【9日目:未明 東第二校舎 屋上】
久遠吐和子が飛沢翔真に対して切った啖呵は本心からのものだが、その裏には一つの意図があった。
それは、翔真の怒りを、そして殺意を、自身に対し集中させること。
言い換えれば、屋上にいるもう一人、御陵ミリアから意識を逸らさせることだ。
翔真の、背中からプロペラを生やしている『能力』によるスピードは、先ほど目の当たりにしたが、自分はともかくミリアにはそう何度も回避できるようなものではない。
先ほどだって自分が庇わなければ、ミリアが自力で翔真の奇襲をかわせたかどうかは分からない――恐らくミリアの運動神経では厳しかっただろう。
だからこそ、翔真の攻撃対象は自分でなければならない。
「獣呼ばわりはさすがに酷いんよ。それなら、チョロチョロ飛んでるアンタは虫けらってことでオーケイ?」
「喩えるなら鳥にしてほしいところですね。まあ、畜生相手に高望みはしませんが」
「いや、鳥も畜生じゃん?」
吐和子は本音半分挑発半分の言葉を翔真に投げかけながら、ミリアに自分の狙いが伝わっていることを信じる。
ミリアのほうに視線を送りたいが、それをしてしまっては自分の狙いが翔真にもバレてしまうかもしれない――
だから、自分にできることは、さらに翔真を怒らせることだけだ。
「ウチからすれば、『楽園』なんて現実逃避にしか思えないんよ。どうせ『楽園』の中から生きて帰りたい人が出てくる。それに、『楽園』がどこにあるか知らないけど、敷地内の一部でってことならそう広いってわけでもないでしょ? 絶対ストレス溜まって仲間割れすると思うんよ。そうならないなら逆にアンタたちみんな頭ん中お花畑やわ」
「さっきからうるさいですね……それ以上の暴言は謹んでもらえますか」
翔真の声が上ずってきている。
よし、という歓喜の感情が表に出ないように気を付けつつ、吐和子はさらに言葉を重ねた。
「人殺そうとしといてこの程度のことでイライラするなんて、やっぱり『楽園』は全然楽園じゃないんじゃない? ウチらのほうがよっぽど快適に過ごせてる気がするんよ」
「――一緒にするな」
翔真が激昂し、自分に向かってくるのならそれは格好のチャンス。
ミリアに意図が伝わっているならよし、そうでなくとも自分なら少なくとも初撃は回避できる。
吐和子は翔真がプロペラをフルに駆動させて突っ込んでくるのに備えて身構えていたが――
「……トワコさん。あなたはあまり駆け引きが得意ではないですね」
「――っ。何の話?」
「最初はそういう性分だと思っていましたが、それにしたって不自然すぎるんですよ。あなたはまるで、僕に攻撃してほしいかのようだ。逆に言えばそれは、ミリアさんを攻撃してほしくないということ。であるなら」
「! や、やめ――」
吐和子が制止しようとしたときには、翔真はミリアめがけて飛来していた。
「先に攻撃すべきは、あなたのほうですね――ミリアさん」
「う――!」
ミリアは咄嗟に跳んでそれをなんとかかわしたものの、勢い余って転倒してしまう。このままでは、次襲われたらなすすべもなくプロペラの餌食だろう。
「ミリア!」
「うう……ライトが……!」
すぐさまミリアに駆け寄り、腋と腰に腕を回して抱き起こすようにして立たせる。ミリアの視線の先には、ミリアが隠し持ち、取り出そうとしていた二つの懐中電灯が転がっていた。
「なるほど。どういう効果があるかは知りませんが、それが奥の手でしたか」
翔真の言う通り――吐和子は自分が囮になることで、ミリアが『影遊び(シャドーロール)』を使用する隙を作ろうとしていた。
相手の影を照らすことで炎に呑まれたようにその肉体を焼くことができる『影遊び』は、そもそも影が発生しない暗闇の中においては無力。
だがそれは、あくまでもライトが一つしかない場合だ。
懐中電灯が二つあれば、一つ目を照射することで影が生まれ、その影を二つ目で焼くことができる。
