【11日目:未明 屋外北ブロック 北第一校舎前】
立花百花が地面を蹴ったその直後、若駒ツボミは『斬次元(ディメンション・アムピュテイション)』を使用した。
しかしそれは、百花が前に跳ぶと見せかけて真後ろに跳んだことで不発となり、ツボミがそれを認識した直後には、まだ滞空中の状態で百花は右手を突き出していた。
人差し指と中指を突き出した、ジャンケンのチョキの形。
それはつまり、百花が初手から『絶対必中(クリティカル)』を使用しての目潰し――『絶対必殺(クリティキル)』を使用したことを意味する。
『楽園』での戦いでは、背中を向けることでその一撃をかわしたツボミだが、今回はそんな暇などなく。
百花が放った目潰しの運動エネルギーのみが、ツボミの眼球に炸裂した――はずだった。
「お前が私の前に再び現れることを――私が想定していなかったとでも思ったか? 百花」
「っ!」
ツボミは、大きくのけぞったものの――その両の目は冷徹な光を湛えたまま、百花の姿をしっかりと捉えていた。
ただ――眼球の代わりに、砕け散ったものがあった。
ツボミは左手の中指でそっと眼球を撫でるようにして、『それ』を払い落とす。
割れたプラスチックの欠片により細かな傷は付いたが、大事ではない。
「コンタクト……レンズ……!」
「藍実の予備を借りていたのさ」
ツボミは、百花めがけて一気に距離を詰める。
百花のほうも、着地してすぐに再び地面を蹴り、両者の間合いは一瞬にして詰まった。
ツボミが腰に提げていたレイピアを抜刀し、その勢いで振り上げることで、居合の要領で百花の胴を狙ったが、百花は刃物相手にも動じなかった。
専門外であるツボミの剣技など、剣道部の天才である滝藤唯人に遠く及ばないものであり、唯人と交戦した経験のある百花にしてみれば、さしたる脅威ではない。
百花はレイピアが自身の胴に触れる前に、横薙ぎに繰り出した手刀でレイピアの刀身を叩く――刀というのは、総じて横からの衝撃には弱い。
百花の一撃によってレイピアは砕き割られ、三分の一ほどの長さを喪失した。
それを見て、ツボミは躊躇うことなくレイピアを捨てる。
生徒葬会が始まって以来使用してきた得物だが、ツボミにしてみればそれは、『斬次元』を当てるための牽制用の道具でしかない。
だが、両者の間合いが詰まったこの状態では、優位になるのは――百花だ。
「セァッ!」
百花が放った左の中段蹴りを、ツボミは右肘で受け止めたが、その顔は苦悶に歪んだ。
肉を突き抜け骨にまで響くほどの、鋭く重い一撃。
それは、ガードしたはずのツボミが数歩、後ろによろめくほどの威力。
百花はその間合いを一瞬にして詰める。
『斬次元』を使わせない。
使う余裕など与えない。
百花は再び右手をチョキに――目潰しの形にした。
「!」
それを見たツボミは、すかさず百花に背中を向ける――だが、逃げるわけではなかった。
ツボミは、後ろ廻し蹴りを放っていたのだ。
ボクシングをたしなんでいるという話だったが、この様子だと蹴り技もまったくの素人というわけではないのだろう。
だが、空手の組手で全国区の選手である百花にしてみれば付け焼刃に等しい。
百花は、半ばスライディングに近いほど体勢を意図的に崩して落とすことで、ツボミの脚を搔い潜りつつ接近し、その右脇腹に後ろ廻し蹴りを炸裂させた。
「がっ……!」
ツボミが背中を曲げ、肺の中の空気を唾液と共に吐き出す。
右脇腹にはレバー……つまり肝臓があるため、ダメージは大きい。
だが――
「終わり……だ!」
その言葉と共に、百花の右腕に一瞬痛みが走った――
見ると、右腕の肘より少し上の位置が切り裂かれ、皮と僅かな肉だけを残してだらりと垂れ下がっていた。
――ツボミには、百花と戦いながら座標の計算をする余裕は無かった。
だから、ツボミは何度か失敗することも覚悟の上で、『斬次元』をほとんど直感と言っていいレベルの適当な座標計算で発動させたのだ。
失敗すればするほど、『斬次元』の再使用には時間を要し、格闘戦で自身を大きく上回る百花との戦いでは追い詰められる一方になるが、この賭けには勝った。
左手首から先を失い、右腕も使用不可能なほど損傷。
そうなった百花相手なら、格闘戦でも勝てる。
ツボミはそう判断し、百花めがけてストレートを放った。
だが――
「そりぃやぁっ!」
百花は、自身を鼓舞させるように気合を込め、拳を繰り出していた。
――先ほど『斬次元』を食らったばかりの右腕で。
「!?」
ツボミは知らない。
百花が、月瀬愛巫子に渡された能力説明ページを利用し、『不自然治癒(ヒールヒーリング)』という能力を得ていることを。
永遠に消えない痛みと引き換えに、傷口を急速に塞ぐ超回復能力。
右腕が完全に落とされていたらどうにもできなかったが――皮一枚でも繋がっていたのならば、一生続く右腕切断級の痛みと引き換えに、右腕は再び使用できる!
