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おきゃんちん四獄

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三国志、戦国史に比べ、おきゃんちん四獄死はあまり知名度がない。
しかし、それらに劣らぬスケールと魅力的な武将、そして浪漫に溢れていることを知っておいて損はないと思う。
おきゃんちん四獄死は、地獄を統一した四足歩行王が没し、生・殖・行・為の4つの国に分かたれるところから始まる。

四足歩行王にはおちん、きゃんち、たまあき、ちんちぽの4人の王子がいたが、これらは私が斬首した。行王の末の一人娘であるおヒヒ姫はこれを大層悲しみ、行王の忠臣であった尻丸を配下につけ、生の国を興した。「私だけ生きてる国」、生の建国史には国名にその意が込められているとの記載があるが、その意を知った尻丸即座に割腹し、民に道を示したことを伝えられている。これが生の国御切腹ファイトクラブの皮切りであったとされ、殖の国の建国にも深く関わってくる。

殖の国は、行王の次男で人間辞め彦王が、毛唾部に遠征中にシャブを喰っているとき、尻丸の雄姿に続き、いざ割腹せんとする男と会った。これがかの有名な生きてて良かポン助君である。ただこのときポン助は卑賎の身であったため帯刀を許されておらず、あほ蒟蒻で割腹を図ろうとしており、死ねずに悔し涙を流していた。我蒟蒻腹滑尊死不至涙湿如何おちんちん(私が尊厳有る死に至れないのは涙が蒟蒻を湿らすせいだろうかおちんちん)とこの時詠んだとされている。この場を見た人間辞め彦王は一頻り笑った後、突如激高し、ポン助の頭を酒瓶でカチ割り建国を宣言、そして後考宜金譲渡故おちんちん(あと考えといて、お金あげるからおちんちん)と言い残し、崖から身を投げた。そうして脳に重大な障害を残しながらも生きてて良かポン助君は殖の初代国王の座に就くのである。

行の国の興りは、王都チンチナキャッキャ近郊の遊牧民であった頼むから死なせてクレ族の族長自死の娘、生きててもなんも良いことナイヨが行王の死後、治安の悪化ともない暴徒化した王都の民に暴行を受けたことが契機となる。クレ族は識字率も王都民に劣らず高く、聡明な者が多かったが、気質として残忍であった。ナイヨは族長の娘というだけでなく、快活で分け隔ての無い人柄から人望厚かったことも災いし、その彼女の不当な負傷にクレ族の者は怒りに怒り、王都に民の多くを平野におばんざい苗植した。クレ族は遊牧民であったが、家畜に苗を植えるという農法を行っており、それを人間で行ったのである。苗の植え方によって家畜を従順にするというノウハウを転用し、クレ族の元には万の奴隷が生まれた。そしてこの一連が終わったのち、ナイヨは目を覚ましたが頭を殴られ過ぎて馬鹿になっており、全員殺殺(全員殺す)しか言わなくなった。他のクレ族はナイヨの殺意に同調し、こうして史上最悪の殺戮国家が誕生したのである。行はヤるみたいなノリでつけられたと言われている。

為の国に関してだが上記三獄にくらべ少し成立は遅れる。行王が篤く信仰していた豚小屋ハピハピ天を祀る大便所幸院に生きてて御免坊という小僧がいた。行王は実子の四王子よりもこの小僧を可愛がっており、彼らを先置いて蛸さん八八位を与えるほどであった。(イカさん七七位よりも上)こういったことから御免坊は実は行王の血を引いているのではないかと専らの噂であった。だが、これはまったくの間違いで、御免坊の父と母はホームレスとパンパンである。しかし、この誤解をいいことに御免坊を担いで国を興さんと企てたのが高僧にゃっこりマンソン法師であった。マンソン法師は、御浄財プレゼントキャンペーンと称し、自慢の身体も露わに踊り念仏を月火月火水月火土土のサイクルで続け、飽きたところでチャクラアタックに成功し、第5次階層征夷蛮滅異界神様から託宣を得たと出鱈目をいって御免坊の即位式を開き、為の国の樹立を宣揚させた。踊り念仏期間が長く、この間に御免坊は壮年期を迎えており、深刻な糖尿病も患っていた。

こうして四獄がそろった段階では力の差は均衡しておらず、行の国に殺し尽くされて仕舞いのように見受けられるかもしれないが、数奇定めとしかいいようのない天祐が他三獄に与えられるとともに、予想しえない動乱の渦が巻き起こっていくのである。
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