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第二十二話 激流

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【8日目:昼 北第一校舎二階 廊下】

 津波に巻き込まれた人の死因としてまず挙げられるのは溺死だが、それがすべてではない。流されてきた瓦礫が当たる、あるいは逆に流されているうちに建物や大木に当たる、といったことが原因の、外傷によるものも死因として多く報告されている。
 伊東の『大波強波(ビッグウェーブ)』による水流は、津波に比べれば弱いものであるとはいえ、それでも、水流に乗って勢いよくぶつかってくる机や椅子がぶちあたれば、ただでは済まないだろう。
暁陽日輝は、自分の『夜明光(サンライズ)』でこの状況を切り抜ける術を見つけ出すことに、思考のリソースを集中させた。
 峠練二と戦ったときに天井を壊せたくらいだから、床を破壊することもできる――それによって一階に水を逃がすという方法は有効だろう……普通なら。
 今、北第一校舎の一階は、根岸藍実の『通行禁止(ノー・ゴー)』によって守られており、人・物いずれの行き来も出来ない状態になっている。
 そのため、床を破壊したとしても水は不可視の壁に阻まれてこの場に留まってしまうのだ。
 だとしたら、床を壊しても意味が無――いや。
 待て――意味なら、ある。
「――ッ!」
 一か八か、己の脳裏に浮かんだその方法を実行すべく、陽日輝は敢えて、自ら消火器から手を離した。
 その瞬間、自分の身体は猛烈な水流によって押し運ばれていく。
 それでいい――流れてくる机や椅子より先に、流されてしまえばいいのだ。
 数秒後には、背中が固いものがぶつかる感触があり、廊下の突き当たりまで辿り着いたことを悟る。
 そこで陽日輝は、大きく息を吸い込んでから水中へと潜った。
 水中だと視界は揺らぎ、距離感が掴みにくくなるが、それでも机や椅子が近付いてきているのは、影の動きで把握できる。
 陽日輝は、床に拳を突き立て、『夜明光』を発動させた。
 橙色の光が水中に拡散し、しかしそれはとめどなく襲い来る水流に抗う術とはならない。無尽蔵に召喚される水の圧倒的質量の前には、焼け石に水だ。
 だが、もとよりそのような、正面からの抵抗は考えていない。
 陽日輝は『夜明光』で床を破壊して直径十五センチほどの穴を作り、すかさず自分の顔を押し込んだ。
 そこでさらに、鼻の両隣に拳を当て、ボクサーの構えを極端に狭くしたようなフォームを形作る。それにより、穴へと流れ込んでくる水は蒸発していき、ちょうど顔一個分程度のスペースが確保された。
 足は廊下の突き当りの壁をしっかり踏みしめるように伸ばし、力を込めて突っ張ることで、水流によって姿勢が乱されないように心がける。
 ちょうどそのとき流されてきた机や椅子が肩や背中にぶつかったが、足裏にさらに力を込めてグッと耐えた。
 ――もちろん、これで『大波強波』を凌ぎ切ることはできない。
 水に浸かっていない空間を作った上で『夜明光』によるガードを固めたことで、その空間が水没するまでの時間を少しばかり伸ばしているだけだ。
 しかし、それでもいい。
 廊下の向こうにいる伊東からは、水没した自分の姿は見えないはず。
 そして、自分を溺死させたと確信したなら、必ず能力を解除する。
 その後は、恐らく手帳を奪うため、自分に近付いてくるだろう。
 それまでは、穴を体で隠しつつ死んだ振りでやり過ごし、ギリギリまで近付けたところで、『夜明光』による一撃を叩き込む。
 問題は、あとどのくらい耐え続ければ、伊東が『大波強波』を解除するか、だ。
 一分? 三分? 五分? それとも、もっと?
 とにかく、それまで耐え抜いたなら――俺の勝ちだ――……!
 陽日輝が、勝利への微かだが確かな道筋を思い描いた、そのとき。
「――まあ、あなたの能力では勝ち筋はそれくらいかもしれませんわね」
 激しい水音の中でも、『その声』はハッキリと聞こえた。
 よく通る声だが、さほど大声を出しているわけではない。
 ならばどうしてハッキリと聞こえたのか。
 答えは――その声の主が、自分のすぐ後ろにいたからだ。
 そして、陽日輝の周囲の水の音に変化があった。――音が、弱まっている?
 さらに、自分の作った穴に流れ込んでくる水の流れも――抑えられている!
