29:Teammates
彼女は気が付くと、ドール作成用のエディタを開き、黙々とプログラミングをしていた。
ただの文字と数値でしかないものが、連なって意味を成し、かたちを作る。
金、土、日の三日間作業に没頭していたため、基本部分は出来上がった。
―――だが、テスト起動ができない。
起動しようとカーソルを動かすものの、指先が震え、手が止まる。
しかし、手を止めた数秒後、時間が惜しく感じた彼女はドール起動モードから編集モードに切り替えて、細部の設定をまた書き始める。それを何度も繰り返して、かなりの時間が過ぎていた。
普段は優等生で通っている彼女だったが、金曜日は学校を休んだ。
ケイタイがメールの着信を知らせ、電話の着信を知らせたりしたが、彼女はそのどれにも応えなかった。
今の彼女には現実から逃避するという選択肢以外に、自分を守る方法が見つけられなかった。
気がつけばもう日曜日の午後。
―――明日学校を休むことはできない。
いつまでも逃げているわけにはいかない。しかし―――今はまだ、現実を直視できそうにない。
これが、明日には現実を見ることができるようになっているとは思いがたい。
それでも、今は何も考えずに手を動かしていたかった。
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さかのぼること2日、金曜日。
病院から家に帰った雛は、シャワーを浴びてすぐにベッドに倒れこんで泥のように眠った。
心身共に疲労の限界に来ていたように感じていたが、朝いつもの時間になった目覚ましの音に、彼女はしっかりと目を覚ましていた。
起きて数秒は、いつもどおりの朝。眠い目をこすり、ベッドから外に出る。
パジャマを脱ぎ、クローゼットを開き、そして制服に袖を通そうとした。しかしふとした瞬間、脳がやや覚醒したのか昨日のことを思い出す。
しばし躊躇した後、雛は手に取ったブラウスをハンガーに掛け直し、服を着ないままもう一度ベッドに戻った。
時計が時間を刻む音が雛を急かす。『もうすぐ学校に行く時間だ』、そういう音に聞こえてくる。
学校にはユキノはいない。ルミナもいない。
駅には沢口がいるだろう。セスも来るだろう。
みんながどんな顔をしているのか、どんな言葉を掛けてくるのか。
それを想像すると、居た堪れない気持ちになる。
彼らは雛を責めないかもしれない。否、きっと責めないだろう。それでも。
誰も責めないと、自分を許していいような気がしてしまう。でも、許されないことを自分はしたという自覚がある。
だから、耐えられない。
一気にひどく疲れた雛は、パジャマをもう一度身につけ、母に電話を掛けた。
早い時間だったからか、電話はすぐに繋がった。繋がったことに心底ほっとした。
『もしもし、雛?どうかしたの?』
「あのね……今日、学校、休みたい」
弓はすぐに状況をつかんだようだった。
『大丈夫?具合悪いの?』
「……ううん、大丈夫……」
本当は、大丈夫ではなかったかもしれない。しかし、雛の口は勝手にその言葉を紡いでいた。弱い面を他人に晒してはいけないと習った彼女が身につけたのは、強さではなく強がりだったのかもしれない。
電話口で弓が小さく息を吐いたのが聞こえた。叱られるのかと雛は思ったが、続いて聞こえてきた言葉は、叱咤ではなかった。
『そうね。今日は……休みなさい』
「……いいの?」
『今日は特別ですよ』
弓が苦笑したのか、空気が解れた感じが電話越しに雛に伝わった。
『今日は午後から私はオフだから、顔は見せて頂戴ね』
「……うん」
学校には連絡を入れておきます、と言って切れた電話を、雛はぼうっと見つめていた。
冷たく突き放されることを予想していた。でも、昨日、母は言っていた。自分は雛の味方だと。あとは、事情を大体話したことで、理解してくれたのかもしれなかった。
―――そうだ。何のコミュニケーションもとらずに、理解してもらえるわけがない。
母が理解している雛は、彼女の何パーセントだろうか。
雛が理解している母は、母の何パーセントだろうか。
親と子という間柄ではあるが、傍にあまりいない。会話もあまりしていない。
それを、理解していつでも賛成してほしいというのは、土台無理な話だ。
携帯電話を見つめ、自分がまずやれることをしていなかったということに気づいた雛は、ベッドの上で膝を抱え、今自分にできること、しなければならないことを数え始めた。
そのうちに、堪え切れなくなった雛は、カーディガンを羽織り、スリープ状態のPCを起動した。
そして雛はディスプレイに向かい、延々とキーを打ち続けた。
何かに急かされている気がする。それは現実か、約束か。どちらにしろ形のないものだ。
従わなくても、何かペナルティが課されるわけではない。ただ、これに従わないと―――自分の中の何かが壊れそうな気がする。
それこそ形のない、それでいて取り返しのつかなさそうな何かが壊れてしまいそうな気がする。
