あとは……」
サカグチさんは少し大きくうなずいてメモをとる。イシグロさんはツダヌマ君と何やら話しているらしい。ヨモギダさんがカラーボールに手を伸ばすと、「あー、さすがにそれは小学生に教えなくてもいいかな、うーん、ちょっと物騒かもしれないですね」と頭をかきながら会話を終え、こちらにやってきた。
――すみません、今度は、管理されているかたのお仕事を少しうかがってもよろしいでしょうか。
私はヨモギダさんにレジを任せ、ツダヌマ君と取材クルーをバックヤードに入れた。狭くてどうしようもない空間に、どうにかサカグチさんを座らせる。上に乗っていた段ボール箱を脇に避けて持ってきたもうひとつの椅子をすすめると、「取材に応えるかたが」と言われて、仕方がなく私が座った。
「ちょっと僕、撮ったものの確認してくるから」とカメラマンが店の外に出ていく。
ツダヌマ君がグラスにお茶をいれて、サカグチさんとイシグロさんに出した。私と自分とにはバックヤードに置いてあるマグカップを使う。置き場所に困ったツダヌマ君は冷蔵庫の上にカップを置いた。
三つのカップが置かれた小さな机の上に申し訳なさそうにボイスレコーダーを置き、机のへりにクリップボードを立てかけると、サカグチさんが口を開いた。
――おふたりの肩書きと、主なお仕事を教えてください。名刺は拝見していますが、改めて。
はい。彼がツダヌマと言いまして、エリアマネージャーです。この舞浜を含む浦安市内の十五……十六だっけ? そっか、十六店舗のとりまとめをしています。売り上げや売れているものの傾向と対策、キャンペーンの調子なんかのデータを、先ほど取材していただいたPOSレジから集まった情報で把握して、各店の店長と話し合ったり、本部に報告したりします。私は統括エリアマネージャーで、それよりちょっと管理範囲が大きくなったものと思ってもらえればいいです。私は東京23区の東側から千葉の端っこを担当してます。
「明日からは、九州全体のブロックマネージャーに昇進するんですよ」
いいよ、余計なこと。
「そうなんですか」「おめでとうございます」今日会ったばかりの、なんの事情も知らない人から賛辞を送られたときの正しい反応が、三十うん年生きてきていまだにわからない。「ああ、どうも」と言葉は出ても、顔が気持ち悪くなってしまう。
そうしてさらに二十分くらい、私たちは取材に応じた。ときどきヨモギダさんがバックヤードのパソコンでデータ入力をしたり、商品の入った段ボールを運び出したりした。三人とも、「不思議な会社の人たちだと思っていたけど、意外とちゃんと取材させられてる」って、思ってるんだろうな。私は思っている。そのせいか緊張して、お茶を飲み切ってしまった。
「向こうでいれてきます」と4人のカップをツダヌマ君がどこからか持ってきた盆に乗せ一旦引き上げて、お茶のおかわりを注いで戻ってきた。
「おふたりのは間違えないようにしなくてはいけませんね、こちらがイシグロさんので、これがサカグチさん」
どうぞ、と彼はカップを置いてまた冷蔵庫の前にたたずむ。うっかり今日で彼としばしの別れだと忘れそうになっていた。仕事人ならそれでいいのかもしれないけど、私は私、そうもいかない。ため息が出そうになるのを堪えた。
サカグチさんのメモをとる間隔がしだいに長くなり、聞くことがそろそろ無くなってきたとわかる。「ちょっとカメラマンと話してきます」とイシグロさんもバックヤードを出て行ってしまった。
――それでは、
「それでは、これで取材は終わりです」と、言うのだとばかり思っていた。
(つづく)
ベンリーキング
ハラカミ様
お世話になっております。オフィス●●●●●のサカグチです。
それでは、m月d日のh時からうかがいます。
・店員のかた1名にお店での仕事のこと
・ハラカミ様とツダヌマ様に管理職や本社勤務のかたの仕事のこと
それぞれ取材させていただきます。
こちらは、カメラマン1名、私、上司のイシグロの3名でうかがいます。
では、当日はよろしくお願いいたします。
- - -
サカグチさんからはメールと、添付で簡単な台本じみたものが送られてきた。再びツダヌマ君に会ったのは、それから数日後だった。
「まさか、九州行く前の日になるとはね」
そうなの。こっちでは最後の仕事。
