【9日目:夕方 屋外中央ブロック】
滝藤唯人は剣道部のエースであり、その実力は全国区である。
ましてや彼は実戦志向の、剣道家というより剣術家と呼ぶべき人種――生徒葬会において実際に殺し合いを経験し、何人もの生徒を斬り捨てた今の唯人は、もはや高校生の域に収まらない。
御陵ミリアが懐中電灯を取り出したときには、唯人はすでに横に移動していて、放たれた光は唯人の影を掠めることもなかった。
そして、ミリアの想像を絶する踏み込みの速さで、唯人は一瞬にして距離を詰める。
ミリアからすれば、瞬間移動してきたかのように感じてしまうほどの速さ。
元々、剣道は防具を身に付けて行う武道――その防具から解放された唯人の速度には、立花百花クラスでなければ対応することは難しい。
ミリアは反射神経というより、ほぼ本能的な恐怖から身を引いていたが、その手に持っていた懐中電灯は木刀の一振りにより、中の電池ごと切断されていた。
ミリアの手首に伝わる衝撃は、彼女の腕どころか肩までも震わせる。
懐中電灯の成れの果てを取り落としながら、ミリアはポケットの中にあるもう一つの懐中電灯を取り出そうとして、すでに頭の片隅では、自身の運命を悟っていた。
『影遊び(シャドーロール)』による攻撃は間に合わない。
かといって次の一撃をかわすこともできない。
ああ――そうなるよね。
これまで何ひとつのことも頑張らなかった、何ひとつのことも誇れなかった、何ひとつのことも成し遂げられなかった私みたいな人間が。
どれだけ友達のために頑張っても、どれだけ友情を誇りに戦っても。
都合よく何かを成し遂げられるわけが――
「――ミリアァッ!」
――そのとき。
間近で響いたその声は。
ミリアにとって聞き間違えるはずもない、いつだって、この心に安らぎと心強さをくれた親友の声。
唯人が振るった木刀から、身を挺してミリアを守ったのは――久遠吐和子だった。
「吐和子……!」
「何死にかけてるんよ、ミリア……!」
ミリアは、吐和子が木刀を胴に食らってしまったことに絶望しかけ――しかし、すぐに気付いた。
吐和子の体からは、一滴の血も流れておらず。
唯人が振り下ろした木刀は、吐和子の左胸の辺りに当たった状態で、止まっていた。
「これは――『糸』、か……!?」
「すぐに気付くなんて流石なんよ――ウチはウチの『糸々累々(ワンダーネット)』で作った鎖帷子を制服の下に着込んでる。その木刀にホンモノの刀の切れ味があったって、そもそも刀から身を守るための防具を切れはしないんよ」
吐和子はそう言いながら、手首を軽くスナップさせた。
その瞬間、木刀はひとりでに動き、その切っ先は吐和子の胸から離れて地面へと下がった――いや、ひとりでに動いたように見えただけだ。
実際には、吐和子が張り巡らせている糸がそうさせたのだろう。
「吐和子……!」
「後は任せときミリア。本音言うと援護してほしいけど、今、コイツとウチの影、重なってるやろ?」
「……うん。ごめん――」
『影遊び』は、懐中電灯で相手の影を照らすだけで致命的なダメージを与えることができる能力でこそあるが、それゆえに味方がいる状況では使いにくい。
吐和子と唯人が至近距離で対峙しているこの状態から唯人の影だけを照らすのは極めて難しく、少しでも照準が狂えば吐和子も巻き込んでしまう。
なので吐和子の言う通り、ここは吐和子に任せるしかないだろう。
ミリアにできることは、唯人の相手で手一杯な吐和子の代わりに、火の玉や他の生徒の動きに目を配り、守りを固めることだけだ。
「謝らなくていいんよ、ミリア。――こうなったらもう、ウチの勝ちや」
吐和子はシニカルに笑って言った。
