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静と動

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 ゼルはひんやりとした夜の空気のなかを、転びそうになりながら走ります。
孤児院や講堂を構えた教会の敷地は思っていたよりも広く、
色々な建物に施された彫刻や、影から何かが自分を見ている気がしてきます。

 息を切らして大聖堂にたどり着くと、力いっぱいに扉に体重をかけます。
普通ならばきっと、もうカギが閉まっている時間だというのに、
ぎぎ、ときしむ音を立ててゆっくり扉が開きます。

 扉を開け放したまま中に入ると、一番奥の司教座のあたりには蝋燭がいくつも灯っていて、
ゼルの早歩き気味の足音が大聖堂中に響き、反響し、臆することなく進みます。
昼のように、ステンドグラスから落ちる光も見えませんし、
深い影の落ちている聖人たちの微笑みは、心なしか悲しそうに見えます。
 数段高くなっている司教座には、見覚えのある姿がひじ掛けに寄りかかって、
糸の切られた操り人形のように斜めになりながら、片足を立てて座っています。
 ワイシャツはぐしゃぐしゃで大きく開いていて、不健康なほどに白い肌が見えています。

「ジルベール」

 名前を呼ばれた相手は、いつものように口を開かずににんまりと笑います。
でも、ゼルは真顔のままです。

「イース、なくなったの?」
「なくなってない。」
「そ。」

 蝋燭の火がゆらゆらと揺れて、2人の顔を照らします。
灰色の瞳には、しかめっ面のゼルが映っているのに、
まるで、王子様が迎えに来たお姫様のようなうっとりとした表情です。

「また会えて嬉しいな。」
「ジルベール、質問がある。」
「…いいよ。」

 大きなため息をついて、初めて重力を感じたかのように
重たそうに身体をうごかして司教座に座りなおします。

「どうして、ゲオルギウス将軍を操ってまで軍を動かしたの」
「イースがなくなれば、ゼルは住むところがなくなるからだよ」
「そうまでして、この国に呼びたかったの」
「そう。」
「どうして?」

 ゼルは歯を食いしばって、自分の気持ちを落ち着けようとします。

「あの少年は身体をボロボロにして死に、ジョージさんは責任感から自殺して、」

 落ち着かせなければ、という気持ちとは裏腹に、
言葉がどんどん早口になり、自分でも感情が高ぶるのを感じます。

「今もこうして戦いが起こって、
 どちらの国の兵も怪我したり野垂れ死にしていっているのに、
 ジルベールは何とも思わないのか!」

 怒号が大聖堂中に響き渡って、耳がキーンとします。
強く握られた拳が震えているのが自分でもわかります。
頭に血が上って、顔が熱くなるのを感じます。
 不愉快そうな顔で、冷たい瞳をして首をかしげ、
ぽってりとした唇を重たそうに動かします。

「思うよ、でも、こうでもしないとゼルに会えないもの。」
「他に方法はいっぱいあったはずだ、人を操ったりしなくたって」
「じゃあ僕はどうすればよかったと思う?」

ついに、ラファエルもいらだった顔になって、
背もたれに預けていた身体を起こして口調が強くなります。

「ゼルがあの時僕を連れて行ってくれたらこうはならなかった」
「違う、差し伸べた手を掴まなかったのはジルベールのほうだ。」
「そうだ、僕は君の手を握らなかった!そして後悔した!」

 やけになって食ってかかるようにラファエルが反論し、
彼もまた、声がだんだんと大きく、早口になります。

「だからゼルを探すために貴族に身体を売ったんだ!
 寵愛を受ければその権力と金で人探しだってできると思った。
 でも現実はそううまくいかなかった、
 権力と金があってもあいつらの目の届く範囲でしか動けなかった!
 自分では探しに行けないから頼んだんだ、それの何が間違ってるんだ!」

