ナイトメア

　朝、いつものように目が覚めて、朝日のまぶしさに目が覚めます。
重たい瞼を無理やり開いて、伸びをしてから身体を起こすと、また更に伸びをして、
半目のままぼうっと机の上を見ます。
　昨日のことが夢のように思えて、睡眠をとって頭の中が少しすっきりした気がします。
開けた窓から涼しい風が気持ちよく、お昼になればもっと気温が上がるでしょう。
　いつものように顔を洗って着替えながら、脳内で業務の整理をして、
昨日、ほとんど1日いなかった分を取り戻すためにスケジュールを組み立てます。
たまった書類を片付けて、街に出て行きたいし、
ジョージや、少年のお墓参りもしたいところです。

　まずは朝食です。
きっと、昨日のことについてまた王が円卓に色々と情報提供をすることでしょう。
　ここ数日のことが、やっと解決に向かうと胸をなでおろしてグレートホールに向かいます。
食事が始まって、ディルトレイが昨日の報告をすると、
解決するとほっとしていたのはゼルとキシェだけのようで、
他のメンバーは微妙な顔をしています。

「貴族とラファエルは処分されないのですか。
　薬を盗み出した上、我々の国民を1人犠牲にしたのです。」

女騎士がむすっとして質問すると、王はわかっている風に微笑みます。

「そうだね、まずラファエルという青年は、なかなか面白い立場のようで、
　こちらを追放してしまうと貴族がへそを曲げる可能性があるようだ。
　もちろん、貴族を確実な証拠なく処分してしまっても他の貴族の反発を買う。
　そうなると、簡単に処罰を、というわけにはいかないと。
　帝国に限っては貴族を下手に敵に回すと国政に支障が出る。」
「ロストールはもっと皇帝の権力が強いと思っていました。」
「そうだね、イーギルのような印象を持つ者は多いよ。
　だが、元々12もの貴族が牛耳っていたというのに、
　数年の間でクーデターなく半分の数に減らしているのは、
　やはり我が友人ながら皇帝は恐ろしい。」

　王はそういいながらもまるで恐ろしくなさそうに笑います。

「いつかイースも取込まれてしまうかもしれないね。」
「絶対そうはさせませんよ。」

王子は心から不愉快そうに顔をゆがめます。
王はその一言にとてもうれしそうにして、目を合わせない王子を見ます。

「そうか。では早く私を越えてもらいたいので、
　今日はイグジクトに仕事を任せよう」
「はあ！？」

　イグジクトは大きく体をねじってディルトレイを見ます。

「き、昨日もフォローしたのに！」
「いや、助かるよイグジクト。」

　げんなりした顔のイグジクトに、シーシアは大笑いしています。
朝から笑い声の響くグレートホールで、ゼルはなんだか嬉しくなりました。
　帝国行きを勧める人も、緑の目を狙われる心配もほとんどありません。
黒い影が現れる前の空気感が戻ってきて、やっと色々な緊張がほぐれた気がして、
ここ数日どこかもやもやとした気分だったのが晴れやかです。
　朝食を食べ終わって、作業部屋へ向かう足取りは心なしか軽いものでした。

ゼルは、黒い影が現れる前の、いつもの日常に戻ることができたのです。


夜になるまでは。

＊＊＊＊＊


　ゲオルギウスは夕方、着替えのために自分の部屋に向かっていました。
天気の良い中、兵士たちの訓練に参加しているだけで汗だくになってしまい、
夜の業務の前に着替えてしまおうと思ったのです。
　自分の部屋のカギを開けて部屋に入ろうとしたとき、近寄る気配に振り向くと、
身体を押されて押し倒されながら部屋に入ります。
ドアが閉まると、自分に馬乗りになっている相手をやっと見ることができます。

「ラファエル！」

　いつものように、珊瑚色の唇を閉じたまま釣り上げて、
蠱惑的な笑みで見下ろしてきています。

「今はおまえに構っている余裕なんてないぞ」
「ゲオルギウス、お願いがあるんだ。聞いてくれる？」
「だからそんな余裕なんて」

　ラファエルは白い指をたくましい胸に這わせて、相手の顔の横に手をつくと、
覆いかぶさるように身体をくっつけて、
ゲオルギウスは顔を遠ざけるように顔を横に逸らせますが、
鼻と鼻が付くほどに顔を近づけてくるので、
天蓋のようにラファエルの髪が2人の顔を囲います。

「ね、聞いてよ、どうせ急ぎの用なんてないでしょう？」
「そういう問題じゃない、ほら、どいてくれ。」
「イースを潰してほしいんだ」
「何を言っ」

　言い終わる前に唇が重なって、ラファエルの舌が口の中に入ってきます。
ゲオルギウスはラファエルの服を引っ張って抵抗しますが、
ガリッと音がして飴の欠片がいくつも口の中に入ってきて、
どんどん溶けていくのを感じると同時に、甘ったるい覚えのある香りに嫌な予感がします。
　身体ごと引き剝がそうにも、頭をがっしりとつかまれていて、顔を離すことができません。
数十秒の長いキスののち、はあ、と吐息とともにやっと顔が離れます。

