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第百三十二話 秘密

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【11日目:朝 西第一校舎一階 旧化学室】

 暁陽日輝たち三人は、三嶋ハナたち三人と別れてから、彼らと反対の方向に移動した。ハナたちは東に向かったので、西に向かった形だ。
 そして辿り着いた西第一校舎の一階にある旧化学室で、休憩を取っていた。
 洗面台付きの大きな長机が複数並び、奥には薬品棚が壁沿いに鎮座している部屋。
 とはいえすでにここは『旧』化学室なので、薬品棚の中にあるビンもまばら、化学室特有の薬臭さもあまり感じない。自分たちが普段授業で使用していた化学室は本校舎にあり、それも『楽園』との戦いで焼失してしまっている。
 陽日輝は机沿いに置かれた丸椅子ではなく、机の上に腰掛けた状態で、
包帯を巻いた自身の左の掌を見つめていた。
 ハナのナイフを鷲掴みした際に付いた傷だ。
何度か包帯を替えて、出血はすでに収まっているが、ジクジクと疼くような痛みは微かに残っている。
 そしてその傷の痛みが、否応なしにハナのことを思い出させる。
 ハナ――そして辻見一花。
 その二人を救う力は、自分にはなかったという事実を、この痛みが忘れさせてくれない。
「いつまでそんな顔をしているんですの」
 斜向かいの机に腰掛けた四葉クロエが、諫めるように言った。
「別にあなたはハナたちを見捨てたわけではないんですのよ。鹿島鳴人と一緒なら並大抵の生徒には不覚を取らないはずですわ」
「……分かってる。でも、俺はハナちゃんと辻見さんのことを忘れたくない。二人とも、この生徒葬会で確かに話して、一緒に過ごした時間だってあるんだから」
「……難儀ですわね」
 クロエは溜息混じりにそう言った。
 そんな自分に付き合ってくれているのだから、クロエも人が良い。
 実際、彼女はそれ以上問い詰めることはなく、ぴょんと机から飛び降りた。
「見回りがてら、お手洗いに行って参りますわ」
「……ああ、気を付けて」
「勿論ですわ」
 クロエは右手をひらひらと振って答え、旧化学室から出て行った。
 リノリウムの床を靴が叩く音が、少しずつ遠ざかっていく。
 ……そのときだった。
 しばらく黙り込んでいた凜々花が、おもむろに口を開いたのは。
「……陽日輝さん。少しお話いいですか?」
「……ああ。――クロエちゃんに関係あることか?」
 陽日輝も馬鹿じゃない。
 凜々花の様子に少し違和感を覚えてはいた。
 そう――それは、一ノ井雫たちとの殺し合いが終わったときからだ。
 それは、ゲーム部の先輩である鎖羽香音を殺めたことによるものだとも考えていたが、クロエが離席したこのタイミングで切り出すのだ。
 クロエに関係していることだと考えていいだろう。
「……はい。実は――」
 ――凜々花は、死に際の羽香音から聞いたという言葉について話してくれた。
『四葉クロエに気を付けて。彼女には、あなたたちに秘密にしていることがある』
 羽香音は自分を看取る凜々花に、そう言い残したというのだ。
「……なるほどな」
「……クロエはこれまで、何度も私たちを助けてくれました。ですが、部長が嘘を吐いているようにも思えないんです」
 凜々花は、しきりに扉のほうを気にしながら言う。
 眉を寄せて唇を結んだその表情は、ただただ辛そうだった。
 共に戦ってきた友人と、慕っていた部活の先輩。
 どちらを信じればいいのか、板挟みになっているのだろう。
「……俺は『楽園』の幹部としての鎖さんしか知らないから、クロエちゃんを信じてるけど、凜々花ちゃんからすれば、入学した頃からの先輩だもんな。悩む気持ちは分かるよ」
「……私は最低です。迷わずクロエを信じるべきなのは分かっているのに、部長が『楽園』でしてきたことだって分かっているのに、この期に及んで悩んでいます」
「――俺たちに秘密にしていること、か。……どうしてそれを、鎖さんは知ってたんだって話になるけどな。あの人は、俺以上にクロエちゃんとの接点が無いだろ」
「それに関しては、恐らく部長の能力――『千理眼(ウィッチウォッチ)』が関係しているんだと思います」
 凜々花はそう言って、ブレザーの胸ポケットから手帳を取り出した。
 その手帳に挟まれた、鎖羽香音の能力説明ページを抜き出して見つめる。
