「明日は晴れるかね」
「花火か? どうだろうなァ」
天気予報はどうだったか、等と呟きながら猪狩が携帯端末機を取り出して調べ出す。花火が打ち上がるのは土曜か日曜のどちらかだ。沖合から打ち上げるため、天候に左右されやすい。両日中止、ということもある。現に直近の数年は天候に恵まれず中止であった。
「明日なら、お前も家族連れで見に行くんだろ? それなら、シロを頼みたい」
「シロ? なんでだ?」
携帯端末機から顔を上げた猪狩の目は、シンクに前足をかけているシロの背中に向けられた。シロは名前が呼ばれたにも関わらず、今はまだ金魚に夢中らしい。尻尾がゆっくりと振られただけで、鳴き声も顔も耳も向けて来なかった。
「麗子や子ども等だとシロが駆け出したら抑えられんだろ? 花火の音で、なんてことはないが、何かを切っ掛けに駆け出す可能性はあるからな」
「いや、そっちじゃねぇよ。お前が連れて来てやりゃァいいじゃねぇか」
結局、天気予報の内容は教えられなかった。携帯端末機をしまい込んだ猪狩の手が鱗道を指す。鱗道は顎を掻いて、
「俺はクロと二階から見るんで」
と、呟くように言った。店の二階、寝室の窓からも遠目ながら打ち上げ花火は見られる。鱗道の答えに、猪狩は不満げに目を細めた。回答になっていない、と語るのに充分な視線である。鱗道はグラスと麦茶のポットを携えて、猪狩の側に座った。両方のコップに麦茶を継ぎ足し、
「……クロは……花火に苦い思い出ができてな。一人で留守番させるのも……ちょっと気が引ける。シロは二階でも満足するだろうが、海も好きだからな。出来れば連れて行ってやりたいんだ」
と、声を潜めて答える。苦い思い出? と猪狩が常日頃の声量で繰り返しそうなのを手で押し留めた。鱗道の普段とは違う態度に、猪狩も声を潜めて、
「どう言うことだよ。想像できねぇぞ」
と、ひそひそ話に付き合うようだ。鱗道は頬を掻いて、少しばかりクロには悪い気も思いながら、数年前のことだが――と、口を開いた。
祭りとなるとシロは飛び抜けて胸を高鳴らせた。元々が山間の神社に住み着いた野良犬であったから祭り自体は知っている。ただ、やはり小さな集落と現代の町では規模が違うようで、神輿や山車の列や屋台の全てを感情の赴くまま満喫するのだ。屋台に並ぶ飯にも玩具にもなんにでも顔を近付け、金魚すくいのタライに顔を突っ込んでしまったこともある。人目を忍んでこっそりと与えた屋台飯もシロを大いに喜ばせ満たしたようだ。祭りが近付き屋台の準備が進むだけでも散歩の足取りが行きと帰りで全く変わり出す始末である。
一方、クロは祭りが近付こうとも常と変わらず冷静そのものであった。むしろ、興奮を高めていくシロを冷ややかに見ている側である。初年度こそは、これが書物に記されていた祭りであるのかと様々に見聞し、鱗道にも色々と尋ねてきたものであるが、回数を重ねるごとにそれも減っていった。そもそも喧噪を好まない鴉であるから当然と言えば当然だ。数年の後には神輿や山車の列も屋台も実際に高みの見物に留めている。
二人の祭りに対する反応は、鱗道の想像の範疇であった。意外であったのは、花火に対する反応である。
打ち上げ花火を正面から見られる砂浜には観覧席も設けられて、見物客でひしめき合う。ただ、正面から外れてS町を囲う山側の砂浜に下りれば、角度がつくものの充分な距離で楽しめる地元民のみぞ知る隠れた穴場になっていた。難点と言えば、見物に合わせて整備されているわけではないことくらいだ。椅子やレジャーシートのレンタルは無く、街灯以外の明かりも無い。それも、花火を見に来ている地元民にとっては欠点ではなかった。
花火に夢中になったのはクロであった。火薬の種類による色鮮やかさも、火薬の仕込み方による形状の変化も、全ては長い歴史と伝統による経験と計算で成り立っている――そのことが、クロを大いに魅了したらしい。花火の轟音も、レコードの振動を楽しむ鴉には刺激が強かったようだ。祭り自体には冷静であり続けたが、天気予報は食い入るように、何種類もハシゴしてみるようになったし、花火見物に砂浜に向かえば鱗道の左肩でじっと動かず花火の光景と振動を贋作内の液体金属に刻み込まんとしている。
