トップに戻る

<< 前 次 >>

第二十九話 逃走

単ページ   最大化   

【8日目:昼 北第一校舎二階 廊下】

 暁陽日輝の中学の頃からの同級生に、立花繚という男がいる。
 バスケットボール部に所属する、スポーツ万能の人気者だ。
 高校生になってからは、陽日輝がスポーツをしなくなったことと、クラスが別になったことで疎遠になったものの、当時はそれなりに話す間柄だった。
 そしてその繚には、立花百花という姉がいた。
 こちらは空手の有段者で、全国大会でも上位に食い込む腕前だ。
 彼女とも、繚とあまり話さなくなったことで自然と距離ができたものの、中学生の頃は繚を介して関わりがあった。
 その百花が、こう言っていたのを思い出す。
『強くなりたいなら、まず最初に「逃げる」ことができるようになるべきだとアタシは思うよ。極論アタシも武器持ってこられたらどうしようもないし。悔しかろうが死んだら終わりなんだから、逃げてナンボってときもあるよ』
 当時の陽日輝は、その言葉をあまり真剣に受け止めていなかったが、今、この生徒葬会という極限の状況下で、東城要という難敵を前に絶体絶命に陥っているこの瞬間――その言葉は、あまりにも重くのしかかる。
 死んだら終わり――その通りだ。
 だから陽日輝は、床を破壊して二階に逃れてすぐ、廊下に飛び出し、そして脱兎のごとく駆けていた。
 目指すは、廊下の端。
 左脇腹の痛みに顔を歪めながらも、速度を緩めず走り続ける。
 東城が三階から降りてくる前に。
「藍実ちゃん! 来てくれーッ!」
 腹の底から叫ぶと共に、傷口が疼くように痛んだが気にしてはいられない。
 東城が階段を下りる音が聞こえてくる。
 東城がここに来るまでに、間に合うかどうか。
 ――陽日輝が取ったのは、根岸藍実を呼び、『通行禁止(ノー・ゴー)』を一時的に解除してもらうことで、一階に逃げるという作戦だった。
 藍実はたまに様子を見に来ると言っていたので、ちょうどそのタイミングにかち合えば最高だったが、さすがにそう上手くはいかなかった。
なので大声で彼女を呼んでみたが、すぐに来てくれるとは限らない。
 それでも、今の陽日輝に東城を倒す手段はなかった。
 せめてこの左脇腹の傷を治さないと、勝ち筋すら見えてこない。
 ――今がまさに、百花が言っていたような『逃げてナンボ』の状況だ。
 だから、後はもう、祈るしかない――――!



