10・楓ちゃんと桜子さん
アパートに辿り着くと一階の大家さんの部屋を尋ねた。
夜の8時半過ぎ、非常識…と言うほどの時間でも無いよな、多分。
僕はノックした。
「夜分遅くにすみません。牧野です」
「はーい」と可愛い声がしてドアが開く。
ガチャリ
ドアが開いて楓ちゃんが出た。
「お兄ちゃん!」
楓ちゃんは小学六年生の女の子で、大家さんの娘さんだ。
高校生と言っても通るくらい背がすらりと高い。
大人びた切れ長の目と姫カットでとても小学生には見えない美少女だ。
でも中身は子供そのものの天真爛漫でそこがまた可愛い。
僕は
「楓ちゃん、こんばんは。
桜子さんは……もう寝ちゃったかな?」と尋ねた。
楓ちゃんは
「ううん、ママは今お風呂。もうすぐ出るよ」
僕は下げていた紙袋を渡した。
「じゃあ、これ渡して。
今日、食事にお呼ばれしてお土産にもらったんだ、アップルケーキ。
すごく美味しかったからぜひ楓ちゃんと桜子さんに食べてもらいたくて……」と説明していると楓ちゃんは僕にキスをするかのように顔を近づける。
クンクン、と僕を匂う。
「あーお兄ちゃん! 焼き肉食べたんでしょ!
突然、夕飯いらないって電話するからおかしいと思ったけど。
一人だけいいなー、ずるーい。
それに散髪してる…
ひょっとしてデート?」
「違う違う!
何というかたまたま行きがかりでね」
と僕は説明に困り頭をかいた。
「ふーん、ママ気にすると思うから後でお兄ちゃんの部屋に行って詳しく聞かせて」
「だめだよ!
もう子供は寝る時間でしょ」
「お兄ちゃん、あたし子供じゃないもんねー」
僕の事をお兄ちゃんと呼んでくれる。
本当にこんな美少女の妹がいたらどんなに嬉しいだろう。
僕とよく遊びたがるのは、やはり寂しいからなのだろう。
楓ちゃんのお父さんは彼女が生まれる前に亡くなったという……
奥から
「なーに?
楓、どなたかいらした……」と桜子さんは長い髪をバスタオルで包みながら脱衣場から出てきた。
「ひゃっ牧野さ……!!」
桜子さんは突然の僕の訪問に驚いたようで顔を赤らめて身体をビクッとさせた。
それに合わせてピンクのパジャマの下の豊満すぎるお胸が踊る。
といっても、いやらしい感じはしない。
30歳だけど、ゆるふわ可愛い人でいつもニコニコと微笑んでいる。
慈愛とか母性とかママみ等の言葉は桜子さんのためにあるようなものだ。
でも実はしっかりした人で、ご主人を亡くされてからというものの遺産相続したこのアパートで楓ちゃんを育ててきた。
贅沢をしなければやっていけると言うけど、住民は今のところ僕しかいない……
僕はあわててケーキの説明をして
「あと……実はちょっと言いにくいのですけど、しばらくは夕飯は外で食べる事が多くなりますので用意されなくても大丈夫です」
桜子さんの笑顔がさっと消え、泣きそうな表情になった。
「え、あの……やっぱり、お口に合いませんでしたか……
もう少し若い人好みの料理を用意しようかと思ってたんですけど、それじゃ塩分も多くなるからと思ってて……」
「いやいや!
そんな事ないです!桜子さんの料理は世界一美味しいです!
ただ……これからはアパートに帰る時間が不定期になりそうなので」
「今ポスティングって忙しいのですか?」
「いえ、趣味で書いていた小説が賞を取っちゃって、それの出版打ち合わせやらで忙しくなりそうなんですよ」
忙しくなりそうなのは本当だけど、いつまでも夕飯を準備してもらう事に申し訳なさを感じていた。
桜子さんは「2人前も3人前もご飯を作るのに手間もお金も変わらないから」と言ってくれるが、これからは少しでも楽をしてもらいたい。
良い機会なのだ。
楓ちゃんが
「本当!すごい!!」と眼を輝かせる。
桜子さんは
「そうなんですか!おめでとうございます!
小説書いていたんですか!
牧野さんは何か才能を持ってると思っていたんですよ。
ほら、やっぱり諦めなくて良かったでしょ」
新都社で叩かれ始めた頃に、夜くやしくてアパート前で涙ぐんでいたら桜子さんが駆け寄って僕の頭を何も言わずに抱きしめてくれた事があった。
理由は聞かれなかったし、僕も言わなかった。
言えばきっと僕以上に悲しむだろう。
その時の桜子さんの
「ゆっくり休んでもいいけど、何事も諦めちゃダメよ」といった言葉が僕の支えになったのだ。
僕は受賞の経緯を簡単に話した。
桜子さんはさらに喜んでくれて
「本が出たら読ませてもらいますね。
いつかお祝いしましょう」と世界一優しい笑顔でそう言ってくれた。