「じゃあ、打ち上げでやっぱりジェリーランドだね」
大人のデート、か。
「おとな?」
言い出したのはツダヌマ君なのに、おぼえてなかったのか。私は恨めしい視線を送る。
「な、なに」おそるおそる藪を分け入るような彼の目。
ううん。別に。
「家は、もう決めたの」
決めた。あなたと違って、ひとり暮らしだからいくらか簡単なの。
「……言わない約束だったよね、それは」彼は静かに憤った。
たしかに言わない約束だったけれど、口がすべったのは淋しさのせいだろうか。でもどこか、この話題を切り出すのが予定通りだったような気もする。
ごめんね。
「いや、わかるよ。気持ちは、わかるから」
実際問題、地理的に離れたら、気持ちも離れやすくなるだろうし。
「…………」
月2で会うってのも、私が福岡でどれくらい忙しくなるかもわからないし。
「そう、だなあ」
彼のいまのパートナーや、お互いの仕事。それを超える熱量でふたりが結びつかないなら、所詮それまでの関係だとなにも知らぬ人はいう。だけど、実際に社会で働いてみれば、小さき人間たる私たちの熱量は、常時360度全方位に向けてフル出力され続けていることに気がつく。ツダヌマ君の水滴のついた背中の愛おしさも、九州ブロックマネージャーへの昇進にも、私は同じだけの熱量を注いで生きている。24時間が短く感じるのも、夜テレビを観ながら寝落ちしちゃうのもきっとそのせいだ。とにかく、私はすべてに体当たりで生きている。まわし始めたエンジンのどれか一部分だけを、途中で止めることなんてできない。それらはたがいに連関し合って、不思議な歯車でつながっている。
でも、いびつかもしれないけど、お互いが納得いくまでこの関係は続けたいの。福岡行ったからって、ふたりの関係に手を抜くつもりはないから。
「わかってる」
うん……中洲のおいしい屋台ラーメン、探しておくから。
「それ、他の男と行っておいしかったとこ、とかだったら嫌だよ」
なに言ってんの。
ベッドサイドの白湯のはいったマグカップを引き寄せたら、持ち手がうまく指にかからず少しこぼれてしまった。もうすっかりぬるくなっている。
あー、ごめん。
「そのマグカップ、持ちづらいでしょ」
確かに。
「カヨコ、持ち方似てるんだよね」と自分もマグカップを持ってみせる。
「ほら、この持ち手だと持ちづらいでしょ。今度新しいの一緒に買いに行こう」
そういえば、昇進祝い、まだもらってなかったね。
九月の終わりの舞浜は、吹きすさぶ風のせいで気温以上の寒さを感じる。一番テンションの上がるグレーのパンツスーツは、うっかり先に福岡に送ってしまった。手元にあった夏用の黒いスーツでは、風が吹くたび足先が少し冷たい。ホテルの社用車駐車場に車を停めて早足でロビーに向かうと、大理石を模した柱にツダヌマ君が寄りかかって待っているのが見えた。
今日はお願いね。
「あ、ハラカミさん。お疲れ様です。先方はまだです」
受付を左に見ながら、通路の少し奥まったあたりで鈍く光る「ベンリーキング」のロゴマークに向かって歩く。やはり客はいない。
今日のシフトって……
「ヨモギダさんです。舞浜には月に何回か来てくれるので、勝手もわかってる感じです」
レジに立つ黒髪の女性が、会話を聞いているかのようなタイミングで私たちを見つけて目礼した。私も軽く頭を下げ、歩調を速めた。何度か見たことはある顔だ。セミロングで、顔が整っていて、「なぜコンビニなんです」という質問が何度か口から出かかったことがある。人当たりも悪くないし、今回の取材対応にはうってつけだった。
「こんにちは」ツダヌマ君が挨拶する。私も続く。
「こんにちは。取材、ですか。私なんかで……大丈夫でしょうか」
うんうん、大丈夫。「たいした取材じゃないからあなたでも」とうっかり言いかけて思いとどまる。あなたなら、任せられます。
「そうですかね」
サカグチさんたち一行が来るまでは十五分ほどあった。軽く打ち合わせればちょうどいい時間だ。要領がいい彼女は、ここに来るまでの時間でメールに添付した取材事項をさらっと読んできてくれていた。
「私、説明係なんですかね、それとも、モデルなんですかね」
どうだろう。もしモデルになることがあっても、頼めるかな。
「こんな格好ですけど……」
こんな格好って、うちの制服なんだけど。