 こちらも爪が自分に刺さるほど手を握って、
まるで母親の言葉に納得ができない子供のように烈火のごとく怒り、
大きな声でゼルに感情をぶつけます。

「違う違う!今までの努力を否定しているわけじゃないし
 人に頼むことが間違っていると言っているんじゃない、
 自分のせいで誰かが死ぬことになんの抵抗もないのかと言っているんだ!」
「僕だってもうすぐ死ぬから、
 なりふり構ってなんていられないと思ったんだ!」

 ゼルは髪が揺れるほどに首を振って言葉を否定して、
2人の怒鳴り声がステンドグラスを振動させそうなほどに反響して、
少しその音が落ち着いたときに、ラファエルの表情は悲痛なものに変わって、
悲鳴を上げながら両手で顔を覆い、身体を縮こまらせたかと思うと、
震える弱弱しい声が聞こえてきます。

「違う、僕はゼルと喧嘩なんかしたくない、
 ゼルに嫌われるためにやったんじゃないのに!
 ただ一緒に居れたらあのときみたいに、
 満たされて幸せになれると思っていただけなのに!
 うまくいかない、全部うまくいかない!」

 ゼルは、きっとこれがラファエルの本音なのだと思いました。
子供の時は虐待をされ、奴隷として売られ、
心のよりどころとしていた自分とも離され、
大人になった今も、自分で飛び込んだとはいえ貴族に縛られて。

 嗚咽を漏らすラファエルの前にしゃがんで顔を覗き込みます。
緑の目に蝋燭の灯が暖かく映って、
カットされたエメラルドのようにつやつやとして見えます。
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「ジルベール、どんなにつらい過去だったとしても、
 犯した罪は償わなければいけない。
 皇帝陛下に正直に話そう。」
「いやだ。他に悪いことをしている奴なんていっぱいいるのに」

 長い前髪で光の入らない灰色の目が、顔を覆っている長くて白い指の間から
睨むようにゼルを捕らえ、長いまつ毛がさらにその目力を強くします。
そのまま腰で光っている何かに気が付くと、
するりと左手を伸ばし、その光を指さします。

「ゼル、その腰に差しているダガーナイフで僕を殺してよ。
 心臓につきたててくれるだけでいい。」

 イグジクトから預かったダガーの螺鈿がゆれる蝋燭の光できらめいていますが、
なんだか使われることを望まないふうに静かにしています。

「これは、自分を守るために借りているものだから、使わない。」

 ラファエルは胸のつっかえが取れたようににんまりと笑うと、
パッと両手を伸ばしてきて、自分の顔を覗き込むゼルの顔を愛おしそうに包み込み、
鼻が付きそうなほどに顔を近づけます。

「じゃあ、ゼルを襲ったらいいってことでしょ?」

 ゆっくりそういうと、先ほどまでの倦怠感を感じさせないように勢いよく立ち上がり、
2人を照らしていた背の高い燭台の一つを倒します。
 腕を前に出して頭を守ろうとしますが、ゼルの体を少し外れて大きな音を立てて倒れ、
床にたたきつけられてスタンド部分がぽっきりと折れてしまいました。
蝋燭が飛び散り火はすべて消え、一気に周りが暗くなったように感じます。
 ゼルは立ち上がり、辺りを見回そうとした瞬間に強く胸のあたりを両手で押されて
後ろ向きに倒れそうになります。

「う、わ!」

 なんとかバランスを立て直そうとしたところで、司教座を高くしている段差で
身体ががくりと下がって、情けない声を出しながら整列している木のベンチに勢いよく座ります。
 何をされるのかと、目を白黒させていると、
ラファエルが割れた燭台のスタンドの部分を、
力いっぱいゼルの胸に突き刺そうと振りかぶってきたのでした。



 そのころマージュは肩で息をして、片足をついています。
兜は戦いのさなかに飛ばされ、汗でポニーテールでまとめられた後ろ髪が
顔のほうに引っ付いています。
 対してゲオルキウスは、肩で息をしている様子はあれど、
目立ったダメージはないように見えます。

 マージュは逸る気持ちを抑えます。
焦れば自分の命はありません。
それは同時に、ゼルを殺されてしまうかもしれないのです。
そして、時間をかければかけるほど同じ結果となるのです。
 
