気の長い夏の日差しも山向こうに陰っていた。話の大半が伝聞であり、鱗道は要約が不得手である。普段の説明ならば適度な合いの手を入れる役割のクロも、猪狩がいるからか話の訂正ぐらいでしか口を挟まない。シロは解説に不向きのため、壺と居間と金魚をぐるぐると気ままに巡る。冗長でしかない話を、猪狩はシャツの襟元を仰ぎながら根気よく聞いた。聞いた上で、
「……本当に、なんも分かってねぇなァ」
半分呆れているような、もう半分は諦めているような言い方で息を吐く。鱗道もまた同意見である。話している最中、猪狩は指を動かして指輪を確認するような仕草をしていたが、鱗道の目に異変は見えなかった。シロが何かに気付く様子を見せることもなく、扇風機を寄せるときに確認したクロの位置は棚の上から動いていない。壺もまた、動いた様子もなく、その一角はまるで時が止まっているかのようだ。
「お前のカミサマでバクッとやっちまえ、ってのは穏便な解決を望む「鱗道堂」サンには暴論なんだろうが」
「暴論、ってだけじゃない。あの壺は、ただの壺なんだ。蛇神を降ろしたところで壊せんよ」
鱗道が首を横に振ったのを、猪狩が不思議そうに眺めてくる。鱗道は長く喋った喉に麦茶を流して、
「蛇神が砕けるのは〝彼方の世界〟のものと、〝彼方の世界〟の力や意思が混ざった物だ。ただの物は砕けん。あの壺自体には〝彼方の世界〟の力も意思も混ざってない」
猪狩はピンとこないのか、考え込むように首を傾いだ。さて、どう説明したものか、と少し考えて思い当たったのは、
「ネックレスの騒動を覚えてるか。あの、真珠のネックレスだ。クロが絡まって大変だったやつで」
最近にあった話である。鱗道の店に呪物と化したネックレスが持ち込まれた一件には、猪狩の手も借りていた。その時、クロは己の意思に反して猪狩の腕を幾つも引っ掻いてしまっている。その傷跡はすっかり消えているのだが、
「ああ、あれか。なんか赤い宝石がどうこうって奴だろ?」
当然、猪狩も覚えている話だ。
「そう、それだ。その時、宝石は砕けて、真珠は残っただろ? 宝石は呪物になってた。〝彼方〟のもんが混ざってた。だから、蛇神を降ろした手で食ってやれば砕ける」
「真珠は単なる物だったから、手の中でも残ってたってわけか。ああ、成る程な。なんとなく分かったぜ」
猪狩は頷きながらにやりと笑った。視線は鱗道から外れて店の中に向いている。クロがいる場所を把握しているとは思えないが、視線はクロに向けたものらしい。
「あん時に貰った真珠、知り合いに頼んでイヤリングに加工して貰ったぜ。ありがとよ、クロ」
――騒動の後、猪狩の腕を傷つけてしまったクロは詫びをしたいと残った真珠を二粒、猪狩夫妻に手渡している。猪狩が言っているのはその真珠の顛末であろう。店内からクロの返事はなかった。嘴を閉ざす音、足で何かを引っ掻く音、全て何も返されず店は静まりかえっている。鱗道がした昔話によって悪くなった機嫌を直していないのだろうか。それとも鱗道がしたように誤解から悪感情を増してしまったのか、と考える鱗道に対し、
「で、あの壺はカミサマの絡んでねぇただの物だから壊せねぇ、ってか。んじゃ、色々と引き摺り込んでる元凶は、ただ単純に壺の中にいるだけなのか?」
猪狩は気にする様子を一切見せず、パチンと右手を鳴らして言葉の矛先を鱗道に戻した。猪狩の言葉に頷きながら、鱗道は頭の中で考え込む。猪狩の言葉は鱗道の考えと一致している。だが、同時に奇妙さが浮き彫りになった気がした。その奇妙さを探りきろうとするものの、鈍い思考は乾いた砂を固めようとしているもので一向に要領を得ない。
「なァ、「鱗道堂」サンよぅ。結局、その壺はなんだとお考えなんで? この間の蔵みてぇな、付喪神だとか精霊だとかか?」
猪狩の軽口は急かし立てるものではない。例を挙げて消していけ、と消去法の提示である。猪狩の提案に鱗道は乗ることにした。その為にまず、首を横に振る。