「あなたが戻ってきたと聞いて、良い報告を期待していたんだが――まさか途中で戻ってくるとは思わなかったよ」
 ……場所は、北第一校舎一階の保健室。
 若駒ツボミが肩をすくめるのを見上げながら、陽日輝はパイプ椅子に座った状態で、最上環奈の『超自然治癒(ネオヒーリング)』による治療を受けていた。
 保健室には、合計五人の生徒がいる。
 陽日輝、ツボミ、環奈、根岸藍実、そして安藤凜々花。
 自分が保健室を発ってから目を覚ましたらしい凜々花は、すでに事の次第を説明されているようで、ベッドから体を起こし、苦々しげに唇を噛んでいる。
 凜々花は頭の良い子だ――自分が『人質』にされていることを、理解しているのだろう。
「東城の取り巻きは二人仕留めた。後は東城と取り巻き一人だけだ」
 厳密には、その二人を仕留めたのは自分ではなく四葉クロエだが、陽日輝は敢えてツボミたちにクロエの存在を伏せていた。
 クロエがそれを望んでいるかどうかは分からないが、別にクロエのためではなく、ツボミに自分の戦力としての価値を感じさせるためだ。
 ――ツボミは、自分に代わってリスクを負い、東城と戦ってくれる都合の良い人間を求めていて、たまたまこの場所を訪れた陽日輝に白羽の矢が立った。
 さらに都合の良いことに、凜々花という人質もいた――しかし、何の成果も得られなかったとなれば、ツボミが自分たちに見切りを付ける可能性も否定できない。
 その場合、ツボミは自分と凜々花を生かしてはおかないだろう。
 陽日輝はその懸念から、クロエの手柄を奪う形でツボミに報告したのだ。
「……まあ、健闘に感謝する。東城は倒せそうか?」
「かなり手強いな。でも、勝算はある」
「……。期待しているよ」
 ツボミの値踏みするような眼差しに、背筋が寒くなるのを感じた。
 『期待しているよ』という言葉の裏には、『次は無いぞ』という圧がある。
 それを感じ取れないほど、陽日輝は鈍くはなかった。
「あの……若駒さん。私も一緒に行くことはできないでしょうか」
 おずおずとそう申し出たのは、凜々花だった。
 とはいえ、彼女自身、期待はしていなかっただろう。
 自分が『人質』であることを理解しているのだから、当然だ。
 そして実際、ツボミは凜々花を一瞥し、「駄目だ」と回答した。
「東城が女子を慰み物にしていることはすでに説明した通りだ。女子が行くのは危険すぎる。彼の助けになりたいという凜々花の気持ちは分かるが、ここは堪えてくれ」
「……っ。分かり、ました」
 凜々花はそう答えながらも、こちらにチラリと視線を送ってきた。
 陽日輝は、アイコンタクトで「大丈夫だ」と伝える――伝わったかは分からないが。
 ……ツボミが述べた理由は、筋が通っているようで通っていない。
 あくまでも、人質である凜々花を自分の傍に留めておくための上辺の理由だ。
 しかし、そうと分かっていても、自分たちはそれに従うしかない。
 少なくとも東城という脅威が排除されるまでは、ツボミは凜々花を解放しないだろう。
「あ、あの……傷、治りました、か?」
 背中にそっと両の掌を当てて治療を行ってくれていた環奈が、か細い声でそう聞いてきた。
「ああ……治ったみたいだ」
 陽日輝は、左脇腹を拳で軽く小突いてみたが、痛みはない。
 椅子に座ったまま腰を捻ったりもして、問題がないことを確認する。
「ありがとう。助かったよ」
「は……はい。どういたしま……」
 環奈の声は尻すぼみになり、語尾は一切聞こえなかった。
 東城によって男性に対する恐怖を植え付けられたというのが大きいだろうが、もともとあまり社交的なタイプでもないようだ。
 そんな環奈を、凜々花は悲しげに見つめている。
 凜々花からすれば環奈は同級生だし、それに、凜々花の親友は環奈と同じような目に遭った挙句に殺されているのだから、思うところはあるのだろう。
 ――さて、治療が済んだ以上、長居をしてはいられない。
 陽日輝は、手早く準備を整え、立ち上がった。
「――若駒さん。それじゃあ、行くよ。凜々花を、頼みますよ」
「ああ――安心しろ」
 陽日輝とツボミは、互いに違いを牽制するようにそう言った。
 凜々花と藍実はそれを察しているようで、緊張した表情になる。
 陽日輝は立ち上がり、凜々花に「ここで待っててくれ」と言って笑いかけた。
「……はい。お気を付けて――陽日輝さん」
 凜々花も、不安を押し殺すような薄い微笑みを浮かべて見せる。
 その表情を見て、陽日輝は改めて、絶対に生きて帰ると胸に誓った。
 東城は確かに手強いが――ここに戻ってきて、策は編み出した。
 上手く行くかどうかは分からないが、やるしかない。
「藍実、送ってやってくれ」
「はい――ツボミさん」
 ツボミに促され、藍実が立ち上がる。
 もっとも、『通行禁止』を解除するタイミングを誤ると東城たちの一階への侵入を許してしまうので、藍実が付き添うのは規定事項だが。
 陽日輝と藍実は廊下に出て、二人並んで歩き始めた。
 数秒ほど無言で歩いたところで、藍実が言った。
「……暁さん、凜々花と親しいんですね」
「この生徒葬会が始まってからの仲だぜ? 知り合って一日も経ってない」
 そのことは、最初に保健室で治療を受けているときにツボミたちに話している。
 しかし藍実は、「関係ないですよ」と微笑んでみせた。
「時間なんて関係ないんです。私から見て凜々花と暁さんは、信頼し合っているように映ります。……ちょっと、羨ましいです」
「……そうか。それなら、いいな」
 自分は、凜々花を死なせたくない、生きて帰してやりたいと思っている。
 しかし実際のところ、凜々花のほうはどうなのだろう。
 なし崩し的に行動を共にすることとなり、協力して戦い抜いてきたが、凜々花は自分のことを信頼してくれている、と考えていいのだろうか。
 少なくとも藍実の目には、そう見えているようだが。
「……藍実ちゃん。俺は東城をぶっ倒した後、凜々花ちゃんと一緒に出て行く。――藍実ちゃんも、一緒に来ないか? 環奈ちゃんも連れて」
「……あはは。残酷な誘いですね」
 藍実は、そう言って肩をすくめてみせた。
「四人で行動したら、どうしても最後の最後に『決断』が必要になります。だって、他の誰かに抜け駆けされなかったとしても、自分たちの中から一人は、確実に生きて帰ることを諦めなきゃいけなくなるんですから。それに――私と環奈を引き抜こうとしたら、ツボミさんを敵に回しますよ」
 藍実は、そこで言葉を区切り、保健室のほうを振り返る。
 その強張った表情には、ツボミに対する確かな恐れがあった。
「私は――私たちは、ツボミさんに守ってもらいます。あの人は良い人ではないかもしれません。でも、強さは確かです」
「……そうだな。分かり切ったことを聞いて悪かった」
「いえ――気持ちは嬉しいです。……でも、まずは東城ですね。どうかご無事で」
「ああ――ありがとう」
 そんなことを話しているうちに、廊下の突き当たり、つまり階段の下まで辿り着いていた。
 ――そんなに時間は経っていないが、クロエは無事だろうか。
 階段のすぐ上に人の気配は無い。
 クロエを見捨てて時間稼ぎをさせているような形になっていることには少し胸が痛んだが、クロエも何の打算も無しに協力を申し出てきたわけではないことは明らかだ。
 ここはおあいこなのだと自分に言い聞かせながら、陽日輝は階段に足をかける。
「じゃあ、俺が駆け上がって『通行禁止』の壁に当たる直前に能力を解除してくれ。その後すぐに『通行禁止』を再展開してくれたらいいから」
「はい――わかりました」
 振り返って藍実に指示を出し、彼女が頷くのを見て、陽日輝はニッと笑ってから階段に向き直った。
 ――できることなら、このまま安全圏である一階に留まり続けたいくらいだが。
 クロエを本当に見殺しにするのも気が引けるし、凜々花を解放するためにも、そして、東城の慰み物にされていた四人を助け出すためにも、自分は再び、東城と対峙しなければならない。
 陽日輝は、胸の動悸が高まるのを、グッと拳を握り締めて抑え込み、意を決して階段を駆け上がった。
29

紗灯れずく 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る