 戦斧ハルバードは大きく振らなければならず、身体にすきができやすい上に
近接戦には向かない武器だというのに、
素早くカバーしさらに攻撃に転じてくるので、ここだという攻撃が当たりません、
 はあ、と深呼吸をしてマージュはまた立ち上がり、
足の長さをいっぱい使って大きく踏み込み、一気に距離を詰めて行きます。

 初めに攻撃した時の自分の動き、それに対応した時の相手の動き、
その次の自分の攻撃方と、防御する相手の動き、
総合的に考えた時にスキをつける自分の動きはどれなのか。

 攻め込んでからでも行動を考えてからでもなく、
行動しながらコンピュータのように統計を出し、
はじき出した答えが出たとほぼ同時に結論を実行するというのが、マージュの強さでした。

 剣が届くその前に、戦斧が振り下ろされます。
紙一重で身体をねじってかわすと、スピアヘッド部分がそのまま地面に突き刺さり、
マージュは相手の首元を狙って1歩を踏み出し、一突きを繰り出します。
 がん!と鈍い音がして、ゲオルギウスはポールの部分ではじいていなすと、
上手に鍵爪状の刃で剣をひっかけて飛ばします。
 マージュはそれを読んでいたように、はじかれた時点でレイピアを抜いて、
低い位置からまた首を狙って踏み込みますが、もう少しで刃が届きそうなところで、
相手が鎧に仕込んでいたであろうスティレットが、
逆にマージュの首めがけて横からまっすぐに狙ってきます。

 きゅん、と風を切る音がして、顔を逸らしたマージュでしたが、
左ほほがまっすぐに切れたのを感じます。
 それでも全く怯まず、スティレットを握る左手をがしりと掴んで、
鉄棒のように体重をかけて使って身体を浮かせ、
延髄切りのように相手の横っ面に蹴りを入れます。
 ゲオルギウスの大きな体がぐらりと揺れますが、兜の隙間から深海のような青の目が
鋭い光をたたえて、自分の姿を捉えているのが見えました。
 普通ならば、脳が揺れて自分など見ている余裕がないはずなのに、
彼はそれでもマージュの次の動きを見逃さなかったのです。

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 しかし、頭を蹴られて斜めになった体は脇腹のあたりが大きく空いていて、
マージュは見逃さずにレイピアの柄を打ち込むと、ぐう!と苦しそうな声が聞こえます。
くるりと身体を翻すと、金色の髪が岩にあたった波のようにばらりとなびいて、
さらに刃を打ち込むべく力いっぱいに薙ぎはらいます。

 その一撃はまたスティレットにより防がれ、後方転回して距離を取ると、
マージュはその瞬間に、ゲオルギウスが体勢を整えるために門の中心から
身体の位置がずれているのに気づきました。
 
 もう一歩だけずれてくれれば、横をすり抜けて大聖堂に走っていくことができます。
それでは、とマージュは間髪入れずにレイピアを構えて飛び掛かるように進みます。

 ゲオルギウスは、回避されることを予想してハルバードのポールを短く持つと、
顔をめがけて切っ先を刺しだし、ぎりぎり攻撃が自分に届かない距離を保とうとしますが、
ずん、と手ごたえがあった次の瞬間にレイピアの刃先が自分の顎のあたりに
引っかかるのを感じました。 
 青い兜が宙を舞い、一つに束ねた深い緑の髪が見え、
その瞳には左前腕から血を流すマージュが体勢を立て直しながら
こちらに向かってくる姿が見えます。
 今の自分の隙、弱点を探し、彼女が今からどこに攻撃を仕掛けてくるのかを予測し、
身体を低くして向かってきているのを見て足を引き、腹部を守るように身体を曲げます。

 それを見ていたマージュが低い体勢のまま、天高くレイピアを突き上げとき、
狙いが自分の目であることに気づいたゲオルギウスは、短く声を上げて避けますが、
右眉の下がスパっと切れて思わず瞼を閉じながらも、レイピアを弾き飛ばします。
左目の視界の隅で金色の髪をなびかせて、自分の右横を通って門を通ろうとしているのが見えました。

