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第百二十八話 怨恨

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【11日目:早朝 旧校舎二階 踊り場】

 骨折という経験。
 運動部でもなければアウトドアな趣味があるわけではない御陵ミリアにとって、それは人生で初めての経験で。
 昨日の昼に一ノ井雫によって折られた右手首の痛みのせいで、彼女はほとんど眠れないまま朝を迎えていた。
「はあ……」
 ミリアは溜息と共に、旧校舎の、年月を重ねた木造建築特有の古くなった木の匂いを吸い込む。
 学び舎としての役目をとうに終えている旧校舎は、時間も空間も澱み、停滞しているかのようだ。そんな空気を吸い込んだところで心地良くはなかったが、五感に何かしらの刺激を与えたほうが痛みも紛れる。
 ミリアは右手首をタオルでぐるぐる巻きにして、それを『糸々累々(ワンダーネット)』の糸で固定していた。熱を帯びた右手首は重く、腫れてもいた。
 間違って壁や自分の体にぶつけてしまうだけでも跳び上がりそうなほどの痛みが走るので、厚手のタオルをクッション代わりにしているのだが、何より右手が満足に使えないということ自体が不便だった。
 水筒を開けて、その中の水を飲む。
 濡らしたタオルを絞り、顔や身体を拭く。
 トイレに行って下着を下ろし、用を足す。
 そういった日常的な動作の多くが、両手が使えることを前提としていることを痛感させられた。
 幸い、雫を退けてからは他の生徒に出会っていないが、この状態で誰かと殺し合いになったとき、不利なのは否めないだろう。
 そう考え、ミリアはこの旧校舎を潜伏場所に選んだ。
 床板が所々腐った年季の入った建物なので、どれだけ注意を払っても廊下を歩けばギイギイと軋む音が校舎全体に響き渡るからだ。
 そして、一階には『糸々累々』による捕獲網を展開している。
 もし誰かが侵入してきたのならば、ここに来るまでにかなりの量の糸を身体に絡ませることになり、対面するときには糸を引けば動きを止められる準備が整っているというわけだ。
 とはいえ、ただでさえ非力な自分が、片手でしか糸を引けない状態。
 ほんの一瞬、相手の動きを止めるのが限界だろう。
 だからその隙を逃さず『影遊び(シャドーロール)』を浴びせ、手早く致命傷を与えなければならない。
 今、生き残っている生徒は、自分を除けば十八人。
 この手が容易く通じる相手ばかりとは限らないが、今の自分にできる精一杯の自衛策だ。
 ――そういえば、旧校舎の近くを裏山方面に向かう人物を見た。
 あれはまだ日付が変わったばかりの頃、自分が夜の闇の中、右手首の痛みと、骨折に伴う吐き気に苦しみながら過ごしていたときだ。
 旧校舎の裏手には学校の敷地内にあるものとしてはなかなかに広大な裏山があり、その頂には数人が生活を送れるほどの小屋がある。
 そう、暁陽日輝らが一時期潜伏していた場所だ。
 彼らは悪人ではなかった、むしろ善人だったと思う。
 彼らを『楽園』との戦いに引き込んでおきながら、一方的に同盟を解消して逃げたことに関しては、罪悪感がないわけではない。
 しかし、来海と吐和子を――二人の親友を失ったミリアに、彼らを案じる余裕は無かった。
 ――あのとき、窓からそっと見下ろした自分が見たのは、男子生徒だった。
 夜の闇の中だったので、顔までは良く見えなかったが、体格は良かったと思う。
 陽日輝ではなかったが、となると誰だろうか。
 今生き残っている可能性がある生徒のうち、男子はそう多くない。
 どういうわけか女子のほうが多く生き残っているのは、女子特有のしたたかさゆえか、男子は好戦的ですぐに死地に赴くからか。
 あの人物は、同級生の鹿島鳴人あたりだっただろうか。
 ……実際にミリアが見た人物は、その後相川千紗・日宮誠と合流することになる元・空手部員の立石茅人なのだが、彼女に知る由はなかった。