「おいしかった？」
「い、今」

青ざめているゲオルギウスに、こちらを見下ろす恍惚とした表情が見えます。

「薬の摂取から数分で薬は回る、きみならきっと数十分は掛かる」
「何をする気だ」
「僕と、いいことしよう？ゲオルギウス。」

　ラファエルはどこからか取り出した赤い小瓶を一気に飲み干して、
また、キスをするのでした。


＊＊＊＊＊＊

　そうして、１時間半程が経った頃でしょうか。
夕食の時間だというのに姿を見せないラファエルを心配して、
リエルが教会の敷地中を探し回っていました。
　夕日の入る大聖堂に探しに来た時、大聖堂のステンドグラスの下、
聖書を題材とした聖人たちの、筋肉や布のしわまで再現された彫刻の、
足元にある司教座に縋りつくように上半身を座面に乗せて、
腕を枕にして伏せているラファエルを見つけます。

「ラファエル！」

　リエルは走って側にしゃがむと背中に手を添えます。
すると、ラファエルは頭を重たそうに上げると、
その姿を見て嬉しそうに閉じていた目を細めます。

「どこへ行っていたのです、もう夕食の…」

　よく見れば、いつも首元に結んでいるリボンはなく、
ワイシャツは前を開け放していて素肌が見えていて、ズボンのボタンも閉じず、
裸足でだらしない格好をしているのに驚いて、
顔を覗き込むようにして目を合わせます。

「どうしたのです、なにかあったのですか。」
「ゲオルギウスに、イースを潰してほしいってお願いしたんだ」
「え？」
「最後の薬を使って」

　リエルは理解できなくて、困った顔をしているのに、
当の本人はいつもの涼しい顔をしているように見えます。
でも、その声はかすれて本当に本当に小さくて、今にも消えてしまいそうです。

「ら、ラファエル、そんな」
「もう軍は動く。」

ラファエルは自分の腕で顔を埋めてしまいます。
リエルは絶望的な顔で首を振って言葉を失って、優しい力で肩をがしりと掴みます。

「ラファエル、貴方は言っていたじゃないですか。
　ゼル様はきっと緑目狩りで故郷を失ってるって。
　今度は貴方がゼル様の故郷を奪うつもりですか！」

　声が大聖堂に響きます。
　ラファエルは少しも動きません。
　反響が落ち着いて、リエルは悲しい顔になって手を胸の前で組んで、
自分の心を落ち着かせるようにお祈りの言葉をつぶやきます。

「大司教様に、報告しなければ…」

　自分のすべきことを言い聞かせて立ち上がると、
スカートを掴まれているのに気が付き、しゃがんで手を握ります。

「ラファエル、待っていてください、ここで。
　すぐに、すぐに戻ってきますから。」

　返事はなく、スカートから手が離れます。
リエルは優しくハグをして、大急ぎで大聖堂から出ます。
夕闇迫るロストールはどこか薄気味悪く感じます。

「シスター」

大司教のいるところまで走りだそうとしたとこに、低い声が自分を呼び止めます。
きょろきょろと周りを見回すと、彫刻の深い影の側から皇帝が歩いてくるのが見えます。

「こ、皇帝陛下、ごきげんよう」
「シスター、馬に乗れるな？」
「えっ」

皇帝は金装飾の手紙を差し出してきます。

「イースに持っていけ。」

　返事もできないまま両手でそっと手紙を受け取って、
きちんと押された深紅の封蝋を見つめ、泣きそうな顔で勢いよく皇帝の顔を見ます。

「あの、皇帝陛下、大聖堂にラファエルが、それで」
「状況は大体わかっている。あいつは放っておけ。自殺する度胸は無い。」

　真っ赤な夕日が皇帝を照らし、大聖堂の影がまるでその権力を示しているように、
深く、大きく伸びています。
眉ひとつ動かさずに見つめられているリエルは、
すっかり気圧されて手紙を握ったまま固まります。

