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 その本のタイトルの意味を理解した瞬間、岬は心の中の波がざわめき立ってくる感覚を覚えていた。
 いつもなら、タイトルを目にして考えることといえば、その言葉の響きの良し悪しだったり、どんな内容か想像することだったが、今まで体験したことのない衝撃に、岬は戸惑いを隠せないどころか、明らかに取り乱してしまっていた。そして、言葉にならない音を口から漏らして、岬は図書室から駆け出て行くのだった。

 どうして水湊ちゃんは、あんなタイトルの本を選んだのだろう? どうして、あんなにも笑顔で差し出してきたのだろう?
 岬は、家に帰ってからのいつものルーティーンをこなせない自分を認識しつつも、それをどうにかしようという気にさえなれずにいた。ただ、迷い、あるいは後悔といった感情が自分の中で揺蕩っているのは分かった。水湊ちゃんは笑顔だったんだから、きっと良い本だから読んでみて、という自分への親切心から『僕は上手にしゃべれない』を紹介してくれただけだったと思うのに、その差し出す手に応えられなかったのは、本当にいけないことではなかっただろうか。水湊ちゃんは六年生なのに。自分達が一緒にいられる夏休みは、これが最初で最後だったのかもしれないのに。
 玄関の戸が開いて、閉まって、母親が帰ってきたのを理解した後も、岬はどうにも部屋から出る気になれなかった。夏の空から明色が消えて、部屋を照らすことの決してない星々のみになっても、人工的な明かりを点けようと体が反応することもなかった。このままずうっと、窓際で体育座りをしているのかもしれない、と思った途端にスイッチの押された音がして、音の方には祖父の姿があった。
 もう夕食の時間だという。岬は、そうだよねと思っただけだった。食欲もあまりないのだった。祖父は、岬が部屋で本を読んでいないことに驚いている、というような音を発していた。岬は、確かに私ここにいる時は寝る時以外本を読んでいる、と祖父の言葉により思い至った。祖父は、岬がいつもどおりに行動しなかったことや、夕食の時間になっても居間に来なかったことよりも、それをもっとも心配している様子だった。
 今日は図書室で本を借りてこなかったのか? と祖父は音を発した。なんだか核心を突かれた気がして、岬はなお押し黙った。ただ、小さく一つ頷いた。祖父はしばらく沈黙してから、来週も行ったらどうだ、とだけ言って、部屋の前から姿を消した。
 うん、と岬は独りの部屋で大きく頷いて、電気を自分の手で消して居間に向かって歩いて行った。

 図書室には誰もいなかった。時間が早かっただろうか、と岬は壁付きの時計を見る。午前十時を回ったところで、いつもの時間だった。早くも遅くもない、と思った。
 水湊ちゃんがいない。岬はその事実が怖くて仕方がなかった。この一週間、ずっと想像していた最悪の予感が的中してしまったのではと、心が引き絞らる思いがしていた。
 外の校庭では、暑い中時間を持て余した生徒が集まってなにか遊んでいる声がした。岬にとって、窓一枚隔てた向こう側は遠い宇宙だった。船外作業をしていたら、何の前触れもなく小隕石かデブリのようなものが飛んできて、宇宙船と自分とを繋ぐ命綱を切断した。そして私は、この広い宇宙の中、放り出されてしまった。岬はついそんな想像をしながら、今にも涙が滲んできそうな表情を浮かべながら、早足で本棚を確認しようとした。とにかく、今のこの気持ちから解放されたい一心だった。
 あ、と岬の口から音が溢れた。『僕は上手にしゃべれない』が本棚にささっていた。心臓の鼓動が大きくなったのが分かった。これを引き抜かないとどうにもならないような気がして仕方なかったのだった。大きく深呼吸をしてから、岬は意を決してその本を棚から解放した。
 椅子に座って、岬は努めて冷静に本の表紙を開いた。私はこの本を読まないといけない、読まないとこの感情の正体が分からない、と半ば自己暗示をかけて向き合おうとした。

“あなたへ”

 表紙を開いた見返しのところに、折り畳まれたメモ用紙が挟まれていた。“あなた”は“私”? 不思議と岬にはそう思えた。水湊ちゃんに違いない、これを書いたのは。そう確信していた。何の疑いも持たなかった。
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