「なっ……!?」
「ですがご安心なさって? 私がもっと確かな勝利への行程というものをお見せして差し上げますわ」
 陽日輝は、一度に三つのことに対して驚愕した。
 一つは、いつの間にか自分の後ろに、一人の女子生徒が立っていたこと。
 染めているのか地毛なのか、肩まで伸びたその髪は煌めくような銀色だ。
 二つ目は、自分が作った穴のすぐ向こうの水が、まるで時間を止められたかのように固まり、壁のようになっていたこと。
 そこまで流れてきた水は左右に枝分かれしてしまっている。それによって、先ほどから自分の周囲では水の流れが弱まっていたのだ。
 そして三つ目、これが最大の衝撃。
 銀髪の少女は裸足――なのは、いい。
 その足の裏が、しっかりと水面に着いていた。
 要するに、水の上に立っていたということだ。
「な、なんだオマエェ!?」
 伊東が素っ頓狂な叫び声を上げる。
 しかし、陽日輝のほうも内心ではそれくらい動揺していた。
 流れてくる水を止め、さらには水の上に立っている――これが、この子の『能力』か……!
「あなたと一階にいる方々とのやり取りは聞かせていただいておりました、陽日輝。私は四葉(よつば)クロエと申します。以後お見知りおきを」
「な……」
 どうやって自分とツボミたちの会話を聞いたのか、そもそもどうやってここに入ってきたのか、疑問は尽きない。
 しかし、どうやら――少なくとも今この場においては、敵対するつもりはなさそうだ。
 それならば、それらの疑問を訊ねるのは後でいいだろう。
 今は、自分に対し明確な殺意を向けてきている廊下の反対側にいる男――伊東への対処が先決だ。
 そしてそれは、この『能力』を見る限り――彼女、クロエのほうが適任だろう。
 陽日輝は、立ち上がりながらクロエに訊ねた。
「……助けてくれる、ってことでいいんだよな?」
「Exactly」
 流暢な発音で、クロエはそう言ってニヤリと笑った。
 ――改めて見ると、髪の毛だけではなく瞳の色も日本人離れしている。澄んだ灰色の瞳だ。
 さらに、睫毛が長く、少し彫りの深い顔立ちをしていることにも気付く。
 そうだ――名前は知らなかったが、外国人の女の子が新入生にいると、友人が話していたことがあった。この子が、そうなのだろう。
 クロエは、そのグレーの瞳を陽日輝から、廊下の向こうにいる伊東へと移す。
 そのままおもむろに数歩進み出て、陽日輝より一メートルほど前に出る形となった。
 もちろん、その数歩もすべて、水面を歩いている。
 彼女の足裏が触れた部分だけ、水面が固まっているのだ。
「私の能力は『硬水化(ハードウォーター)』。私が素肌で触れた水はこのように固まってしまいますの。私の肌から離れると、そうも時間が経たないうちに元に戻ってしまいますけれど、あなたのその波を起こす能力では、私には敵いませんわ」
「ハッ、だからなんだ? 降参しろってのかァ?」
 能力的な相性が悪いとはいえ、相手が女子であり、さらに自身も喧嘩慣れしていそうな伊東は、彼女を甘く見ているようだった。
 波に呑み込めないなら、徒手空拳で叩きのめせばいいという心積もりなのかもしれない。
 しかし、そんな伊東に対し、クロエは嘲りと憐れみの入り混じった薄笑いを浮かべて見せた。
「いいえ、違いますわ」
 ――その凄惨な表情を目の当たりにして、陽日輝は悟った。
 若駒ツボミとはまた違うベクトルで、この子に対しては心を許しすぎてはいけない――『今は』敵ではないというだけだ、と。
 ツボミたちとの話を聞いていたということは、その上で今は自分を助けて伊東を――と、いうより、伊東含む東城要一派を相手取ったほうがいいと判断したのだろう。
 ――もちろんその判断の基準となっているのは、最終的に自分が生徒葬会から生還するためにはどう動くべきか、という思考に違いない。
「私はあなたに降参してほしいなんて微塵も思っていませんことよ――ただ、あなたでは私に敵わないので、今の内に祈りを捧げたほうがいいとお伝えしたかったのですが――お気に障りました?」
「……! ふ――フザケんじゃねえぞ、ナメやがって! ――ヒャハ、まあいいかァ! 一度くらい外人の女とヤってみたかったしなァ! 要の野郎に渡す前に俺がオマエを抱いてやんよォ!」
 伊東は、懐から折り畳みナイフを取り出し、手慣れた動作で展開した。
 刃には赤茶色に変色したモノが付着している――どうやら脅し以外の用途にも使ってきたものらしい。
 激昂と興奮の中にいる伊東と裏腹に、クロエは至極冷静だ。
「聞くに堪えない下種な台詞ですわね。胸が悪くなりますわ。――でも、良かったんですの?」
「あぁん? 何がだよ、クソアマ――」
「――それが最期の言葉で良かったのかと、私は訊ねておりますのよ。まあ、あなたの人生の価値からすると妥当な言葉かもしれませんわね。――では、参りますわ」
