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05:Hina-02

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『セロテープ』を沢口が壊したのは、雛と沢口が幼稚園の年長になったときだった。
今から12年前のことになる。

―――ピィ、ごめんな、ごめんな…。

雛の大事な『ウサギのセロハンテープケース』を壊した沢口は、何度も何度もそう謝った。
そのケースは取り立てて特別なものだったわけではない。
その幼稚園に通っている園児全員が購入するもので、沢口も勿論持っていた。

―――おれのと交換しよう。おれのはまだウサギがちゃんと見えるから。

雛は首を横に振った。雛にとってそれは解決策ではなかった。
交換しようにも、沢口のセロハンテープケースは、既に壊れていた。
脆いものなのだろう。ウサギの形は雛のものよりはとどめてはいたが…。
家に帰って、思い出して泣き出してしまった雛に、新しいものを買ってあげるからと雛の母は言った。
しかし、幼い雛は頑なに首を振った。

雛が愛したのは、雛がこの幼稚園に入って2年使用したこのケースなのであり、他の同じカタチをしたものでは意味がなかった。
解決策はなかった。
それに誰も気がついてくれなかったのが悲しくて、幼い雛はたくさん泣いた。

壊してしまった大切なものに、申し訳なくてひたすら泣いた。

雛が自分のドールをウサギの姿にし、『セロテープ』と名づけたのは、根に持っているからではない。
大切だったことを自分が忘れないように、そして大切だったものを再び手に入れるためにそうした。

セロテープはあのころの『セロテープケース』のウサギとは似せたもののどこか違う。
違うことを承知した上で、雛は昔の『セロテープ』も、今の『セロテープ』もいとおしいと思っている。



「――――― ………!」

雛が瞼を開けると、そこは自室ではなく、教室だった。
教室には授業風景が広がっていて、黒板に書かれている内容は雛が最後に認識していたものとは違っていた。
どうやら居眠りをしてしまったらしい。
午後の教室にはあたたかい光が窓から差し込んでいて、雛のほかにも数人が舟を漕いでいた。
雛は窓側の列、後ろから二番目の席にいる。光の恩恵を余すことなく堪能できる席だ。
眠ってしまうのは雛としては本意ではないのだが、このあたたかさは不可抗力のようにも思える。
雛のちょうど右隣に沢口がいる。沢口は机に突っ伏して眠っていた。
先日の沢口の失態を思い出し、セロテープと叫ばなくてよかった、と雛は安堵した。

退屈な授業は続いている。
セロテープのことを思い出したのは、二時間目の授業でユキノが昔の記憶を刺激したからだろう。
ユキノに視線を遣ると、廊下側の列の前から三番目、彼女は真面目に授業を聞いていた。

あの瞬間、雛にはたしかにドールのイメージが湧いた。

一度閃くと、それからは数珠繋ぎのようにイメージが繋がっていく。
今まで用意していたもので使えるもの使えないもの、それらがすぐに自分の中で分けられていく。
それらを忘れないように、雛は授業を続ける先生に悪いと思いつつ、ルーズリーフの一片にアイディアを記した。
片手間に黒板の内容を写し、ドールの案を記述するのを繰り返すうちに、終業のベルが鳴った。

沢口は結局この時間ずっと眠っていて、ベルで起きた。



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「ピィ、今日どーする?」

今日の授業がすべて終了し、生徒たちが三々五々教室から離れていく中、沢口が雛に話しかけた。
沢口のチームメイトは全員、部活動に所属していない。
セスやルミナと学校の電算室でコーディングをしたり、学校の空間制御装置は放課後は使えないので『空屋』で実験をしたりするのが彼らの放課後の常だ。

「今日は帰る。家でコーディングしたいから」
「そっか。母さんがピィに飯食いに来いって言ってたぜ」
「じゃあ後で行く」

おう、と沢口は屈託なく笑った。
じゃあね、と雛は軽く手を振って、教室を後にした。
教室のざわめきは時間とともに小さくなっていく。教室から人がいなくなっていくからだ。
この、学校が終わった感じが雛は好きだ。

雛が玄関に向かって歩いていると、背後から知っている声が掛かった。

「あ、ピナちゃん帰るの?私も帰る。一緒に帰ろ!」

振り向くと、隣の教室からルミナが出てきたところだった。
雛がいつものように頷くと、ルミナは嬉しそうに笑った。

沢口の雛への呼称『ピィ』と『ヒナ』を掛けた『ピナ』という呼称は彼女が作った。
本名とそう音が変わらないので、気に入っているわけでもないが、あまり気にもならない。
ルミナとどこかノリが似ている『セロテープ』は、いつの間にかルミナの呼び方を真似するようになった。
セロテープの「学習能力」は雛がコーディングした。真似は「学習能力」が実証されているということでもある。
そんなの学習しなくてもいいのに、と雛は多少はそう思ったが、それ以上深くは考えなかった。

