『うん、それでいいよ! 鱗道、ありがとう! クロ! ねぇ! こっち来て! 猪狩も来て!』
シロに代わり作業を終えつつある鱗道から離れ、居間から顔を覗かせたシロがひゃんひゃんと愛くるしく吠え猛る。顔を上げた猪狩が、
「なんだ、随分とやかましいじゃねぇか」
と、シロを見て首を傾いだ。吠え声は聞こえても内容までは知る術がない。クロは机上から飛び立つとシロの頭上でくるりと円を描き、
『シロ。猪狩は貴方の言葉を聞き取れません。先程鱗道にやったように、服の裾でも引いてやらねば』
と、言ってから居間に入った。クロの言葉に『そっか!』と天啓を得たかのような弾けたのはシロの声だけではない。シロは鎖を切られたか如く跳ねるように店に下りると、素早く猪狩の元へ駆けていった。居間に入り込んだクロは、シンクの脇で溜め息を吐きながら濡れた手を拭く鱗道を見付けるとその左肩に足を付く。店内からは、よく言えば大変元気のよろしい犬の鳴き声と大人の悲鳴が聞こえていた。
「あんな風にけしかけなくとも、猪狩なら分かるだろ」
シロに対して行ったクロの助言に、鱗道は眉間の皺を深めている。クロも、その事ならば承知の上であった。シロの頭上で円を描き、すんなりと居間に滑り込みさえすれば――あるいは、シロが吠え続けていれば、呼んでいることぐらいは分かる筈だ。飛びかかられ、服の裾を引かれ、片手に壺をぶら下げた状態で急かされることもなかっただろう。
『ええ。そうでしょう。ですが、言ってやりたかったのです』
声は常と等しく金属質で、淡々としている。揺らぎもなければ変化もない。クロは一度だけ鱗道の側頭部に頭を寄せた。瞼のない目は瞬きをしない。だから、片目だけでも擦るようにして視界を暗くしたかった。
「……何かあったか?」
鱗道がクロの言葉と行動のどちらを指して言ったのか、クロには判断が出来ない。鱗道は猪狩とはまた別方向に機微に疎く勘が鋭い。細かな変化には気が付かないが、僅かな違和感を漠然と察するのには優れている。
クロはしばらく逡巡した。己の中で言葉を探し、選び、取捨選択を繰り返す。時間にして数秒であろうが、クロの意識下では感覚一杯に流れていく文字列から己の意に沿う言葉を見つけ出す長く困難な作業であった。結果、
『私は、猪狩晃を好みません。その確証を得ただけのことです』
見つけた言葉はクロ自身が呆れるほど、ありきたりな言葉である。鱗道はクロを深追いすることなく、
「そうか。やっぱり気が合わんか。すまんな、咄嗟のこととは言え、任せたりして」
と、苦笑いを年齢相応の皺が刻まれた顔に薄らと浮かべた。クロは鱗道に返事をしない。返事をしないことで、返答とした。解釈は、鱗道が好むようにすれば良い。それによって不備は生じないのだから。
『これが、あの駄犬の案ですか』
クロは鱗道の肩からシンクの中を覗き込んだ。そして、言葉を発しがてらにほうと感嘆の仕草を挟む。成る程、これならば入れ物に収まり、煌めきで満たされている。〝蛸壺〟が満足するかどうかは本人次第であろうが、
『偶然の重なりが奇跡的ですらありますね。幼子のような発想ですが、これもまた風流と言うものなのでしょう』
クロの賞賛は素直なものであった。実際、偶然が重なりパーツが揃っていてもクロには思いつきもしない発想である。鱗道も小さく笑いながら、
「俺も思い付かなかった。こういう発想は、シロには敵わんな。あとは、気に入ってくれるといいんだが」
と、肩を揺らす。クロはしばらく鱗道の肩が揺れるのに合わせて自身も振動を堪能させて貰った。そして、自身の羽根が今まで乱れっぱなしであったことを思い出し、ゆっくりと繕い始めだす。
