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第百二十二話 散華

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【11日目:未明 屋外北ブロック 北第一校舎前】

 立花百花が思い出していたのは、在りし日の平和な一幕だった。
生徒葬会などという地獄に巻き込まれる数か月前、初夏の頃。
 その日は期末テスト期間のため、勉強に集中しなさいという名目で部活動が禁止されていたが、一部の生徒は体がなまるのを嫌って自主練をしており、学校側も黙認していた。
 百花も放課後は道場で稽古をしていたのだが、いかんせん空手の稽古というのは、他の多くの武道がそうであるように、相手がいないとできることに限りがある。
 結局稽古をそこそこで切り上げた百花は、ふと思い立って体育館に立ち寄った。
 弟――繚から、自主練をしてから帰るとメッセージが来ていたからだ。
 体育館の近くまで来た時点で、ボールが跳ねる音や靴と床の摩擦によるキュッキュッという音とが聞こえてきていたので、繚がまだ練習をしていることは分かっていたが、百花は体育館の重たい横開きの扉を開け、繚が一人でドリブルからのスローの練習をしているのを見て、「おーい、繚ぉー!」と手を振って叫んだ。
「姉ちゃん」
 繚が立ち止まり、ちょうど床から跳ね返ってきたボールを片手で器用に手に取る。
 バスケットボール部のエースというだけあって、サマになっていた。
「アンタ、少しは勉強しなさいよね。いまどきスポーツだけできりゃいいって時代でもないわよ」
「姉ちゃんがそれ言う? 俺より成績悪いじゃん」
「アタシはいーの。もう三年だし」
「三年こそ勉強しなきゃダメだろ……」
「うるさいわねー。繚のくせに生意気よ」
 姉弟だからこその、遠慮のいらない軽口の応酬。
 友人相手ともまた違う、気心の知れたやり取りが、百花は好きだった。
 弱虫で泣き虫だった繚が、よくぞここまで逞しく育ったものだ、とも思う。
 いつも自分の後ろに隠れていた繚の成長を喜ばしく思うと共に、一抹の寂しさもあった。
 もちろんそんなことは、おくびにも出さないが。
「繚、部活はどう? 順調?」
「どうだろな。ウチは別にバスケ強豪校ってわけでもないし。姉ちゃんこそ、空手部はどう? 強い奴いる?」
「空手は組手だけじゃなくて型もあるし、必ずしも強くなくてもいいのよ。ウチの部活の空手は防具付けての寸止め空手だから、実際に突きや蹴りに威力がなくたって当て勘あってポイント取れればいいし。ま――それを踏まえても、正直あまりレベルは高くないわね。去年アタシの前の主将と揉めてやめた立石ってヤツはそこそこだったけど。アンタの同級生だけど、知ってる?」
「知ってるよ。そんなに話したことはないけどな」
 百花と繚はそんな会話を交わしながら、バスケットゴール下の壁沿いに移動し、並んで座った。
 背中を壁に預け、足を前に投げ出す。
 体育館の外からは、何種類かのセミの鳴き声が聞こえてきていた。
「アンタとこうして話すの、久し振りな気がする」
「何言ってんだよ、家でいつも話してるだろ」
「学校で話すのが、よ。アンタいっつも彼女とかと一緒だから」
「なんだよそれ、姉ちゃんもしかして焼きもち妬いてる? ――いてっ!」
 百花に脇腹を肘で小突かれ、繚が腰を浮かしかける。
「生意気言ってんじゃないわよ。アタシはアンタの姉で、アンタはアタシの弟。その時点でアンタの彼女に嫉妬する理由なんかないわよ」
「姉ちゃんほんと俺のこと好きだよな。ま、嬉しいけど。今の俺がいるのは姉ちゃんのおかげだから」
「……アンタこそ、だいぶ恥ずかしいこと言うじゃないの」
「たまにはいいだろ、たまには」
 そう言ってはにかむ繚を見て、百花もつられて笑みを浮かべた。
 ――そう。
 それは、これから先一生忘れることのないであろう、数多の思い出の一つ。
 繚のことを思えば――そしてその命を奪い、あまつさえその亡骸を残酷にも利用した、宿敵・若駒ツボミのことを思えば。
 全身を何重にも焼かれるその痛みすら、この心を壊すには至らない。



 そのとき、百花とツボミの戦いに、割って入る者がいた。