「教会の正門に馬がいる。行け。」
「は、は、はい！」

　怯えた様子で、それでもはっきりと返事をして、リエルは門に走っていきます。
その姿を見送って、顔を正面に向けたまま、皇帝はニヤリとします。

「さて、貴様はどう動く？」

振り返った視線の先には、真っ青な鎧兜に、大きな戦斧ハルバードを持った大男が
影から現れたのでした。


　リエルは手紙を落とさないよう胸元にしまい込みながら走っていくと、
教会の門の横に真っ黒な馬が繋がれているのを見つけます。
　額には縦にした目のような記号が、身体には蛇が身体を這うような模様が
白い塗料で描かれていて、淡く光を放っているように見えます。
まるで自分の背に乗るように言っているようにこちらを見てくるので、
きちんと手入れされた鞍をまたぐと、また胸の前で指を組んで、瞳を閉じて、
祈りの言葉をつぶやき、天を仰ぎます。
　ふう、と息をつくと足に力を入れると青毛の馬はいなないて、力強く走り始めます。
城門を出たとき、瞳に映ったのは隊列を組んで数千の兵が進軍を始めたところでした。

　彼らは、恐ろしい人数で他国に攻め込もうとしていることは、
火を見るよりも明らかです。
リエルは恐怖心と戦いながら、その横を風のように走り抜け、イースへ向かいます。

少しでも早く、
少しでも。

　普通の馬なら駆歩をすると30分ほどで休憩が必要ですが、
皇帝の用意した馬は、無限の力を得たようにぐんぐん速度を上げていきます。
常歩で進む兵士たちの姿は小さくなって、
このままいけば2時間ほど差をつけてイースに到着することができそうです。

　夕日が落ちていく姿を見ながら、リエルはこのまま夜になった時、
魔物たちに襲われるのではないかと不安になります。
自分はもちろん丸腰で、鞍に差し込んである短剣だけで
対処しなければならないかもしれません。
　さらに夜になれば方角もわかりずらくなります。
星を読んで方角を決めるということは、
旅に慣れていないリエルにとって難しいことでした。
　でも、不思議なことに魔物たちはこちらを見てくるだけで、
襲い掛かってくることはなく、
もう一つ不思議なことに、方角があいまいなまま走り始めたというのに、
馬がきちんとイースのほうに向かってくれました。

　草原を走り、森を駆け抜け、馬車道に出たら道を曲がって、
やがて、ざわざわと風に揺られる麦畑が見えてきて、荒らさないよう突き抜けると
十六夜の月の下、街に入る城門がすっかり閉じられているのが見えます。
　ゆっくり馬の速度を落として、城門の直前で胸元から手紙を取り出し、
止まった馬の額に自分の額を当てて御礼をいうと、
くるりと振り返って握った手で城門を強く叩きます。

「開けてください！非常事態をお伝えすべく参りました！
　わたくしは帝国ロストールのシスター、ガブリエルです！
　お願いです！」

叫び声を上げるように大きな声をあげて、力いっぱいに門を叩くと、
汗だくのシスターをみて驚いた様子の兵士が、門の上の小さな窓から
声を駆けてきます。

「どうされましたか。」
「たくさんの、帝国の兵士がこちらに進軍しています！
　お願いです、この手紙を国王に、皇帝からのお手紙なのです！」

兵士は中のほうにいる他の兵士と顔を見合わせてから、
先ほどと変わらないトーンで見下ろしてきます。

「申し訳ありませんが、明日出直してください。」
「いいえ、今でなくてはいけません！このお手紙を、国王にお渡しください！」
「先日お手紙を頂戴した際は、ちゃんと皇帝陛下直属の兵がお届け下さいました。
　神にお仕えされている方といえど信じるわけにはいきません。」

リエルは首が取れそうなほどに振って、門からちっとも離れずに食い下がります。

「お願いです、信じてください！
　ゼル様に、ゼル様にお伝えください、ゼル様ならわたくしのことがわかります！
　ガブリエルが来たと、緊急事態だと！」

必死の形相のシスターに思うところがあったのか、
また兵士が中にいる兵士たちと相談をしている様子がうかがえた後、

「その場でお待ちください」

と声が降ってきました。
　リエルは少しだけ門から下がると、両足を地面について目を閉じて、
手を握ってまた神に祈ります。

「ああ、神よ、神よ、どうかわたくしの真心をお届けください」

兵士は騎士に報告すべく、騎士がおそらくいるであろう兵舎に向かいます。
兵舎の外では、マージュが若い女兵士に剣技を教えている姿がありました。

「マージュ様、お話してもよろしいでしょうか！」
「少し待て。
　…今日のところはもういい。うん、とても動きが身についてきた、
　あしたもこの動きを忘れずに訓練に参加するといい。」
「はい！ありがとうございました！」

女兵士は嬉しそうに深くお辞儀をして、兵舎に戻っていきます。
マージュはくるりとこちらに向き直ります。

「話せ。」
「ありがとうございます。
　今、ロストールから来たという、ガブリエルと名乗るシスターが、
　皇帝陛下の手紙を持ってきたと城門を叩いております。」
「皇帝の手紙を？何故シスターが。」
「はい、なんだか帝国が進軍しているとかなんとか言っていて…
　虚言の可能性もあるとは思うのですが。」
「帝国の進軍だと？」

