沢口の表情は晴れやかだった。
しかし、セスにはそれが自棄に似たものに感じられた。
沢口は解答を得たのではなく、諦めたのだ。いきなり諦めた彼は、心の整理の手順を間違えて、整理することを丸投げにした。
「沢口」
友人としてのセスは沢口を名前で呼ぶ。いつもの沢口はそれに気付いている。注意して聞け、という意味でセスは沢口を苗字で呼ぶものの、今の沢口はそれにすら気付かない。
「行こうぜセス。歌花たちを見失っちまった」
「……。……ああ……そうだな」
見かけだけ晴れやかな沢口の笑みにセスは何と言っていいかわからず、頷くことしかできなかった。
駆け出すその足取りも軽い。
だが、何か大切な理由を置いて来ているのだ。
沢口が生きていないのであれば―――
今は回答を出せないと、セスは頭を振り、駆けていった沢口の後を追った。
歌花の言葉が真実の一片を内包するのなら、これから『現実』の何かが揺らぐ。
考え始めるにはまだ材料が足りなかった。
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沢口とセスが歌花とシャティの足取りを追っていると、赤いコードが蠢く、通路を完全に塞ぐ壁に行く手を阻まれた。
高さは30メートルほどだろうか。鎖のように幾重にもかさなる赤は、見た目からすでに一切の侵入を拒んでいた。
「なんじゃあこりゃあ」
「ファイアウォールもここまでくると壮観なものだな」
沢口とセスが驚嘆に暮れていると、セスの足元に緑色の光が発生した。
光はセスの手元に向かって真っ直ぐに飛んでくる。
「わ!」
「……シャティのメッセージだ」
その光はシャティがセスのために飛ばしていた伝言だった。セスの気配を探知して発生したのだろう。
「シャティ、なんだって?」
「ファイアウォールを通過するためのパスワード、だそうだ」
そう言ってセスがファイアウォールにパスワードを投げると、果たして言葉通りファイアウォールは一瞬にして姿を消した。
「さっすがシャティ!んじゃ、行こうぜ!!」
歓声を上げて駆け抜けようとした沢口を、セスは彼の腕を掴んで止める。それは予見していたように無駄のない動作だった。
進行を阻まれ、不平を言おうと振り向いた沢口の背後で、ファイアウォールは低い音を立て元の姿を取り戻していた。
「……アイヤー……」
「メッセージには続きがあった。『人間には無理だけど』だそうだ」
しれっとそう言うセスを沢口は力いっぱい睨むが効果はない。
「一応確認したが…。これは確かに無理だな」
再生する際にセスが目視で確認したところ、ファイアウォールは10メートルほどの厚みを持っていた。
ファイアウォールが消滅してから再生するまでの時間、約1.5秒。人間の走る速度では、ファイアウォールに穴が開き、そして再生する瞬間に通り抜けるということは逆立ちしても不可能だ。
「どーすんだよ!これ!」
肩を竦めているセスは、冷静そのもので慌てている気配はない。
沢口がせっつくと、セスはもう一度肩を竦めた。
「だから、お前の出番だろ?」
「うぇ」
セスが向けた視線に沢口が怯む。コンマ数秒考えた後、沢口は自分の力を思い出す。
人に自分の力を頼られることに慣れていない彼は、自分の役割というものがよくわかっていなかった。
そして、どうにも彼は注視されることに慣れていない。
「マジデスカ」
「マジデスヨ」
まあ、やってみるだけやってみろ。セスはそう言って沢口の背を叩いた。
押し出された沢口が見上げた高くて赤い壁は、人ひとりの力ではどうにもならなさそうな雰囲気をもっていた。
それでも沢口は深呼吸をし、削除のプロセスを頭に描く。
手のなかに、光が生まれる感覚がある。熱を感じる。それをもっと大きく、大きく膨らませる。
電子弾は発すると帯状に見えるが、実際は球体の光だ。光がオブジェクトを削除する際に、処理落ちを起こすため帯状に見える。それをセスが説明したとき沢口は、「じゃあかめ●め波じゃなくて元●玉だな!」と返してセスを絶句させた。
それ以来、電子弾を使うときは『オラに電気をわけてくれ!』と言ってみたい衝動にかられる沢口だったが、セスに叩かれることが火を見るより明らかなため、未だ口にしたことはない。ただ、いつも心の中で念じている。
―――オラに電気をわけてくれー!