 ――三人から二人になって、すぐに二人から一人になって。
 死んだ親友たちの思い出と共に生き抜くことを誓ったものの、常に不安は付き纏っている。
 このままこうしているうちに、自分以外の生徒が相討ちか何かで死んでくれたならいいのに。そんな非現実的なことを考えてしまう。
 ――非現実的というのなら、この状況がまさにそうではあるが。
 ミリアは、自分のか細く、青白い腕を見た。
 骨の形も浮き出て目立つくらいの、頼りない細腕だ。
『君はもう少し栄養価の高い食事をすることをオススメするよ』
 来海はそんなことを言いながら、分厚い黒魔術の本を読んでいた。
『ウチの弁当分けたげよっか? 唐揚げは正義よ? ウマイのはエライんよ』
 吐和子はモグモグと弁当のおかずを頬張りながら、箸で唐揚げを示した。
『うん……考えとく』
 食の細い自分は、いつもそんな風に答えていた。
 ……こんなことになるんだったら、もっと身体を鍛えていればよかったな。
 吐和子にジョギングや筋トレに誘われたとき、やってみればよかった。
 とはいえ、後悔先に立たずだ。
 今の自分で、生徒葬会を生き抜いていくしかない。
 そんなことを考えていた矢先、旧校舎に来訪者が現れた。
「…………!」
 一階の床板が軋む音。
 予想以上に響くその音に驚き、引き返してくれたらいいのに。
 しかし、来訪者は迷うことなく廊下を進む。
 一応、足音の間隔がゆっくりではあるので、周囲を警戒しながらではあるのだろうが。
 わざわざこんな場所にまで来るのは、隠れ場所を求めてか、それとも他の生徒を――手帳を求めてか。
 ミリアは、傍らに置いた懐中電灯のストラップに左手首を通した。
 手首で懐中電灯をぶらぶらと提げた状態で、宙に張った糸を掴む。
 足音が近付いてくる。
 喉が渇き、心臓がばくばくとやかましい。
 こんなとき、前に出て戦ってくれた吐和子も、助言をくれた来海もいない。
 それでも、彼女たちと共にいた思い出が、自分に立ち向かう勇気をくれる。
 あの怪物じみた身体能力の一ノ井雫だって退けたのだ。
 誰が来ようと――生き残ってみせる。
 そう決意したミリアの視界に現れたのは、一人の女子生徒だった。
「あ」
 口をぽかんと半開きにして、階段の下からこちらを見上げる。
 朝焼けに照らされた小麦色の肌は、屋外の運動部特有の日焼けした肌だ。
 髪の毛を、少し珍しいサイドテールにした、スレンダーな女子生徒。
 ワインレッドのジャージ上下に運動靴といういでたちのその女子生徒は、陸上部の西寺汐音だった。
 ……ミリアは、汐音との間に面識はない。
 ただ、来海が『偏執鏡(ストーキングミラー)』を使用するためにアルバムに目を通していた際、吐和子が運動部員に関しては一言二言、情報をくれていた。誰々は運動神経が良いとか、誰々はケンカっ早いとか、生徒葬会において有意義そうな情報を。
 汐音は、陸上部の中距離走(800m・1500m)の選手らしい。
 それだけで、体力も運動神経も乏しいミリアにとっては警戒の対象だった。
 そして――こちらに気付いて一瞬ぽかんとした汐音は、次の瞬間にはこちらに向かって動き出そうとし――ミリアは、すかさず『糸』を引いていた。
「うわっ!」
 進もうとしたところで全身に圧がかかり、汐音が驚く。
 ミリアはすかさず懐中電灯のスイッチを――
「――やってくれるじゃないですか、御陵センパイ……!」
 ――汐音は、何故か面識が無いはずのこちらの名前を呼び。
 次の瞬間、彼女の足元から、突風が巻き起こった。
「うっ!?」
 旧校舎の床板に乗っていた埃や木屑が巻き上がると共に、汐音に絡み付いていた『糸』も緩み、解かれてしまう。
 その直後、汐音は床を蹴っていた。
 ミリアは懐中電灯を彼女に向け――彼女の影に照準が合うよりも一瞬早く、汐音が繰り出した右脚の爪先が、懐中電灯を跳ね上げていた。
「……!」
 ストラップが痛みと共に手首から抜ける。