 けたたましい轟音を立てながら接近してきたそれは、乗用車だ。
 街中で比較的よく目にする、オーソドックスな車種。
 それは、百花を一日前に襲撃した美祢明が攻撃に利用したものだった。
 その運転席には、月瀬愛巫子が乗っていた。
 百花に叩き割られたことでフロントガラスが無くなっているほか、無茶な使い方をされたことであちこちが凹んでいるその車だが、タイヤやエンジンは無事だったため、こうして走行することができている。
 愛巫子は百花とツボミとの間に割って入ると、急ブレーキをかけて半ば飛び降りるように車から出た。
 その両手には、真っ赤なボディの消火器が抱えられている。
「何やられてるのよ、立花さん!」
 愛巫子は毒づきながら、消火器のホースを百花に向け、躊躇い無くレバーを握った。
 消火薬剤が勢い良く噴き出して、百花の全身を包んでいた炎が消える。
 空になった消火器を投げ捨てて、愛巫子は言った。
「退くわよ。――遠くから見させてもらってたけど、今のあなたじゃ勝てないわ。犬死は本望じゃないでしょう?」
 そういう愛巫子は、首から双眼鏡を提げていた。
 離れたところから百花とツボミの戦いの経過を見るのに使用していたのだろう。
 百花は、顔に付いた消火薬剤を払いながらこう返す。
「あいにく、アタシはアンタと違ってバカだから。だからアイツに勝てないなんて微塵も思ってないし、ここで退くなんて選択肢はハナから無いの」
「……本物のバカね、あなた」
「成程。百花に入れ知恵をしていたのはお前か、月瀬嬢」
 ツボミがそう言った直後、何の前触れも無く愛巫子の首から勢いよく血が噴き出し――たのは、ほんの一瞬。
 『身代本(スケープブック)』を持つ愛巫子は、即死さえ免れれば致命傷すら一瞬で無かったことにできる。
「やってくれるじゃないの若駒さん、話しながらいきなり殺しにかかってくるなんて。だけど、あなたの能力は立花さんから聞いているし、私の能力にとっては恐れるに足らないわ」
 愛巫子はそう言ってから、チラリとこちらを見やった。
 ――いいから今は退くわよ。
 そう言いたいのは、表情から伝わってくる。
 だけど――ここで退くわけにはいかない。
 それは、愛巫子が想像しているであろう意地だけが理由ではない。
 愛巫子のおかげで火は消し止められたとはいえ、それまでに自分は全身火傷複数回分のダメージを受けている。
 『不自然治癒(ヒールヒーリング)』の副作用により、その苦痛は現在進行形で自分の精神を苛んでいるのだ。
 今は、ツボミと対峙していることで、怒りや憎しみを糧としてその苦痛に抗うことができている。
 だが、ここで退いてしまったなら。
 ツボミから離れてしまったのなら。
 また再びツボミと対峙するときまで、この心が持つとは、思えない。
 ――弟の分まで生きて帰る。
 そんな目標を掲げ、ツボミに対し啖呵を切ってみせたものの。
 本当は、気付いている。
 この戦いに勝ったとしても――弟の仇を取ったとしても。
 その直後、この精神は限界を迎えるのだと。
「恐れるに足らない、か。本当にそうかな。自分は姿を現さず、百花をけしかけてきた以上、そして百花に撤退を促している以上――お前一人では私を攻略できないのではないかな?」
 ツボミのその言葉に、愛巫子は苛ついた表情を漏らす。
「……ええ、そうよ。あなたを殺すにはここで立花さんに死なれては困るのよ。だから連れ帰らせてもらうわ」
「それを私がみすみす見逃すとでも?」
 百花は、ツボミを取り巻く空気の温度が一気に下がったような気配を感じた。
 何が何でもこの場で自分たちを屠るという漆黒の意思が伝わってくる。
 荒事慣れしている百花でも緊張が走らざるを得ないほどの威圧感が、今のツボミには備わっていた。
 ――あちらもここでケリを付けるつもりだ。
 百花は、やはり愛巫子の提案に乗るわけにはいかないということを改めて確信した。
 そしてそれを愛巫子に伝えようとした、そのときだ。
「――ここで若駒さんを倒すんでしょう。好きにしなさい」
 ――と、愛巫子が耳元で囁いたのは。
「! ……どういう風の吹き回しよ」
「あら、あなたにそんな語彙があったのね。……あなたが限界なことくらい分かっているわ。だからせいぜい、私の役に立って死になさい」
「……ありがとう、愛巫子」