 クロエが、水面を蹴って駆け出した。
 伊東はナイフを構え――しかし、彼の想定より遥かに早く、クロエの攻撃は始まった。
「うぎゃっ!?」
 ――クロエが、伊東から五、六メートル離れたところで水面を蹴り上げたのだ。水の飛沫が舞い上がり、しかしそれらはクロエの『硬水化』により一粒一粒が硬度のある固体に変わって、さながら散弾銃のように伊東の全身に浴びせられる。
 もちろん散弾銃には遠く及ばないが、それでも、至近距離から改造エアガンで乱射されるくらいのダメージはありそうに見えた。
「あなたは能力を解除すべきでしたわ――陽日輝がフリーになるのを警戒したんでしょうが、あなたは私に武器をたんまりと与えてくれているようなものなんですもの」
「っメんなクソアマァ! この程度なんてことねぇんだよ!」
 なんてことないわけはないだろうが、それでも完全にフカシでもなさそうだ。
 陽日輝も友人同士のそれではない、殺伐とした殴り合いの喧嘩をした経験はある。伊東は自分よりもその経験自体は多いだろう。であるならば、肉体的な痛みには多少の耐性がある。
 不意に食らったことで実際の威力以上に効いたようだが、伊東はすでにナイフを構え直していた。言うだけのことはあるリカバリーの早さだ。
 しかし。
「だと思いましたわ」
 クロエは焦ることなく、今度は掌で掬い取った水を、伊東めがけて投げつけた。水が当たるバシャッ、という本来の音とは程遠い、ドゴォッ、という鈍く重い音が響く。
「がぅッ……!」
 伊東の首が大きく揺れ、その直後、額から血が流れ出る。
 野球の硬球を思い切り投げ付けられたくらいの衝撃は、あるのかもしれない。
「今度は粒というより塊ですから、『この程度』でもないと思いますわよ?」
「ッッ~~バカにすんじゃ――」
「正当な評価ですわ」
 クロエはそう呟きながら、膝を屈めて水面に左手を差し込んでいた。
 引き抜かれた左手は手刀の形を作っていて、全体がしっとりと濡れている。
 ……陽日輝には、クロエがやろうとしている攻撃に、おおよその察しが付いていた。
 先ほどまでの攻撃は、伊東を怯ませるためのジャブのようなものに過ぎない。
 クロエは、優雅さすら感じさせる動きで、掌を上に向けた左の手刀を、横薙ぎに振ってみせた。
 ――のけぞった伊東が体勢を立て直したときには、すでにその一撃は放たれていた。
クロエが振った手刀、その指から離れ、放たれた――水の刃が。
 それが伊東の首を掠めた直後、激しく噴き出した鮮血が、彼の頸動脈が切断されたことを如実に物語っていた。
「水の形の作り方次第で、こういう使い方もできますのよ」
 クロエは、目を見開いたまま崩れ落ちた伊東にそう呟いた。
 そのときには、伊東の死により『大波強波』が解除され、あれだけあった水流が一瞬にして消えていた。
 陽日輝は、濡れた制服を『夜明光』で乾かしながら、クロエのほうに歩いていく。さすがにすぐに乾燥させ切ることはできないが、気休めにはなるだろう。濡れた制服の感触は純粋に不快だし、体力を無駄に消耗しかねない。
 ……このときにはもう、足音をなるべく立てないように、なんて考えはなかった。
 伊東が能力を発動させて交戦していたことは、三階にも音で伝わっているはず。
 その音が止んだということは、伊東の勝利か伊東の敗北、そのどちらかを意味している。
 だから、今さら隠密行動をする意味なんてない。
「クロエ――って、言ったよな。助けてくれてありがとう。それで、早速で悪いんだけど、俺は今から三階に行く。それも手伝ってくれるって認識でいいんだよな?」
「当然ですわ。私、あなたたちの力になりたいと思っていますの。だから、あなたが二階に上がった隙に窓から忍び込んだんですのよ?」
 クロエは、伊東の胸ポケットから手帳を抜き取りながらそう答えた。
 ……彼女に聞きたいことはまだまだある。
 しかし、それは三階の攻略に成功してから――つまり、東城要を殺すことができてからでも遅くないだろう。
 今は、協力してくれるというのなら、ありがたく受け入れるべきだ。
 凜々花は事実上人質にされていて、ツボミたちの加勢も期待できない。
 今の自分に、クロエとの共闘を突っぱねるメリットはなかった。
「……そういうことなら、よろしく頼むよ」
「ええ。よろしく頼まれましたわ、陽日輝」
 クロエは、伊東と戦っていたときとは打って変わった、爽やかな笑みを浮かべてみせる。
 しかしその目――澄んだ灰色の瞳だけは笑っていなかった。
 ……若駒ツボミに利用されている真っ最中だというのに、四葉クロエにも利用される自分の現状に内心辟易しながら、陽日輝はクロエの笑みに苦笑で応えた。
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