【9日目:夕方 屋外中央ブロック】
四葉クロエが、羽藤焔の『死杭(デッドパイル)』を、『硬水化(ハードウォーター)』『大波強波(ビッグウェーブ)』に続く第三の能力として獲得したのは、北第一校舎を出てからだが、『死杭』のページ自体は、暁陽日輝の前に初めて姿を現したそのときすでに持っていた。
クロエは、陽日輝と凜々花の、羽藤焔と陽炎坂水夏との戦いの一部始終を密かに目にしている。だからこそ二人の絆を理解しているし、戦力としての二人も買っていて、ああしてコンタクトを取ったのだ。
ゆえにクロエは、満身創痍だった陽日輝たちには余裕がなかった、焔が所有していた手帳の回収という作業にも成功している。
クロエが持つ、陽日輝や凜々花にも明かしていない切り札は二種類。
そのうちの一つが、そうして集めたページを利用して身に付けた『死杭』だ。
対象の両手両足を貫くまで、いつまでもどこまでも追尾を続ける黒杭の射出。
……ただ、『死杭』とて万能ではない。
使用者が死ねば能力は消える以上、『斬次元(ディメンション・アムピュテイション)』による不可視かつ距離無効の一撃を使用できる若駒ツボミに対しては相性が悪い。
とはいえ、多くの生徒に対して有効な能力であることには間違いなく、実際、霞ヶ丘天は上空を飛び回って逃げ続けることしかできていなかった。
しかしそれはいずれは体力を消耗して逃げ切れなくなるその場しのぎ。
もし業を煮やしてこちらに向かってきたなら、そのときは直接『硬水化』による水の刃を乱射すればいいだけだ。
『死杭』と水の刃の両方をかわし続けるのはさらに困難。
つまり、天がどういった判断を下そうと、確実に仕留められる。
――はずだった。
……クロエは、霞ヶ丘天という人間をよく知らない。
この『楽園』に踏み込んだのもついさっきであり、陽日輝ともそこまで濃密な情報共有ができる状況ではなかった。
だからクロエには、陽日輝が抱いていた懸念が生じようがなかったのだ。
――霞ヶ丘天という執念の復讐者が、我が身を顧みず『死杭』を破るという懸念など。
「っ! ――やってくれるじゃありませんの……!」
クロエが見上げた先、天は、『死杭』に自ら突っ込んでいった。
杭は彼女の両手両足の皮を破り肉を穿ち骨を潰し、反対側にも穴を開けて、彼女の華奢な両手首と両足首を貫通する。
そこで『死杭』は消滅する――相手に命中するという条件を達成したからだ。
そして、『死杭』はまったく同じ箇所にしか命中させることができない能力。
もう一度放ったとしても、天の両手両足に空いた穴に当たるだけだ。
――陽日輝もそうやって、『死杭』を強引に打ち破った。
しかし、それだって、最初から狙ったわけではない。
陽日輝は強い意志で立ち上がることができたから、結果的にそうなっただけだ。
最初から、わざわざ『死杭』に当たりにいくなど正気の沙汰ではない。
「あああああああああああ!!」
実際、天は獣のような咆哮を上げていた――両手両足の穴から血が噴き出し、瓦礫の散らばった地面に降り注ぐ。
こうなればもう、最上環奈の『超自然治癒(ネオヒーリング)』のような能力を使われなければ、まともな治療をできる人間も設備もないこの学校では致命傷だ。
天は遅かれ早かれ死ぬ。
それでも彼女は、ギラついた眼差しで笑ってみせた。
あまりの苦痛に脂汗を滴らせながらも、その目はまだ、輝いていた。
「絶対に殺してやる……」
「……アイツならやりかねないと思ってたよ……! 来るぞ、クロエちゃん!」
「それ、最初に言っといてもらいたかったですわ!」
クロエは陽日輝にそうごちりながらも、両手を水で濡らした状態で身構える。
天は、片翼で勢いよく降下してくる――そう、飛行能力を持つがゆえに、両足を貫かれても機動力が削がれないのも彼女の特性だ。
しかし――クロエは、違和感を覚えていた。
『死杭』を破ったとはいえ、こちらに突っ込んできたら水の刃の餌食だ。
『死杭』と違い、首や胸のような急所にも放たれる攻撃、気合や根性で防げるものではない。
死を覚悟した人間だからできる?
