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第百二十五話 圧倒

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【11日目:未明 屋外南ブロック】

 一ノ井雫に対し、最初に動いたのは鹿島鳴人だった。
 しかしそれは当然だろう――雫に背後に立たれている鳴人は、すぐに動かなくてはならなかった。
 振り返りざまに掌の中の石を至近距離から投げ付けようとし――それよりも速く、雫は右手を振っていた。
 パンチでもチョップでもビンタでもない、ただ振っただけ。
 飛んできた蚊や火の粉を払うような、なんてことのない動作。
 ただそれだけで――鳴人の巨体が宙を舞っていた。
「……!」
 それを、暁陽日輝は茫然と見つめるしかなかった。
 鳴人は五、六メートルは先の地面に墜落し、それでも衝撃は消化し切れず、何度もバウンドを繰り返しながら、最終的には二十メートル以上吹っ飛ばされる形となった。
 うつ伏せのまま、ぴくりとも動かない。
 意識があるのかないのか――それ以前に生きているのか死んでいるのか、それすらわからない。
 ただ――このままでは、自分たちもそうなるということは確かだった。
「あらら、力加減難しいなあ。一撃で終わらせたらつまらないから、手加減したつもりだったんだけど」
 雫は、起き上がる気配のない鳴人を見て、人差し指を唇に当てて首を傾げた。
 その何気ない仕草にすら、『吸血鬼(ヴァンパイア)』の能力によって規格外の力を得たことによる傲慢さが滲んでいる。
 陽日輝は拳を握り締め、一歩前に進み出た。
「ハナちゃん――俺を殺すのは、もう少し待ってくれないか」
「あの人は暁先輩を殺すつもりなんですね」
 ハナは、狂気に澱んだ瞳のまま、そう呟いた。
 ハナの精神はひどく不安定だが、狂気と理性が同居している。
 少なくとも、ここでなりふり構わず自分を殺しに来る気配はなかった。
「陽日輝! 一気に畳み掛けますわよ!」
 四葉クロエが叫び、『死杭(デッドパイル)』『大波強波(ビッグウェーブ)』を同時に発動させた。
 四本の杭が雫めがけて飛来し、さらにそれより速く、大量の水流が雫の足元まで到達した。
「アハハ! 波? そういうのもあるんだ!」
 雫は、コンクリートの地面を叩き割るほどの踏み込みでジャンプし、水流を回避する。そこを自動追尾して『死杭』が両手両足に突き刺さったが、『死杭』が命中という条件を満たして消滅してすぐに、その傷口は塞がっていた。
 それを見越していたクロエが『大波強波』で作り出した水流を掬うように両手を振り回し、大量の水の刃をそこに飛ばしたが、雫はそれを防御姿勢すら取らずに浴びる。
 彼女の顔から腹にかけて大量の切り傷が生じては塞がっていく――陽日輝は、地面を蹴っていた。
 着地の瞬間だけは無防備のはず。
 そう見越して、『大波強波』に足を取られないようそのギリギリ外で踏み切って、今まさに着地、否、着水する雫めがけて『夜明光(サンライズ)』を纏った右の拳を繰り出した。
「アハ――空中なら無防備とか考えてる? それ、吸血鬼(わたし)には通じないからぁ!」
「!?」
 雫はその瞬間、陽日輝の視界から消えていた。
 ――影だ!