「あ、すいません、いや、そういうことではなくてですね、全体的な見た目、というか」
わかるわかる、自分でいいのかってことでしょ。あなたが良ければ、お願い。
「何かあったら、僕もやりますから」ツダヌマ君がバックヤードからエプロンを持って出てきた。うちの制服はいまどき珍しくなった紺のエプロンだ。「ねえ、あの……ほら、」と背中でリボン結びをしながらこちらの会話に加わろうとして、手も口も中途半端になっている。
私は全体の進行管理をし、ヨモギダさんは制服着用で実際の店員として動く。ツダヌマ君はその中間で、制服を着ながら質問への補足をしたり、ヨモギダさんが答えに窮するような質問に答える。想定できるだけの流れを確認していると、外がわずかに騒がしくなっている。
「すみません、ハラカミ様、ツダヌマ様……」
グレーのジャケットにベージュのパンツの若い男がサカグチさんだった。後ろには腰のあたりに小さなクーラーバッグを抱えた白髪混じりの男性と、いちばん背の低い、でもいちばん「その手の」業界の人っぽい雰囲気の男性がいた。前者はカメラマンのなにがし、後者はイシグロであるとそれぞれあとで名乗った。
メールの内容で多少は感じていたが、向こうは向こうである程度この業界のことは勉強しているらしく、POSシステムの端末を撮りたいだの、ウォークインの飲料補充の手順を知りたいだのと、聞くことをまとめてきていた。思っていた以上にモデルを入れて撮りたいという要望が多く、ヨモギダさんが来るかもしれない客のためにレジに気を配っている間は、私も着慣れないエプロンを羽織って飲料を補充するふりをした。
サカグチさんは、こちらの返答に「はあ、はあ、あー、なるほど」など相づちを打ちながら、手持ちのクリップボードにシャカシャカ書き込んでいる。イシグロさんはその横で自分の着てきたジャケットを広げてカメラマンと話をしている。ガラス面の光の反射が気になるらしい。
「全体の画が欲しいんだったよね」
「そうです、お願いします」
「イシグロさん、ここもふさいでもらえますか」
「サカグチくん、次どこ」
こちらが考えていた以上に手際よく取材を遂行しようとしているのだと感じた。別にそこまでテキパキしなくてもいいのに。
――あの、レジ打ちのときの一連の流れを教えてもらえますか。
「あー、はい、まずはこのボタンを押しまして……はい、男性か女性か、あと年代ですね、見た感じで押して、あとは商品のバーコードを読み取ります」
ヨモギダさんとサカグチさんの肩ごしに、大きなレンズが出っ張ったり引っ込んだりしている。「ああ、いいんです、いまの指さしたまんまでお願いできますか」と言われて、ヨモギダさんがカチコチしながらボタンを指で示し、しばし微動だにしなかった。
――レジ台bの下には何が入っているんでしょう。
「袋はもちろんですが、お箸にスプーンにストローに、あとは料金支払いで使うものはこのカゴに入れてます、あとは……」
サカグチさんは少し大きくうなずいてメモをとる。イシグロさんはツダヌマ君と何やら話しているらしい。ヨモギダさんがカラーボールに手を伸ばすと、「あー、さすがにそれは小学生に教えなくてもいいかな、うーん、ちょっと物騒かもしれないですね」と頭をかきながら会話を終え、こちらにやってきた。
――すみません、今度は、管理されているかたのお仕事を少しうかがってもよろしいでしょうか。
私はヨモギダさんにレジを任せ、ツダヌマ君と取材クルーをバックヤードに入れた。狭くてどうしようもない空間に、どうにかサカグチさんを座らせる。上に乗っていた段ボール箱を脇に避けて持ってきたもうひとつの椅子をすすめると、「取材に応えるかたが」と言われて、仕方がなく私が座った。
「ちょっと僕、撮ったものの確認してくるから」とカメラマンが店の外に出ていく。
ツダヌマ君がグラスにお茶をいれて、サカグチさんとイシグロさんに出した。私と自分とにはバックヤードに置いてあるマグカップを使う。置き場所に困ったツダヌマ君は冷蔵庫の上にカップを置いた。
三つのカップが置かれた小さな机の上に申し訳なさそうにボイスレコーダーを置き、机のへりにクリップボードを立てかけると、サカグチさんが口を開いた。
――おふたりの肩書きと、主なお仕事を教えてください。名刺は拝見していますが、改めて。