 マージュは、しめた!と今出せる自分の全力で走り始めます。
が、思い切り首が後ろに引っ張られるのを感じて、そのまま動きが止められてしまいます。
 ポニーテールにまとめた長い髪が、ゲオルギウスの左手にがっしりと掴まれていました。

「クソ!」

 引っ張られたのを感じた瞬間から最後の武器であるマインゴーシュを素早く抜いて
ヘアゴムの根元に刃を突き立てると、ハルバードがガラン!と落ちる音がして、
大きな右手が髪を切ろうとしている手首を力強く鷲掴み、うなるマージュを引き寄せます。
 
「切ってしまうのはもったいない」

と耳元で聞こえたかと思うと、マージュはゲオルギウスの左腕が自分の首に巻き付いて
肘の内側で頸動脈を圧迫されているのがわかります。
 はらり、と切れたヘアゴムが髪から落ちて、
思考をするまでもなく数秒で目の前が真っ暗になり、
全身の力が抜けて金色の瞳がゆっくりと閉じられます。

 崩れるマージュをゲオルギウスが支え、周辺は突然静かになりました。



「いって!」

 ラファエルが、ゼルの肩をがっしりと掴んで力いっぱい心臓につきたてた燭台は、
身体を貫くことなく押しあてられています。
服の下に着ていたレザーアーマーが、身体を貫かせずに止めたのです。
もちろん衝撃はそのままでしたから、ゼルは少しむせ返りながら相手の顔を見ます。
 消えたろうそくのにおいがしてきて、
白い煙がゆらゆらと揺れて薄暗い空間に消えていきます。
 自分の肩を力強く掴んでいる手が震えているのを感じると、
ぴたりと目が合って、ほんの少しの静寂が訪れます。

「ゼル、こういう時のためにそのダガーは使うんでしょ?」
「だって…ジルベールは自分を本気で殺しにかかったりしないだろうと思って」

 ラファエルは目を見開くと鼻で笑って、持っていた燭台を後ろに投げるので、
金属製の燭台はけたたましい音を立てて転がって、段差に引っかかって止まりました。
毒気を抜かれたようにため息をつきます。
 ゼルは、胸をさすって痛そうにしています。

「…どうしてそんなにお人よしなんだろうね」

げんなりとしたようにゼルの足元に横座りし、深くうなだれて、
人形のような体が静かに呼吸する肩の上下だけがゼルからは確認できます。

「…よく言われるよ。」
「はあ、ゼル、僕はもう死にたいんだ」

 暗い暗い大聖堂の中で懇願するような声が響きます。
ゼルは前かがみで座って、こちらを見ない真っ黒な頭を見つめます。

「身体はもうボロボロで、薬を飲まなきゃ痛くてつらいし、
 感情のコントロールもうまくきかない。
 …その緑の目を見ていると、今すぐ死にたくなってくる。
 ちょっと前まであんなに大好きだったのに。」

 沈黙が流れ、開いたままの扉から夜風がふうっと拭いてきて、
ろうそくの光と2人の髪を揺らします。
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 ゼルは座り込んで少しも動かない相手を見ながら、
自分の座っている隣をとんとん、と叩きます。

「座りなよ、床は冷たいから。」

 影で顔の見えないラファエルは、数秒反応を見せませんでしたが、
ゆっくりと腕を伸ばして座席に手をつくと、
重力が3倍かかっているように身体を重そうに持ち上げて座ります。
背もたれに身体を預けて、首が座っていないように、かくんと天を仰ぎます。

 高い天井は窓になっていて、星が輝いていて、
雲から月がちょうど出てくるところでした。
きっと外に出れば満天の星空が見えるほどに天気が良いはずです。

 改めて見るラファエルの横顔は、いつもの妖しい笑顔はなくて、
蝋燭と月光に照らされて切なくなるほどに美しく感じられます。
ゼルはうつむきながら、自分が彼に何をわかってほしかったのかを考えます。