 すでにその能力を把握していた陽日輝はすぐさま視線を落としたが、そのときには、外灯に照らされて生じた陽日輝の影の端から、雫が再出現していた。
「あの子の能力のひとつは水を固める能力みたいだけど、それくらいなら私は素で出来ちゃうんだよねぇ!」
 雫は、足元を流れる水を掬い上げるようにして陽日輝の胸にぶつける。
「うぐっ!」
 それだけで、陽日輝はハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
 雫の強化された腕力による、ただの水飛ばし。
 それはクロエの『硬水化(ハードウォーター)』を、強引に再現していた。
 陽日輝は思わず数歩、後ずさってしまう。
 その間に、クロエがさらに大量の水の刃を雫に浴びせたが、当たった先から回復してしまうので、まったくもって有効打にはならない。
 やはり、『夜明光』を直撃させるしかない――それも、回復の隙を与えないよう連続で。そうすることで、雫の肉体を、跡形も無く焼き溶かすしか勝ち筋はなかった。
「ねえ暁君、私あなたに感謝してるのよ? あなたが連れてた一花のおかげで、私は限界いっぱいまで血を飲めた。おかげでほら、こんなこともできちゃう」
 雫はそう言って、自分の左胸に右手を突っ込んだ。
「……!」
 思わず息を呑む。
 雫が、自分の心臓を引き出していたからだ。
 血管ごと引き出された心臓に力を込めて握り潰す。
 飛び散った血の一部が、陽日輝の制服や靴にも付着した。
 だが――その直後には、握り潰した心臓やその際千切れた血管は霧と共に消滅し、雫の左胸の穴も塞がっていた。
「血のおかげか痛みもあまり感じなくなったんだよね。アハハ――もう何も怖くない! 多少力を使っても、一花から血はいくらでも補充できる! 私がこの生徒葬会で最強なのよ! 生きて帰るのはこの私! アハハハハ!」
 勝ち誇ったように高笑いする雫は――気付いていなかった。
 彼女の言葉が、ある一人の生徒にスイッチを入れたことを。
 ――その生徒は、ゆっくりと歩き出していた。
「――暁先輩、教えてもらっていいですか」
 その生徒は――三嶋ハナは、抑揚の無い声でそう呟く。
 理性と狂気の同居する澱んだ瞳に、確かな怒りをたぎらせながら。
「あの人が――辻見先輩を連れていったんですか」
「……ああ」
 自分は、一花を守れなかった。
 その結果、一花は血液タンクとして利用され、雫がここまで強くなってしまっている。
 だが――ハナがその事実を知ったことで、ある変化があった。
 ハナにとって雫が、『突然現れた無関係の生徒』から、『一花をいいように利用している殺すべき相手』になったのだ。
 そしてそれをいち早く察して声を上げたのは、クロエだった。
「ハナ! あなたが憎むべきは陽日輝ではありませんわ! そいつが一花を奪い、利用しているのですわ!」
 クロエの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ハナは駆け出していた。
 雫はニィッと笑い、ハナのほうに向き合う。
「それがどうしたの? 別に殺してないんだから怒ることないでしょ」
 だが、雫は知らない。
 その言葉がさらに、ハナの地雷を踏んだということを。
 殺してないんだから――そんな傲慢な言い分が、どれだけハナにとって許せないものであるかを。
 東城一派に囚われ、欲望の捌け口として利用され続けてきたハナたち。
 彼女たちからすれば――殺さない、そんなことは優しさでもなんでもない。
 ただ、好きなように使うために生かされていただけ。
 そうして自由も尊厳も踏み躙られてきたハナにとって。
 絶対強者として振る舞う雫のその姿は、憎き東城たちを思い起こさせるのに十分なものだった。
「まあとりあえず先に死んどくぅ?」
 雫はそう言いながら、軽い力で右手を振った。
 だが――その右手は、ハナが出現させていた不可視の『壁』によって防がれる。
「――あら、そういう能力。それならもうちょっと力を――」
 だが、そのときにはハナは、出現した『壁』に全体重をかけ、押していた。
 そうすることで、目には見えない巨大な『壁』が雫の全身を後ずらせる。
「な、なぁっ!?」
 それでも、雫が全力を出せば簡単に逃れられてしまう程度のものだろう。
 だが――想定外の能力によって虚を突かれたこのタイミングは、千載一遇のチャンスだ。
「うおおおおおお!!」
 陽日輝は咆哮し、『壁』を押し返そうとした雫の左側面から殴りかかり、その左腕を『夜明光』で殴り飛ばした。
「ちっ――うぐっ!」
 失った左腕はすぐに再生を開始したが、一時的に片腕となったことで『壁』に再び押し負け、雫は近くにあった外灯に背中から叩き付けられた。
「小賢しい!」
 雫は苛立ちを隠そうともせずに叫び、『壁』を殴り壊した。
 しかしそのときには、クロエが再び『死杭』を命中させる。
「だから意味なんて無――」
「無くはないですわ! あなたの力がほんの少しずつ弱くなっているのを感じますもの――このまま反撃の余地を与えず、削り切りますわよ!」