 愛巫子は、こちらの限界を悟った上で、ツボミを油断させるために敢えて逃走を促したのだろう。
 そのことを理解した百花は、右の拳をぎゅっと握り締めた。
「アンタは控えめに言ってクソ女だけど、ツボミへの復讐の機会をくれたことにだけは感謝してる。アンタこそ、せいぜい生き延びなさい」
「ええ、そうさせてもらうわ」
「バイバイ、愛巫子」
 百花はそう言って地面を蹴った。
 一歩踏み出すたびに、炎で焼かれて皮がめくれ、筋肉が剥き出しになった足の裏が地面と擦れる痛みが走る――それは本来あるはずのない偽りの痛み。
 心を蝕むその苦痛すら戦う原動力へと変換し、百花は駆けた。
「向かってくるか。……ふふ。百花、お前はきっとそうだろうと思っていた」
「余裕ぶっこいてんじゃないわよッ!」
「手負いの獣は恐ろしいというが、今のお前はただの死に損ないだ百花! 傷が治っているはずなのに汗だくで、表情にも余裕が無い。――お前の新しい『能力』、傷は治せても痛みは消えないんじゃないか?」
「だったら何よ! アンタぶちのめすのには関係無いわ!」
 ツボミには遅かれ早かれタネが割れるとは思っていた。
 だから、『不自然治癒』のカラクリを指摘されたところで動揺は無い。
 百花は走りながら拳を繰り出そうとし――だが、ツボミはこちらに背中を向け、校舎の中へと駆けて行った。
「逃げるんじゃないわよッ!」
 百花はその背中に拳を叩き込もうとしたが、その前に首筋に痛みを感じた。
 ツボミの『斬次元(ディメンション・アムピュテイション)』だ。
 『不自然治癒』によってすぐさま傷は塞がるが、その僅かな隙にツボミは校舎内に逃げ込んでいた。
 その後で、百花も生徒昇降口に転がり込むように進入する。
 ――ツボミはただ逃げているわけではない、と百花は悟っていた。
 本気で逃げるつもりなら、百花が炎上させられている間にすでに再び校舎内に逃げ込んでいたあのお団子頭の女子生徒の能力で、自分がこの校舎に入れないようにしていただろう。
 つまり自分は、おびき寄せられたのだ。
 愛巫子なら、きっとツボミを追わなかっただろう。
 振り返ると、愛巫子は「いいから行きなさい」と言いたげな表情で気だるげに手をひらひらと振った。
 ――愛巫子が、己に不足している戦闘力を補う目的で自分に手を差し伸べたことは分かっている。
 実際、そのおかげで愛巫子は美祢明の襲撃から生還できた。
 そして今は、百花のこれ以上の利用ができないと見るや難敵であるツボミに対して、勝てばもうけものとばかりにぶつけている。
 もし自分がもう少しマシな状態だったなら、愛巫子はあのまま無理やりにでも自分を乗用車に乗せ、この場から撤退していたのだろう。
 ――愛巫子の思惑がどうであれ、構わない。
 先ほど愛巫子にも伝えたが、ツボミへの復讐の機会を与えてくれたこと。
 それだけで感謝に値するからだ。
 愛巫子に対ツボミの切り札として与えられた『不自然治癒』。
 それを受け入れたことは、悪魔と取引したようなものだろう。
 この地獄の苦しみが、それを如実に物語っている。
 だけど――繚を殺したツボミを殺すためなら、悪魔に魂だって売る。
 百花は、愛巫子に応えるように、先ほど自分が飛び込んだばかりの、校舎と外との境目にあたる空間に手を伸ばした。
 ――しかしその手は見えない壁に阻まれ、外に手を出すことはできなかった。
 やはりこれは、罠だ。
 ツボミは自身にとってのホームグラウンドであるこの校舎内で、決着を付けようとしている。
 それを理解してもなお、百花には進む以外の選択肢はなかった。
 『不自然治癒』によりほとんどの傷は瞬く間に治る。
 傷が累積していくことによる苦痛の増大も、ツボミを倒すまでの間なら、ある程度なら耐えられるだろう。
 だとしたら、ツボミの狙いは何か。
 こちらを殺し切るための作戦は何か。
 ツボミの『斬次元』は線の攻撃。
 こちらを一瞬で消滅させるほどの威力は無い。
 愛巫子の『身代本』のような完璧な回復ができない代わりに、『不自然治癒』はオートで発動して傷を塞いでくれる。多少の傷ならほぼ一瞬で治るほどの速度で、だ。
 ――考えられるのは、またしても灯油を浴びせてくる、という方法。
 あるいは、今度はガソリンを持ち出してくるか?