 誰かの周りにはまたその誰かを想う人がいて、それはラファエルも同じこと。
だから、自分が間違ったことしていると気が付いてほしい。

 心を整理して決心し、天上を見つめる整った顔を見つめます。 

「さっき言ってたけど、もうすぐ死ぬの?」
「そうだよ。」
「すごく、悲しいな。きっとリエルさんも悲しむと思う。」
「そ。」
「ジルベールは、もし俺が死んだら悲しい?」
「…もちろん悲しいよ。」
「きっと、あの少年やジョージさん、今戦って傷ついている兵士たちのご家族や友達は、
 おんなじように悲しいと思っているよ。」
「…うん。」
「だから、やっぱりちゃんと正直に話して裁きを受けよう。
 国まで巻き込んで、たくさんの人に迷惑をかけた。
 あの時、ちゃんと説明しなかった俺も悪かったと思うし、だから…」
「いいよ、わかった。」

 切なそうに笑う顔を見て、ゼルは胸が詰まって言葉が出てきません。
裁きだなんて言い方をしましたが、きっと牢屋で一生を過ごすだとか、
何かペナルティを受けるだとか、そんな処罰ではすまないでしょう。
ゼルも残酷だとは思いながら百も承知の一言でした。

 でもラファエルは不思議と、その説得を受け入れる気になりました。
さっきまで激情に駆られ絶望して、殺してやろうと全力で胸にポールを突き立てたのに、
それでも性懲りもなく自分を信じて抵抗もせず、
殺してくれという自分にさらに説得までしてきて。
見捨てられも拒絶もされないことに、根負けしたと同時に心から安心したのです。

 そこでやっと、ゼルに置いていかれた時に自分が嫌われたと思って、
ずっとそれが不安だったのだと気が付きました。
その不安を取り除くために、必死に探していたのだと自覚したのです。


「ふふ、そうだね。わかった。」

 すっかり馬鹿らしくなって、思わず笑ってしまいます。
ゼルは驚いた顔をするので、さらに鈴が転がるような声で笑います。
 ああ、僕はそんなことでほとんどの人生を無駄にしたのかと。

「なあにその顔。自分が説得したんでしょ」
「いや、だって…」
「なんか、満足しちゃった。
 でも、僕だけ処刑されるのは納得いかないから
 全部知っていること喋って、僕に色々してきた貴族にもつぶれてもらおうかなあ。」
「お、おお…」

 ゼルはその大胆不敵さにおののきながら、
いたずらっぽく笑うラファエルを見て、なぜか子供のころを思い出し、
同時にホッとしている自分もいました。
 彼の心の闇みたいなものが、少し晴れたように感じられたのです。

「言ったな。」
「え?」

 唐突に低い声が後ろから聞こえてきます。
ゼルは驚いて振り向くと、いつの間にか薄暗い大聖堂の柱のあたりに皇帝が立っていて、
入口からゲオルギウス、そしてマージュが足音を立てて歩いてきます。
ラファエルは振り向きもせず、唐突につまらなさそうな顔になって
今にも舌打ちをしそうです。

「こ、皇帝陛下!」

 ゼルは、がばっと立ち上がって、思い出したように胸元をごそごそすると、
銀色の装飾に青い封蝋がされた封筒を取り出し、皇帝の足元に跪きます。

「我が国王からの手紙です。
 お渡しするのをが遅くなって申し訳ございません。」

 皇帝は無言で胸元から小型の折り畳みナイフを取り出し、
封筒を受け取って小刻みに封を切って開けていくと
二つ折りの手紙を器用に人差し指で開いて読み始めます。
 ゼルはドキドキした様子で文字を追うその瞳をみつめていると、
やがて読み終わったのかすぐに鼻で笑って封筒に手紙を戻しました。

「ディルトレイも食えない男だな。
 そしてエスト、おまえも殺されるか殺すかしてくれると思ったんだが。」
「え」
「いい。どちらにせよラファエルは処分する。」
「あ、あの!」