「付喪神や精霊は物が変化するもんだ。物自体に〝彼方の世界〟の力や意思が宿る。ただの物じゃなくなるから、違う」
「んで、呪い云々も違うんだな?」
「ああ。呪物も物が変わる。呪いでもない。あと、良くあるのは幽霊が取り憑くだとかだが――」
「壺に幽霊は取り憑かねぇだろ」
やり取りの中で、猪狩の声が急に一段と低くなった。見れば、猪狩は顔を強張らせている。怖いものなど殆どなさそうな風貌の大男が、幽霊というたった一言でこの変わり様だ。意図して言ったわけではない鱗道は頬を掻いて、
「物に憑くこともあるし……入り込んでるってことも、なくは、ない」
完全に否定しきってやれないことが残念である。猪狩の不安げな表情に鱗道は言葉を選びきれずに言いあぐねてしまった。さて、幽霊を怖がる男にどこまでを説明するべきか。
幽霊は死んだ生き物が残した意思である、と鱗道は定義している。肉体を失い、意思だけとなって〝彼方の世界〟に移行したものである、と。意思だけが残っても隔たりのある二つの世界で影響を及ぼすには力が必要であり、殆どの場合幽霊と生者は相互に影響を与えられない。幽霊は人物や物体を透過し、様々な要因でチャンネルのあった瞬間だけ生者の目に触れ、ふっと消える。幽霊だけの一方的な行動の大半が姿を見せたり声を聞かせたりが限度であるのは、生半可な意思ではその程度の力を集めるのが精一杯だからであろう。意思だけでは存在し続けられず、やがて力を消費して、あるいは強い力に吸収されて、〝彼方の世界〟でもない何処かへと消えてしまう――それがどこなのかを、知る術はない。
ただ、強い目的を有した意思はまた別である。目的を成し遂げる為に力を集め出して、意思を一層強固に保ち、願望へ邁進する。力を得た結果、シロのように場所や人物を守るような守護霊もいるだろう。が、鱗道の経験では稀であった。特に人間は不慮の死を迎えて未練や憎悪、怨念なぞを抱えた者こそ意思が残りやすい。負の感情は穢れに変わりやすく、穢れは瘴気を集めて周囲に害を及ぼしだす。悪霊や怨霊と呼ばれるようになり、心霊スポットだ呪われた地だと騒ぎ立てられ、より多くの人間を引き込み、瘴気を集めて腐り穢れて、ときに〝此方の世界〟と〝彼方の世界〟の均衡が崩れてしまい――と言うのが、蛇神の代理として鱗道が対処してきたパターンだ。
重要なのは、強い力を有した幽霊であれば、強い意志を有していると言うことである。そして、強い意志を持っていればその殆どが主張するものだ。シロや鱗道のように意思疎通が可能な相手となれば堤防が決壊するかのように怒濤の勢いで願望や目的、その存在と意思を伝えてくる。壺の中にいるものは、その様子が一切ない。
「……一応、幽霊の線は薄いと思ってる。シロが呼び掛けても、俺が居ても、なんの主張もないからだ」
「幽霊ならなんか言ってくるってか……」
鱗道が断言しなかったことで、猪狩は頭を抱えていた。そんな猪狩の側に、心配そうにシロが寄り添おうと膝に両前足をかけている。猪狩はまず大丈夫だと言い、重てぇだの、冷てぇだのと文句を言いながらシロの頭を混ぜるように撫で回した。シロを撫で回す手はシロが喜ぶ力加減を心得ている。
鱗道はその光景を見ながら、またなんとも言い難い表情で口を結んだ。幽霊を嫌う猪狩も、霊犬であるシロはすっかり許容している。
東北の山中で急遽シロを迎えることになった鱗道だが、電車で来ていた為に帰りの足を失ったのである。その時は幸いなことに東北某県で猪狩が仕事中であり、準備の良い猪狩の計らいに従って鱗道は猪狩に連絡を取ることにした。
携帯電話で連絡を取った時、猪狩も仕事の最中だったらしく長電話は難しいとのことで経緯の説明は端的に済まさざるをえなかった。蛇神の代理を無事に務めたが、犬を引き取ることになったので帰りの足がなくなった、と。猪狩は随分なことがあるもんだと笑った後、車に同乗させてやるから翌日昼頃に鱗道が降りた駅前ロータリーに迎えに行くと言って通話を切った。この時の鱗道は、帰りの足が確保出来た安堵よりも不安の方が勝っていたものである。何せ、シロは猪狩が嫌う幽霊の犬なのだから。
