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第三十四話 交渉

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【8日目:昼 北第一校舎一階 廊下】

 北第一校舎一階の廊下、その中ほどに、五人の生徒が集まっている。
 その内の一人である暁陽日輝は、根岸藍実の首に後ろから左腕を回し、抱き寄せるような形で捕まえていた。
 藍実は抵抗せずただ立っている――その顔には隠し切れない緊張の色が見える。
 陽日輝がその気になれば、『夜明光(サンライズ)』を発動させることで、藍実は一瞬にして命を奪われる状態なのだから、それは当然だろう。
 しかし、本当のところはそれだけではない――藍実に対し陽日輝は、これから自分が行おうとしている『作戦』を事前に説明してある。
 その作戦が実行されることにより、この対峙がどんな結末を迎えるのか――その近い未来への不安感もまた、藍実が顔色を悪くしている一因だろう。
 もっともそれは、陽日輝と五メートルほどの距離で対峙している彼女、若駒ツボミには窺い知れぬことだったが。
「東城を倒してくれたことには感謝している。あなたに対して敬意を表したいくらいだ――しかしこれは、どういう真似なのか。説明が欲しいところだな」
 研ぎ澄まされた刀のような鋭さが、彼女の声にはあった。
 ツボミは、陽日輝が藍実を人質にしているように――安藤凜々花を人質にしていた。
「陽日輝、さん――」
 凜々花がそう呟くと、凜々花の喉元に突き付けられていた細剣の切っ先が微かに揺らされた。
 喋るな、というメッセージだろう。
 凜々花はびくっと肩を震わせてから、悔しげに顎を引き、押し黙った。
 ――ツボミが、右手に持った針のように細い剣を、横に立たせた凜々花に突き付けている。彼女もまた、その気になれば一瞬で凜々花の、人質の命を奪える状態だ。
 ただ一人、最上環奈だけが、そんなツボミの少し後ろで、この状況を呑み込めないのかおろおろとしていた。
「なんてことはないさ――俺はあなたと、取引がしたいんだよ」
「取引? 脅迫の間違いではないのかな」
 ツボミは、空いている左手を、握手のように差し出してきた。
「さあ、藍実を離すんだ。そうすれば安藤のことも、悪いようにはしない」
 嘘つけ、と内心思いながら、陽日輝はツボミを見据える。
 彼女には、まったくもって隙が無い。
 今なら分かる、保健室では、彼女は圧を抑えていたのだと。
 全身をビリビリと震わせるような威圧感は、東城要と同等以上だ。
「……俺は、凜々花ちゃんと一緒にここを出て行きたい。このまま若駒さんに従い続けるつもりはないんだ」
「――人聞きが悪いな。私は確かに東城を倒すようお願いをした。しかし、その見返りに手帳はすべてあなたに渡すとも約束した。これが対等でなくてなんだ?」
「……対等、ね。それじゃあ、凜々花ちゃんを離してくれてもいいだろ。俺も藍実ちゃんを離す。それでお別れ、バイバイだ。若駒さんに俺たちを利用する気が無いんなら、できるはずだろ」
 こういう場では、言っていることの筋が通っているかどうか、論理的であるかどうか――そういったことももちろん重要でないわけではないが、何より、気後れしないことが肝要だ。
 言いごもったり、迷いや動揺が表に出てしまうと、相手に自信を与えるし、そういった隙には容赦無く付け込まれてしまう。
 だから陽日輝はまっすぐツボミの目を見て、そう訴えかけた。
 ――できるはずがない。
 ここで凜々花を解放してしまえば、自分を手駒として留めておく術はなくなるのだから。
 東城を倒してみせたことで、暁陽日輝という戦力の価値はツボミの中で確かなものとなった――だから、決して手放したくはないはずだ。
 ……四葉クロエの存在を伏せていてよかった。
 実際にはクロエがいなければ東城一派を殲滅することは不可能だったが、クロエの参戦を隠したことで、実態以上の実力と実績を誤認させることができている。
「……暁。あなたはもっと利口だと思っていたよ」
「東城との戦いで、若駒さんが一緒に戦ってくれてたら、俺はあなたを信用したかもしれない。だけど、あなたはとても慎重で狡猾だった。そんなあなたならきっと、俺と凜々花ちゃんをこれからも『使う』。そう思ったんだ。自分は安全圏にいたまま、俺がノーと言えない状況を作り続け、適度に飴を与えて飼いならす――だからそうなる前に、お別れをしたくなったんだよ」
「……なるほど。あなたの考えはよく分かった――しかし暁、一つだけ勘違いをしているのだったら正しておこう」
 ツボミの右手が、一瞬にして消えた。
 ――正確には、消えたように見えるほどの速度で振るわれた。
 次の瞬間には、また剣は凜々花の喉元に突き付けられた状態に戻っていたが――決して気のせいなんかじゃない。
 ツボミはこの一瞬、凜々花がそれに気付いて身動きするよりも早く、剣を振り、そして戻したのだ。