いや――違う。むしろ逆だ。
死を確かなものにしたからこそ、彼女は絶対に成果を挙げようとするだろう。
無駄死になど、絶対に許せないはずだ。
であるならば――彼女は、無策に突っ込んでくるはずがない。
「――陽日輝! 凜々花を!」
「ッッ!」
クロエが叫んだのと、天が空中で急速に軌道を変え、地面と平行に飛行してクロエたちから遠ざかっていったのとはほぼ同時。
少し遅れて、陽日輝が駆け出していた。
さすがの足の速さだが、走り出しの差と瓦礫だらけで足場が悪い点とで天との距離は縮まらない。
――天が向かっているのは、未だ気を失ったままの凜々花の元だ。
「行かせませんわ!」
クロエは両手を交互に振り下ろし、水の刃を飛ばす。
しかし、距離が生じてしまった分、急所を的確に狙うことができない。
天の背中や翼を掠め、一発は右のふくらはぎを深く抉ったが、彼女の飛行を止めることはできなかった。
「やらせる……かぁぁ!」
陽日輝は懸命に駆け続ける――そして、凜々花に覆い被さるようにヘッドスライディングをした。
クロエは、一旦無防備な背中を晒すことになった陽日輝を援護するべく、腕を振り上げ――しかし。
天は。
最初から、凜々花を狙ってなどいなかった。
「なっ――――」
陽日輝が間に合ったのは当然。
天は、凜々花ではなく――彼女を庇った陽日輝にも目もくれず――少し離れたところに倒れていた、千紗の首根っこを掴み、そのまま低空飛行で陽日輝から十メートル、クロエからだと二十メートル以上離れた場所まで移動していた。
そこで再び真上へと飛翔する――上空十メートルほどの位置で彼女は滞空し、そして笑った。
「あんたがその子のほうを選ぶのは分かっていたわ。私がその子のほうを狙うとあんたが判断することもね。だからこっちを選んだの。可哀想よね、あんたに選ばれなかったことで、こうして私に生殺与奪を握られるんですもの」
「相川を、離せ……!」
陽日輝が起き上がり、凜々花を庇うように進み出た状態でそう呼びかける。
しかし、天はただただその反応に対し心地良さげに頷くだけだ。
「いいわ、その顔、その声…! その子に付けられた傷の痛みが気にならなくなるくらいにはね……! あんたは愛しの凜々花ちゃんを選んで、この子を選ばなかった。それだけのことよ、暁陽日輝!」
「くっ……相川……!」
悔しげに肩を震わす陽日輝の後ろ姿を見つめながら、クロエはそんな彼に対する哀憫の情を抱きながらも、すでに千紗を救うことは不可能だと判断していた。
空中で人質を取っている相手に水の刃を当てるのは難しい――少なくとも、人質を無事で済ませた上で、という条件では。
天が失血で死ぬのを待つのも現実的ではない、天はその前に人質を殺すだろう。
この状況、陽日輝は凜々花を守ることに注力すべきであり、自分は天が人質を殺した後、一気に畳み掛けるべきだ。
――この戦い、すでにこちらの勝利は確定している。
ただ、そのための犠牲もまた、確定している。
「……陽日輝。あなたは凜々花をしっかり守るべきですわ。あの方も、可能なら『選ばれた側』――あなたにとってより大切な人を奪いたいと考えているでしょうから」
「……クロエちゃん。俺は若駒さんに言われたんだよ――俺一人に背負える命には限りがあるって。そのことを、分かった気になっていた――だけど、分かってなかったんだろうな。凜々花ちゃんも相川も助けたい。だけど、今の俺には凜々花ちゃんを守ることしかできない――相川を、見捨てることしかできない。俺にはこれが限界なんだって、思い知ったよ」
陽日輝は。
そう呟いた後で――何かを振り切るように、大声で叫んだ。
「相川と話をさせてくれ! それくらいいいだろう!」
「ふふ――いいわよ? そのほうが絶望も深まるわ」
天は意地悪く笑うと、首根っこを掴んで宙ぶらりんにさせている千紗を揺さぶった。
すると、千紗が微かに身じろぎした後で、ゆっくりと目を開く。
そして、自分が宙に浮かされている状況に気付き、悲鳴を上げかけたところで「暴れると落ちるわよ」と天に釘を刺され、目を見開いたまま動きを止めた。
それから、その目が下界に注がれる――陽日輝のほうを見るのに、そう時間はかからなかった。
「暁――」
「相川――俺は――」
「……。いいの。この状況見て、大体分かったわ。……凜々花を守れたのなら、それでいいじゃない。私を守る義理なんて、あなたにないわよ」
「違う……! 俺は、お前のことも死なせたくなんかない! だから――」