 いや、屋内でガソリンはツボミやツボミの連れている女子二人も危険だ。
 だが、『完全空間(プライベートルーム)』を用いた不意打ちに注意が必要なのは間違いないだろう。
 もう一度炎に包まれるようなことがあれば――きっと自分の精神が耐えられる苦痛の限界値を超える。
 そうなれば、自分の頭は考えることをやめ、自分の心は思うことをやめ、そして自分の命は、生きることをやめるだろう。
 ――考えるのは苦手だ。
とにかくぶん殴ってはっ倒す。
それくらいシンプルなほうが好みだ。
 ……繚が聞いたら、呆れるだろうな。
 百花は、細心の注意を払いながら廊下を進む。
 ――ツボミは、廊下の突き当たりにいた。
 その手の中には、アメジストのペンダント。
 やはり――『完全空間』を使うつもりだ。
「……逃げるのはやめたの? ツボミ」
「逃げてなどいないさ。お前を確実に殺すための準備をしていただけだ」
「そのペンダント、投げたところで無駄よ。何を仕込んだか知らないけど、すぐに殴り割る」
「それができるかな? 百花。今の集中力を欠いたお前に」
「……確かに万全とは言い難いわよ。でも、繚の仇のアンタを前にして、できないなんて無いわ。できなくてもやってみせる――アンタに足りないのは気合と根性よ、ツボミ」
「ではやってみればいい――やれるものならな」
 ツボミがそう言った直後、百花の両目に鋭い痛みが走った。
 ――『斬次元』によって百花の両目が、横一文字に切り裂かれたのだ。
 『不自然治癒』によって傷口は塞がる――塞がるが、それよりも早く、ツボミが投げたペンダントは、至近距離にまで迫るだろう。
「アンタの小細工には飽き飽きよ!」
 百花は、ここに来て、これまでの戦闘で隠し続けてきた奥の手――『絶対必中』『不自然治癒』に続く第三の能力を使用した。
 それは、美祢明が使用していた『不可視力(リモートワーク)』だ。
 この北第一校舎を襲撃した際、根岸藍実を押さえ込むのにも使用していたが、ツボミの目の前で使用するのはこれが初めてだ。
 投げられたペンダントを念動力によって空中に固定する。
 目視している相手にしか使えない『絶対必中』とは違い、『不可視力』は大体のイメージができていれば発動できることはすでに試していた。
 ここでようやく、百花の視力は回復する。
 空中に固定されたペンダント、そしてその遥か向こう、目を見開くツボミ。
「残念だったわね、ツボミ!」
 百花はすかさず『不可視力』によって、ペンダントを窓ガラスに突っ込ませた。ガラスの割れる音と共に、ペンダントは中庭のほうに飛んで行ってしまう。
 ペンダントに何を仕込んでいたかは知らないが、これでもう無意味だ。
「百花――まだ『能力』を隠し持っていたか――」
「能ある鷹はなんとやらってね。自分だけが賢いと思ってたら大間違いよ、
ツボミ」
「……それも月瀬嬢の入れ知恵か?」
「さあ、どうかしらね」
 百花は、ゆっくりとツボミに近付いていく。
 『絶対必中』によるラッシュで畳み掛けるにしても、距離があると逃げ切られる恐れがある――それはこれまでの再三にわたる戦いで実感した。
 ましてや今の自分は左手首を失い、全身は実質何度も死を経験しただけの痛みに苛まれている。
 この状態でツボミを殺し切るには、ショートレンジで押し切るしかない。
「……最後になるから聞いといてあげる。繚のこと、アンタは愛してたの?」
「……この期に及んでそんなことを訊ねるのか、百花。愛していたと言ったら納得するか? 愛していなかったと言ったら割り切れるか? お前は本当に繚のことが好きだな、百花。姉弟の域を超えているぞ」
「当たり前でしょうが。この世にたった一人の、血を分けた弟だったんだから。――姉が弟を想うことに、理由なんて要らないし、恥じる必要なんて無いのよ。姉弟の域を超えている? 姉弟だから、どこまでも愛しいのよ」
 百花は、ツボミとの距離五メートル以内にまで接近していた。