頭上に掲げた掌の上には、直径2メートルほどの光球。まさしくそれは―――(ry
「でやっ!!」
光の玉を、先ほどセスがパスワードを飛ばしたときのように、壁に向かって飛ばす。
電子弾は赤い文字でできている壁に円筒状の穴を開けていく。
壁を消し去り、その向こうにあった壁ももろともに消し、そこで電子弾は消滅した。
「上出来だな」
「おまいさんのサポートがな!」
褒めているのに素直に聞けない沢口に、セスはついに苦笑した。
―――期待されたり褒められたりすることに慣れていないのは、沢口が自分自身に期待することを止めてしまったからだろうか。
セスがサポートしたのは、方向と距離感の指示だけだ。
実際にコントロールしているのは沢口自身なのだから、セスはそれを素直に褒めただけなのだが…。
「ともかく、道は拓けたな」
「再生しないな、ファイアウォール」
「『その場所に配置されている機構を壊した』からだな。パスワードで壁が消えるのは、ファイアウォールの機構が消えたわけではなく、機能を一時的に停止させているだけだ」
不思議そうな顔している沢口に、ドアを開けたか壊したかの違いだな、とセスは加える。
そこで納得した沢口はおお!と歓声を上げた。
「……敢えて問題点を上げるなら」
「ん?」
「もう少し下だな」
セスが、沢口の空けた穴を見遣る。
沢口が空けた穴は、沢口やセスの頭くらいの高さから空いている。中をくぐるには足場が必要だ。
ファイアウォールに触れないよう、そもそも足場は必要なのだが……。
「キュア」
やや優しい声色でセスが呼ぶ。
フラッシュメモリに格納されていた白衣の少女は、いつものように光の中から現れ、恭しく会釈した。
『お呼びですか、マスター?』
「足場を頼む」
『承知しましたワ』
もう一度頭を垂れたキュアは、ファイアウォールに向き直ると、白く細い指先を走らせた。キュアが何かを描いた虚空に、黄緑の線状の光が生まれる。階段状になった黄緑色の光は仮想空間状で物質化し、足場となった。
その時間およそ10秒。
見る間にファイアウォールに階段と足場ができていた。
『どうぞ、マスター』
「ありがとう、キュア」
礼を言われたキュアは、眩しい笑みを浮かべる。くしゃっと笑ったその顔はどこか幼く、セスへの親愛で満ちていた。
その愛らしい笑みに当てられた沢口は、ぼうっとしながらも、「キュアは俺の嫁」と呟いた。
耳聡くそれを聞き付けたセスは、顔や体の向きを変えないまま、沢口の足を強く踏む。
「アッー!」
沢口の奇っ怪な声に、不思議そうな顔をしていたキュアだったが、セス得意の肩を竦めるポーズに意味の一端を掴んだらしく、苦笑した。
「このドルコンめ…」
ドールを溺愛している、という意味合いで沢口はセスをドール・コンプレックスと称することがあった。それを略してドルコンだそうだ。
「聞こえない。行くぞ」
くるりと踵を返し、セスが足場の階段を上っていく。顔を見合わせた沢口とキュアは、少しだけ笑い、セスの後に続いた。
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ファイアウォールを抜けた先に待っていたのは、歌花とシャティ、そして歌花のコピー…ではなかった。
歌花とシャティはいる。だが、コピーはいなかった。
コピーの代わりにそこにいたのは、沢口にはどこか見慣れた、柔らかいウエーブのかかった茶色の髪、小柄で華奢な体つきをした少女―――
「…………片倉?」
こちらを無機質な視線で見つめるその少女は、顔を飾るパーツの一部が欠けていても、紛れもなく、ユキノだった。
彼女は自分が呼ばれたという自覚はないようで、微動だにしない。
『―――コウ!』
幼なじみの枯れた叫びに、沢口は魂ごと撃ち抜かれた気分だった。
ユキノは、まるでドールのような顔をしていた。
「どういう、ことだよ……なんだよこれ……片倉……?」
目の前の事象に、予想をつけたくない。もしかしたら、という推測はあるが、それが事実であってほしくない。
沢口は自分自身で結論を出すのを激しく恐れていた。
そんな沢口を見た歌花は、沢口に現実をつきつけた。
『……あのおんなのこのなかに、あのこがいる……』
「………―――」
そんな、馬鹿な。
沢口は、セスがそう呟くのをどこか遠くで聞いていた。
「人の心を、乗っ取ったっていうのかよ…そんなこと、できるのかよ…」
口に出してみて、沢口はその現実に怖くなった。