しかし――その目論見は、失敗してしまった。
「あなたたちにそのライトを拾う余裕は与えませんが、念には念を入れて――壊しておきましょうか」
翔真はそう言って空中でターンし、懐中電灯めがけて飛んでくる。
吐和子は、その発言がブラフで自分たちを狙ってくる可能性を警戒し、ミリアを背後に回して身構えていたが、翔真は宣言通り懐中電灯を壊しにかかった。
空中で180度回転して仰向けになり、その状態で下スレスレを飛行することにより、プロペラで撫でるようにして懐中電灯二つをバラバラに砕いたのだ。
そのまま高度を上げ、ある程度の高さに達したところで旋回を始める。
今度こそ、再び自分たちを狙ってくるつもりだろう。
「吐和子」
ミリアが背後から、耳元で囁く。
「懐中電灯は手元にはもう無い。だから」
「分かってる。ウチがやるしかないってこと」
「違う」
ミリアは、吐和子の背中側のブレザーをぎゅっ、と掴むようにしながら言った。
「逃げよう。狭い場所なら飛びにくくなるはず」
「却下。小回りは効かなさそうやけどね、逆にこちらもかわしにくい。それに、そんな隙アイツがくれるとは思えない。あと」
吐和子は、ブレザーを掴むミリアを振りほどくように前に進み出た。
「ウチの『仕込み』はもう半分終わってる。あと一回かわせればいける」
「! ……でも」
「らしくもないよミリア。アンタのほうがウチよりよっぽど頭良いでしょ」
「……心配だから。吐和子のこと」
その言葉に、吐和子は一瞬ハッとしかけ――すぐに、ニカッと微笑んだ。
「オーケイ、ミリア。確かに岡部のときは助けられちゃったしね。でも、今はウチを信じてほしいんよ。――あの蚊トンボはウチが落とす」
『ミリア、私からも頼むよ』
そのとき、トランシーバーから来海の声が入ってきた。
どうやら、ミリアはトランシーバーのボタンを押してこの会話を来海とも共有していたらしい。
来海の口からも説得してほしいという思惑があったのだろうが、来海の答えはミリアの期待とは真逆のものだった。
『正直なところ私の『能力』ではこの状況を変えられない。今、予備の懐中電灯を取りに行っているけど――ハア、ハア――ちょっと、間に合いそうにない――よ。ハア――吐和子、勝算はあるんだね?』
トランシーバーからは、来海の苦しそうな息遣いと、廊下を走る足音とが入り混じって届けられている。
吐和子は、なおも不安そうなミリアの瞳を見つめ、頷いた。
「当たり前でしょ。ウチはアンタらと一緒に、三人で生きて帰るんだから」
『――ふふ。だったら私たちにできることは、キミを信じることだけだ。ミリア、分かってやってくれ。こういうときの吐和子は頼もしいよ』
来海がシニカルに笑う姿が目に浮かぶかのようだ。
ミリアはこのやり取りを経て、不安は完全に払拭されていないにしても、どうやら覚悟を決めたらしい。
こちらをしっかりと見つめ返し、彼女もまた、頷いていた。
「分かった。お願い、吐和子」
「――あいよ。それじゃあま――やってやりますか」
吐和子は、ミリアからさらに数十センチほど距離を取る。
万が一ミリアを狙われた場合にギリギリ助けに入れる距離だ。
翔真は、空中で加速を終えてこちらに突っ込んできていた。
――――先ほどまでよりも速い。
どうやらこちらの会話を待ってくれていたわけではなく、時間をかけて最高速まで持って行っていたようだ。
ちょうど会話が終わったタイミングになったのは偶然だろう。
もちろん、会話の途中で飛んでくることも警戒してはいたが。
「正直足が震えそうなほど怖いんやけどね――ミスったら死ぬし。でも、ここでアイツらを守れないようだったら、ウチはウチのことを嫌いになる」
一人の力に限界はあり、三人で助け合うことが大事。
それは岡部丈泰との戦いを経て痛感した。