 蹴り飛ばされた懐中電灯の行方に一瞬視線を向けてしまった間に、汐音はミリアの懐に入っていた。
「あうっ!」
 左脇腹に鋭い痛み。
 汐音が放った左のミドルキックが刺さるように炸裂したからだ。
 陸上部員の鍛え上げられた足腰から放たれる蹴りは、やせ細ったミリアにとって未曽有の痛みをもたらす。
 だが、それだけではない。
 彼女の『能力』が、明らかに汐音の蹴りの威力を増幅させていた。
「御陵センパイ……私、あなたのこと知ってるんですよねー」
 汐音は、脇腹を押さえて膝を落としてしまったミリアの髪を右手で掴む。
 そして強引に顔を上げさせ、軽蔑の眼差しを向けた。
「よく学校の多目的トイレとかで売春やってたでしょ? 一部じゃ有名ですよ。金さえ払えば簡単にヤレる女がいるって。この生徒葬会でも、男に股開いて生き残ってきたんですかぁ?」
「そ……そんなこと」
 ない、とまでは言えなかった。
 実際自分は、何人かの男子生徒を身体を餌に協力させた。
 今だって、こうして自分を追い詰めている相手が異性だったなら、身体を許してでも生き延びようとしただろう。
 しかしそれは、来海と吐和子のために、何が何でも生き残るためだ。
 かつて自分は、自分に価値を見出せなかったから、そういう自分になった。
 だけど――過去は変えられない。
 こうして、愚かな過去が今の自分を追い詰めている。
「私、一年のときに気になってた先輩がいたんですよね。カッコよくて面倒見が良くって、憧れちゃってたなぁ。でも、信じられます? その先輩、あなたに金渡してセックスさせてもらってたんですよ。軽蔑っていうか幻滅ですよね。あー、この人ヤレるなら何でもいいんだって。だから私、あなたのこと前から嫌いだったんですよね」
「わ……私が体を売ってたのは確か、だけど。それで私を恨むのは、おかし――うぐっ」
「わかってないなぁ御陵センパイ。なーにもわかってないですよ」
 ミリアの後頭部を壁に軽く叩き付けて、汐音は言う。
 叩き付けられた際に右手首もぶつけてしまい、脳天まで突き上げるような痛みが走った。
 左脇腹の鋭い痛みもまだ引きそうにない。
 涙すら浮かんだミリアに、汐音は続けた。
「私は別に『よくも先輩をたぶらかしたな』みたいなこと言うつもりはないんですよ。私が許せないのは、その程度の低俗な人間だった先輩を好きだったその頃の自分。だってバカみたいじゃないですか。だからそんな屈辱的な気持ちにさせたあなたが大っ嫌いだったんですよ――ねえ、大して美人でもない癖、にっ!」
 汐音はミリアの髪を離したのもつかの間、その顔面に足の裏を押し付けた。
 汐音の靴底と壁とに挟まれ、そのまま頭蓋骨が割られそうだ。
 左手で汐音の足首を掴んだが、その足を押しのけるほどの力は無い。
 ――汐音の理屈は身勝手で、不条理だ。
 だけど異議を唱える余裕なんてなかった。
 このままでは、本当に頭を潰されてしまう。
 ミリアは密かに、口から『糸』を吐いて、汐音の足首、そしてそれを掴む自身の左手に出していった。
 どうにか『糸』で一瞬でも隙を作れれば――
 そう考えていたミリアだったが、汐音の侮蔑するような声がその思惑を打ち砕く。
「口から糸吐く能力ですか? キモイですね先輩。ま、あなたにはピッタリですけど」
「……!」
「なんで見えてるのかって言いたげですね。私、目は割といいんですよ」
 吐和子から、岡部丈泰には『糸』を見抜かれたとは聞いていた。
 だからそんなこともあるとは思っていたが――なんとか、間に合った。
 ミリアは糸を引こうとし――そのとき、汐音がもう片方の足でドン、と床を踏み鳴らした。
 その瞬間、またも彼女の周辺に突風――否、これはつむじ風か? ――が巻き起こり、せっかく吐き出した糸は宙に舞い飛んでしまう。
 床や地面から風を発生させる――それが汐音の能力なのだろう。