 一応、ツボミと行動を共にしている女子二人が教室から飛び出して奇襲を仕掛けてくることも想定して横や後ろへの警戒もしているが、その気配はない。
 まあ、割って入ってきたところで秒で殺せるが。
 百花は、さらに一歩前に出て――はあ、とため息をついた。
「アンタこそ、この期に及んで落ち着き払ったままなのね。アタシにこの距離にまで迫られて、後ろは壁。アンタの頼みのペンダントは窓の外。――ちょっとくらい焦った顔してもいいところよ」
「……ふふ。それが私という人間だからな」
「あっそう。じゃあいいわ、どうせ死ぬまで殴られれば、嫌でもその顔歪むことになるんだから」
 美祢明がしたように『不可視力』でツボミの衣服を利用した拘束を行い、一方的に殴打する。
 『斬次元』は身動きが取れない状態からでも放てるが、自分を即死させるだけの威力は無い。
 この勝負――すでに終わりが見えている。
 少し動くたびに全身の剥き出しになった神経が痛みを走らせるような状態――もちろんそれも幻の痛みだが――に顔を歪めながらも、百花は力強く歩みを進めた。
 そしてツボミに『不可視力』を使おうとしたそのとき――ツボミが、静かに口を開いた。
「……百花。お前が月瀬嬢と組んであれこれ小細工を用意してきたように、私もまた、お前を殺すために策を弄していないとでも思ったか?」
「――それがさっきのペンダントでしょうが。負け惜しみも大概にしなさいよね」
「……百花、お前の実力に敬意を表して、最後のチャンスを与えたというのに。私の言葉を負け惜しみとしか捉えられなかったのなら――やはりお前は、ここまでだ」
「だからそれは――負け惜しみでしょうがッ!」
 百花が叫んだそのとき――ツボミは、『それ』を取り出していた。
「!?」
 百花は、思わず自分の目を疑った。
 ツボミが投げた『それ』は、アメジストのペンダント。
 自分が窓の外に追いやったはずの、『完全空間』によって顕現した物体だったからだ。
「そんなはずは――」
「ペンダントの色も形も分かっているんだ。暗がりの中、短時間お前の目を欺けるだけの贋物を作るくらいはできたさ」
「ツボ、ミ……!」
 百花は、ツボミの衣服に対し使用しかけていた『不可視力』の対象を、ペンダントに変えようとしたが、それよりも先に、『完全空間』が解除されることでペンダントは消失していた。
 百花の目の前に出現し、まるで抱擁するような倒れ込んできたのは、セミロングの女子生徒。
 あのお団子頭の女子生徒と一緒にいた、気弱そうな女子生徒だ。
「『斬次元』」
 彼女の陰から、ツボミは『斬次元』を発動させる。
 ――てっきり百花は、その女子生徒を遮蔽物にすることで『絶対必中』や『不可視力』の対象から自分を外そうとしたのだと思ったが……そうではなかった。
 それは、百花の想像の埒外の行動。
 だからこそ、ツボミはその行動を取ったのかもしれない。
 百花の動揺を誘うために。
 たった、それだけのために。
 ――『斬次元』の一撃は、百花の眼前の女子生徒の上半身と下半身を、真っ二つに切り裂いていた。
「はぁ!?」
 百花は思わず叫んでしまう。
 そして当の女子生徒は、自身を襲った現象を理解する間もなかっただろう。
 不可視の斬撃により真一文字に切り裂かれた胴からは、千切れた腸や骨が大量の血と共に飛び散って。
 自らの血と臓物の海へと、上半身、少し遅れて下半身が、倒れ込み沈んでいった。
 そして――百花の思考が、その想像を絶する事態に、止まってしまっていた数瞬の間に。
 ツボミが、百花めがけてジッポライターを投げていた。
 一体何個ライター持ってるのよ、なんて場違いな突っ込みが脳裏に浮かぶ。
 ――その後で百花は、ようやく気付いた。
 ツボミに文字通り切って捨てられた女子生徒の全身は、べっとりと濡れていた。そこから漂う匂いは――ほんの数分前にも、嗅いだものだ。
 そう――灯油の匂いだ。
「アンタ、このためだけに――この子を――……!?」