はい。彼がツダヌマと言いまして、エリアマネージャーです。この舞浜を含む浦安市内の十五……十六だっけ? そっか、十六店舗のとりまとめをしています。売り上げや売れているものの傾向と対策、キャンペーンの調子なんかのデータを、先ほど取材していただいたPOSレジから集まった情報で把握して、各店の店長と話し合ったり、本部に報告したりします。私は統括エリアマネージャーで、それよりちょっと管理範囲が大きくなったものと思ってもらえればいいです。私は東京23区の東側から千葉の端っこを担当してます。
「明日からは、九州全体のブロックマネージャーに昇進するんですよ」
いいよ、余計なこと。
「そうなんですか」「おめでとうございます」今日会ったばかりの、なんの事情も知らない人から賛辞を送られたときの正しい反応が、三十うん年生きてきていまだにわからない。「ああ、どうも」と言葉は出ても、顔が気持ち悪くなってしまう。
そうしてさらに二十分くらい、私たちは取材に応じた。ときどきヨモギダさんがバックヤードのパソコンでデータ入力をしたり、商品の入った段ボールを運び出したりした。三人とも、「不思議な会社の人たちだと思っていたけど、意外とちゃんと取材させられてる」って、思ってるんだろうな。私は思っている。そのせいか緊張して、お茶を飲み切ってしまった。
「向こうでいれてきます」と4人のカップをツダヌマ君がどこからか持ってきた盆に乗せ一旦引き上げて、お茶のおかわりを注いで戻ってきた。
「おふたりのは間違えないようにしなくてはいけませんね、こちらがイシグロさんので、これがサカグチさん」
どうぞ、と彼はカップを置いてまた冷蔵庫の前にたたずむ。うっかり今日で彼としばしの別れだと忘れそうになっていた。仕事人ならそれでいいのかもしれないけど、私は私、そうもいかない。ため息が出そうになるのを堪えた。
サカグチさんのメモをとる間隔がしだいに長くなり、聞くことがそろそろ無くなってきたとわかる。「ちょっとカメラマンと話してきます」とイシグロさんもバックヤードを出て行ってしまった。
――それでは、
「それでは、これで取材は終わりです」と、言うのだとばかり思っていた。
(つづく)
――以上で取材は終わりなのですが……つかぬことを最後にうかがってもよろしいでしょうか。
はい、何でしょう。
――失礼ながら、おふたりは、恋仲……?
えっ。
「はっ」
息って、本当に飲めるんだなと思った。打ち合わせもなしに、ふたりで顔を見合わせて「いやいやそんな」という笑いをにじませた。
どうしてそんなふうに思ったんです。
――マグカップの持ち方が、
はっ。
「えっ」
打ち合わせもなしに、ふたりは一度にカップから手を離し、何にも触れていないと証明するように肩のあたりまで手を浮かせた。
――人差し指だけ持ち手に通して、ほかの指はマグカップに添えられてますよね。こんなこと言っちゃなんですが、非常に珍しい。
そうでしょうか。
――ええ、それに……マネージャーさんは、あ、いや、ええと
エリアマネージャーです。
――そう、エリアマネージャーさんは、カップを右手で。そして、統括マネー?
統括エリアマネージャーです
――そう、統括エリアマネージャーさんは、左手で持ってらっしゃる。確か、ペンやレジ打ちでは右手を使ってましたよね?
はい。
――これって向かい合ったときのエリアマネージャーさんの持ち方を見て、知らず知らずに身についたものだと思うんです。
…………。
――ミラー効果、の一種だと思われます。意外とあるんですよね。自分から見た右側、つまり左腕に時計をつけた母親を見ているうちに、自分は利き腕の右腕に時計をつける習慣ができたという女性に、以前話を伺ったことがあります。科学的根拠がどこまでのものかは何とも言えませんが、おそらく条件のひとつは相手に好意を抱いていること。そして、今回の場合……相手と長い時間、対面してマグカップを持つ機会があるということ。
私も、エリアマネージャーも呆然としていた。むろん、打ち合わせはしていない。
――子ども向けの本に、ここまでのインタビューは余計でしたね。詮索、失礼いたしました。しかし、余計ついでにひとつだけアドバイスするとしたら……
したら?
