<五年前>
「貴方に会えてよかった」
俺の隣の彼女は、いつも通り、やや低めのハスキーボイスでそう言った。恥ずかしそうな様子を、少しとも見せないで。
「どうしたの、いきなり」
小さい頃から低い、ダンディだ、カッコいい、なんて評価を受けてきた俺の声は、そう返事する。
「だって、そう思ったから」
「理由になってないなぁ」
「理由が必要なことなんて、ないよ。きっと」
「……そうかな」
「あっても、言葉にできないものだよ。多分」
「それは、まぁ、そうだね」
小さなことを否定するにも持ち出される、彼女らしい思想はよく言えば幻想的、普通に言えば幼稚だった。悪くは言わない。
彼女のそういう哲学は、嫌いではない。それは彼女の顔や性格同様、とても純粋で美しかったから。
「また、二人で見たい。こういう景色」
「俺も」
堤防に腰を下ろして、海に沈む夕日を眺めていた。言葉にすればありがちな、いとも簡単に頭に浮かぶ光景だが、実際に見てありがちと思うような要素は無かった。
海面で乱反射する陽の光は幾千の宝石より綺麗だったし、潮の匂いは意外と強く鼻腔をくすぐるし、何よりここに座る俺と彼女がそうだった。俺たちははぐれ者だったけど平凡で、またその逆で、俺は俺で、彼女は彼女だったからだ。
こんな光景を誰かとこんな気持ちで見ることなんて、一生無いと思っていた。俺には幸せさえ来ないと思っていたから。
「好きだよ」
「俺もだ」
「好き同士だね」
「……まぁね」
記憶力がよく気も利くのだが、時折頭が弱いのも、彼女の魅力と言えなくもない。
「それなのに、別れるんだよね」
「………」
返事はせず、事も無げに俺は目を伏せて、後ろで彼女の艶のある髪をまとめた束と、うなじを見ていた。彼女の白い肌を夕日がライトアップして、うぶ毛はうっすらと輝いて、それは呆れるほど綺麗だった。
恐ろしく時間の流れが遅い。つまらないわけじゃない。凄まじいまでに濃密な、心に静かに渦巻く感情が、頭を巡る意味の有無を問わない言葉の奔流がそう感じさせていた。
やがて日が暮れて、夜の帳が空に染み込んでいくのを尻目に、俺は腰を上げた。
「……君の肌の下に
流れていたあれは
全て嘘だったの
分からないままでいい
失った
失ったの 何かを」
彼女の囁くような歌が、俺の肩に手を置くように寄りかかった。
俺の心に現れた彼女はまるで、人気の途絶えた廃工場に舞い降りた天使だった。最初から最後までそうだった。
……お互いに違う道を進むのは、仕方の無いことだ。いつかこんな気持ちさえもきっと、消えてしまう。一時の感情で人生を捨てるのはやめよう。まだ若いのだから。こんな、足枷にしかならないような関係。
全て幼い、そして拙い言い訳。当然だ。自分自身を納得させるための、取ってつけた理由なのだから。でも俺たちは話し合って、お互いそういうことにした。
「さよなら」
彼女はいつも、別れ際は「またね」と言っていた。
俺は何も言わないで、僅かな申し訳なさを含んだ笑みを浮かべて彼女を見た。彼女は潤んだ瞳と、聖母のような微笑みで俺と視線を結んだ。どうしてこの糸を切らねばならないのだろう。思わずそんな疑問を抱くような。
遠くに聞こえる汽笛の音が、そのとき妙に耳に残った。