一方、シロは花火を好みはすれども激しく興奮することなく静かに見ていた。初めて連れて行ったときには大きな音で驚きやしないか、興奮して走り出しやしないかと心配したものであるが、打ち上がる花火をシロは静かに見つめていた。後に聞けば、シロの居た山から麓の花火を見たことが何度かあったらしい。集落の住人も小さな神社に集まり、静かに見ていたのだという。祭りとは別の機会に打ち上げられたらしいので、祭事と言うより鎮魂の意味合いが強い花火であったのだろう。花火に向かって吠えたり、驚いて駆け出してしまう他のイヌと比較され、「いい子だね」と言われてもシロは尻尾を振って答えるだけで花火から目を離さなかった。そして、花火が終われば砂浜を走り回ったり、遊び足りないと鱗道のリードに抵抗したり、眠たくなってその場に伏せってしまったりと自由奔放な普段通りのシロに戻るのだ。
そんな二人の為に、花火が上がるとなれば鱗道はシロもクロも連れ立って穴場の砂浜に出向いた。地元民が集まりやすいこともあって、古い顔なじみと会うこともある。それも、鱗道にとってはささやかな楽しみであったのだ。屋台でツマミとビールなどを買ってシロの傍ら、クロの止まり木となって水面に映る不格好な光を見る。それが、恒例になるのだろうと思った頃である。今年の花火も、もうすぐ終いだ。最後に大玉が一つ二つと上がるのが通例である。
急にクロが鱗道の肩から飛び立った。
『見てきます』
と、鱗道に言い残した声は常の冷静さは薄く、跳ねる硬質な高温が色濃い。何を、と問い掛けた鱗道の目の前から、クロはすぐに姿を消した。風も雲も少ないとは言え、当然の夜闇。一羽の鴉を見付けることなど出来はしない。少し経って、シロが不安げにクゥンと鳴いた。
『ねぇ、クロは花火の方に飛んでってるよ』
鱗道は見失っても、シロはクロを容易く見付ける。花火の方に? と考え始めた鱗道は、少し前のテレビ番組を思い出した。都会の大規模な花火大会の映像だ。花火に魅了されたクロは、映像であっても花火を楽しむようになっていた。そんなクロの為に付けたチャンネルである。
ナレーターが得意げに、「今年からドローンを使って、至近距離で花火を撮影します」と語ると、映像が切り替わった。花火の中に飛び込んでいるような風景は今までに見たことのないもので、鱗道も思わず声を上げたものだ。そして、その鱗道の横で、クロが首を精一杯伸ばし前のめりになっているのを見た――
まさか、と、口の中で呟く。いや、間違いないと思考し直す。あのドローンの真似をしようというのだろう。クロはそれが無謀であることなど承知であり、危険であることは理解していよう。が、自分にも可能ではないかと思えば試さずにいられない性分であることも分かっている。クロの自制心と好奇心の天秤は、いつも自制心に傾いている。が、今宵に限って好奇心の方に――今までにないほど大きく傾いてしまったのでは。そんな鱗道の目の前で、締めの大玉花火が二つ、色彩豊かな大輪を咲かせた。
『あ』
シロの鳴き声なき声に、鱗道の体はビクリと跳ねる。花火を見上げていたシロの顔が、すぅっと真っ直ぐ落とされる。じっと水面を見る目が、今度は黙って鱗道を見上げてくる。聞きたくない。聞いたところでどうしようもない。
「……なぁ、シロ……クロは、落ちたのか……?」
シロは黙ったまま静かに立ち上がる。じっと水平線を見据える紺碧の目に、星の瞬きが絶えない。シロは返事をしないが、落ち着き払った様子でただ一点を見失わぬように見つめ続けている。ざわりざわりと揺れる被毛を見て、鱗道は息を吐いた。花火を見届け終えた地元民が和やかに家族同士顔見知り同士会話の花を咲かせながら帰っていく。人気が無くなった頃、鱗道はシロの首輪からリードを外した。
「シロ、頼む」
『うん。行ってくるね』
シロは真っ直ぐ――夏の明るい夜の海でも、仄白い光を引いて海の中に飛び込んでいった。迷いも躊躇いもない。ただただ真っ直ぐに泳いでいくシロの姿は、ときに白波にまみれようとも鱗道の目に映り続けた。
どれだけ沖に出たのだろう。シロの白い光も、ついに波に沈んで見えなくなった。鱗道は何も見えなくなった海面を、シロがしていたようにじっと見つめ続けていた。ただ待っているだけだが歯痒さは無かった。自分に出来ないことは、出来る誰かに頼む。鱗道自身、ずっとそうやって来たのだから。
波間からシロが顔を出したのは、潜った位置よりも大分手前であった。霊犬であるシ