 胸元に手紙を仕舞って、こちらを見ずに歩いていこうとするので、
頭を下げたまま勇気をふり絞って声を掛けると、皇帝の靴が止まりました。

「事情の、顧慮を」
「一連の原因のおまえが言えたことではないな。」

 顔をあげて恐る恐る言ってはみたものの、
冷たい紫色の瞳で見下ろしてくる皇帝に、ぴしゃりと言い切られて固まります。
 そのまま、皇帝の目線はゼルの腰で煌めくダガーナイフに移り、
ほんの少しだけいぶかしげな表情になります。

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「そのダガーナイフはどこで手に入れた」
「これは…我が国の王子よりお預かりしているものです。」
「殺せと?」
「いいえ、守れと。」
「そうか。…引き続き大切にしろと伝えろ。」
「は、はい。」

 そうつぶやくと、皇帝の表情が和らいだ気がしましたが、
すぐにいつもの不敵な笑みに戻り、ラファエルのほうに歩いていきます。

 ゼルは不思議そうな顔をしながら、皇帝が自分のそばから去っていったのをみて、
ぼんやりした顔のマージュに駆け寄ります。
兜を被っておらず、顔の傷からは血が流れていて、
髪はぼさぼさでまとめられていないし、籠手を外した腕には包帯が巻かれています。

「う、うわ、血が、大丈夫ですか?」
「おまえ、私を忘れて談笑していたな?」
「い、いや、忘れていたわけでも談笑していたわけでも…」
「べつにいいけど…」

 ぼさぼさの髪を手櫛で整えながら、明らかにふてくされている気がします。
ゼルは冷や汗が出てきます。

「…お、怒ってます?」
「…負けて悔しいだけだ。」
「ははは、いや、紙一重でしたよ、マージュ様。」
「はらたつ…」
「ま、まあまあ」

 目の上の傷を指さして和やかなゲオルギウスに、
全く納得していない顔でむくれているマージュをなだめるゼルを、
ラファエルは体をねじってうらやましそうに見ると、
目の前で聖人たちの彫刻を背中に背負い、せせら笑う皇帝を見上げて、
聞こえるようにわざと大きな大きなため息をつきます。

「なに」
「全部知っていることを喋るといったな。」
「どうせ僕から言い出さなくたって、吐かせるつもりだったんでしょ?」
「察しがよくて助かる。若干の時間はやるから文章にまとめろ。」
「それは皇帝の悪事も書いていいってこと?」
「書きたいなら書けばいい。」
「そ。」

 嘲笑するように笑うと、観念したように立ち上がり、
入口のほうへと歩いていこうとします。

「ゲオルギウス、牢にでも入れておけ。」
「かしこまりました。」

 ゲオルギウスは、ラファエルを少し前に歩かせて、入口へと向かいます。
皇帝はその後ろをついて、ゼルの横を通り過ぎるとき、
こちらを見もせずにぴたりと歩みを止めます。

「”ラファエル”は死ぬ。
 教会に墓参りにでも来てやるんだな。」

 静かな声でそう言って、キョトンとする間抜けなゼルの顔を見て鼻で笑うと、
颯爽と歩いて行ってしまいました。
 返答に困って言葉を色々と探して、立ち去る3人の背中を見ながら、
絞りだすように声を出します。

「さようなら、ジルベール」
「…またね、ゼル。」

 ラファエルは振り返って、にいっと八重歯を出して笑って小さく手を振ると、
大聖堂を出ていきました。
扉が閉まる音がして、足音が遠のいていって、
さっきまでふくれっ面だったマージュは、沈んだ顔のゼルを見て背中を小突きます。

「…帰ろう。」
「はい。」

 優しい声色に、ゼルはちょっと微笑んで歩き始めます。
2人が門のほうまでとぼとぼ歩いていくと、黒い馬はきちんと待っていました。
 待ちくたびれたとでも言わんばかりに鼻を鳴らすので、よしよしとなでると、
まんざらでもなさそうになでられています。

 白々としてきた空に向かって馬が走り始めます。
陰鬱だった街並みも、朝風が吹いて空気が入れ替えられているような気がしました。
ゼルの心には、去り際のラファエルの顔が焼き付いて、
寂しい気持ちのまま、帝国を離れていくのでした。

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