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その日も、老婆はゆっくりと階段を上りきった。鳥居の前で一礼をし、石畳で整えられた参道を少し外れる。祭りや年末年始の時にしか開かない社務所の側にはベンチが据えられていた。階段を上るだけで疲れてしまう老体には丁度良い休憩場所である。
ベンチの上には一羽のカラスがいた。それは、質屋「鱗道堂」に住む不思議なカラスである。老婆に詳しいことは分からないが、単純なこの世の生き物ではない。カラスは老婆を見つけると、真っ直ぐ嘴を向けてきた。その嘴には何かが咥えられている。老婆を催促するように翼が何度かはためかされた。ベンチ上の姿は気品に溢れ、じっとこちらを見つめる眼差しには知性がある。
以前は、そういった者の声を、朧気ながら聞けたのだけれど。
老婆は目を細め、頷きながらゆっくりとベンチに向かって歩みながら思う。探し物をしている最中に呼び止められた気がして、近くを探すと目的の物を見つけたことがあった。小さな小さな声をたどって路地裏を覗き込んで子猫を拾ったこともあるし、巣から落ちた小鳥を見つけたこともある。回数は多くない。しかし、確かに普段とは違う声をこの耳は聞いた。それも、年齢を重ねるごとに、実際の声と同じく聞き取りにくくなってしまったのだ。
不思議なカラスに語ったことは――あの世に近付けばより聞こえるようになると思っていたというのは、冗談めかしていたものの本心である。老婆が聞く声は大抵弱々しいもので、衰弱しているものであった。薬売りには便利であったが、声を頼りに見つけた命の殆どは死の間際にいたのも事実である。故に、あの世の声だと思っていたのだ。
この世とは違う声を聞き取れなくなったとき、少なからず胸中は軽くなった。しかし、やはり寂しさもあった。声を聞き取り見つけたところで老婆に出来ることは殆ど無かったけれど――見つけることは、出来ていたから。
翼を畳んだ不思議なカラスは、老婆がベンチの隅に腰を下ろすまでじっと動かずに待っていた。老婆が座りきり、杖を傍らに立てかけるまでをじっと動かずに。老婆が不思議なカラスに向き直った時、知性をたたえるカラスの目が赤いことを初めて知った。
宝石のように煌めく目のなんと美しいことだろう。ただ、その美しさの奥にあるのは子供のような爛漫さであった。好奇心や冒険心に満ちた眼差しは、老婆の胸元を穴が空くほど見つめている。
「ああ、気が付いた?」
そこには、ボタン穴に通した松の葉があった。カラスの赤い目はより一層煌めきを増したようだ。その眼差しを見て、思う。若い頃に聞いていた声は、本当にあの世の声であったのかもしれない、と。だから、だからこそ、これほど力に満ち溢れた不思議なカラスの声が聞こえないのだ、と。
じっと松の葉を見つめていたカラスが、ゆっくりと老婆に嘴を差し向けた。咥えられていたのは隅までぴったりと揃えられ、細く折り畳まれた便せんである。老婆が便せんを受け取ると、赤い目は老婆の顔を見上げた。期待と不安が混ざる眼差しは便せんを開くように急かしたがっている。しかし、気品に溢れた佇まいは老婆に対する気遣いを優先させていた。
老婆は笑みを浮かべながら、皺だらけの手でゆっくりと便せんを開いた。太く、大きく書かれた文面は数行分で、
「私の名前はクロです。鱗道堂にいます。
貴方の名前を教えてください。
私が一度音を立てれば「はい」であり、二度続ければ「いいえ」です。
上手くいかないかもしれませんが、貴方と話をしたいのです」
と、ある。
便せんは、赤く細い模様で縁取られていた。薄い濃淡のある紅は書かれたものではなく、朱肉を使って不均等に捺されたものだ。
真っ直ぐな直線と左右に伸びる枝のような短い線。小さな模様がいくつも連なって、ぐるりと便せんの縁を取り巻いている。文面を読んだ老婆は首を傾いだ。さて、この模様はなんであろう。簡略化した松の葉を並べたものか――
「あら、あら。そうなのね」
老婆はゆっくりと不思議なカラスに顔を向けた。このカラスがいかに不思議なカラスであろうと字は書けまい。この手紙は「鱗道堂」の主人による代筆なのだろう。そして、知性と気遣いに溢れたカラスは代筆だけでは物足りなかったか。はたまた、松の葉を持ってきたときのように気持ちを伝えるための挑戦に好奇心と冒険心が駆り立てたのか。
「これは、クロちゃんの足跡ね」
不思議なカラス――クロは、嘴を広げてカツンと音を一度上げた。朱肉を両足に付けて歩き回った便せんの文面には、一度の音は「はい」であると書かれている。
赤い宝石のような目が、くるくると輝きを変えたように見えた。クロは嘴以外を動かしていない。けれど、その内側では大きく喜びに飛び跳ねているのだと、老婆は確かに感じ取っていた。
「私も、貴方とお話したいわ。まずは自己紹介からよね。私はね、商店街の隅で薬屋をやってるのよ。名前はね――――」
老婆は胸元の松の葉に手を当てた。動作も言葉も丁寧にゆっくりと、
「じゃぁクロちゃん。改めて聞くわね。貴方は、この場所が好きなのかしら? それとも、人を見てるのが好きなのかしら? 貴方のご趣味は?」
たとえ上手く行かずともお互いを拾い合い、何より互いに楽しめるように。