しかし、来海もミリアも頼れないような、今のような状況なら。
唯一この男に対して抗う手段がある自分が、どうにかするしかない。
「『糸々累々(ワンダーネット)』の本当の強さ――見せてあげるんよ……!」
吐和子は、覚悟を決めて翔真と正面から対峙し。
大口を開けて、そこに左手を突っ込んだ。
「!?」
恐らく想像もしなかった行動に、翔真が動揺したのが分かる。
しかし、だからといって攻撃が止まるわけではない。
翔真が自分に突っ込んでくるまであと少し、失敗すればあのプロペラによって肉体が最低二つに千切られるだろう。
――吐和子は、左手を喉の奥の奥まで突っ込んで――
「おえええええっ!!」
――不快な異物感を無視し、込み上げる吐き気をも無視し、限界まで手を突っ込んでところで――たまりかねず、嘔吐した。
しかし、そうして吐き出されたのは――無数の糸。
夜の闇の中でもその存在に気付けるほどの、大量の糸だった。
「い、糸!?」
「ハア……ゲロ吐いたのいつぶりやろ……ま、全部糸なんやけどね――……ウチの『糸々累々』は、普通にしてたら糸を少しずつしか吐けない。でも、こうすれば、一気に糸を出せるんよ」
吐和子は、自分の唾液に濡れている糸を掴み、飛んできた翔真めがけて投げ付けた。
「うっ!?」
視界を奪われた翔真が、無意識にブレーキをかける。
その間に、吐和子は手を伸ばし、糸に指をかけた。
――今出したばかりの糸を、翔真の動きを止めるほど絡ませるのは難しい。
すべて絡ませればあのプロペラも止められるかもしれないが、すぐには無理だ。
しかし、何もその必要はない。
吐和子はすでに、翔真の飛来を数度かわしている。
そのたびに、すれ違いざま、吐和子は少しずつ『糸』を翔真の体にそっと絡ませていた。
――そのすべてを、翔真の首だけに。
今吐き出した大量の糸は――本命ではない。
ただ、翔真を少しでも減速させることができればよかった。
そうすれば、『仕込み』に触れることができたから。
「ふざけた真似を――がぁっ!?」
顔から糸を振り払った翔真が、ギョロッと眼球を剥きだす。
無理もない――吐和子が指を引くことで、翔真の首に巻き付いた糸が食い込んでいたからだ。
「か――ああっ……!」
翔真は、指を糸と首の間に割り込ませようとジタバタしていたが、ピッチリと肌に、そして肉に食い込んだ糸には一切の隙間が生じない。
翔真は続いて、肩を前後左右に振ってもがき、プロペラで糸を切断しようとした。
首に巻き付いている糸を緊張させている糸のほうを切ろうとしているのだろう。
しかし、翔真がもがくのに合わせて吐和子も立ち位置を変え、糸にプロペラが絶対に届かない位置関係をキープし続ける。
「アンタの負けやね。悪いことは言わないから、『楽園』とやらに逃げ帰ったら?」
「ふざけ……るな……獣……が」
「あらそう。じゃあ、悪いけど容赦しないんよ。ウチらはアンタの言う通り、誰かを殺してでもウチら三人で生きて外に出たいんやから」
吐和子は、糸にかける力をさらに強めようとし――それより先に、翔真が再加速を行った。
その勢いで糸を振り切るつもりだったのだろうが――
「……うわあ」
糸の強度は、翔真が思っていた以上にあった。
そのため、翔真の加速によって糸は千切れるどころかさらに深く強く彼の首にめり込み――結果、糸が潜り込んで消えたように見えた直後、その首からプシュウウ、と大量の鮮血が噴き出した。
「…………!」
翔真は、それを信じられない、というような目で見て。
そのまま、プロペラは消滅し、自らの血の海に落下して動かなくなった。
「……やっぱり岡部の奴おかしいわ。この糸、こんなに強いのに」
吐和子は翔真を一瞥してそう呟き、それから、ミリアのほうに向き直った。
「お待たせミリア」
「……吐和子、無事でよかった」