ロの呼吸をしなければと言う思い込みは、鱗道の元に帰らねばと言う意思に押しやられたのだろう。ずっと海底を歩いてきたようだ。被毛は濡れそぼって二回りも小さくなったように見えるが、やはり闇夜にも仄白い光を纏っている。ただ、普段より光が疎らなのは絡まった海藻などもそのまま引き摺ってきたからだ。シロは体を震わせることもせず、びしょ濡れのまま鱗道の足下に戻って来た。口には、一羽の鴉を優しく咥えている。
『ただいま!』
ひゃん、と一鳴きするシロは事もなげ、全くの普段通りである。シロが吠えたことで解放された鴉は砂浜に羽ばたくことなく落下した。微動だにしないことは普段通りであるが、どうも雰囲気がいつもとは違う。
「お帰り」
言いながら、鱗道は腕組みを解いてクロを抱えようとかがみ込んだ。丁度そのタイミングで、シロが身震いをする。被毛が含んだ海水と絡まっていた海藻がまき散らかされ、海に入ってもいない鱗道までびっしょりと濡れた。シロの足下にいたクロはシロから振り落とされた海藻がヴェールのように被ってしまう。
『クロ、重たかったから浮かばなかったみたい。ずっと沈んじゃってたよ』
シロが泳いでこなかった理由も、それだろう。海水まみれの顔を払いながら、鱗道はずっと動かないクロを見た。クロはカラスを模して作られた複雑な機構を組み込んだ贋作だ。金属や鉱石をたっぷりと使われ、液体金属が詰まった体は相当な重量がある。水に浮かぶ筈がない。
「大丈夫か、クロ」
鱗道はそんなクロを、腹の下に腕を通すようにして抱え上げた。水を含むような部分はなく、シロと違ってただびっしょりと濡れているだけのクロはやはりずっしりと重たかった。肩に乗られるときには慣れもあるが殆ど意識しないのだから、クロの体重分散がどれ程卓越したものかと感心させられる。
『申し訳ありません』
何かを咎めようというつもりはなかった。ただ、ずっと黙って動かないクロが心配であっただけである。が、クロの声は硬質さに沈痛さを多分に含んでいた。己を苛み、罰しているかのような軋みがある。
『見ていたら居ても立っても居られず。全くの無謀に走りました。本当に、申し訳ありません』
シロが普段通りであったから、クロの意思の部分に異変はないのだろうと思っていた。もし、そこに何かあったとしたら、鋭敏なシロはもっと慌てた態度を取ると分かっているからだ。それでも、返事があったことで鱗道は一息つく。その溜め息を、クロはまた、
『私に損傷はありません。花火に直撃したわけではなく、衝撃と風圧に翻弄され墜落という失態を招いただけですので』
と、また己の罪を独白するかのように重々しく語る。その自罰思考を取り除く術を、今の鱗道は持っていない。クロが無事であった以上、そして自戒している以上、鱗道は責めるつもりが皆無であると伝えたいのであるが、慰めの言葉など、錆び付いた頭を漁ったところで影も形も朧気にすら出て来ない。
「……その……特に、痛いとか、変とかないなら、どうして動かないんだ?」
思い付いたのは、話題を変えようという程度の案である。ただ、実際に非常に気になっていることであった。クロの翼はだらりと翼は垂れたまま畳まれることなく先端から雫を絶え間なく落としている。語っているのだと知らせる気遣いの嘴も開かない。シロが少しでも繕ってやろうと思い遣りで羽毛を舐め始めてもされるがまま。視界の邪魔になっているはずの海藻すら自分で取り払おうという仕草を見せない。損傷はない、とクロは言ったが、何か異変があるのではないか、それはクロ自身や鱗道でどうにか出来るのか、と考えていると、
『それは――その……』
クロの声が珍しく言い淀む。本当に珍しいことである。シロも舐める舌を止めた。ぴったりと鼻先をクロの胴体にくっ付ける。
『実際に機構に異変はありません。ですが、その……上手く、機構を動かせないのです。液体金属の流動が、思考通りに行かないと言いますか、動力として動かせず――』
クロの言葉は、不可解を訴える淀みではない。己の不体裁を明らかにすることへの抵抗であるようだ。鱗道は長くクロの言葉を聞いて、ああ、と声を上げた。
「なんだ。腰が抜けたのか」
『私の構造的に局所的な要はなく、更に贋作で在り機構で動く私に腰という部分があるかどうかは定かではないのでその慣用句は不正確だと思われるのですが』