「『千理眼』は透視能力です。それでクロエを見たときに、何か気付くことがあったんだと思います」
「……鎖さんの言葉を信じるなら、そうなるな。だけど俺は、あの人が最後の最後に俺たちを掻き乱そうとしただけじゃないかとも思うよ」
「……そうですよね……そう考えるのが、自然だと思います。私がそう思い切れなくて、勝手に悩んでいるだけなんです」
 凜々花がうなだれた、そのときだ。
「――成程、合点がいきましたわ。凜々花の様子がおかしかったのはそういうことでしたのね」
「!?」
 扉の向こうから、クロエの声。
 すぐに扉は開かれて、呆れたような疲れたような顔をしたクロエが見えた。
「いつの間に――」
「凜々花が私を気にしていたのは分かっていましたから、あえて席を外したのですわ。行きはわざと足音を立てて、ちょっと行ったところで足音を殺して戻って参りましたの。――不用心ですわよ、二人とも」
 返す言葉も無い。
 クロエは後ろに扉を閉めると、気まずそうな凜々花の正面の机に腰掛けた。
「凜々花、あなたは私を疑っていますのね?」
「……クロエ。あなたは本当に――私たちに秘密にしていることがあるの?」
「それはもちろんありますわよ。小さい頃の失敗だとか、今の体重だとか」
「真面目に話して。――私はあなたを信じたいの」
 凜々花は、唇を震わせながらそう呼びかけた。
 さらに何か言おうとして、言葉にならず、顔を伏せてしまう。
 それを見かねて、陽日輝も口を開いた。
「……俺は鎖さんのことをよく知らないから、クロエちゃんのことを信じてるけど、鎖さんをよく知る凜々花ちゃんが悩むのはわかる。だから、クロエちゃんの口から答えてほしい。秘密があるのか、ないのか。それだけでいいんだ」
 それを聞いて、クロエは観念したように肩をすくめた。
「It’s a tough problem……乙女の秘密は暴くものではないですわよ。ですが、そうも言っていられませんわね。――私には、あなた方にも見せていない奥の手がありますの。生徒葬会を生き抜くにあたっての切り札ですわね。それを秘密ということもできますわね」
 なんだ、そんなことか――と陽日輝は思った。
 しかし、凜々花はそうは取らなかったようだ。
「……その切り札っていうのは、どういうものなの?」
「……。それは言えませんわ」
 クロエは、静かに凜々花を見据えている。
 深い灰色の瞳が、カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされてきらりと光った。
「敵を欺くにはまず味方からですわ。切り札は切るべきときに切ってこその切り札ですのよ。ゲーム部員の凜々花にはわかるはずですわ」
「――私たちは、一緒に戦って、一緒に生きて帰るつもりで、こうして一緒にいるんだよね。だったら、教えてくれてもいいんじゃないかな」
「凜々花ちゃん――」
 陽日輝は、凜々花の反応を意外に思った。
 凜々花は賢い子だ――クロエの言い分を、素直に受け入れると思っていた。
 しかし彼女は、納得できないとばかりに食い下がっている。
 ……だが、その顔をよくよく見ていると、すぐに気付いた。
 凜々花は――恐れている。
 友人であるクロエに裏切られることを。
 そんなことはないと頭で思おうとしても、心が怯えているのだ。
 ……そうだ、凜々花は利発で気丈な子だが、等身大の女子高生でもある。
 どこか高校生離れした部分を感じさせるクロエとは、そこが違う。
 実際、自分と初めて出会い、殺し合いになったときだって、死を覚悟した凜々花は失禁するほど恐怖していた。
 分かっていたはずだ――この生徒葬会で、凜々花の精神もまた、少しずつ摩耗していっていることくらい。
 尊敬していた鎖羽香音の死と、その最期の言葉が、それをさらに後押ししたのだろう。
 そしてそれを理解した陽日輝は、すかさずフォローに入った。
「……クロエちゃんが切り札を隠したいのはわかるよ。だけど、このままだと凜々花ちゃんがクロエちゃんを信じ切れなくなってしまう。――俺には内緒でもいい、凜々花ちゃんにだけでも、その切り札を教えてあげてくれないかな」
「いいえ、それはできませんわ。……ご理解くださいまし、凜々花」
「――どうして? その切り札を、どうしても私たちに秘密にしたいなんて――考えたくもないこと、考えちゃうよ」
