【11日目:夕方 北第一校舎二階 廊下】
御陵ミリアは見た。
浅木二三彦の左手首が血の糸を何本も引きながら、くるくると宙を舞うのを。
そしてそれが先ほどまで付いていたはずの断面からは、さらに多くの血が噴き出す。
――死――
それが脳裏をよぎったとき、二三彦は叫んでいた。
しかしそれは痛みや恐怖の悲鳴ではなく――自分を奮い立たせるような、咆哮だった。
「うおおおおおお!」
二三彦は床を蹴り、まるでバスケットボールのダンクシュートのように跳び上がって、スピーカーに付けられたカメラにジャケットを被せた。
それにより、こちらを向いていたカメラはドロドロに溶解して垂れ落ちる。
しかし二三彦は、勢い余って廊下に倒れ込んでしまっていた。
「浅木君!」
ミリアは階段を駆け上がり、二三彦に駆け寄った。
そして、折れた手首に激痛が走るのも厭わず、『糸々累々(ワンダーネット)』を使用して口から吐いた糸を、二三彦の左手首に巻き付ける。
しかし、二三彦は無事な右手を差し出して、それを制した。
「ありがとう、後は俺が縛る。痛いだろ、ミリア」
「……! あなたのほうが――ずっと、痛いじゃない」
脂汗を浮かべながらもシニカルに微笑む二三彦を見て、ミリアはそう呟いた。
そんな自分の表情は、どんな風に映ったのだろうか。
二三彦は、右手と口とを器用に使って左手首を縛り、言った。
「ミリアがいてくれてよかった。そうでなきゃ、あのままお陀仏だったよ。だけど」
二三彦はジャケットを拾い上げつつ立ち上がり、廊下の奥をキッと見据える。
「やっぱりミリアは、逃げてくれ。ここから先は、俺一人で戦う」
「一人でって――その、怪我で」
「これはミリアを危険に晒した報いだ。ミリアの身の安全だけを考えれば、ここに来るべきじゃなかった。だけどこれでいい。やられるのがミリアじゃなくて、本当によかった」
二三彦はそう言いながら、廊下の奥へと歩き出そうとする。
ミリアは、そんな彼の無事な右手首を咄嗟に掴んでいた。
「~~ッ!」
瞬間、手首の神経が一斉に暴れたような激痛が走るが、それでも堪え切る。
驚いたように振り向く二三彦に、ミリアは言った。
「死にに行くつもり?」
「勝ちに行くつもりだ」
「それなら私も連れて行って」
「それはできない」
「どうして」
「死ぬかもしれないからだ」
「そんなの――私はこの怪我だから、逃げたって同じ」
「この場に留まるよりは安全だ」
「――逃げよう。二人で。今なら間に合う」
ミリアのその言葉に、二三彦の瞳が一瞬揺らぎ――それでも彼は、寂しさと嬉しさが入り混じったような微笑みを湛えて、首を横に振った。
「短い間だけど、ミリアのために戦えてよかった。生徒葬会なんて最悪の舞台で、少しはマシでいられたような気がするよ」
「あなたは――勘違いしてる、アーサー。私は、あなたが思うような女じゃない」
あるいはそれは、黙っていたほうがよかったのかもしれない。
しかしミリアは、言わないではいられなかった。
なんとしても二三彦を引き留めたかった。
ヒーローになりたいなんて子供じみた願望を持っていて、その履行のために死さえ厭わない異常者。
だけど、たとえ自己満足だろうと、自分のために死ぬ覚悟すらしてくれたこの男を、無碍にできるはずがない。
今は亡き親友たち――久遠吐和子と嶋田来海も、そうやって死んでいったのだから。
もう、同じことを繰り返したくはなかった。
「私は不特定多数の男子にお金を貰って体を売ってた。三年生の間じゃ有名だし、あなたの同級生ともシたことある。別に何が何でもお金が必要な事情があったわけでもない。なんとなく程度でね。私の噂を知ってたら、あなたはきっと、私を選ばなかったでしょう? ――私には、あなたが命を懸ける価値なんてないの」
ミリアは、半ば自棄にそうまくし立てた。
嘘は吐いていない、すべて事実だ。
私はヒロインなんて柄じゃない。処女性の欠片も無いんだから。
しかし――そんなミリアの言葉を、ただ黙って聞き終えた二三彦が口にしたのは、意外な言葉だった。
「ああ――知ってたさ。ミリアの噂は、前から聞いたことがあったよ」
「……!? だったら、どうして私を――」
「噂だけで人を分かった気になるほど、俺は浅い人間じゃないぜ。まあ、我ながら浅はかな人間ではあると思うけどな。――俺が実際に見てきたミリアは、優しい子だ。今も、俺を引き留めるために秘密を話してくれたんだろ? ――こんなに優しい子が、ヒロインじゃないわけがない」
「アーサー……!」
ミリアは、視界が熱く霞むのを感じていた。
こんなことを言ってくれる人が、吐和子と来海以外にいた。
その事実に、胸が焦がされる。
――そして同時に、自覚した。
私は、この男に恋したのだと。
「――あなたがここに残るというのなら」
ミリアは。
二三彦の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
二三彦がびくっ、と体を震わせたが、それも一瞬のこと。
彼もまた、瞳を閉じて、ミリアの口づけを受け入れた。
「――私も、あなたのために戦う。それが嫌なら、私と逃げて」
口づけの後で、ミリアは確固たる決意と共にそう告げた。
それを聞いた二三彦は、深いため息をつき。
しばし逡巡した後に、こう答える。
「俺のヒロインでいてくれ、ミリア」
ミリアはその言葉に、微笑みで応えた。
直後、階段を降りて来る足音。
若駒ツボミがやって来る。
恐らくカメラの映像を元に攻撃を仕掛けてきた彼女は、カメラが破壊されたことで、こちらを肉眼で確認しにやって来るのだろう。
それは自分たちに終焉をもたらす死神の足音のように聞こえる。
だけど――二三彦と共に戦う決意をしたことで、ミリアには一筋の光が見えていた。
どうにかこの状況を切り抜けることができるかもしれない、希望が。