「これだけしないと、お前の反応に追い付かれるかもしれないだろう? たとえ満身創痍でも、お前には多少のことでは隙が生じないと判断したまでのことだ」
 ――それだけのために、仲間を殺したというのか――いや。
 若駒ツボミという女は、それだけのために、それだけのことができる女だ。
 そんなことは、重々承知していたはずだったのに。
 元恋人である繚の死体から残酷に利用したのを、忘れてなどいないのに。
 ……繚を愛していたかを訊ねたことといい、自分はどこか、ツボミを信じたかったのかもしれない。
 仮にも弟の恋人だった女の良心というものに、期待してしまっていたのかもしれない。
 その結果が――これだ。
 あと一瞬、早く反応できたなら――ライターが床に落ちる前に対処できた。
 ――いや、もう、終わったことか。
 ツボミの見立て通り、百花はあと一歩でライターへの対応が間に合わず、再び激しく燃え上がった炎によって包み込まれた。
 『不自然治癒』による回復と、炎による致命傷とが際限なく訪れる。
 最初はこの苦痛に抗い、ツボミに拳を放とうとしたが、その前に自分の体から力が抜け、床に両膝をついてしまっていた。
 肉体は回復し続けている――だからこれは、精神の限界によるものだ。
 自分の復讐心、そして闘争心が、痛みと苦しみに屈してしまったという事実に、空手家として屈辱を覚えたが、その思いすらも倍加する苦痛は塗り潰していく。
 だから百花はただ、繚のことを思った。
 皮膚が、筋肉が、血管が、臓器が、焼かれた矢先に回復していく。
 無間地獄。
 そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
 繚のことを想うのは、その地獄から逃れるための甘えなのかもしれない。
 だけど、それだけじゃない。
 自分の誇りや戦意すら塗り潰したこの地獄すら、繚を……弟を想う気持ちだけは、決して奪うことはできないと。
 そう証明することこそが、百花に残された、最期の意地だったからだ。
(りょう……)
 泣き虫だった繚。
 いつも自分の後ろに隠れていた繚。
 自分を追いかけるように空手を始めた繚。
 挫折して空手を辞めた頃の、寂しそうな繚。
 バスケットボールで頭角を現し、立派に成長した繚。
 人気者になり、いつも誰かと一緒にいた繚。
 生徒葬会の中で、自分と共に行動することを選んでくれた繚。
(ざまあみろ……誰にだって、アタシの心から、繚を奪えはしないのよ。それがたとえアンタでもね……ツボミ)
 百花の勝ち誇った思いとは裏腹に、肉体は糸が切れたように、その場にうつ伏せに倒れてしまう。
 『不自然治癒』が発動しなくなったのは、それから間もなくのことで。
 立花百花は、誰が見ても百花だと分からないほどに、焼き焦がされていった。



「自動で発動する能力も使用者の精神が限界を迎えれば効果を維持できなくなる、ということなのかな。結局は『議長』の匙加減でしかないのだろうが」
 焼け焦げた百花と環奈の亡骸に、廊下にあった消火器の中身を浴びせながら、ツボミは呟いた。
 再三自分の目の前に立ちはだかった宿敵は死んだ。
 手帳に表示されている生存者数は、『21』に変化している。
 百花と対峙する直前は『23』だったので、同じ頃に別の場所で死亡した生徒はいないらしい。
「……どうして」
 ――廊下に茫然と立ち尽くしたまま、やっとのことで絞り出したような声でそう問いかけてきたのは、根岸藍実だった。
 その拳は、掌に爪が突き刺さって血が滲むほどに強く握られ。
 両の目からは、大粒の涙がとめどなく溢れている。
「どうして環奈を――殺したんですか」
「……百花を殺すために必要だったからさ。私としても心苦しいが――」
「白々しいことは言わないでください……! あの人の動揺を誘う手段は他にもあったはずです。環奈を使うしか方法がなかったとは、私には思えません……!」