「私だって馬鹿じゃないわ。ここから助かる方法があるとは思えない。だから、あなたは、凜々花を――凜々花を、ま、守――」
気丈に振る舞っていた千紗の声が、少しずつ震えてくる。
単純に落ちたらただでは済まない高さに連れられていることへの恐怖に加え、天に生殺与奪を握られているという絶望。
そんな中で、自分の生存を諦めることは、容易いことではない。
それでも千紗は、陽日輝の背中を笑って押そうとしていたのだろう。
しかし、その目からは、彼女の意思に反してぼろぼろと大粒の涙で零れ出る。
それを心底愉快そうに見つめる天に、クロエは反吐が出るような憤りを感じた。
「――ごめん、暁。私、あなたを呪いたくない――だけど、怖いの……! 助けてほしいって、死にたくないって、そんなことばかり浮かんできて、どうしようもないの……!」
「――そんなの、当たり前だろ! こんなときに気を遣うなよ――俺たちはそういうのナシのダチ同士だったはずだろ!? 俺は――お前が俺を恨んだくらいで、お前のことを嫌いになったりしない!」
「――暁――ずるいよ――なんであなたは、そんなに――優しいの――」
千紗の目からは、もはやとめどなく涙が溢れ続けている。
――クロエは、分かっていた。
暁陽日輝という男が、この状況をどれだけ悔やんでいるかを。
凜々花と千紗を天秤にかけたとき、凜々花のほうが重いのは確かだろう。
それでも、だからといって、千紗のことが大事じゃないはずがない。
だからこそ陽日輝は苦しんでいるし、天も、こういった状況を作り出すことが陽日輝を精神的に追い詰めることに繋がると踏んで、千紗を捕らえたのだ。
「あかつきぃ……お願い、私を――たすけて――」
「……相川。俺は――」
陽日輝は、そこまで言って、顔を伏せた。
千紗は。
そんな陽日輝を見て――内心分かっていたのだろう――驚きはしなかった。
ただ、涙に濡れた顔にぎこちなくも明るい笑みを浮かべてみせた。
「今までありがとう、暁。あなたのこと、好きだった」
「ふうん、青春じゃない。もう少し見ていたかったけど、私の意識もそろそろぼやっとしてきたし、もう殺しちゃうわ」
天はそう言って、千紗の首根っこから手を離そうとし――
そのときだ。
凄まじい閃光が、天の眼前辺りで発生したのは。
「なっ!?」
「なあっ!?」
オレンジ色に染まった夕焼け空を、真っ白な光が埋め尽くす。
ありとあらゆる色が白に溶かされたその世界に、一人の男の声が響いた。
「陽日輝、僕は君になら相川を任せられると思っていた――だけど、それはあまりにも無責任だったな。――僕が守りたいものは僕が守る!」
誰かが駆けてくる音、瓦礫が散らばる音。
光は十秒もすれば晴れ、そこには、メガネをかけた男子生徒がいて、天が手放した千紗をスライディングで受け止めるようにして、下から抱きかかえていた。
「誠……!」
陽日輝の反応からして、知り合いなのだろう。
先ほどの閃光は、彼の『能力』か。
そして――こうなってしまえば、もう何も懸念することはない。
「『硬水化』応用――『集中鋼雨(スコール)』!」
クロエは、ベルトに付けていたペットボトルを数本無造作に放り投げる――その過程で、水に濡らした手刀で触れることでプラスチックに切れ目を入れた上で、だ。
すると、ペットボトルは大量の水をまき散らしながら宙に浮く。
ペットボトルが重力によって落下するまでの間に、クロエは両手を振り回すようにして、次から次に空中の水を硬化させ、飛ばし続けた。
一度に水のストックを大量に消費してしまうが、いちいちペットボトルの口から律儀に水を出すよりも、圧倒的な手数を用意できる。何よりペットボトルを放り投げることで両手で『硬水化』を使えるのも強みだ。
東城要との戦いを経て、そして若駒ツボミとの戦いを想定し、クロエが新たに編み出した『硬水化』の応用技術。
そしてそれは、誰よりも近くで閃光を浴びていた天が、我に返って回避や防御をする前に、その全身に十発二十発と命中する。
「ああああああああ!」
天の左頬がぱっくりと裂け、その奥の左耳が千切れ飛んだ。
右の翼のあちらこちらが切り裂かれ、無数の羽が飛び散る。
一際大きな水の刃は左脇腹に当たってその肉を制服ごと抉り、血と一緒に臓物の一部が飛び出した。
そこまでのダメージを受けてなお――天は、血走った目を剥いた。
そして、自分に致命傷を与えたクロエでも、千紗を人質にして殺すという企みを阻止した誠でもなく、最後は――すべての打算を捨て、陽日輝めがけて急降下した。