「待て! おい! 結構重てぇんだよ!」
大きな声の後、鈍い音と短い悲鳴が聞こえて鱗道が振り返る。シロに服を引かれ、左手は壺に飲み込まれたまま、なんとか居間と店との段差に辿り着いた猪狩だったが、飛び上がったシロの勢いに負けたか、段差に脛を思いっ切りぶつけたようだ。呻く猪狩の脇を、大丈夫だろうかと心配したり、しかし早く来て欲しいと急かしてみたりと忙しなくシロが跳ね回る。猪狩が履いていた雪駄は結局脱ぎ散らかされ、シロに引っ張り上げられるように居間に上がった頃には、全ての騒動の影響で若々しく見える顔付きも台無しの乱れっぷりである。
「……なんか……その、色々と、すまん」
鱗道の謝罪は心からのものだ。直近の惨事はシロが原因である以上、飼い主として謝るのが筋である。どうやら、ネコを殺すに至らない好奇心も、巡り巡って大の大人を痛い目に合わせるには充分であるようだ。
「……ビールだ……終わったらまずビールを寄越せ……」
這い上がるように居間に上がりきった猪狩は、顔を上げないままちゃぶ台まで辿り着き、壺をちゃぶ台の上に乗せると力尽きたように伏せた。
「ああ……土産にも持っていけ」
一人で晩酌もしない鱗道が、祭りの日に猪狩の土産に期待を寄せて冷蔵庫で冷やしていたのはいい値段のプレミアムビールであった。六缶一セット、全てしっかり冷えている。猪狩にも一本渡して、残りはゆっくりと楽しもうと思っていたが、猪狩が望めばそのまま土産として持たせてもいいと――いや、屋台飯を食い切る間の二本分ほどは残し、後は全て持たせてもいいと思えた。
大人二人の労いを全く理解出来ないシロがどんと太い前足をちゃぶ台の上に乗せた。ピンと立った耳も千切れんばかりに振り回される尻尾も、ざわめき続ける豊かな被毛もシロの興奮を表現して余りある。
『ねぇ! 鱗道! 持ってきて! 早く早く!』
こうなると落ち着けと言葉で言い聞かせたところでシロは落ち着かない。それを分かっているから、鱗道も前足を乗せたことも落ち着かないことも咎めずに溜め息だけで済ませるし、クロも鱗道の肩を離れてちゃぶ台の上へ――それもシロと猪狩から最も遠い端に飛び移る。
鱗道はシンクの物をゆっくりと両手で持ち上げた。ちゃぷん、と水音が立つ。水の量が多すぎたのではないかと思ったが、シロが納得しなかったのだ。零さないように恐る恐るちゃぶ台の上に置いた。
途端、ぺきんと小さな音が壺から上がった。口が猪狩の手首で塞がっているので、よく見るために底面の小さな破片を手放したようだ。ころりとちゃぶ台に落ちた破片はそのまま、かちりこちりと数を増やしていく。壺の破片が落ち始めても、中身が見える程の大きさではない。が、〝蛸壺〟はしっかりとシロの提案を見つめ――きっと気に入ったに違いなかった。
『きらきら』
シロの耳を借りていない鱗道の耳に〝蛸壺〟の声が届く。何よりも、無味乾燥であった声に拍子が生まれている。
『きらきら、きらきら、きらきら、きらきらだ』
祭り囃子の太鼓を思わせる拍子であった。
ガラスの金魚鉢である。昔はよく見掛け、今風に言えばレトロな丸い金魚鉢だ。金魚鉢の底にはこれもまたシロのリクエストで小石などの代わりにビー玉やおはじきが敷き詰められた。金魚鉢を満たす水の中には猪狩がシロの土産にと持ってきた三匹の赤い金魚と一匹の出目金がゆっくりと泳いでいる。
『キラキラでしょ! してるでしょ! ちゃんと入れ物にもはいってるでしょ!』
シロが得意げにひゃんひゃんと吠えているのを聞いたか、猪狩がようやく顔を上げた。そして、はぁ、と間の抜けた声を上げる。それもそうだろう。猪狩にはシロが解決策を思い付いた、ということしか伝わっていない。その解決策が金魚鉢となれば、首も傾げようし間抜けた声を漏らすほかないというものだ。
