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 老婆は鞄から小さな水筒を取り出し、蓋に水を注いだ。小さな小さな一口で喉を潤すと新たに水を注ぎ、
「貴方も飲む?」
 と、クロに向けて差し出した。
 クロはその場から動かずに老婆を見つめ続け、
『いいえ、ご婦人。私に飲食をする器官は備わっていないのです』
 と、言葉を返してから嘴を閉ざした。が、老婆の耳が遠いという自己申告通り、クロの声は聞こえていないらしい。老婆の手は引っ込まず、首を傾いで彼女もクロを見守っているようだ。
 正直なところ、クロは自身が鳥類ではないと見抜かれたことに戸惑っていた。S町に来て初めての出来事である。そして困惑が思考をはち切れさせんばかりの勢いで膨らんでいた。クロは声以外に意思を伝える手段を持っていないのである。
 音一つの返答は「イエス」、二つでは「ノー」等という取り決めはあるが、猪狩が提示してきたルールであって、クロは従っているだけである。取り決めは互いに知らなければ意味を成さないし、クロの声を聞き、老婆に届ける介在者がいなければ取り決めを伝える手段はない。
 考え出した結論は首を横に振るというシンプルな動作であった。人間が共通して行う否定のリアクションである。
「あら、そう? 遠慮しなくていいのに」
 実際、伝わったようでクロは安堵したのだが、老婆は残念そうに顔を曇らせた。クロはまた大きな戸惑いを覚える。老婆を残念がらせる程の強い否定のつもりはなかったのだ。いや、老婆も残念そうな顔をしたものの、強い拒否だとは受け取っていないだろうか。
『ご婦人。遠慮ではありません。それに、それほど気に病まないでいただけませんか』
 嘴を開き、語りながらクロは背もたれを離れ、腰掛けに着地した。ゆっくりと老婆に歩み寄る。老婆は蓋の中身を足下に零して水筒の蓋を閉めたところであった。老婆は近寄ったクロに、
「あら、あら」
 と微笑みを向けた。やはり、クロの声が届いていないと思われたのは、
「ねぇ、カラスさん。貴方、鱗道さんのところのカラスさんでしょう?」
 老婆とは会話が噛み合わないからである。クロは嘴をじっと老婆に向け、老婆はクロを見下ろし微笑んだまま、
「私はね、ずっと昔に聞こえなくなってしまったけれど、まだ、少しだけ分かるのよ。今いるワンちゃんも不思議な子でしょう? 大丈夫。内緒にするわ」
 小さくくぐもった声は、内緒話をするように一層ひそめられている。それから、老婆は人差し指を唇の前に真っ直ぐ立てた。口外しないというジェスチャーであることはクロも知っている。
『ご婦人、貴方のお気遣いに感謝いたします』
 声が聞こえないと分かっていても発言するのは、クロの几帳面さ故である。続けて、クロは嘴を下げて頷いて見せた。
「鱗道さんのところは、昔から不思議なお家だったものねぇ。今も、不思議なお家なのねぇ」
 老婆はクロを見ながら懐かしむように溜め息をついた。クロの肯定は届いたが、感謝までは伝わっていないようである。それが少しばかり歯がゆい。
「不思議なことは分かるけれど、ちゃんとは分からないのよねぇ。あの世に近付くとちゃんと分かるようになるかと思ってたけど、そんなことはなかったわねぇ」
 ほほほ、と老婆は淑やかに笑って見せたが、クロは嘴を全く動かさなかった。老婆の言葉の真意を探りかねていたのである。確かに、若者に比べて老人の方が寿命などであの世――死後の世界に近かろう。しかし、鱗道やシロの口ぶりから推測するに、死後の世界と〝彼方の世界〟は別物であるようだ。死を迎えようと〝彼方の世界〟に通じるとは限らない。それに、恐らく老婆が言っているのはそこまで深い話ではなく、
「貴方は優しいのね。うふふ、そうよねぇ、笑いにくいわよねぇ」
 やはり、冗談の類いでしかなかったようだ。クロは僅かな老婆の言葉を深く深く受け止めすぎていたことを自戒していた。シロは全て感覚と直感で喋り、冗談どころか嘘や誇張という発想もない。鱗道はあまり冗談を言わないし、言ったとしても恥じらいからかすぐに撤回する。雑談というか、軽い遣り取りの経験がクロにはあまりにも限られていた。
 クロが全く動かなくなってしまったからか、老婆は、
「あら、機嫌悪くしちゃったかしら。ごめんなさいね」
 少し慌てたように言うと、頬に手を当てて眉を下げた。クロはじっと老婆の観察を絶やさない。老婆は困ったわと呟きながら、眉を八の字にしている。クロの機嫌は悪化などしていないというのに。
 先ほどから老婆との遣り取りはクロにとって困難の連続だ。せっかく自身が認識されているというのに、意思の表層しか伝わらないもどかしさに苦慮し続けている。一応、老婆はクロを「不思議なカラス」以上の認識をしていないようだから、鳥類が行わない動作は自重しているが、叶うならば頭を抱えて悶絶したいほどだった。それで、解消されることは何もなくとも、である。
 ああ、なんと不器用で、不便で、困難なコミュニケーションであろう。クロは嘆きながらも、自身が宿る液体金属がめまぐるしく動く自覚を持っていた。この感覚は十年来のものである。観察一方であったコミュニーションの輪に突如放り込まれた困惑と興奮! 作り手の屋敷を連れ出され空を飛んだとき以来の――どこまでも広く壮大な未知を前にした時の、恐怖と昂りの感動と流動!
 今までのクロのコミュニケーションは相手から手段を示されたものであった。鱗道やシロとは声で会話が可能であることを知らされ、声が聞こえない猪狩からは一定のルールが提示されている。しかし、この老婆とはクロが自ら手段を考え出さなければならない。不器用で、不便で、困難な問題を、自ら考え、挑戦し、改善していかねばならない。
 ――クロの作り手は、意思疎通が出来ないクロを「失敗作」と断じた。それには複雑で深く、重苦しい思惑と感情がある筈だが、回答を明確にすることなく作り手はこの世を去っている。かの人物とは討論議論はもとより、一切の意思疎通は真に遮断されてしまった。残された手紙と記憶の再解釈から、作り手はクロに空を飛び、より広い世界と繋がりを持つことを望んでいたと推測しているものの、確証はない。
 それでも、クロは己の解釈を信じて鱗道の店に間借りし、協力者として人間社会を観察してきた。自在に空を飛び、広い世界と繋がりを得た。だが、現状は作り手の願望を叶えたと言えるだろうか。ただ飛べば良い、ただ繋がれば良い、などとあの気難しく孤独な作り手は思ってなどいなかろう。
 クロは飛ぶことを望まれたのではない。飛び続けることを望まれたのだ。空を飛び、広い世界と繋がりを持つことで数多の困難に遭遇することを。何より、困難を前に諦めず思考し挑み邁進し続けることこそ、作り手が、猪狩昴が叶えられず――鴉に、クロに託した真の願望である。