――思い残すくらいなら思い切ったほうがいいと、私は思います。私もこんな会社、あと三ヶ月くらいで辞めてやりますし。
「え、なんか言った?」
サカグチさんの上司、イシグロさんの声がどこからか聞こえてきたような気がした。
なんで知ってるの?
この言葉は私の口から出たのかどうか、自分でもわからない。でもサカグチさんは聞こえたかのようなことを言う。
――やはりそうでしたか? もしかしたらと思っていたのですが。すいませんね、取材対象の様子を注意深く見るクセがついているのかもしれません。
ツダヌマさんがお茶を注ぎ直してくれたときに、カップを目で追っていたのですが、最初ツダヌマさんのカップだったものを今はハラカミさんが、ハラカミさんのカップをツダヌマさんが使っているんですよ。そうしたことに気を配らなくていい間柄は、恋仲にしても相当深いものでいらっしゃるのかなと。
「思い切る、というのは」ツダヌマ君が思わず聞き返す。
――だって、明日から九州にいかれるんですよね? それから……
それから?
――すみません、ここまで喋ってしまったのでお許しくださいね。おふたりは揃いの指輪をしていない。それも、ツダヌマさんは左手薬指に、そしてハラカミさんは右手の薬指に指輪をされている。これはさすがにミラー効果とはいかないモノですよね? つまりご結婚されているのは……ツダヌマさんと、別のどなたか、と。
これも、取材……?
――ああ、いえ、大変出過ぎた真似をいたしました。恐れ入ります。コンビニ取材の素材につきましては活用させていただきますが、今のお話は……本当に申し訳ございません、お忘れになって
いいの。いいんだけど、最後の言葉、もう一回言ってもらえます?
――最後の言葉……。
思い残す……。
――ああ、「思い残すくらいなら、思い切ったほうがいい」ですか。すみません。年下の分際で。ただ私も就職試験の際に思い切れなくて失敗して、こんな謎の会社に入ってしまったものですから。
「いまなんつった?」またイシグロさんの声が聞こえるような気がした。
――では改めて、以上で取材は終わりです。本日はご協力いただき、本当にありがとうございました。
イルミネーションが点灯する前の、ギリギリの自然光。土日でも休前日でもない時間にどこからか湧き出た不可思議な客層。夕暮れの東京ジェリーランドは、ギリギリのところで私たちを現実に押しとどめ、簡単には夢へのゲートを開けてくれない。
「うちの社員も会社終わりにジェリーランド行くツアー使ってた人いましたよ」と、帰り際にサカグチさんが言っていたのを思い出す。雑誌編集者って激務じゃないのかな。それも数人のグループで行ったらしい。そんなアフター5をもぎ取るようにどうにか楽しもうという人が、この中にいっぱいいるのだろうか。
ゲートの向こうに人だかりができている。キャラクターでもいるのかな。それにしては横に広い人垣だ。
「チケット代は昇進祝いに入ってます」ツダヌマ君が背中に手を回した。
「さ、入ろ。中で二人に合うマグカップも探そう」
ゲートを通ると、奇妙な音がした。花束を持った係員に、ジェリーマウスとベティーマウスが近づいてくる。プルーイにグッピーにスネルドダック、リスのグーリとグーラもみんないる。なに、どういう風の吹き回し?
「みなさん、本日、東京ジェリーリゾートは7億7777万7777人目のゲストを迎え入れました!」
卒倒しそうだった。別にツダヌマ君が言うようにそんなにジェリーマウスが好きな訳ではない。九州行きの準備や現実を受け止める作業やツダヌマ君との最後の仕事、この先の生活の心配、そして今日の奇妙な取材……その全てがいま、ジェリーマウスの接近をきっかけに目の前でぐるぐる混ざり合って、疲れていたことを急に思い出したように、ぐらりときたのだった。
「おめでとうございます!」(コクコク)
「ジェリーマウスが何でも願いをひとつ、叶えてくれます!」(ブイッ!)