 遅れてそのことに気付いた凜々花の目が見開かれる。
 藍実や環奈が息を呑む中、陽日輝は動揺が表に出ないよう押し殺した。
「東城を倒したことで気が大きくなっているようなら、これで理解できただろう――今の満身創痍のあなたに倒される私ではない」
「……はは、手負いの獣は恐ろしいとも言うぜ」
「手負いの獣が恐ろしいのは文字通り必死だからだ。しかしあなたは違うな。ここで死んでも私を殺そうという気概は見受けられない。安藤を救い、『生きる』ために今私と対峙している。そうだろう?」
「…………」
 ツボミの言う通り、陽日輝はここで死ぬわけにはいかなかった。
 そして確かに、東城戦で受けたこの負傷を加味すると、死に物狂いにならなければツボミには対抗し得ない。
 五体満足であろうと苦戦必至の相手だ、戦闘になればこちらが不利。
 だからこそ――そうならないように、ツボミを納得させるしかない。
「……俺はもちろん、タダで見逃してほしいなんて思ってないよ。――東城たちが持っていた手帳、その表紙と能力説明ページを、まとめて藍実ちゃんに持たせてる。――それをまとめて渡す」
「――ほお」
 ここまで一切の心理的動揺が見られなかったツボミが、少し驚いた様子で眉を上げた。
 ……まあ、実際にはクロエが『大波強波(ビッグウェーブ)』の使い手である伊東の分の表紙と能力説明ページは抜いて行ったので一セット少ないが。
 表紙は、東城と取り巻き二人、さらにはツボミが倒したと思われる取り巻き三人――合計六枚。
 能力説明ページは、東城と取り巻き五人分で六枚、さらに東城が星川芽衣たちから奪った四枚を含めて十枚――ではなく、東城が女子四人分と取り巻き一人分の能力説明ページを第二の能力の取得に使用してしまっていたので、マイナス5して五枚だ。
 どうも能力説明ページは、存命の生徒から奪った場合でも第二の能力獲得に使用できるが、元の能力の持ち主からその能力が失われることはないらしい。
 『議長』の説明にはなかったが、まあ、そのケースをあまり想定していなかったか、じきに分かることだと説明しなかったのだろう。
「表紙が六枚、能力説明ページは東城が第二の能力を取得していた関係で五枚だ。これだけあればすぐに第二の能力も手に入る。悪い話じゃないと思うぜ。――藍実ちゃん、手帳を若駒さんに見せてくれ」
「は――はい……」
 呼ばれるとは思っていなかったのか、藍実が少し裏返りかけた声でそう答え、ブレザーの胸ポケットから自分の手帳を取り出した。
 そして、そのページをめくって、ツボミに枚数に間違いがないことを視認させる。
 その作業が終わり、藍実が手帳を胸ポケットに仕舞い直したのを確認してから、ツボミは言った。
「確かに魅力的な話だ。あなたは思っていたより飼いにくそうだし」
「人を犬か何かみたいに言うなよ……ただ、まあ、そうだな。あなたは餌はくれるかもしれないけど、飼えなくなったらすぐに保健所に送りそうだ」
「……随分な言い草だな。まあいい、安藤は解放しよう。その代わり藍実も解放してもらおう。同時でいいな?」
「いや――まだだ」
 ここから先は、『賭け』だ。
 東城たちの手帳と引き換えに自由を得られるのだから、十分だとも考えられるだろう。
 しかし、この生徒葬会はこれから先も続いていく――だから、ここで手打ちにしてしまうわけにはいかない。
「人質を交換する前に、環奈ちゃんに俺の治療をしてほしい」
「えっ――あ、あっ」
 環奈が困惑の表情で、しきりにツボミのほうを見やったが、ツボミは黙殺した。
 ただ、その鋭いツリ目を細め、こちらを冷たく見据えている。
「そんな顔しないでくれよ――元々、東城との戦いで受けた傷は治してくれるって約束だろ」
「すでに一度治しているが?」
「回数までは指定してなかっただろ? ――あと、東城に捕まってた女子たちが『五人』、二階で休んでる。彼女たちの治療も、俺の見ているところでしてほしい。人質の交換は、それがすべて終わってからだ」
 五人。
 そう、陽日輝が考えていたのは、芽衣たちと一緒にクロエも治療してもらうことだった。
 クロエは東城の『超躍力(ホッピングキック)』による蹴りを食らい、少なからず負傷している。しかし自分のためにもクロエのためにも、東城戦で共闘した戦力としてのクロエの存在を、ツボミに露呈させるわけにはいかない。
 ならば、クロエも東城の被害者の一人であるかのように装わせれば、治療を受けさせることができる――そう考えたのだ。
 命を賭して共に戦ってくれたクロエを、傷ついたままにはしていられない。
「……それはもちろんするつもりだ。人道的な観点からな」
「……助かるよ。クラスメイトもいるんだ」
「ただ――分かっているか? 暁。あなたは私と対等な立場のようでいるが、そうではない。私はあなたとの交渉をただ長引かせるだけで、あなたが困憊するのを待ってこの近衛を崩すことができる」
 ……それは確かに、ぐうの音も出ない事実。