ドールに、精神を乗っ取られる。自分が、自分ではなくなるのだ。
『仮想空間上にあるヒトは、ドールと同じく電子情報にすぎないわ。…できない話ではないの』
シャティの言葉。彼女自身、ここにいる人間の心を奪うことができるということだ。
人間には、自分自身の能力以上のことはできない。つまり、主人であるはずの人間には、自衛手段がない。
自衛手段は持たないが、そのかわりに―ー―
「ドールの中には、『倫理プログラム』がある……だが、あのコピーはそのプログラムが何らかの原因で動作していないんだ」
セスの沈痛な声が無機質な空間に響く。
「ピィ」
雛からの応答はなかった。
今日一日でずたずたに精神を引き裂かれた彼女は、今この現実をどう受け止めているのだろう。
セスはふとそれが気にかかったが、仮想空間からはどうすることもできなかった。
彼女の精神は弱くはない。だが、17歳の少女であることもまた変わらない事実。
雛の仮面は今日剥がれた。
心の柔らかい部分を打たれ続けて平然としていられるほど、鈍感ではない。
ぐらり、コピーの体が傾いだ。
コピーが、侵入者である沢口たちの姿を認めても何のアクションも起こさないことを、ふとセスは不思議に思った。
セスの思惟を拾ったかのように、シャティが言う。
『マスター。歌花はコピーと同期を取りました』
「同期…?ばかな」
歌花は今、歌うという彼女の最上の能力が欠けている。
コピーのほうはといえば、精神状態が破綻しており、正常に機能していない。
同期を取る、つまり能力をどちらかに揃えたとすると---どちらに合わせたとしても、『歌花』が壊れてしまう。
『雛さんの判断よ』
シャティが小さく付け足した。
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沢口とセスが歌花たちと合流する少し前。
ネットワークを飛び越えた歌花とシャティは、青い海が広がる空間にたどり着いていた。
砂浜、海、擬似的な鳥の声に波の音。
シャティと歌花は顔を見合わせる。黒い気配には相応しくない場所だった。
歌花が気配に向かって歩き出す。シャティはその後に続く。
青くきれいな光景にはそぐわない、どす黒い気配はそこにいた。
『!』
シャティは黒い気配の傍に倒れている人間の存在に気がついた。
人間は男性で、目が虚ろだった。
生命反応はある。が、精神状態をスキャニングしたところ、意識が混濁しているようだった。
黒い気配が立ち上がる。ぐるりとシャティたちを見据えたその顔は、パーツは歌花と一緒でも、表情は悪鬼のようだった。
彼女が、彼を『壊した』のだ。
『なんてことを』
シャティは歌花のコピーをキッと見据えた。
シャティの中にはセスが組んだ倫理道徳と、作られた超自我があり、コピーの行為はそれに完全に悖るものだった。許せない、とはこういうことを言うのだ。
シャティが向けた視線を敵意と判定したコピーは、口を開いた。
『!きいちゃだめ!』
コピーの開いた口から音が発せられる直前に、歌花が叫んだ
瞬間、シャティは防御プログラムを実行した。
防御壁が構成されると同時に、遮断しきれなかった破裂音が響き渡る。
『くっ……』
シャティの作りものの精神が揺らぐ。
コピーの歌はダイレクトにプログラムを侵食してくる。
使い方を間違えた、雛の作り上げたやさしい心。
ほんとうは。あたたかい歌をうたうはずだった。
ほんとうは。華やかな歌をうたうはずだった。
それをコピーは雛の心など何一つ知らず、相手を傷つけることにしか使わない。
防御プログラムが消える前にもう一度バックグラウンドでプログラムに強化を加え、再度コンパイルを行う。
このままでは防戦一方になってしまう。
打開策を考えたシャティが思い浮かんだのは、目の前の少女があのコピーと同じ能力を持っているということだった。
『歌花、あなたの力を貸してほしいの』
『……歌花の……ちから?』
シャティのことばに、歌花は首を傾げる。
同じドールであるシャティには、歌花の人見知りは起きないようだった。
『あなたの歌で、彼女の歌を相殺してほしいの』
『……できない』
歌花は力無く首を振った。彼女はあまり表情のない顔に、彼女なりに精一杯作った悲しい表情を浮かべていた。
シャティは防御プログラムが消えた瞬間にもう一度強化したプログラムを呼び出す。
先程張った防御壁よりも堅固なそれは、音を完全に遮断し、お互いの声をしっかりと伝える静寂をもたらした。
『どうして?』