幽霊嫌いの猪狩を思えば黙っていた方が良いだろうかとも考えた。が、当時のシロはずっと顕現し続けていられるとは限らない状況である。長くいた山から離されて不安もあろうし、山から下りてきた町並みに興奮したりと落ち着きもない。鱗道では猪狩相手に隠し通すことも騙しきることも不可能だ。故に、待ち合わせの駅前ロータリーで出会うやいなや、鱗道は真っ先にシロが幽霊の犬であることを伝えた。拒否されても構わず、帰宅の手段を考えてくれればそれで良いとの感情である。
当然、猪狩は「幽霊断固お断り」を示した。だが完全に拒絶しきる前に、鱗道に事の経緯を詳しく話すように要求する。鱗道はシロに猪狩には近付かないように言いつけた後、四苦八苦しながら山中での出来事を説明した。この時も猪狩は黙って根気強く鱗道の話に耳を傾けている。
鱗道の話が終盤に差し掛かった頃、猪狩の目がじっとシロを見ていることに気が付いた。シロもまた猪狩を見つめて舌を出し、尻尾を振っている。鱗道の言いつけを守り、鱗道の足下から一歩も動いていない。
「――で、殴れんのか。このイヌは」
鱗道が話を止めてしまったからか、猪狩は随分と物騒な質問を投げてきた。それは猪狩にとって重要な質問であることは鱗道も承知している。猪狩が幽霊を嫌うのは「殴れないから」、もっと言えば「何かあったときに反撃出来ないから」だ。猪狩にとって反撃の可否は大きな基準なのである。シロが猪狩の言葉に驚いた様子を見せたが、鱗道が屈んでシロを抱え込んだ。
「……さっきも言ったが、シロは触れる。まだ、四六時中というわけにはいかんが、そう言う風にしなきゃならん。だからその……まぁ……」
鱗道がシロを抱え撫でながら語るのを、やはり猪狩は黙って見ていた。一度尻尾を振るのを止めてしまったシロであったが、鱗道に撫でられてまた尻尾を振り始めている。紺碧の目は猪狩を見上げた。猪狩は腕を組んでしばらく黙っていたが、一つ大きく溜め息を吐くと、
「触って良いか?」
と、言って来た。断る理由はない。勿論だ、と鱗道が告げると、思いの外真っ直ぐに猪狩はシロに手を伸ばした。頼むから今は透けないでくれ、と鱗道が強く願ったことを二人は知るまい。シロは猪狩の手を受け入れ、何度か大きく頭が揺れるほど撫でられていた。
また違う人に撫でられるのなんて、何時ぶりだろうとシロが喜んでヒャンと鳴く。格好悪い鳴き声だな、と猪狩は子供っぽさが残る笑みをようやく浮かべた。それを見て鱗道は深く深く溜め息を吐いた。猪狩に連絡を取ってからずっと肩にのし掛かっていた重しがようやく降ろせた瞬間である。
猪狩はシロをただのイヌではないと分かった上で、鱗道とシロの同乗を許した。荷物を積み込むときに、拳大の岩塩を見掛けたときには思わずドキリとしたが、霊犬連れであることは話していなかったし、尋ねれば麗子への土産だと返される。もっとも、シロに塩が効くかどうか――それもただの岩塩で効果があるかは定かではないのだが。
シロがまだ物体を透過する可能性がある為、帰宅には下道を選んだ。後部座席に鱗道とシロが座り、鱗道はシロが車から透け落ちてしまわないように、或いは透けて落ちてしまってもすぐに気が付くようにと抱え続けた。その車中で聞けば、猪狩がシロを許容するのに一役買ったのは鱗道の側でじっと話を聞き、言葉を聞き分けているシロの様子であったらしい。ただ、触れられると分かったことが一番の切っ掛けに間違いない。道中、幾つかハプニングはあったが、鱗道もシロも猪狩のお陰で無事にS町に帰り着いたのである。
猪狩の度量は許容の過程を経てしまえば基本的に底無しであった。鱗道が蛇神の代理を担うことになったという不可思議で確証もない話も、早々と受け入れて検証を重ねて許容していった頃と何も変わっていない。シロは猪狩によく遊んで貰い、土産も貰うようになり、猪狩の妻子とも顔を合わせ、非常に良く懐いた。そうして、シロは幽霊嫌いの猪狩にとって唯一の例外であり続けている。