お姉さんの声に合わせてアクションするジェリーマウスをぼんやり見ながら、なんだか面倒なことになってしまったと気まずい思いがした。これってニュースとかになるんですか? なるんですよね。嫌だなァ、困ったなァ、職場にバレちゃうな。でも福岡オフィスの人のことはまだほぼ誰も知らないし。そうそう、だいいち明日私は福岡に旅立つ訳で。旅の恥はかき捨てで。あ、でもツダヌマ君が奥さんにバレたらヤバい……。
「さあ、ジェリーマウスにお願いを言ってください!」お姉さんの圧が強い。
「困ったことになったね」ツダヌマ君は笑っている。こいつ。自分の不倫がバレんだぞってのに、なんで無邪気な顔してんのさ。でもそんなこの人が好きなんだと、私はふと思い出す。
――思い残すくらいなら思い切ったほうがいいと、私は思います。私もこんな会社、あと三ヶ月くらいで辞めてやりますし。
「どうですか? お願いしたいこと、何かありませんか?」
私はジェリーマウスのほうを一度見て、次にツダヌマ君のほうを見た。――彼に頼むしか、ないよね。
私……私たちカップルの、証人になってください!
後日、証人欄の一方に「サカグチ」の署名と印鑑、そしてもう一方にネズミにしてはやたら大きくてふわふわした拇印が「ジェリーマウス」という小汚い字とともに捺された緑色の書類が、浦安市役所に提出された。
じき、同じふたりの名前と押印がなされたピンク色の書類も提出されることになるのだが、サカグチとジェリーマウスはまだそれを知らない。
はい、何でしょう。
――失礼ながら、おふたりは、恋仲……?
えっ。
「はっ」
息って、本当に飲めるんだなと思った。打ち合わせもなしに、ふたりで顔を見合わせて「いやいやそんな」という笑いをにじませた。
どうしてそんなふうに思ったんです。
――マグカップの持ち方が、
はっ。
「えっ」
打ち合わせもなしに、ふたりは一度にカップから手を離し、何にも触れていないと証明するように肩のあたりまで手を浮かせた。
――人差し指だけ持ち手に通して、ほかの指はマグカップに添えられてますよね。こんなこと言っちゃなんですが、非常に珍しい。
そうでしょうか。
――ええ、それに……マネージャーさんは、あ、いや、ええと
エリアマネージャーです。
――そう、エリアマネージャーさんは、カップを右手で。そして、統括マネー?
統括エリアマネージャーです
――そう、統括エリアマネージャーさんは、左手で持ってらっしゃる。確か、ペンやレジ打ちでは右手を使ってましたよね?
はい。
――これって向かい合ったときのエリアマネージャーさんの持ち方を見て、知らず知らずに身についたものだと思うんです。
…………。
――ミラー効果、の一種だと思われます。意外とあるんですよね。自分から見た右側、つまり左腕に時計をつけた母親を見ているうちに、自分は利き腕の右腕に時計をつける習慣ができたという女性に、以前話を伺ったことがあります。科学的根拠がどこまでのものかは何とも言えませんが、おそらく条件のひとつは相手に好意を抱いていること。そして、今回の場合……相手と長い時間、対面してマグカップを持つ機会があるということ。
私も、エリアマネージャーも呆然としていた。むろん、打ち合わせはしていない。
――子ども向けの本に、ここまでのインタビューは余計でしたね。詮索、失礼いたしました。しかし、余計ついでにひとつだけアドバイスするとしたら……
したら?
――思い残すくらいなら思い切ったほうがいいと、私は思います。私もこんな会社、あと三ヶ月くらいで辞めてやりますし。
「え、なんか言った?」
サカグチさんの上司、イシグロさんの声がどこからか聞こえてきたような気がした。
なんで知ってるの?
この言葉は私の口から出たのかどうか、自分でもわからない。でもサカグチさんは聞こえたかのようなことを言う。
――やはりそうでしたか? もしかしたらと思っていたのですが。すいませんね、取材対象の様子を注意深く見るクセがついているのかもしれません。
ツダヌマさんがお茶を注ぎ直してくれたときに、カップを目で追っていたのですが、最初ツダヌマさんのカップだったものを今はハラカミさんが、ハラカミさんのカップをツダヌマさんが使っているんですよ。そうしたことに気を配らなくていい間柄は、恋仲にしても相当深いものでいらっしゃるのかなと。
「思い切る、というのは」ツダヌマ君が思わず聞き返す。
――だって、明日から九州にいかれるんですよね? それから……
それから?