『……歌花は今、うたえないの』
もう一度歌花は首を振る。
本当にできないのだろう。浮かべる表情がぎこちないのは、彼女が稼動して間もないことを示している。
歌花の、ぎこちないながら必死に浮かべる表情が、悔しさを溢れさせていた。
『ごめんなさい』
シャティが謝ると、歌花はややあって反応した。
『ありがとう』
『?』
突然の歌花からの御礼にシャティが首を傾げた。それをみた歌花は、理由を付け足す。
『歌花を守ってくれた。ありがとう』
『……』
『何かをしてもらったらお礼を言いなさいって、雛が』
ありがとうはいい言葉だから、たくさん言いなさいって。
真っ直ぐシャティに視線を寄越す歌花は、無垢そのものだった。彼女はこんなにも細やかなドールだというのに。それなのに。
シャティはやり切れない思いでいっぱいになった。
出力の上がったコピーの歌が、壁とぶつかって不協和音を立てる。
状況の打開策が見つからない。シャティ一人ではどうしようもなかった。
―――そのとき。
『歌花』
雛の声が響いた。
歌花はぱっと顔を上げ、モニタリングしているはずの雛にその表情を見せる。
シャティは何となく、雛は歌花のことを見ていない気がした。
『……あのね歌花……あのこと歌花は繋がってる』
『……?』
『茶碗が解析してくれた……あのこは完全に歌花と分離してるわけじゃない』
ドールは自立型アプリケーションだ。完成してしまえば各個体が独立し、他のアプリケーションに依存せずに起動できる。他のアプリケーションのインストールは一切必要ない。
他のアプリケーションに依存、関連させることもできるが、基本的には必要がない。
それが、繋がっているということは。
『歌花を止めたら、あのこも止まる……』
『…………――――』
雛はどんな顔をして。
歌花はどんな顔をして。
シャティが歌花に目をやると、歌花は先程と同じ顔をしていた。
―――無垢だ。
『じゃあヒナ、歌花をとめて』
言葉の意味がわからないわけではない。
『止める』とは、ドールにとって生死に関わる単語だ。
一時停止という機能も別に存在する。だが、一時停止は緊急時にはドール自身が解除できる。コピーは一時停止では止めることはできないだろう。
『……歌花……』
雛は躊躇っている。停止させるということは、システムを完全にダウンさせることだ。歌花は、そのままでは二度と起動しない。歌花とコピーが繋がっている箇所、歌花の『命』でもあるメインシステムを書き換えなければならなくなる。
つまり、歌花を『止めて』しまうと、今の歌花のままでは起動ができない。
雛が躊躇っているのを感じたのか、歌花が言った。
『ヒナ、歌花はうたえればそれでいいよ』
『…………歌花……』
ヒトとは違う命への執着の仕方。
ドールには生命はない。だが、稼動しているそれは、命に等しいテクノロジー。
大事に扱う人間もいる。粗末に扱う人間もいる。
雛は、粗末に扱う人間では、ないが―――
『ごめん、ね―――』
雛がコントロールを弾いた音が響いた。
が、不協和音は止まない。
シャティが歌花を注視すると、歌花はまだ瞬きをしていた。シャティの視線を感じたのか、シャティを見つめ返し、歌花も不思議そうな表情をする。
『ヒナ?』
『―――だめ、システムダウンしない……』
それでいて、雛の声はどこかほっとしているようだった。
『……雛さん、コピーと歌花はメインシステムを共有しているの?』
『……メインシステムのなかでも、歌の部分と、命の部分だけみたいだったけど……他にもあるのかも』
『どこかでコピーがロックをかけたのね』
コピーの歌の出力は上がり続けている。
シャティが張った防御壁が悲鳴にも似た音を立てていた。
『ヒナ!歌花はこんな歌うたいたくないよ!!』
叫んだ歌花は、涙を流していた。彼女の涙は勿論つくりものだ。だが、主人の流した涙を見て、歌花が学習したのは嘘じゃない。
悲しいこと、辛いことがあったときに流す涙の意味。
雛が作った未完成の歌花は、暴力的なあの歌に、悲しんでいる。
『わかった―――』
歌花の悲痛な叫びに、雛は覚悟を決めたようだった。
『……コウがここに来るまでに歌花とコピーの同期をとって、コピーから歌を取り上げる。
コウが、きたら―――……コウに、歌花を削除してもらおう』
シャティは何も言えなかった。
歌花はすべてを受け入れていた。
『……わたし、もう一度、歌花を作り直すから』
『必ず作り直してあげるから』