「断言されねぇのがリアルなんだよなァ。まぁ、あれだ。幽霊ってのは消しておこうぜ。俺の為にもな」
猪狩に撫でられて満足したシロが金魚と壺の巡回に戻り始めた。居間に飛び上がり、金魚を見に行くらしい。シロがすり抜けた横で、猪狩が体を震わせて切実な物言いをしてくる。鱗道は苦笑いしながらも肩を竦めて構わないと言った。実際に経験上で考えれば可能性はかなり薄いのである。ただ、そうなると――
「あとは何が残ってんだ?」
「全く分からん。俺が知らん手合いもいるだろうし……クロみたいな例外もいるかもしれん」
考え出せばキリがない。〝彼方の世界〟の存在全てを把握しているわけではないし、分類出来ているわけでもない。
「シロが呼び掛けてくれてるが、返答がないからシロも見当が付いてない。情報がなさ過ぎるんだ。もしかしたら、妖怪とかの類いかもしれん」
妖怪、という言葉を聞いて猪狩が失笑する。が、鱗道は真剣そのものだ。
「妖怪に会ったことはない。が、妖怪ってのは元々よく分からん出来事や物を一纏めにした総称だろう。それなら、あの壺の中身も立派な妖怪だ。あの壺は――妖器物ってことになる」
「……随分とまぁ、大袈裟な言葉が出て来たもんだぜ。中身がなんだか知らねぇが、俺には引きこもりの蛸壺野郎でしかねぇんだが」
からかうような言葉が選ばれているが、猪狩の声にその意図は少ない。軽口で濁しているが、中身がそれ程――鱗道にも全く予想が付かない何かである、ということは伝わったのだ。猪狩は首を左右に傾け、ごきりと音を立てると、
「グレイがどうやって妖怪退治をするかは見ておきてぇが、長居は出来ねぇしなァ」
心底残念がるように溜め息を吐いた。何故、と鱗道が口に出して問うよりも、鱗道の目が語っていたか猪狩が予測していたか、猪狩はずっと握っていた左手を持ち上げてみせ、
「コレが取られかけただろうが。しかも、グレイにもシロにも気付かれねぇようによ。お前等で分からねぇもんに、俺がどうこう出来る気はしねぇさ」
手が疲れた、と言いながら結んで開いてを繰り返し、右手も使って解しにかかる。ああ、と鱗道が呟いた。
「そうだったな……壺が集めるもんの基準も分かってないし、手段も分かってない」
「分かってねぇ?」
両手の指を絡めたまま、意外だと言うように猪狩が目を見開いて鱗道を見返す。
「ああ、分からん。言っただろ、情報が少ないんだ」
何を驚くことがあろうか。鱗道が言う言葉を、猪狩は本当に信じられずにいるらしい。呆けたような顔に、声で、
「手段はそうかもしれねぇが、集めるもんの基準は――クロは気付いてんじゃねぇのか? 聞いてねぇのか」
と、続ける。クロが? と、鱗道が繰り返した。猪狩の言い方では――確証を持ってというより、想像がつくという程度であろうが――クロや猪狩であれば気が付ける情報があったと言うことだ。猪狩は意外に思ってか細めた眼差しを店内に向け、絡めた両手から力を抜いた。猪狩が意外に思ったのは、クロが鱗道に話していないことに対してであろう。
クロは完璧主義の傾向が強い。だが〝彼方の世界〟関連ではクロは自身の知識や感覚では到底足らないことを知っている。故に想像の範疇であっても、鱗道には欠かさず進言していた。それは、苦手因子である猪狩の急な来訪があっても揺らぐ物ではないと思っていたが――
「まぁ……あれか。そうだとしたら、鼈甲のブローチってのがちょいと弱い気がするから――」
クロに尋ねるべきか、このまま猪狩に聞くべきか、考える鱗道の目前で、猪狩の絡まった手が解れていく。それがまた異質であった。左の薬指だけが、静かに、ゆっくりと、絡まる手から離れるように僅かに反っている。そして目を凝らせば、猪狩の手に絡み付く不自然な陰影が見えた。一見して分からないそれは周囲の色真似をしているのかそもそも無色のものなのか。クラゲの触手のように長く細く、猪狩の指と指輪の隙間に入り込んでいて――