ルミナと連れ立って校門をくぐる。
住宅街の付近にあるこの学校のそばには、娯楽があまりなかった。

「ピナちゃん昨日のドラマ見た?」
「見てたというよりは聞いてた かな」

ルミナは、今クールで一番視聴率の高い21時からのドラマの話をしているのだろう。
雛は一応視聴してはいるが、そのドラマをあまり面白いとは思わなかった。

「ヒロインがお父さんに怒られるとこ見た?」
「あ、見た」

面白いとは思っていないが、昨日の一シーンは思わずきちんと見てしまった。
怪我をした友人を看病するために朝まで帰宅できなかった高校生のヒロインが、帰宅した途端父親に怒鳴られたシーンだ。
必死に弁明するヒロインだったが、父親は聞く耳をもたず5分にわたり彼女を叱り続けていた。

「すごい怒り方だったよねー!」
「…たしかにね」
「うちのおとーさんは怒ったことないな」

ルミナの話には、たまに「おとーさん」という存在が出てきた。
「おかーさん」は出てこない。
ルミナとは高校に入ってからチームメイトとして長い時間一緒にいるが、家の話はお互いしていなかった。
セスは一時期マスメディアで取り上げられるほどの有名人だったので、彼の家の話はテレビやネットから流れ込んできたが、それも本人から聞いたわけではない。
お互い、自分が話したくないから、他人にも訊かなかったのかもしれない。
家のことを開け広げに話すのは沢口くらいだったが、彼もルミナやセスに家のことは訊ねなかった。
雛に訊かないのは、訊くまでもなく知っているからなのだが。
雛は、ルミナの怒ったことのない「おとーさん」を想像してみた。
雛にはそもそも「父親」がよくわからなかったが、「子を叱る」場合を想像してみた。
一般的に親が子を叱るのは、子どもが何か悪いことをしたときや、意にそぐわないときなどだろう。

「ルミナは怒られたいの?何か悪いことでもしたの?」
「んー…そういうわけじゃ…ないかな?」

雛の問いに、ルミナは首を傾げている。

「普通は、悪いことしてなかったら怒れないと思うよ」
「そっか、それもそうだよね」

ルミナはあはは、と笑う。
雛は、彼女の狡いところや汚いところを見たことがないな、と思っていた。
叱るべきところがない子ども。あまり現実的ではないが、理想がカタチを持ってここにあるのだろう。
そういうこともあるのかもしれない。
雛は少しだけ、羨ましい、と思った。
羨ましいと思った自分が、ルミナと比べて醜い、と感じた。

15分ほど歩くと永泉駅という大きな駅があり、二つの路線が交差している。
駅付近はデパートや大きな電器店が複数あり、栄えている。
学生たちが寄り道をするとしたらこのあたりになる。
永泉学園の他にも3、4の高校があるが、この駅近辺に都心からわざわざこの駅に来る他校生はあまりいないため、おのずと見知った顔が多くなる場所だった。

雛とルミナが使う電車は同じ路線だが、方向が異なる。
駅の改札で、二人は手を振って別れた。

雛が階段を上ると、すぐに電車が来た。ホームの向こう、ルミナが手を振っていたので、手を振り返す。
ルミナは笑っていたが、雛は笑い返すことができなかった。

走り出した電車の中、雛はつり革につかまり、目を伏せた。
雛の中に情報が増えるたびに、情緒は揺らぐ。

多感な年頃、と世間は言う。多感というよりも、考えすぎてしまうのと、考えなければわからないからではないか、と雛は思う。
ただ、今の自分が考えて、何らかの解答に辿り着けば、それが「知る」ことに繋がるのだろうか。「覚える」ことに繋がるのだろうか。
雛にとって考えることは、いつも「諦める」ことに繋がっている気がした。
自分が辿り着いた解答が、正しいものである自信もなかった。


人に線を引きたくないのは、人と違いたくないからだ。
人と違う自分を、認めたくないからだ。

線を気にしているのは自分のほうなのだと、雛は気づいていて目を伏せていた。
子どもが引いた線に意味をつけたのは雛のほうだ。
自分が心の中に引いた線につけた意味は

―――被害妄想だ。

瞼を上げた。
周囲を軽く見渡したが、誰も雛のことなど見ていなかった。

少しだけ、気が楽になった。


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