「藍実。お前がどう思うかは自由だが、それが真実だ。――ただひとつ言っておくことがあるとするなら。――私は、素直で忠実な子のほうが好きではあるな」
「…………!」
 藍実が、何かに気付いたように目を見開く。
 ――百花に襲撃される前の藍実と環奈の会話を、ツボミは廊下で耳にしていた。
 だからツボミは、環奈が自身に付き従うことに疑念を抱き始めていたことを知っていた。
ただ、それだけを理由に環奈を粛清するほど、ツボミは冷酷ではない。
 環奈の『超自然治癒(ネオヒーリング)』は便利な能力だし、東城一派に惨い目に遭わされていた彼女への同情も、無いわけではなかったからだ。
 ――だが、捨て駒が必要となった場合に、彼女を選ぶ理由には――藍実ではなく環奈を選ぶ理由には、なり得るだけの要素ではあった。
 そしてそのときが、思いのほか早く訪れたというだけのことだ。
「藍実。私と一緒にいるのが怖くなったか? 自分も環奈のように殺されるのではないか――そう思っているんじゃないか?」
「あ……当たり前じゃないですか……! ツボミさんは――私たちを守ってくれると言ってくれました。なのに、あなたを信じた環奈を、あなたは――うぐっ」
 藍実の言葉を遮るように、ツボミは藍実を抱き寄せた。
 そしてその唇に、自身の唇を重ねる。
「~~~~ッッ!」
 ――最初は体を硬くしていた藍実も、やがて脱力し、ツボミの舌を受け入れた。
「ん……」
 それからしばらくして、ツボミは藍実の唇から唇を離す。
 二人の舌からは、お互いの唾液が糸を引いていた。
 ――ツボミと藍実が唇を交わすのは、これが初めてではない。
 生徒葬会という異常事態の中、藍実は、自身の命を救ってくれた恩人であるツボミに、肉体的にも精神的にも依存していた。
「藍実は賢い子だと私は知っている。私は藍実に、これからも賢い子でいてほしい。そうである限り、私はお前を見捨てはしない」
「……最低です、ツボミさん――私がその言葉に――ツボミさんに、縋るしかないことを、分かっているくせに……!」
 藍実は、キスで紅潮した頬のまま、両の瞳からは涙を流し続けていた。
 その表情には、悲しみと怒りと快楽がごちゃ混ぜになっている。
 ツボミはそんな藍実を再び抱き締め、耳元で囁いた。
「私が許せないなら殺せばいい。ほら、今なら私を殺せるぞ。首でも胸でも腹でも、好きな場所を刺せばいい」
「っ……! できるわけ……ないじゃないですか……!」
 藍実は、今度は悔しさを露わにした表情で小刻みに震えていた。
 ――そう、できるわけがない。
 それができないから、藍実はツボミの庇護の下で行動しているのだし。
 それができないから、百花との戦いに割って入ることはしなかったのだから。
 ――むしろ藍実は、どこか安堵もしていたはずだ。
 自分ではなく環奈が選ばれたことを――そしてそれを、藍実自身分かっている。
 分かっているからこそ、藍実は今、ただただ震えるしかできないでいるのだ。
「やはりお前は賢い子だ、藍実。だから何も悔やむことなんて無いんだ」
「うう……ううううう……!」
 藍実は、ツボミの胸に顔を埋めたまま、嗚咽を漏らし続けた。
 その頭をそっと撫でながら、ツボミは優しい声音で語り掛ける。
「藍実、環奈を殺したのは私だ。お前じゃない。だからお前が環奈のことを想い悩む必要は無いんだ。お前はこれまで通り、私を手助けしてくれたらそれでいい。お前は悪くない。お前の罪など、どこにもない」
 ――その言葉は、藍実の疲弊した心に、甘く染み渡ることだろう。
 ツボミが再び藍実の唇を奪ったとき、藍実はもう、一切の抵抗をしなかった。
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紗灯れずく 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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