――すみません、ここまで喋ってしまったのでお許しくださいね。おふたりは揃いの指輪をしていない。それも、ツダヌマさんは左手薬指に、そしてハラカミさんは右手の薬指に指輪をされている。これはさすがにミラー効果とはいかないモノですよね? つまりご結婚されているのは……ツダヌマさんと、別のどなたか、と。
これも、取材……?
――ああ、いえ、大変出過ぎた真似をいたしました。恐れ入ります。コンビニ取材の素材につきましては活用させていただきますが、今のお話は……本当に申し訳ございません、お忘れになって
いいの。いいんだけど、最後の言葉、もう一回言ってもらえます?
――最後の言葉……。
思い残す……。
――ああ、「思い残すくらいなら、思い切ったほうがいい」ですか。すみません。年下の分際で。ただ私も就職試験の際に思い切れなくて失敗して、こんな謎の会社に入ってしまったものですから。
「いまなんつった?」またイシグロさんの声が聞こえるような気がした。
――では改めて、以上で取材は終わりです。本日はご協力いただき、本当にありがとうございました。
イルミネーションが点灯する前の、ギリギリの自然光。土日でも休前日でもない時間にどこからか湧き出た不可思議な客層。夕暮れの東京ジェリーランドは、ギリギリのところで私たちを現実に押しとどめ、簡単には夢へのゲートを開けてくれない。
「うちの社員も会社終わりにジェリーランド行くツアー使ってた人いましたよ」と、帰り際にサカグチさんが言っていたのを思い出す。雑誌編集者って激務じゃないのかな。それも数人のグループで行ったらしい。そんなアフター5をもぎ取るようにどうにか楽しもうという人が、この中にいっぱいいるのだろうか。
ゲートの向こうに人だかりができている。キャラクターでもいるのかな。それにしては横に広い人垣だ。
「チケット代は昇進祝いに入ってます」ツダヌマ君が背中に手を回した。
「さ、入ろ。中で二人に合うマグカップも探そう」
ゲートを通ると、奇妙な音がした。花束を持った係員に、ジェリーマウスとベティーマウスが近づいてくる。プルーイにグッピーにスネルドダック、リスのグーリとグーラもみんないる。なに、どういう風の吹き回し?
「みなさん、本日、東京ジェリーリゾートは7億7777万7777人目のゲストを迎え入れました!」
卒倒しそうだった。別にツダヌマ君が言うようにそんなにジェリーマウスが好きな訳ではない。九州行きの準備や現実を受け止める作業やツダヌマ君との最後の仕事、この先の生活の心配、そして今日の奇妙な取材……その全てがいま、ジェリーマウスの接近をきっかけに目の前でぐるぐる混ざり合って、疲れていたことを急に思い出したように、ぐらりときたのだった。
「おめでとうございます!」(コクコク)
「ジェリーマウスが何でも願いをひとつ、叶えてくれます!」(ブイッ!)
お姉さんの声に合わせてアクションするジェリーマウスをぼんやり見ながら、なんだか面倒なことになってしまったと気まずい思いがした。これってニュースとかになるんですか? なるんですよね。嫌だなァ、困ったなァ、職場にバレちゃうな。でも福岡オフィスの人のことはまだほぼ誰も知らないし。そうそう、だいいち明日私は福岡に旅立つ訳で。旅の恥はかき捨てで。あ、でもツダヌマ君が奥さんにバレたらヤバい……。
「さあ、ジェリーマウスにお願いを言ってください!」お姉さんの圧が強い。
「困ったことになったね」ツダヌマ君は笑っている。こいつ。自分の不倫がバレんだぞってのに、なんで無邪気な顔してんのさ。でもそんなこの人が好きなんだと、私はふと思い出す。
――思い残すくらいなら思い切ったほうがいいと、私は思います。私もこんな会社、あと三ヶ月くらいで辞めてやりますし。
「どうですか? お願いしたいこと、何かありませんか?」
私はジェリーマウスのほうを一度見て、次にツダヌマ君のほうを見た。――彼に頼むしか、ないよね。
私……私たちカップルの、証人になってください!
後日、証人欄の一方に「サカグチ」の署名と印鑑、そしてもう一方にネズミにしてはやたら大きくてふわふわした拇印が「ジェリーマウス」という小汚い字とともに捺された緑色の書類が、浦安市役所に提出された。
じき、同じふたりの名前と押印がなされたピンク色の書類も提出されることになるのだが、サカグチとジェリーマウスはまだそれを知らない。