「その能力、私の能力と相性最悪ですよセンパイ。運が悪かったですね。で、どうします? まだ抵抗します? 私、そんなに積極的に他の生徒殺すつもりはないんですけど、センパイのことはほんと無理なんで。ま、でもこうしてボコボコにしたら少しはスカッとしたんで、足折るくらいで許してあげてもいいですよ? まー手帳はもらっていきますけど」
 汐音が言ったように、『糸々累々』は彼女に対し圧倒的に不利だ。
 糸が細く軽いものである以上、彼女が起こす強風には弱い。
 なら『影遊び』しかないが、蹴り飛ばされた懐中電灯は壁にあたって跳ね返り、運が悪いことに階段を転がって下のほうまでいってしまった。
「それとも、オトコに助けてもらいます? 散々カラダ売ってきたんですから、一人くらい助けてくれるかもしれませんよ?」
「…………!」
 今生き残っている可能性がある生徒の中に、自分と関係を持ったことある生徒はいない。
 いや――仮にいたとしても、この場には自分と汐音しかいないし、それに。
「ま――金で性欲処理に使っただけの女を、この状況で危険を冒して助けようなんて奴はいないでしょうけどね」
 ……汐音の言う通りだ。
 ミリアは、ブレザーの内ポケットに入れている予備の懐中電灯のことを考える。
 何の考え無しに取り出しても、防がれて終わりだ。
 どうにかして、隙を作らなければならない。
 そんなことを考えていた、そのときだ。
 旧校舎の一階の廊下を、誰かが走る音が聞こえてきたのは。
「「!」」
 ミリアと汐音、両方がそちらに意識を向ける。
 ――が、そういった隙を待っていたミリアは、すぐに動いた。
 懐中電灯を取り出し、その光を汐音の影に当てる。
「ぎぃ!?」
 だが、汐音の身体を焼けたのはほんの一瞬。
 汐音はミリアの顔を踏んでいた足を引き、すぐさまミリアの左手首に蹴りを食らわせたからだ。
「あぐっ……!」
 まずい、と思った。
 今度の蹴りは懐中電灯ではなく、左手首に直に叩き込まれた。
 それにより、左手首にも昨日感じたばかりの鈍く嫌な感触が走るのを感じる。
 ――右手首に続いて、左手首までも折れてしまったのだ。
 思わず懐中電灯を取り落としてしまう。
 汐音は憤怒の表情で、その懐中電灯を拾い上げた。
「やってくれるじゃないですか……! せっかく命だけは助けてあげようと思ったのに、もうこれはぶち殺し確定ですよセンパイ。ま――先にこっちですけど」
 汐音はミリアに背中を向け、階段を降りていく。
 そして――廊下の向こうから迫る人物を目視し、舌打ちをした。
「面倒臭いのが来たなぁ」
 汐音は、『影遊び』を一瞬受けたことでほんのり火傷した首を掻きながら、向かってくる生徒に呼びかけた。
「――浅木。キミじゃ私に勝てないって、生徒葬会の初日に思い知らせたはずだけど」
 そう呼ばれた男子生徒――二年生の浅木二三彦(あさぎ・ふみひこ)は、ミリアからはギリギリ見えない位置で立ち止まったようだ。
「愚問だな西寺。ヒーローは何度でも立ち上がるんだぜ」
「ロールプレイも大概にすれば? こういう状況でヒーローごっこしたくなるキミのガキさ加減とアホさ加減はもう十分堪能したから。あのときと違って私も覚悟が決まってる。だから、今度はしっかり殺すよ? 浅木」
 来海や吐和子からも特に情報の無かった生徒だが、こうして残り十九人という状況まで生き残っているだけの何かがあるのだろう。
 自分の場合は、それは来海と吐和子の存在だった。
 彼の場合は――何なのだろうか。
 ……今の内だ、とミリアは思った。
 懐中電灯は失ってしまったが、この期を逃してはこの危機を脱することはできないだろう。
 二人の会話からして、汐音と二三彦は一度戦っていて、そのとき汐音が勝っている。
 二三彦が殺される前に、少しでも遠くに逃げなければ。
 一旦二階に上がり、廊下を進んで、反対側の階段から降りればいい。
 ミリアがそう考え、そっと動き出そうとしたそのとき。
 汐音と二三彦の戦いは、唐突に始まっていた。
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