自分の『楽園』を壊滅に導き、相棒を死に至らしめた憎き仇敵のもとへ。
「暁ぃぃぃぃ! あんたは、あんただけは殺す! 私と一緒に地獄に落ちろォォ!」
すでに『死杭』および『集中鋼雨』によって彼女は死の手前だ。
これ以上何もされなくとも、数分以内にその命は尽きるだろう。
それでも――執念が彼女の身体を突き動かしている。
「――ああ、俺も死ねば地獄に行くんだろうな。だけど、俺はまだ死ぬわけにはいかない――相川を選ばなかったのは俺だけど――だけど、凜々花ちゃんを選んだのも、俺なんだ! 自分が選んだものくらい――絶対に守ってみせる!」
「やってみろ! 私を殺して生きてみなよ! この先あんたは絶望する――自分の無力さに絶望する! その姿が目に浮かぶわよォォ!」
陽日輝めがけて横薙ぎに繰り出された翼を、陽日輝は身を低くしてかわし、その勢いを殺さないまま、天の懐に飛び込んでいた。
そして、握り締めた拳に橙色の光を宿し、天の左胸に叩き込む。
「『夜明光(サンライズ)』!!」
天の華奢な身体が弾かれたように吹き飛び、瓦礫の上を幾度も転がっていく。
その身体が、一際大きな石碑のような瓦礫に背中から叩き付けられ、皮肉にも磔にされた罪人のような姿となったとき、彼女の背中にはすでに天使の翼はなかった。
代わりに、左胸にぽっかりと穴が開いている。
――『楽園』の創始者、霞ヶ丘天の、それが最期だった。
その亡骸を、肩で息をしながらしばらく見つめていた陽日輝だったが、やがて呼吸を整えながら振り返り、先ほど現れた誠と呼ばれた男子生徒に訊ねていた。
「……誠。どうしてここに? 『楽園』の理念に賛同する気持ちに変わりはないんじゃなかったのかよ」
「……君の最期を見届けようと思っただけさ。そうしたら、相川があんな目に遭っていた。それを見過ごせなかった。それだけだ」
「……俺の最期が見れなくて残念だったな」
「誤解があるね。僕は君に死んでほしかったわけではないよ。ただ、『楽園』を相手に生き残れるわけがないと思っていただけだ」
誠は、天の亡骸をチラリと見やる。
……クロエはこの『楽園』での戦いの終盤しか知らない。
しかし、ここに来るまでに見かけた死体の数や、燃やされた木や建造物を見るに、かなり規模の大きな殺し合いが勃発していたことは間違いない。
誠が陽日輝の勝利を信じられなかったのも、無理はないだろう。
「先ほどの光が、あなたの『能力』ですのね」
クロエは、地面に転がったペットボトルを拾い、僅かに残っていた水をベルトに巻いた無事なペットボトルに移しながら尋ねた。
「――ああ。『閃制光撃(フラッシュアウト)』――目くらまししかできない能力だけどね。君は陽日輝の知り合いかな?」
「四葉クロエですわ。陽日輝とはこの生徒葬会が始まってから知り合いましたの。ですが、凜々花とは以前から面識がありましてよ」
「ああ――一年生か。そういえば、一年生に外国人の転校生がいるって聞いたことがあるね」
「あなたは陽日輝の以前からの友人のようですわね。……話を聞く限り、『楽園』側の人間のようですけども」
「その『楽園』のリーダーが死んだんだ、もう『楽園』は終わりだよ。それに」
誠は。
落下から辛くも助けられ、小刻みに震え続けている千紗を抱き起こしてから言った。
「僕も目が覚めた。僕は相川を守りたい――死なせたくない。それが、今の僕の一番強い気持ちだ」
「――日宮――ありがとう――私――わたし――暁も――ごめんなさい――わたし……!」
「無理に喋らなくていい。――これからのことは、後で考えよう」
誠が千紗の背中をポンポンと叩きながらそう言うのを、陽日輝は少し気まずそうに見つめていた。
なのでクロエはそんな彼にそっと近づき、「しょげてるんじゃありませんわ」と発破をかけた。
「別に、しょげてるわけじゃ……俺はただ、凜々花ちゃんも相川も守りたかったのに、それができない自分が悔しいというか――」
「そういうのをしょげてるって言うんですわよ、陽日輝。あなたは願い事が大きすぎますのよ。大多数の生徒は、自分が生き抜くことだけで精一杯なのに、あなたは少し欲をかきすぎですわ。――ですが、そんなあなただから、私も放っておけないんですけども」
クロエは、それから、この戦いが終わった直後には、心に決めていたことを伝えた。
生徒葬会も終盤に差し掛かっている。
だからこそ、自分が生き残るためにも、これは必要なことだ。
「――陽日輝。これから先は、私もあなたたちと一緒に行動しますわ」