「猪狩! 手だ!」
「あぁ!?」
今、まさに指輪が外されようとしているのに猪狩は気が付いていなかったらしい。巧妙に、そっと、慎重に、絡まる指すら騙しきり、触手は指輪を抜き去ろうとしていたのである。鱗道の言葉に対し、猪狩が慌てて手を解く仕草が不味かった。勢いの良い仕草は、引き抜こうとしている触手を手助けする形になってしまい、指輪は猪狩の指からすっぽ抜けて店側の床に跳ねた。
そこからがまた素早い。透明な触手は指輪に絡み付き、モーターで巻き取られているかのように素早く床を走り出す。店側に身を乗り出した鱗道が真っ先に見たのはあの壺だ。古い卓上灯に照らされる壺の口をじっと見つめる。やはり、透明な触手が何本か、そこから伸びているのが見えた。
『待って!』
ヒャン! と言う鳴き声一つと、鱗道の鈍い呻き声は殆ど同時に上がった。シンクで金魚を見ていたシロが異変に気が付き、身を乗り出して壺を見ていた鱗道の背中を踏みつけて店内に飛び出したのだ。シロの紺碧の目は指輪を完全に捉えている。だが如何せん、シロが勢いよく駆け込むには壺の置いてある机までの一角が狭すぎた。
「畜生め!」
次いで、鱗道の悲鳴と重なったのは苛立った猪狩の一声である。シロに踏み台にされた鱗道の背中を打って素早く立ち上がると、素早い身のこなしで指輪を追いかけて一角に走り込む。ただ、触手の方がいくらも早い。既に指輪は机にあがろうとしている。ハードルのようにシロの体を飛び越える猪狩は手を伸ばしたところでまだ机の手前だ。そして、一人冷静な鴉はこの瞬間を待っていた。
クロの目には〝彼方の世界〟のものは映りにくい。シロは元より鱗道でも見えないものは、クロにはまず知覚出来ない。それが分かっていたクロに壺の中に居るものの正体を暴ける機会があるとしたら、今のように何かを収集する瞬間だけである。現存する物体はクロの視覚にも映るからだ。
棚から滑空したクロの足は壺の口に飲み込まれる直前の指輪をしっかりと掴んだ。すぐに翼をはためかせ、急上昇することで指輪に絡む正体不明を引きずり出せるかもしれない。全体を引きずり出せずとも一部分でも壺の外に出してシロや鱗道に観察の時間を与えれば正体を知る一助になり得る。そう考えてのことであった。作戦通り、クロの上昇に合わせて指輪が宙に持ち上がる。このまま梁の上まで引っ張り上げてしまえば――と、考えたところで、事態はクロの目論見から大きく外れた。正体不明が収集するものは小さな物ばかりである。大して重たいものは集めていない。触手がどれ程の力を持っているか、クロには量る術がなかった。そして、触手の力は完全にクロを上回っていたのである。
棚を越しきる前に、クロの上昇は完全に停止した。ピンと糸で結ばれたような抵抗は一瞬だけで、クロはすぐに壺に向かって落下しだしている。翼の羽ばたきは間に合わない。が、指輪を手放そうという考えはなかった。自分が壺にぶつかったとしても、指輪を手放すわけにはいかない。指輪を守る責任があると自負しているからだ。
クロが稼いだ時間はほんの数秒。シロと猪狩に背中を打たれた鱗道も、道幅に阻まれたシロも、正体不明を観察する時間はない。ただ、稼いだほんの数秒は、机まで届いていなかった猪狩の右手を落下するクロの真下まで届かせる時間には足りていた。
「構わねぇ! 離せ!」
猪狩はクロを右手に掴むとすぐにそう言った。猪狩の目はクロを見ていない。クロが掴む指輪だけを見ている。猪狩の言葉にクロの心情自体は迷いがあった。が、体を動かす機構の方は気圧されるように指輪を手放す。白金が古い卓上灯にキラリと照らされた。壺の口へ真っ直ぐ向かう指輪を、猪狩の左手が掴もうとする。右手にクロを掴み、前のめりの勢いそのまま、非常にアンバランスな体勢で――