君はそろそろ周りと感覚が違うことに気づいた事だろう。
思い返すと、君は小学校の朝の点呼で、同じクラスの子たちが家族旅行で休みであるという
事実を聞いたとき、君は衝撃で固まっていただろう。
学校は休んでいいところなんだと。
不公平感による怒りでもなく、自分には出来ないという劣等感でもなく。
君はその事実に希望をみたんじゃないんだろうか。
そこでは気が付かなかったが、「学校を休んではいけないと考えている自分」がいたと考えるのが自然だろう。
雨にも負けず風にも負けず。
大雪の朝に路上を自転車で転がりながら登校したのは
きっと学校にいきたかったからじゃない。
そういうものなんだろうと考えていたんじゃないのだろうか?。
思い返すと何度も帰った高校の帰り道。自転車に乗って友達と帰る。
コンビニに寄る。友達に「一緒になにか買う?」と聞かれて、君は「要らない」と答える。
一人で自転車に乗ったままボーっとする。
高校生にもなって君は自分の判断でコンビニに行っていいか分からなかったんだろう。
そしてなぜこの友人は自分の判断で自分の人生を生きれるのかが
不思議でしょうがなかったと思った事だろう。
いつの日かこっそり買ったホットスナックの味が、むこう三年間忘れられなくなるなんて
想像もできなかった事だろう。
この時から君は自分の人生がいかに窮屈かという事に
気づいたことだろう。
君は君の判断で生きて良い。
行きたい場所に言って良い。
君は病気でなくても学校を休んで良い。
そして君は、セブンイレブンの揚げ鳥を買って帰って良いのだ。