 クロは、今、老婆に何を伝えるべきかを選択せねばならない。次いで、選択した感情をいかにして伝えるかの手段を模索せねばならない。
 老婆は困った顔から少し悲しげに表情を変え、
「私一人で喋っちゃってるわね。きっと、退屈よね」
 と、諦観の息を吐いた。それを見て、クロが老婆に伝えるべき感情は決まった。次には手段を見つけねばならない。
 ぱっと思いついたのは、今までは安易だと思ってきた手段である。鱗道がシロに対してよく使う手段であり、シロはたいていの場合喜びを前面に出して受け取っていた。『単純なことですね』と呟くクロに、鱗道は苦笑いを浮かべながら「単純なのが一番分かり易い」と言ったものである。
 クロは参道を囲む木々に目をやった。常緑樹の風景は変わり映えのない景色である。それ故に、目当ての物を見つけるのは容易であった。
 クロはベンチから素早く飛び立つ。鳥類あるまじき重量を、計算され尽くした翼の形状で風を掴み、複雑な機構が生み出す力で宙に舞い上げる。嘴や頭の向き、それから僅かな羽の傾きを用いて自在に空を飛び、宙に止まり、嘴で木の枝から葉をもぎ取ると同じ経路でベンチに舞い戻る。さながら、ラジコン飛行機のようでもあっただろう。老婆は素早いクロの動きを追い切れなかったようで、クロが滑走路代わりのベンチに着陸したとき、離陸時と変わらない老婆と顔を合わせることになった。
 小さな目が瞬いた後、クロが咥えてきた葉に、
「あら、松の葉」
 季節が移ろうとも変わらぬ深い緑をたたえる細い葉を見つけて首を傾ぐ。クロはじぃっと老婆を見つめたまま、数歩の距離を詰めて老婆に寄り添った。
 老婆はふと気付いたように手をクロの嘴の下に置く。クロは松の葉を老婆の手の平に置き、見た目良く――それはクロの感性によるところであるが――なるように整えた。そして再び老婆を見上げ、頭を大きく動かし頷く仕草をする。きっと聞こえまい。しかし、
『ご婦人、松は縁起物で間違いありませんね?』
 口にするのは、やはり、クロの性分である。
 老婆はきょとんとして、松の葉とクロを見比べていたが、
「貴方は、本当に優しいのねぇ」
 困り顔を再び柔和な笑みに変え、手の平の松を愛おしげに指で撫で始めてくれた。

「そろそろお参りしないと、ダメねぇ」
 老婆はつまみ上げた松の葉を、大事そうに上着のボタン穴に差し込んだ。素早くせわしなく動く若人ならば別なれど、老婆が歩む程度では充分落ちまい。杖に寄りかかりながら立ち上がると、老婆を見送るために見上げるクロを振り返る。
「カラスさん。私、時々お参りに来るのよ。またお話しできたら嬉しいわ」
 柔和な笑みは、綿のように柔らかく穏やかにクロを見つめている。皺に埋もれてしまいそうな小さな目が何度も瞬きをした。クロはじっとその顔を見つめ、頭を大きく振って頷く。うふふ、と老婆はやはり淑やかに笑って、
「ただ、私が一方的に喋るだけなってしまうかもしれないけれど」
 ――今までで一番小さな声は、きっと独り言であったのだろう。老婆は階段からベンチまで来たときと同様、ゆっくりゆっくりと参道に向かっていく。クロはしばらくその背中を見つめていたが、老婆の足が賽銭箱に辿り着くよりも早く、ベンチから飛び立っていた。

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