『ね? どう? これで交換してくれる?』
シロの言葉に対して〝蛸壺〟からの返答はない。ただ、
『きらきらだ、きらきらだ、入れ物いっぱい、きらきらだ』
拍子の付いた声を、ただただ繰り返すばかりであった。代わりに、と言わんばかりの返答は壺それ自体が奏で始めている。ことり、かしゃり、がちゃりと壺の形が細かな破片に崩れていった。破片の隙間からぬるりと抜け出た無色透明で、陰影のみが目に映るその全貌をようやく鱗道は目の当たりにする。それこそ海中のクラゲのような、大きな塊に無数の触手を持った姿。目も、口もない。色もない。壺の傍らに置かれた金魚鉢に移動する間ですら、大きな塊の端が音もなく千切れるように机に落ち、音もなく消えていく。崩れていく。溶けていく。入れ物から出たら溶けてしまう、とは文字通りの事実であったのだ。
〝蛸壺〟――クラゲのような塊は金魚鉢の縁をよじ登り、中へと滑り落ちた。水音は立たない。元々鱗道には陰影しか見えていなかったものが水中に入ってしまえば、姿は見付けられない。が、金魚がしばらくの間不自然な動きをした。壁に阻まれているような、何かを避けるような――そこを、壺から出たものが通ったのだろう。
『きらきらだ、ああ、きらきらだ。おれ、うれしい』
声は、金魚鉢から聞こえている。金魚鉢の底に敷き詰められたビー玉やおはじきの隙間から、小さな気泡が押し出されている。落ち着きを取り戻した金魚の中で、目立つ出目金の尾がゆらゆらと気泡を受けて揺れた。
「っしゃァ! 守り切ったぜ、麗子!」
がしゃりと一際大きな音は、壺の破片から猪狩が拳を引き抜いたからである。左手首には壺の口に食い込まれていた赤い痕跡がぐるりと一周回っているが、怪我などはないようだ。結局、壺の中でずっと手を握っていたらしく破片から取り出された拳の中にはシンプルな白金の指輪が鎮座していた。猪狩は早速、指輪を自身の左手薬指にねじ込んでいく。感慨深く眺めた後に、気障な映画のように口づけなどしているのを見れば、鱗道も呆れるばかりだ。全くそつなくこなす辺り、こなれていて嫌味にもならない。
猪狩の興味が完全に指輪に移ったからか、クロが静かにちゃぶ台を歩いて壺だった破片の山に近付いていく。嘴や足を使って破片をどかしていくと、実に様々な物が姿を現した。老紳士から聞かされていたネジなどの金属部品や文房具、玩具の宝石、店の商品だった小さな真珠達、そして――鼈甲のブローチである。幾何学模様の蒔絵が施され、質素ながらも虹色に輝いていた。が、クロが嘴でそっと持ち上げて裏返すと、ブローチならば付いているはずのものが――布に取り付けるためのピンがない。あるのは、台座に平行に取り付けられた筒状の金具が二本だけである。
他にアクセサリーもなければ、鼈甲の物もないから、老紳士が言った物はコレで間違いないのだろう。もしかしたら何か特別な付け方でもあるのかもしれない。
『何か、小箱をお持ちしましょう』
クロの言葉に鱗道は頷いた。折角だから他の物も入れられる大きさのものを、と鱗道がクロに付け加える。クロは静かに店内に戻っていた。棚上に置かれている様々な空箱は、クロが一番把握している。老紳士に返すときに失礼にならないものを見繕ってくれるはずだ。
『きらきら、きらきら、うれしい、うれしいなぁ』
『良かったねぇ。キラキラしてるもんね。僕も好きだよ』