「マジでゲロ吐いたのと同じくらい体力消費したけどね――まあ、ああでもしないとコイツの隙作れなかったし、糸出しとけば首の『仕込み』が不発に終わった場合でも次の手を打ちやすいし。まあ、ギリギリなんとかなってよかった。はあ――」
吐和子は、思わずその場に尻餅をついた。
体力的にはもちろん、精神的にもかなり消耗したのがドッときた感じだ。
「吐和子っ」
ミリアが駆け寄ってくる。
「大丈夫、ちょっと疲れただけなんよ」
吐和子はそう言いながら、改めて星空を見上げていた。
――やっぱり、綺麗だ。
しかし、空を自由に飛べる『能力』を持つ翔真が外に出ていない辺り、『議長』の展開した見えない壁は上方向にも及んでいるのだろう。
いくら『楽園』なんてうそぶいたところで、普通に出られるのなら出ているだろうし――しかし、『楽園』へのあの陶酔ぶりを見ると、そうとも言い切れないかもしれない。だとしたら試してみる価値はあるか――いや、あの『議長』のことだ。空を飛べる能力を配布しておきながら空の守りが疎かだなんてマヌケな話はないだろう。
もし能力説明ページが五枚集まったなら、一応確認してみてもいいが……。
「吐和子、ミリア! 無事だったかい!?」
ほどなくして、校舎内に続く扉をバンと勢い良く開けて、来海が屋上に姿を現した。
その手には懐中電灯が握られていて、校舎内を走り続けていたことで息も絶え絶えだ。ミリアに輪をかけて体力の無い来海にはきつかっただろう。
元々癖毛ぎみな髪が、さらにボサボサに乱れていた。
「うん、なんとか」
「はは、来海のほうが大丈夫じゃなさそうに見えるんよ」
「そうか――よかった――」
懐中電灯を持ったまま膝に手を当て、息を整える来海を、吐和子は微笑ましく見つめる。
それから、翔真の遺体に視線を向け、おもむろに立ち上がった。
「? どうしたんだい?」
「ああ、コイツの手帳を貰っとかないとね」
吐和子は翔真のブレザーの胸ポケットから手帳を抜き取り、開く。
来海とミリアも近くに寄り、一緒に手帳を覗き込んだ。
飛沢翔真、二年生。
能力は『飛行少年(バードボーイ)』。
実際に見た通りの、背中からプロペラを生やして飛ぶことのできる能力のようだ。
他の生徒分の表紙や能力説明ページはなく、メモ欄への書き込みも無い。
そこに『楽園』についての情報があればと少し期待したのだが……。
「『楽園』については書かれていないようだね」
来海も同じことを考えていたらしく、そう呟いた。
ミリアも同様のようで、こくりと頷く。
――『楽園』で一生を過ごすというのは、三人とも否定している。
しかし、翔真のあの狂信を目の当たりにして、『楽園』の実態が気にかかっているのは事実だ。
それに。
「どうやら『楽園』について、少し調べてみる必要がありそうだね。彼らが一生この学校で過ごすつもりなら、彼のように外で動いている生徒はごく一部、ほとんどの生徒は『楽園』内にいるはずだ。だとしたら、『楽園』の場所を突き止めなければ、私たちの目的は達成できない」
来海の言葉に、吐和子とミリアは頷いた。
――『楽園』に何人の生徒がいるかは分からない。
しかし、たとえ一人でもそこに誰かがいるのなら、自分たちは『楽園』をスルーするわけにはいかないのだ。
なんせ自分たち三人が生きて帰るためには、自分たち以外の全生徒の手帳を集める必要があるのだから。
「そうと決まれば、教室に戻って休憩しながら、『楽園』探しと行こうか。私の『偏執鏡(ストーキングミラー)』なら、それが可能だからね」
来海の言う通り、『偏執鏡』で生徒一人ひとりを確認していけば、多くの生徒が集まっていて、翔真の言葉を信じるなら自給自足を行っているというその場所は、おのずと特定できる。
――しかし吐和子は、胸の内に僅かな違和感を覚えていた。
『楽園』は本当に、翔真の言うような素晴らしい場所なのだろうか――と。