岡部丈泰は『糸々累々』で拘束されながらも体を動かすという離れ業を見せたが、そんなことは誰にでも出来るわけがない。
唯人も体は鍛えているだろうが、重量級の体格ではない。
実際、唯人はこの期に及んで、木刀を引くことも押すこともできずにいる――これなら。
吐和子の言う通り、勝てる――しかし。
そう思った矢先、唯人は――木刀から、手を離していた。
「――俺の『均刀(オールソード)』は棒状のものを持っている間、それに真剣の切れ味を付与できるというものだ。そして――どちら側を柄にしてどちら側を刃にするかは、俺の裁量で決められる」
唯人が木刀から手を離したのは一瞬。
次の瞬間、唯人は再び木刀の柄を握り。
その指の隙間という隙間から、鮮血が噴き出していた。
「なぁぁっ!?」
吐和子が素っ頓狂な声を上げる。
無理もない――吐和子が攻撃を仕掛けたわけでもないのに、唯人の両手に深い切り傷ができたのだから。
しかしその原理は、唯人自身の口から語られている。
唯人は一旦木刀から手を離して、もう一度握り直すことで、能力を再発動させたのだ。
――柄と刃の方向を、真逆にして。
その結果、吐和子の糸の鎧で防がれた側が柄に。
唯人が握っている、本来柄であるはずの部位が、刃に変わったのだ。
「剣の勝負を分けるのは一瞬だ。一瞬の迷いや動揺が生死を分ける」
唯人は、吐和子が動揺し、糸の支配が緩まったその隙を見逃さなかった。
再度木刀を握り直して再び柄と刃の位置を本来の状態に戻し、糸が緩んでいる間に刀を引く。
吐和子がハッとして、手首を動かした――恐らくは糸を引こうとした、そのときには、すでに遅く。
唯人の木刀が目にも止まらぬ速さで振られ。
ビィュン、と風を切るその不穏な音と共に――吐和子の喉に、横一文字に赤い線が出来ていた。
「と――とわ――」
ミリアは、震える声で名を呼ぼうとした。
すがるように伸ばした手は、吐和子に届かない。
吐和子は、どこかきょとんとした目で唯人を見。
それから、切り裂かれた自身の喉から噴き出す血を見。
――その目が、恐怖や絶望に染まったのは、しかし一瞬のことだった。
ミリアと目が合ったその直後には――吐和子の目は、覚悟を孕んでいた。
「剣士気取りの癖に――ツメが甘いんよ!」
吐和子は、自身の喉に――切り裂かれた傷口に、指を突っ込んでいた。
そしてそこから、直に『糸々累々』の束を引っ張り出す。
その動きに連動するように、唯人の木刀が引っ張られ、それにつられた彼の体も、吐和子のほうに手繰り寄せられていた。
「なっ……!?」
「ウチが胴体を守ってたから首を狙ったんだろうけど――狙うなら頭やったなあ! ウチの糸は口から出るんよ――だから、ウチの喉切ったアンタの木刀は! ウチの糸で雁字搦めになってるんよ!」
吐和子が叫ぶたび、喉の傷から空気と共に血が飛び散る。
そのあまりに痛々しい光景に、ミリアは目を背けそうになる。
――しかし、この場で最も狼狽しているのは唯人だった。
木刀は先ほど以上の拘束でびくともせず、それどころか唯人自身も、吐和子とほぼ密着するくらいに引き寄せられてしまっている。
そうなると、蜘蛛の巣に囚われた虫も同然だ。
吐和子は喉の傷から次々に糸を取り出し、唯人に巻き付けていく。
唯人が足掻けば足掻くほど、糸は強く複雑に、彼の体に食い込んでいくのだ。
「無駄な足掻きだ……! お前はじきに死ぬ、そうなればこんな糸はすぐに振り切って――」
「いいや無駄やないんよ――ウチはこう見えて寂しがり屋だから――アンタも一緒に来てもらうんよ――。――恩田ァァァァ!」
吐和子は。
講堂の屋上にいる、恩田綜めがけて、残る力を振り絞るように絶叫していた。