雛の言葉に、歌花は満面の笑みを浮かべた。ぎこちなさなどどこにもない、自然な笑みだった。
『やくそくだよ、ヒナ』
---------
『じゃあ今、コピーは歌えないってのか』
沢口の問いかけに、シャティは首を振る。
『今だけじゃないわ、このまま、ずっと』
『…………』
沢口はコピーと歌花を交互に見比べる。
歌花は沢口に向かって微笑を浮かべていた。その淋しげな笑みは、どことなく雛に似ている。教師である雛の表情を、歌花の中のプログラムは正しく映していた。
ユキノの姿をしたコピーは、憎悪に満ちた呻きを発している。
人間というデータを上手く扱えないのだろう、態勢を崩し、膝をついていた。
「あれって片倉なのか?あいつ大丈夫なのかよ?」
『ユキノを助けて、コウ―――』
雛の言葉が間接的に沢口の疑問に答える。
理解しきれない沢口はシャティに救いを求めると、シャティは首を縦に振るだけだった。
『あのこは間違いなく雛さんの友人―――』
歌を奪われたコピーは逆上し、しばし絶叫していたという。
雛たちがコピーの処遇をどうすべきか考えていた最中、ふとコピーの叫びが止み、他の空間に転移した。
それを追った歌花とシャティがたどり着いた場所には既にコピーの姿はなく、片倉ユキノが蹲っていた。
沢口は、どうして歌花とシャティがこんなに冷静にしているのかがわからなかった。
あれがユキノで、歌花のコピーに意識を乗っ取られていて、当の歌花は、あれほど渇望していた歌を失った。
かれらは人間ではない。だが―――
沢口が言葉を失っていると、歌花が最後の助け船を出す。
『―――歌花を、けして、コウ』
歌花の言葉に顔をあげた沢口の焦点の中、
歌花の表情に雛が、そしてモデルであるユキノが重なった。
『あなたを待ってたの』
悲しそうに笑む雛。
疲弊したユキノ。
歌を愛した歌花。
『いつかまた、相応の場所で歌うために、私を消して』
「―――…………ピィ!」
雛の返事はなかった。
『だいじょうぶよ』
―――やくそくしたから。雛と
沢口の視線に、歌花は頷く。情緒の未熟なドールは、この短時間で随分と成長していた。―――だが、もう遅い。
「……わかった。またな、歌花」
また、という別れの言葉を、歌花は笑って繰り返した。
『うん。またね、コウ』
沢口は眼を閉じて、削除のプロセスを再び瞼の裏に描く。
―――こんなはずじゃ、なかった。
そればかり思った。
手に集まる光を球体にする。集中が上手くできない。
歌花はじっとそこに佇み、ただ沢口を見つめている。そのとき―――何かが動いた。
目を閉じて集中している沢口はそれに気づかない。もう一度集中しなおし、手の中に光を集めて、そして―――
「コウ!!」
セスの叫びは、沢口を止めることはできなかった。
目を開いて電子弾を歌花に放ったその瞬間、沢口は見た。
歌花を羽交い締めにしているユキノが、人間離れした憎悪の表情を浮かべているのを。
既に手から電子弾は放たれていた。帯状の光を残像に作り、歌花へと一直線に向かっていく。
『ユキノ!!』
「片倉!!」
雛と沢口の叫びは同時だった。電子弾は大きなオブジェクトに接触し、それを削除すべく瞬時に動作した。
削除のプロセスは眩い光に変わり、辺りを強い白で塗りつぶす。人間も、ドールも、光に目が負け、誰しもが瞼を閉じる。
音はなかった。そして、削除の光は、目的のオブジェクトを完全物理削除した。
『そ、んな…………』
最悪の結末を迎え呆然と呟く雛、言葉を失う沢口。そして、削除の光は目的物をすべて消去した後、途切れた。
だが―――そこにあるのは、無ではなかった。
「!!」
『やれやれ……危機一髪、とはこういうことを言うんだね』
眠そうに欠伸を噛み殺す、痩身の黒髪の少年ドール。
「壱!!ルミ!!」
『ユキノ!!』
ルミナのドール、壱がユキノを抱えて立っていた。そのすぐ傍に、ルミナの姿もある。
……歌花の姿はなかった。
沢口の視線が歌花を探したのを感じ取ったのか、壱が告げる。
『「歌花」は正常に削除されたよ。』
壱がそう伝えると、沢口とセスは複雑ながらも安堵した表情を浮かべ、雛の小さい吐息もスピーカーから聞こえてきた。
『……でももうひとつ、余計なものを消してしまったけどね……』
安堵は長くは続かなかった。壱の言葉の続きに、沢口とセスは怪訝な表情を浮かべて顔を見合わせる。
しかし、二人は異変にすぐに気づいた。
ルミナが隠すように庇っているその体は―――
左腕が肘の先から無くなっていた。