 クロエはそう言いながら、またしても『死杭』を使用した。
「そんなノロい攻撃、何度も当たらな――うぐっ」
 雫は、ハナが再び地面を滑らせてきた『壁』の直撃を受ける。
 その間に、『死杭』が彼女の両手両足を貫き、消えた。
 そしてその隙を突いて、陽日輝も殴りかかる。
「ええい鬱陶しい!」
 雫は、『壁』を蹴り砕き、陽日輝に飛び掛かってきた。
 だが、そのときにはまた次の『死杭』が彼女の両手両足に突き刺さる。
 その傷が塞がるのは、これまでのように一瞬ではなく、一秒弱の時間を要していた。
 そして、その間に陽日輝の右ストレートが雫の左胸に直撃する。
「ああもうウザイウザイウザイウザイ! 雑魚の癖に寄ってたかって、いい加減にしろクソムシがァァ!」
 雫の口調が荒れていく。
 実際にはまだ彼女の治癒能力は健在で、そこまで追いつめられているわけではないのだが、圧倒的格下たちにじわじわ削られていて、反撃の暇も与えられていないという状況に、彼女の精神がバランスを崩し始めているのだろう。
 南第三校舎で追い詰めたときにも感じたが、雫は決して精神的に強い生徒ではない。
 東城要や若駒ツボミ、それに霞ヶ丘天。
 そういった生徒たちに比べると、あくまでも『能力』が強いだけだ。
「あんたたちはグチャグチャにして鳥のエサにしてやる! 私を怒らせたことを後悔させて――」
 雫のその言葉は、そこで止まった。
 無理もないことだ――クロエが飛ばした水の刃が、外灯を破壊していたからだ。
 それにより、辺りは暗闇に包まれ、雫が逃げ込む影が消えてしまう。
 とはいえ、彼女が冷静であれば、『だからなんだ』と切って捨てることができた状況の変化だろう。
 影に潜む力が使えなくとも、彼女は身体能力と治癒能力のゴリ押しのみでこの場にいる生徒を殲滅できるだけの力を持っているのだから。
 だが、雫は手札が一枚封じられたことに過度に動揺した。
 そしてその隙は――さらなる集中攻撃の呼び水となる。
 ハナの壁に動きを封じられ、陽日輝の拳とクロエの『死杭』を食らう。
 その繰り返しによって、雫の顔に汗が浮かび、狼狽の色が浮かんだときだった。
「――キミたち、それまでだよ」
 よく通る、そして聞き覚えのある声。
 その声のほうに振り向くと、そこには鎖羽香音がいた。
 そしてその左腕は、辻見一花の首をガッチリと押さえている。
 一花は相変わらず茫然自失としたままだが、その目が心なしか、助けを求めているような気がしたのは、気のせいだろうか。
 南第三校舎のときと同じ――羽香音が再び、一花を人質にしている。
「辻見先輩――」
 ハナが、明らかに動揺する。
 無理もない――ハナにとって一花は、共に東城一派に囚われていた、いわば辛苦を共にした仲間のようなものなのだから。
 そして。
その隙を見逃す雫ではなかった。
「アハハ――ナイス羽香音!」
 雫は地面を蹴る。
 陽日輝、そしてクロエは動いたが、間に合わなかった。
 羽香音の介入で一旦場の動きが止まったことで、雫もいくらか冷静さを取り戻していたこともあり、その動きは無駄が無く俊敏だった。
 雫は、あっという間に陽日輝たちの間合いから脱出し、羽香音の近くにまで退避する。
「どうする? 今度こそ見捨ててみる?」
 羽香音が、いたずらっぽく笑って言った。
 クロエが、こちらを窺って目配せしてきた――その目が言っている、「やるしかありませんわ」と。
 ――だが。
 そこで動いたのは、クロエではなかった。
 真っ先に歩き出したのは――ハナだ。
「ハナ!?」
 これはクロエにとっても想定外だったようで、その声には驚きの色がある。
 しかしハナは、構うことなく歩き続けた――羽香音たちのもとへ。
「ア――アハハ、何考えてるの? 殺すよ、人質。あなたにとっても知らない人じゃないんでしょ? ねえ――」
 雫の言葉には、ハナの足を止める力はなかった。
 これには雫だけではなく、羽香音も眉をひそめる。
「……正気じゃないね、キミ。キミが止まらないと、この人、殺しちゃうけど」
 しかし、ハナは止まらない。
 その足取りには、一切の迷いがなかった。
「あなたたちのような人がいるから」
 ハナは。
 半ば独り言のように、低く呟く。
 それは呪詛であり、悲鳴でもあった。
 生徒葬会によって翻弄され、凌辱され、絶望させられ続けてきたハナの、そして一花たちの。
「死んだほうがいいなんて思えてしまう。私も辻見先輩も、きっとここで死んだほうがいい。そのほうがもう、苦しまなくていい。悲しまなくていい。――優しかった誰かのことを思い出して、心が痛くならなくて、いい」
 優しかった誰か。
 その言葉を口にしたときだけ、ハナの声が憂いを帯びた。
 そしてそのとき、ほんの一瞬、視線を後ろに――こちらに向けたことに、陽日輝は気付いていた。気付いて、しまっていた。
「ハナ、ちゃん――」
「だから私たちを殺してよ。それができないなら、私に殺されてよ」
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