「アンタらにとってもコイツは邪魔やろ! 今ならウチもオマケで殺せるで!」
「な――何を言って――吐和子――」
ミリアは、震える声でそう言いながらも、頭の片隅では理解していた。
そんな自分の冷静な部分が心底憎らしい。
――吐和子は、唯人によって致命傷を負わされた。
だから――恩田の『暴火垂葬(バーニングレイン)』を利用して、唯人を道連れにしようとしているのだ。
「お前――死ぬ気か――!?」
「じきに死ぬって言ったのはアンタなんよ。……それとも、ウチの傷、こう見えてまだ致命傷じゃなかったりする? ま――だとしても、アンタを離せばミリアが殺されるから、ウチはこうするって決めてたんやけど……!」
吐和子と唯人は、無数の糸によってもはや一塊の状態だった。
そして、講堂の屋上に立つ恩田綜が、愉悦に満ちた笑みを浮かべるのが、この距離からでもハッキリと見える。
隣にいる鎖羽香音のほうは、ただ無表情にこちらを見下ろしていた。
――そして。
恩田がこちらを見たまま手を振り上げ、すぐに下ろし。
空中に生み出された火の玉が、こちらめがけて落下を開始した。
「吐和子――!」
「……ミリア。コイツはウチと一緒に死ぬし、恩田のこともコイツを殺すためらにウチが利用しただけで、別にウチの仇にもなんにもならないんよ。だから、ミリアは敵討ちとか考えなくていい――暁たちとの同盟だって反故にしていい。アイツらには悪いけど――来海を連れて、どこか安全なところに逃げてほしいんよ」
吐和子は、先ほどの絶叫の反動か、か細い声でそう告げた。
弱々しい笑みに歪んだ唇の端からも、血が滴り落ちる。
そして火の玉は、みるみるうちに接近してきていた。
それに気付いている唯人が必死にもがくが、吐和子はそんな唯人の背中に腕を回し、抱き締めるようにしてその動きを完全に封じていた。
「ウチみたいないいオンナと一緒に地獄に逝けるんやから、そう嫌そうにされると心外やなあ――……」
「俺はこんなところで死ぬわけにはいかない……! 俺はこの生徒葬会という戦場で、俺の剣を試し、高め――!」
「……はっ。よく言うんよ――アンタは恩田や東城と同じで、ただ自分の力を誇示したいだけなんと違う? ――そんなアンタには、ウチみたいなんと一緒に火達磨になるのがお似合いなんよ」
「…………!」
すでに火の玉の灯りが、吐和子たちを明々と照らし上げているほど近い。
吐和子は、最後にもう一度、ミリアのほうに向き直った。
――ああ。
これで、終わりなんだ。
吐和子は、数秒後には火の玉に焼かれて死ぬ。
分かっている――分かっているのに、言葉が出てこない。
出てくるのは嗚咽と、とめどなく溢れる涙ばかり。
――しかし吐和子は、これから死ぬ身とは思えないほど、穏やかに微笑んだ。
「ミリア。ウチは、アンタと来海のおかげで毎日が楽しかった。――来海のこと、頼んだんよ」
「吐和――!」
私も楽しかった。
いかないで。
今までありがとう。
来海のことは任せて。
――そのどれも、言葉にすることはできなかった。
ただただ渦巻く感情にも胸を掻き乱されるばかりだった。
そして。
火の玉は、吐和子と唯人の頭上に落下し。
二人の身体をひとまとめに焼き焦がし、焼き溶かし、焼き尽くした。
焼け残った一部の糸は、炭化した肉片に食い込んだまま。
二人の手帳だけが、不思議な力で守られているように、無傷のまま転がっていた。
――こうして、生徒葬会序盤から共に行動していた仲良し三人組の一人、久遠吐和子と。
剣道部のエースにして、現時点においては生徒葬会の全参加者中、最も多くの命を奪った生徒、滝藤唯人は死んだ。