 東城戦で受けたダメージは大きい、決して致死的なものではないが、こうして人質を抱えた状態で、ツボミの動きに警戒しつつ立ち続けるのが辛いのは間違いなかった。
 しかし――それをわざわざ言ってくるということは。
「……あなたにはそのつもりはない。そうなると、俺が本当に『手負いの獣』になってしまう。開き直って、なりふり構わずあなたの喉笛を食いちぎらんとするかもしれない――慎重で利口なあなたが、そんなリスクを負うはずがない。それに」
 陽日輝は。
 この北第一校舎に足を踏み入れてからのことを思い返しながら、言った。
「あなたが東城に憤りを感じていたこと自体は、事実のはずだ。俺はあなたの良心を信じる」
「――っ」
 ツボミが、目に見えて驚いた表情を見せた。
 しかし、陽日輝には確信があった。
 決して適当にその場しのぎで言ったわけではない。
 ツボミは確かに、善人というわけではないだろう。しかしそれは、自分だって同じ。だからこそ、陽日輝にはツボミの心境が、少しは分かる。
 この生徒葬会で生き残るためのスタンスの違い――そのために、どれだけ冷酷になれるかの違い。
 ただそれだけだ。
「あなたはこの校舎を見捨てることもできた。だけど留まった。それは移動のリスクというだけじゃない――東城を許せないから、東城の被害者たちを救いたい気持ちも確かにあったから、あなたはここに留まっていた。……と、俺は信じてる」
「……だとしても、女子たちはともかく暁の治療をする義理は無いぞ」
「いや、義理ならあるはずだ。自分で言うのも何だけど――東城を倒して女子たちを助け出した俺に対する義理が」
「…………」
 ツボミは。
 しばし逡巡するように、唇を結んで。
 それから、はあ、と肩を大きく落として嘆息した。
「よく口が回る男だな。あいにく私はそれで絆されるような安い女じゃないが――藍実のほうは、すっかり感動してしまっているようだ」
「あ、いえ――ツボミさん、それは」
 陽日輝は藍実の表情を見ることはできないが、正面にいるツボミがそう言うのだから、そうなのだろう。
 ――ただ、環奈の表情は、よく見える。
 自分も東城の被害者である環奈は、唇を噛み、涙ぐんでいた。
 陽日輝がいきなり藍実を人質にして現れたことで混乱していたが、今になって、東城を倒してくれたという事実に対する思いが沸き上がってきたのだろう。
「――いいだろう。ここであなたと敵対したり反故にしたりするようでは私のほうが悪者だ。藍実や環奈と仲違いしたくもないし――要求を呑もう」
「……ありがとうございます」
 陽日輝は、そう言って会釈した。
 ――打算がなかったわけではない。
 ツボミは藍実と環奈を、少なくとも現時点で切ることはできない――二人はツボミに従順だし、二人の持つ能力はとても便利だから。
それが分かっていたから、東城を倒したことでその二人からは感謝してもらえるであろうということに期待した部分があるのは否めない。
 だが、ツボミのことを信じたのも本心だ。
 この生徒葬会という極限の環境下では、生きるために非情な行為や決断を強いられている生徒は少なくない。
 自分だって、そのために同じ学校に通う生徒たちを、すでに何人も殺してしまっているのだから。
 だが、東城や『死杭(デッドパイル)』の焔などの、生来の残虐性の持ち主を除けば、大多数の生徒はそんなことは望んでいない。そうしなければ死ぬから、やむを得ずにそうしているだけ――そのために必要な覚悟の大きさが、人によって違うというだけだ。
 ツボミは、小さな覚悟だけでそれができるタイプかもしれないが、東城や焔とは違う。
 少なくともこんな状況にならなければ、『良い先輩』で在り続けただろう人だ。
 以前からの知り合いだという凜々花の、保健室でのツボミに対する態度なども見ていて、そのことは確信していた。
 そのツボミは、凜々花のほうを見て、薄く微笑む。
 それはこれまで見たツボミのどんな表情よりも、柔らかく穏やかだった。
「いい男を見つけたな、安藤」
「えっ!? い、いえ、そんなんじゃ……!」
 うろたえる凜々花を見て、なんだかこちらまで恥ずかしくなってしまう。
 凜々花は美少女の部類だと思うが、この生徒葬会では生き抜いていくことに精一杯で、あまりそういう形で意識することはなかった。
 ――とにもかくにも、これでこの北第一校舎での戦いは終わった。
 しかし、生徒葬会全体で見たとき、これは終わりでもなんでもなく、戦いの途中に過ぎない。
 それでも自分は、ツボミの駒でいることを拒否し、凜々花と共に当初の目的地である裏山に向かうことを選んだ。
 その選択が正しいかどうかは分からない。
 もし誤りだったとしたら、死の直前に悔やむことになるだけだ。
 今はただ、自分が選んだ道が正しいことを信じて、生きるための努力をするのみ。
 陽日輝は凜々花を見つめながら、改めてそう誓った。
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