金魚鉢に鼻先を近付けて、シロは満足げに小さくひゃんひゃんと合いの手を入れている。クラゲのような妖怪――〝蛸壺〟と仮称していたが、もはや仮称でもそうは呼べまい――は金魚鉢をすっかり気に入ったようだ。が、鱗道の表情は綺麗さっぱり晴れ渡ることがない。
金魚が住んでいる水である以上、水の煌めきは永遠ではない。水の交換もしなければならないし、その時には水もビー玉なども全て出さねばならない。後に聞けばシロもその事は全く考えていなかったわけではないらしく、ガラスの器であれば光を通すのだから少しくらい融通を利かせてくれるのではないか、という期待があったようだ。その辺りはまだ、妖怪――仮称、〝金魚鉢〟になるのだろう――は知るところにない。金魚鉢を満たす煌めきを維持するために何をしなければならないか、等と言う話をするのはこれからであり、それは鱗道が担うことになろう。シロは、自らも言っていたように説明下手であるからだ。
「おい、グレイ」
猪狩はひとしきり、ちゃぶ台周りの光景を眺めた後、自由になった左手で早速頬杖をついて立ったままの鱗道を見上げた。
「この状況は、片付いたと思っていいんだよな?」
鱗道もまた、ちゃぶ台周りの光景を見下ろす。クロが彩りも良く形も整った紙箱を持ってきて、壺に集められた小物を丁寧に移し始めている。金魚鉢に鼻をぴったりとくっつけているシロは満足そうに目を細め、ゆっくりと尻尾を揺らしていた。室内灯やら西日やらを受けて、色とりどりのビー玉やおはじきなどを敷き詰められた金魚鉢が虹色の影を落としている。金魚鉢の中では時折、金魚が驚くように急に回転する。居間は、いまだ夏の湿気が籠もっていて汗ばむ気温であった。
鱗道は猪狩に返事をせず、黙って冷蔵庫に向かった。キンキンに冷えた缶ビールを二本持ち、猪狩の持ってきた屋台飯のなから温い焼きそばとお好み焼き、割り箸を二本取って猪狩と向かい合うように腰を下ろす。それぞれを適当に、シロやクロや〝金魚鉢〟に邪魔されないように置き、
「そのことは、酒の肴にしようじゃないか」
プルタブを起こす。炭酸ガスがはじけ飛び出す音がする。今日、長いこと待ち望んでいた音である気がした。猪狩はにやりと笑うと目の前に置かれた缶に手を伸ばした。片手で開ける仕草は、鱗道がやっても似合わない。
「麗子に連絡しとくといい。たぶん、話は長くなるぞ」
「なんだよ、長引かせてぇみたいな言い方をしやがって」
猪狩が意地悪そうに笑うのを見て、鱗道は二度、三度と瞬いた。それから、ああ、と苦く笑う。自分では思いもよらず、気が付きもしなかったが――
「単純に、よく分からんことが多いんだ。それに、俺も話はうまくいない。だが……そうだな」
――夏、だ。エアコンの効いた部屋から可能な限り出たくない。高温高湿度にもうんざりとしている。夏など早く過ぎ去って、過ごしやすい秋が来たらいい。
「腹は減ったし、喉も渇いた。俺もやっとありつけるんだ」
――夏、だ。味が濃いめの屋台飯に、よく冷えた値の張るビール。汗ばむ季節になると恋しくなる、夏のささやかな楽しみである。それが、今年は腹に溜まる肴だけでなく、目には映らぬ肴まで揃い踏みだ。
金魚と得体の知れぬものが入った金魚鉢。ひんやりと冷たい幽霊犬。几帳面で哲学的な奇妙な鴉。乾杯を欲して差し出した缶の先にいる、古い友人。
気がかりなのは明日の天気くらいか。それも、友人に聞けば「天気予報はあてにならない」と言われるだろう。だが、構いはしない。人間一人の機嫌次第で、天気は左右されなどしないのだから。で、あるからして――
「――少しくらい、浮かれさせてくれ」
「いいぜ、俺もかなり飲みてぇ気分だからな」
中身がたっぷりと入った缶がぶつかると、重たく鈍い音がたった。