雛はキーを叩き続けていた。
やがて。
扉をノックする音が、キーボードの音に混じった。だが集中していた雛は、音に気づいていない。
カタカタ、カタカタという音に混じって、再びコンコン、と控え目なノックの音が響く。雛はやはり気づかない。
ノックの主は雛が寝ているものと判断したのか、静かに扉を開いて中に入ってきた。
ノックの主は、弓だった。
弓が入ってきたことにさえ気づかず、雛は一心不乱にディスプレイに向かい、エディタにコードを連ねている。
その近くまで弓が来て、そこで初めて雛は人の存在に気がついた。
「!!……おかあ、さん」
「寝てるのかと思ったら、違ったのね」
弓は苦笑しながら雛の『ドール』に目を走らせた。
「これは……この前の?」
雛は、口を開くものの音が出てこず、とりあえずひとつ小さく頷いていた。雛が一心不乱に作成していたそのドールは―――歌花だった。
金色の長い髪。伏し目がちな碧の瞳。そして七色の歌。
失われた彼女を、もう一度形作るために。
彼女はもう消えてしまい、二度とは戻ってこない。今エディタに並べている文字は、あの歌花を取り戻すためのものにはならない。
『やくそくだよ、ヒナ』
それでも、最後に完璧に笑んだ、あの顔をもう一度見たかった。
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「何なに、この人、兄ちゃんの彼女!?」
「ちっげーよ!茜ばか」
「ばかばかって兄ちゃんさあ、兄ちゃんのほーが百倍ばかだかんね!?」
「あぁ!?茜のが千倍ばかじゃねーか!バカネ!」
「あの、えっと……わたしは……」
日曜日。
退院したルミナを自宅に連れてきた沢口は、妹の茜といつものやりとりを繰り広げていた。
沢口と茜の言い合いにルミナが呆気にとられていると、奥から沢口の母が姿を見せた。
「二人とも!お客さんの前でいい加減にしなさい!……ごめんね、うるさくて」
「あ、いえ」
我が子を窘めた後、ルミナに向き直って謝る沢口の母に、ぺこりと礼を返すルミナ。
―――わ。コーちゃんに、似てる。
妹のほうは顔は沢口に似てるとは感じなかったが、母親のほうは目元、口元などがよく似ていた。沢口が母親似なのは間違いない。
妹は―――ノリは沢口によく似ている。口が大きめなところは沢口に若干似ている気もする。
真っ直ぐな黒いストレートヘアをボブカットにしている茜は、多分父親似なのだろう。母親・沢口コンビと並ぶと、系統が少し違う顔の造形をしていた。
母親に窘められ、一瞬黙った茜と沢口だったが、すぐにまた開戦してしまう。
「そーだよね!こんなかわいい人が兄ちゃんの彼女なわけないよね!!」
「え、あ、えっと」
「うっせ馬鹿、ルミはチームメイトなんだよ!」
「兄ちゃんになんてもったいなさすぎ!」
茜はそう言うと、入口右手の階段を駆け上がり、奥に消えて行った。自分の部屋があるのだろう。
―――チームメイト、かあ……。
沢口の言葉を思い出し、ルミナは少し落胆している自分を感じていた。だが、確かにチームメイト以上の関係ではないのだ。
沢口は、自分にできることならなんでもする、そう言った。
そして、日曜日の自分が家に帰っても誰もいないことを聞くと、夕食を家で食べていけとそう言った。
遠慮したルミナに、「遠慮しなくていいぜ、ピィもたまにきてんだ」と沢口は言った。そして、ルミナは沢口の誘いに乗り、こうして沢口宅へやってきたというわけだ。
ルミナは、沢口の発言を気にしたからこそ、ここを訪れた。
雛は、ここに何度も来たことがあるのだろう。雛は沢口の幼馴染で、今でも仲が良い。ならば、当然のことだろう。
刺さった棘を気にしないように、ルミナはひとつ吐息を零した。
ルミナは改めて玄関口から沢口の家を見渡した。入口に飾られた花、何足か置かれている靴、絵が飾られている廊下、何かの拍子についた壁や床の傷―――。
ここにあり、自分の家にないもの。
それは、生活感だ。
ルミナは毎日家に帰り、そしてそこで生活を営んでいた。広い家の掃除を少しずつ行い、炊事をし、洗濯をする。生きている。はずなのだ。でも、自分の家には、何かが足りない。
―――家族、会話。
たぶん、そのあたりだ。
ひとしきりいろいろと考えていたルミナは、沢口の母がスリッパを差し出してくれていることに気がついた。
「きれいなところではないけど、どうぞ?」
―――『おかあさん』。
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沢口の家で夕食を終えたルミナは、沢口の家族にお礼を言い、沢口に駅まで送ってもらうことになった。
沢口は家まで送ると言い張ったのだが、沢口が病院からルミナの家まで一度荷物を運んだおかげで、大きな荷物は特になかったこともあり、これ以上甘えられない、とルミナは頭を振った。