 凜々花は、潤んだ瞳でクロエをじっと睨んだ。
 ――考えたくもないこと。
 それは、言うまでもなく、クロエの裏切りの可能性だろう。
 それに対しクロエは、ほんの少し苛立ちを滲ませた声音で返す。
「いいですこと、凜々花。あなたと陽日輝が強い絆で結ばれているのは分かっていますわ。ですが私とあなたは互いに数いる友人の一人に過ぎませんの。それに陽日輝の性格からして、この生徒葬会の最後の最後、私たち以外に生き残っているのが、ハナや辻見一花、あるいは相川千紗、根岸藍実や最上環奈のような生徒だった場合――私が選ばれない可能性も十分にあると思ってますのよ」
「! そんなことは――!」
 陽日輝は非難の声を上げかけたが、クロエに一睨みされたことで制される。
 それだけで言葉に詰まってしまったのはきっと――否定し切れない気持ちも、心のどこかに確かにあったからだろう。
 生徒葬会から生きて帰れるのは三人だけ。
 その決断を強いられる場面が、来ないとは限らない。
 そしてそのとき自分は、本当にクロエを選ぶことができるのだろうか。
 そう決意して再び行動を共にしたはずなのに、自信を持てない自分がいる。
 そんな胸中を見抜いたのか、クロエは溜息をついた。
「ですから私は、あなたたちと一戦交える可能性も想定して、切り札を伏せておきたいんですの」
「そんなの――ひどいよ、クロエ」
「ひどいのはお互い様ですわ、凜々花。私ではなく『楽園』の非道に与した鎖羽香音を信じたのですから」
「それは――だけど、クロエだって、本当に秘密があったじゃない!」
「ですからお互い様といっていますの。――はあ――このやり取り自体が不毛ですわ。私が切り札を伏せることにご理解いただけないのでしたら、もうこれ以上一緒にはいられませんわね」
 クロエはそう言って、机からひょいと飛び降りた。
 そしてそのまま、扉のほうに向かっていく。
 陽日輝は数秒の間理解が追い付かず、固まってしまっていた。
 クロエが扉に手をかけたとき、ようやく我に返って叫ぶ。
「待ってくれ、クロエちゃん!」
「――どうして止めるんですの? 元々私たちは北第一校舎を出てから別行動を取っていましたわ。また元に戻るだけですのよ」
「何もこんな、喧嘩別れみたいなことになる必要ないだろ!?」
「別に今後あなた方と敵対するというわけではありませんのよ。それこそ鹿島鳴人と同じですわ。別行動を取って、最後の最後に一緒に生還できるならそれでよし――それだけのことですの。今の私たちが一緒にいるほうが、かえって危険ですわ。――あなたには分かりますわね? 凜々花」
 クロエのその言葉に、凜々花は答えなかった。
 ただ、潤んだ瞳から今にも涙をこぼしそうな、辛く、悲しげな表情のまま、彼女のことを見つめていた。
 そんな凜々花を見て、クロエの表情が一瞬、切なげに歪んだ――のは、気のせいだったのだろうか。
 また、毅然とした表情に戻り、彼女はドアを開け放った。
「……陽日輝。あなたは今も、ずっと凜々花の味方をしていましたわよね」
「! それは――」
「いいんですのよ。あなたはそれでいい。……凜々花を守り切るんですわよ。あなたたち二人には生き残ってほしい、その気持ちは、今も変わりませんわ」
「クロ――」
 制止の言葉を遮るように、廊下に出たクロエによって扉が後ろ手に閉じられた。
 そして再び、足音が遠ざかっていく。
 ただし今度は、もう戻って来ることがない。
 ――追いかけようと思えば追いかけられた。
 だけど陽日輝は、机から飛び降りたところで、それ以上動くことができずにいた。
 クロエに追い付いたところで、彼女を説得することはできないと、悟ってしまっていたからだ。
「……ごめんなさい」
 凜々花が、か細い声で呟く。
 その瞳から、大粒の涙がこぼれおちた。
「私が、弱いから。クロエのこと、信じてあげられないから」
「……クロエちゃんの言葉をそのまま借りるようでなんだけど、別に敵になるわけじゃないんだ。今の俺たちじゃ、クロエちゃんと一緒にはいられない。それだけのことだって――思うしかないよ」
 陽日輝は、先ほどまでクロエが座っていた机のほうに視線を向ける。
 そこには当然、クロエの姿など無い。
 ……二人だけになった旧化学室には、ただただ虚無感だけが漂っていた。
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