あっさりと言い放った鱗道に言葉に反応したクロの語りは普段通り流暢である。が、先程のように何度か言い淀んだ後の声は、
『――ええ……恐らく……これが、腰が抜けた状態ということなのでしょう』
すっかり気落ちし、これ以上ないほど落ち込みきっている。聞いたことのないクロの声は、当人には申し訳ないが鱗道の口元に笑みを浮かばせた。自身の在り場を模索し続け、やれ生き物か否か、存在の定義だ云々と小難しいことを考え続けているクロも、ときに人間くさい様子を見せるのがたまらない。過度な自罰思考も体感をさらけ出す羞恥に押しやられて紛れたようだ。更に、
『クロ、怖かったんだね! あんな高さから落ちたら、怖くて当然だよ! しかも浮かばなかったんだもの。海の中、真っ暗で怖かったよねぇ』
と、無邪気にシロからフォローされれば、クロにとっては居たたまれない気にもなろう。しかし、体はまだ勝手を取り戻せていないようだ。嗚呼、嗚呼、と言葉にならない嘆きが続いている。鱗道はクロをそっと抱え直した。不具合がなさそうに翼を畳んでやり、仰向けに返す。そして、
「クロ」
海藻のヴェールを取ると、ようやくクロの赤い目が見えた。シロのように自らは光らない鉱石の眼。街灯か、月明かりか、シロの仄白い光を受けてか、瞬きのようなたった一度の照り返し。
「間近の花火は、綺麗だったか?」
クロはしばらく、じっと鱗道の顔を見ていた。
『――いいえ』
クロの嘴がようやく開く。喉のない嘴の中から溜まっていた海水が溢れ出し、
『花火は遠目に限ります。海に落下することもありませんし、浮かび上がることもなくただただ沈んでいくだけの無力さに苛まれることもなく、迎えに来たシロに咥えられて運ばれることもないのですから』
クロが体を鱗道に寄せてきた。声にも体にも震えはない。硬質な声はいつも通りによく回る。いや、いつもよりもよく回っていた。
「うん……そうか。花火は遠目に限るか」
『ええ。もう二度と、近付こうとは思いません』
と、自戒に相応しいほど重々しく、クロの硬質な声は語り終えて嘴を閉ざした。
と、言うことがあったのだ――と、鱗道の訥々とした話の途中から、猪狩は肘をついて俯いたまま顔を上げなくなった。大きな肩が時折小刻みに震えるものだから、笑っているのだということは分かる。最初は潜めていた声も結局は元に戻っていたし、鱗道の話はクロにも聞こえていることだろう。ただ、クロはまだ何も言ってこない。
「……まぁ、そんなわけでな。クロが言い出したわけじゃないんだが、一応、それ以降は基本的に家から見てるんだ。ここ数年は中止ばかりだったが」
「お前が気ぃ使ってるって訳か。いや、しかしよぅ――」
言葉を発したら発したで、全ての堰が切られてしまったように猪狩の声は震えだした。
「ドローンの真似して花火に飛び込むたァ、ガキの思い付きじゃあるまいし、クロらしくねぇ思い切った真似しやがるじゃねぇか。無謀にも程があるぜ。俺でもそんな真似しねぇよ」
笑いながらの、溌剌とした声。店内にいるクロに聞かせまいという気遣いは微塵もない。鱗道は猪狩に咎めるような声をかけながら、懐疑的な――もし猪狩が手段を手にしたなら、突発的に飛び出しはしないものの最終的には同じ行動をするはずだ――視線を向ける。すると、店内から鋭い金属の音が一度だけ上がった。拍子木よりも高く硬く澄んだ音は、当然クロの嘴の音だろう。一度きりの音は肯定の音である。が、普段は鳴らされないほどの強さの音だ。若干の自棄を感じるのは、鱗道の気のせいではあるまい。
嘴の音に、猪狩は顔を覆って体を揺する。
「そうか、クロは、そんなことをすることもあんのか」
声は堪えているが、笑みを隠し切れていない。鱗道が花火の話をしたのはシロを預かって貰うためであり、クロが笑われるためではなかった。ここまで笑われるのは鱗道にも心外である。再度、
「おい、猪狩」
キツい声で咎めれば、猪狩が顔から手を離して振った。ニヤついてはいるが面白がっている笑みと言うよりも、子を見守るような暖かさのある笑みだ。鱗道ははっと黙って、想像もしていなかった友人の笑みを見た。猪狩には似合わないと思うのは、鱗道が父親面している猪狩をあまり見ていないからである。恐らく、我が子の失敗談などを聞くときも、猪狩はこんな表情をしているのだろう。