　マージュの眉間のしわが深くなります。
何故進軍を？何のために？だが、虚言だとしたらそのシスターの目的は？
ぐるぐると疑問が頭を回ります。

「さらに、その者はゼル様なら自分を知っていると申していまして…」
「…わかった。縛って城の前まで連れてこい。」
「かしこまりました。」

　マージュは厳しい表情のまま、大急ぎでディルトレイの執務室に向かいます。
ノックをすると中から声が聞こえ、扉を開くとどうやらシーシアと談話をしていたようでした。
右から本棚をぐるりと回ってひざまずいて、兵士の報告をそのまま伝えます。

「何故シスターが手紙を持ってきたのかはわかりません。
　ただ、ゼルの名前が出ているのが気になります。」
「…ふむ」

　ディルトレイは腕を組んで思考を巡らせています。
シーシアまで眉間にしわをよせて深刻な顔で顎に手を当てています。

「昨日の今日で進軍してくる理由が見当たらないわ。
　虚言にしては大げさすぎる。」
「…そうだね。昨日、皇帝と話していてもそんな様子はなかった。
　シスターはどこに？」
「城の外まで連れてくるよう伝えています。」
「分かった。ではゼルを会わせよう。
　手紙を預かったらグレートホールに持ってきてくれるかな、マージュ。」
「かしこまりました。」
「緊急会議を行おう。シーシア、円卓を集めてほしい。」
「ええ、分かったわ。」

　一礼して王の執務室を出ると、次にゼルの作業室に向かいます。
作業室に到着すると、ノックもせずにドアを開けます。
中には、机に向かって書類を必死に書いているゼルの姿がありました。

「ゼル、ガブリエルという女を知っているか。」
「はい、オレンジの髪の帝国のシスターなら。」
「…わかった。なぜかそのシスターがこんな時間にイースに来ている。
　会ってほしい。」
「ええっ！わ、わかりました」

　目をまん丸にして驚いてペンを置くと、
すぐに立ち上がって椅子に掛けていたジャケットを着て出かけられるようにします。
　マージュはそのままドアを開けてゼルを部屋から出し、
一緒に小走りでお城のエントランスのほうへ向かいます。
お城の前で待っていると、しばらくして身体と手首を縄で縛られた状態のリエルが、
数人の兵士に囲まれてやってきました。

「ゼル様！」

リエルは兵士たちに肩を押されて膝をつき、ゼルが駆け寄り膝をつきます。
マージュは、兵士から受け取った皇帝の手紙をいぶかしげに確認します。

「ゼル様、ああ、お会いできてよかった！」
「ゼル、わかるか。」
「はい、昨日帝国へ行った時に、教会を案内してくれたのがこの方です。
　…リエルさん、何があったのですか？」
「ラファエルが…」

言葉に詰まってうつむいて、次の言葉を探したリエルは決心したように
ゼルの顔を見上げて、悲しそうな顔をします。

「ラファエルが、薬を使って将軍を操り、兵士をイースに進軍させました。」

ゼルは言葉を失って、絶望的な顔で固まっていると、
マージュが側に歩いてくると、真顔で立ったままリエルを見下ろします。

「その情報、確かか」
「はい、神に誓って、嘘など申し上げません。
　皇帝陛下はこのことを把握し、私に手紙を託しました。」
「わかった。だが私は騎士としてその言葉のすべてを信じることはできない。
　悪いが一度牢に入ってもらう。
　だが手紙は我が王に間違いなく渡すことを、おまえたちの神に誓おう。」
「構いません。ご慈悲に感謝いたします。」

　マージュが頷いているのをみて、今度は固まっているゼルに顔を向けます。
ゼルはそれに気づいて、目を合わせます。

「ゼル様、申し訳ありません。
　わたくしがラファエルの側にいたらこんなことにはならなかったのです。」

ゼルは軽く首を振って、相手を安心させるように肩に触れます。

「いえ、ラファエルは貴女が側にいようとこうしたでしょう。
　ご自身を責めないでください。」
「ありがとうございます、でも、ラファエルは必死だったのです。
　わたくしは、彼がどれほど貴方を想っていたのか知っています。」
「はい…はい。」

エメラルドグリーンの温かい瞳に、リエルはほろほろと涙を流しはじめます。

「リエルさん、ここからは自分たちがどうにかします。
　しばらく冷たい牢に居させることになりますが、待っていてください。」

何度も何度も頷いているリエルに微笑みかけて、ゼルは立ち上がり、
凛と立つマージュとアイコンタクトを取ります。

「はい。リエルさん、また後で。」
「ええ、ゼル様に神のご加護があらんことを！」

足早に立ち去っていく2人に、リエルの言葉が追いかけます。
グレートホールに着いた頃には、円卓全員が集まっていました。