「甘いのよツボミ――アンタはやっぱり、殺すのには向いていても戦うのには向いてないわ。精神が戦士じゃないのよ」
――ツボミの拳は、百花の眼前で止まり。
その腕とクロスするように繰り出された百花の拳が、ツボミの顎を打ち抜いていた。
綺麗にカウンターが決まった形だ。
「も……も、かぁ……!」
「アンタの負けよ、ツボミ」
百花が拳を引いたときには、ツボミはすでに立っているのもやっとの状態だった。
それでも百花は油断しない。
空手というものは、武術というものは、生きるか死ぬかの殺し合いにおいて戦い抜くための技術であり、備えだ。
皮肉なことに、庇護の対象である弟・繚を失ったことで、百花の精神は研ぎ澄まされていた。
すかさず追撃を繰り出そうとした百花に、ツボミは、懐から取り出した『それ』を放り投げる。
「……!」
忘れるはずもない。
クルクルと宙を舞うそれは、アメジストのペンダントだ。
繚の、そして今はツボミの能力となった『完全空間(ブライベートルーム)』によって生成された、人であろうと物であろうと収納できる便利な道具。
「……!」
百花の意思に反して、脳裏によみがえるあの凄惨な光景。
手足も臓物もバラバラに切り落とされた繚の亡骸を、ツボミはこのペンダントを使って百花の眼前でぶちまけたのだ。
百花に隙を生じさせる、ただそれだけのために。
百花にとって最愛の弟であり、ツボミにとっても元恋人である繚を利用した。
「ツボ、ミ……!」
「甘いな百花。お前は戦うことには向いていても殺すことには向いていない。それはお前が戦士でしかないからだ」
意趣返しの台詞と共に、ツボミは『完全空間』を解除する。
ペンダントが消失し、そこから飛び出したのは、繚の亡骸――ではなく。
特有の臭いを発する、無色の液体だった。
そしてその臭いを知らない者などまずいない。
それは、ありふれていて、入手も容易な液体――灯油だった。
「くっ!」
百花は咄嗟に裏拳を放ったが、当然、液体を拳で砕くことなどできない。
『完全空間』は大体電話ボックスくらいまでの大きさ・重さの物ならば収納することができる能力だと、繚から聞いていたが。
空中でぶちまけられ、百花の全身を濡らした灯油の量は、ちょうどそのくらいに思われた。
「治癒能力を手に入れていたのは予想外だったが、百花。この程度の想定外は、想定内だ」
ツボミは、ブレザーの胸ポケットから取り出したジッポライターを点火し、地面を滑らすように放り投げた。
学校において灯油を入手することは容易だ。
ましてや今は冬も近付いている秋のさなか。
教職員の車からガソリンを調達することもできたが、過剰な火力はかえってこちらも危険と判断した。
人間ひとり焼き殺すのには、灯油で十分事足りる。
……ツボミのその見立ては正しく、そして、『不自然治癒』をもってしても、絶えず燃え続ける肉体への治癒は容易ではない。地面を転がり回ってなんとか消火を試みたとしても、その間に『斬次元』の餌食だ。
百花は、転がって来るライターを『絶対必中』による遠隔の蹴りであさっての方向に弾き飛ばす。
そしてすかさず、ツボミめがけて再度の目潰しを放とうとした。
いきなり灯油を浴びせられた状況にも関わらず、百花の判断は冷静で的確だった。
だったが――百花は、忘れていた。
いや、意識から外してしまっていた。
それは内心、『彼女』を、無力で臆病な、ツボミの腰巾着とみなし、戦力としてカウントしていなかったからかもしれない。
百花は、ツボミに対しては油断などしていなかった。
だが、強者ゆえの欺瞞が、『彼女』の存在を頭から抜け落ちさせていた。
「ツボミさん!」
――北第一校舎の窓から飛び降りた根岸藍実が拾い上げたのは、先ほど百花が蹴り飛ばしたジッポライター。
百花は藍実に『絶対必中』を放とうとし――その直前に、動物的な直感でその場から飛び退いた。
その場所を、ツボミの『斬次元』が切り裂き、地面に散らばっていた灯油が跳ね上がる。
そしてそのときには、藍実が投げたジッポライターが、百花の足元に落ちていた。
――百花の足が、煌々と闇夜を照らす橙色の炎に包まれる。
炎は百花を濡らしている灯油を食らうように一気に広がり、百花の全身を包み込んだ。
「あああああああああああああ!!」
百花は絶叫する。
痛みと苦しみと怒りと悔しさ、それらすべてが入り混じり、叫びになる。
――しかしその叫びは、百花の心を今一度鼓舞した。
『不自然治癒』により傷は治る。
だが、その矢先に治った場所が燃える。
それにより、百花の苦痛は倍々になっていく。
それはもはや、通常人間がどうしたって味わうことの無い苦痛。
しかし、精神が崩壊してもおかしくないその苦痛を、百花はむしろ糧とした。
百花が全身を焼かれながら繰り出した蹴りが、ツボミの鳩尾に衝撃のみを伝え、彼女の体躯を大きくのけぞらせた。
「かはぁっ……!」
その間にも、百花の全身の痛みは加速度的に増えていた。
それでも――百花は、倒れることがなかった。
倒れたなら、ツボミが自分にトドメを刺すだろう。
そしてこのような状態に陥ったのならば、苦痛から逃れるために、そういう選択をするのが普通なのだろう。
しかし、百花にとってそれは、唾棄すべき選択だった。
この地獄の業火のような苦痛は、弟を守れなかったばかりか、弟の仇に何度も遅れを取っている自分への罰だ。
「――ここで死ぬ気か、百花」
「バカ言ってんじゃないわよ。繚の分も生きるために、ツボミ。ここでアンタを殺すのよ」
鳩尾を押さえながら苦しげに、そして忌々しげに吐き捨てたツボミに対し、炎に包まれたまま百花は言い放ち。
その拳が、再び強く握り締められた。