さほど遠くもない、駅までの道のり。沢口とルミナはいつもと同じような会話を交わした。
すぐに駅に着く。ルミナは安堵の息をついた。
人に踏み込むというのは、慣れていないと神経を使う。雛と沢口に比べると、ルミナが沢口と過ごした時間など微々たるものだ。彼女はまだ沢口の多くを知っているわけではなかった。
だが、雛はいろいろなことを知っているのだろう。夕食の間も、雛の話が何度か上がっていた。
ルミナは今まで、あまり気にしていなかった。踏み込まなくても傍にいることができたし、雛と沢口は付き合っているわけでもなかった。
二人が恋愛感情でつながっているわけではないことを知っていた。
沢口と雛がお互いに持っている感情は、たぶんルミナが壱を疑似的に兄だと思っている感情に、どこか似ているのではないだろうか、ルミナはそう思っていた。
大切なのだ。
その居場所は自分のものだと思っているのだ。無自覚に。
奪われたそのときに、激しい寂しさを感じるのだ。そして、少しずつ距離が離れていく。
ルミナの願望かもしれないが。
ルミナが沢口に抱く感情は違う。それはもっと利己的で、満たされなかったときに醜い思いに変わるものだ。
沢口の時間の多くを、自分が独占したい。
だから、雛が知っていて、ルミナが知らないこと。それを突然、知りたくなった。
沢口が、自分を今見ていると思ったから。
「じゃあ、明日、学校でな」
「ウン。ほんと、ありがとうね、コーちゃん。おかあさんと茜ちゃんにもよろしくね」
「また、来いよな」
ルミナは曖昧に頷いて改札をくぐり、階段を上って行って姿を消した。
ルミナの姿のない階段をしばらく見ていた沢口だったが、電車が行った音がしたあたりで踵を返し、家に戻ることにした。
沢口が玄関をくぐると、そこには母がいた。
母はさっきルミナに向かって浮かべていた笑顔とは違う、少し神妙な面持ちだった。
「母さん?」
「コウ、少し話をしよう」
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何度か水を飲み、トイレに立つことはあったが、それ以外の時間ずっと、雛はPCに向かっていた。
ふと顔をあげると、すでに外は暗く、時計を見ると0時を過ぎていた。日付が変わってしまったらしい。
時計を確かめると月曜日。学校のある曜日になってしまっていた。
気がつけばろくな食事をしばらくとっていなかったため、時間の経過を自覚したところで空腹を感じた。
金曜日は久しぶりに母と一緒に食事をした一回、土曜日は夕方に食べた一回のみで、日曜日は一度も食事をとらなかった。
雛が部屋から出るとメイドが心配そうに声を掛けてきた。大丈夫だからと彼女は答え、ダイニングルームに向かった。
彼女が姿を見せると、コックはすぐに彼女のために食事を用意してくれた。
少しだけそれを口にするとふらりと立ち上がり、彼女は今度はシャワーを浴びた。
広い浴室は掃除が行き届いている。食事しかり、掃除しかり、彼女の周囲に、不快なことなど何もない。
我が儘を言っているつもりはないが、自分で何かして生きている気がまったくしない。
しなくてもいいからしないだけだが、それで何一つ不自由なく生きて、誰かに何かを償うことができるのだろうか。
雛が不自由な生活をしたからと言って、それが誰かへの償いになるとは思えない。
しかし、こんな風に不自由なことなどひとつもなく暮らしている自分が、突然恥ずかしく思えてしまった。
なぜかはわからない。
―――どうして、生きているんだろう?
それさえわからない。
それが、わからない。
この先、グループのドール研究所に入って、ドールを延々研究して、新しいドールを作って、売って、問題点を挙げて、対策を立てて、改善策を立てて、また、ドールを開発して。
いずれ経営する側に立たされて、いろんな人と会って挨拶して、名刺を交換して、お酒を飲んで、楽しくもないことで笑って、それなりの身分の男と見合いをして、結婚して、子どもを作って。
母と似たような人生を、雛はきっと焼き直すのだろう。
『雛ちゃんは本当に鳥篭の中だね』
羽田の、反吐が出そうなほど甘ったるい声も。
多分事実でしかない。
彼女にもう少し情熱というものがあって、もう少し向こう見ずなところがあれば、家を飛び出していたかもしれない。
だが、彼女はすでに諦めていた。
世界がギブアンドテイクでできているとして、彼女は我が儘が言えるほど何かに貢献していない自分を知っていた。
彼女はたくさんの人間によって、今ここで何一つ不自由のない暮らしをさせてもらっている。
その自分が、自由になりたいとは、言えない。
聡明すぎたのが、彼女の悲劇だった。
自由になる権利が果たされるためには、自由になるために何かに報いなければならない。
雛には―――何も、なかった。
生きるって何?
未来って何?
世界って何?
自由って何?
雛は閉じられた世界で、ぐるぐると自省を繰り返すばかりだった。