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夜中のうちに何度か、鱗道の寝床からは咳やくしゃみ、鼻をかむ音が聞こえていた。寝床を階段の真下に移動させたシロは適度な高さに顎を乗せて微睡んで過ごしたようである。二階から物音が聞こえる度に耳が動き、時々顔を上げて目を開けて、静まりかえればまた目を閉じる。普段、腹を出して舌もしまわず、いびきをかいて眠りこけているというのに。
クロは結局、読書もインターネットも集中できず、当然外出しようという気にもならず悶々と夜を明かした。気がかりを確認してはそわそわと落ち着かずにあちこち飛び回っていたクロに対し、寝場所と姿勢以外は普段通りに見えたシロとの違いは異常事態に対する経験の差であろうか。
鱗道が二階から下りてきたのは昼間近になってからだ。普段よりも遅い起床の足取りは非常に危なっかしい。寝室の扉が開く音を聞くやいなや飛び起きたシロは、古いタオルケットを端に押し退けてじぃっと黙って階段下に陣取っている。鱗道が足を滑らせようものならクッションになるつもりなのだ。自身の役割に迷ったクロは結局、コタツの上に着地した。
「……ぉう、おはよう」
鱗道の掠れた声はもはや擦り切れた和紙のようである。三白眼の白目は充血し、痰が絡むのか呼吸音は溜め息交じり。一方で日に当たらぬ血色不良の肌は、皮肉なことに健康的に見えるほどの赤みを帯びている。
『あー、ダメだね。鱗道、ダメだったねぇ』
シロは口を閉ざしたまま、すんすんと囁くような鳴き声で嘆いた。鱗道は綿入れ半纏に身を包んで階段を下りきり、シロが足下にすり寄ったときにはゆっくりと見下ろして、
「ダメか……やっぱりダメか……あー……お前は冷たくて気持ちいいな……」
と、苦く笑う。発熱によるふらつきから、壁に手をつきながら冷蔵庫に辿り着くのもようやくの様子だ。危なっかしい挙動で麦茶を注ぐ間、シロがずっと寄り添っている。ふらつけば支えるように、歩み出せば邪魔にならぬように。初めて直面する異常事態にコタツの上を歩き回るクロとは対照的である。
「……クロ……薬箱、持ってきてくれ……」
鱗道は二杯目を注いだグラスを両手で慎重に持ちながらコタツまでやってきた。コタツ布団に潜り込むもスイッチは付けず、傍らにぴったりと寄り添ったシロの後頭部に顔を押し当てる。ひんやりと冷たいシロの体に惹かれたのだろう。
「あー……気持ちいいなぁ……」
『鱗道、そのことなのですが』
クロはコタツから動かず、シロに埋もれていく灰色の頭を見つめた。
『この家に使用可能な薬はありません』
シロの耳の間から覗いた鱗道の焦点はぼやけて、クロで結んでいるとは思えない。焦点だけではなく、
「いや……ある……ただろ……消毒液とかと一緒に、入ってて……薬箱の中に……確か……あったよな……」
思考も回りきっていないようだ。クロは大きく嘴を横に振り、常と同じく淡々と、
『はい。薬箱の中には確かにありましたが、使用期限が数年前の物ばかりです。風邪薬に限らず、胃薬なども全て古い物のため使用は推奨されません』
クロが夜中のうちに確認した気がかりがまさにそのことであった。蛇神の代理仕事は全てが穏便に対話で解決するとは限らない。負傷は良くあることで、消毒液や絆創膏などは中年の一人暮らしにあるまじき早さで消費される。一方で滅多に風邪も引かず胃痛も起こさぬ健康な体は、他の薬をすっかり薬箱の肥やしにしてしまったのである。
鱗道が眉間に皺を寄せて、何かを言いたげに口を開いたが、発せられたのは盛大なくしゃみであった。素早く身を躱したクロはそのまま、鱗道が求めるだろうティッシュを片足に掴んで引き寄せる。
「……なんか……今日は、クロの声が……聞き取りにくいな……」
鱗道は掠れきった声で礼を言いながらティッシュを何枚も掴んで鼻をかんだ。鱗道と違い、表情に変化の付けられないクロは驚きながら、今度は先程よりもスピードを落として、
『なんと。体調不良の影響でしょうか。今一度、同じ内容をゆっくりと繰り返しましょうか?』
クロの言葉に鱗道は首を横に振る。聞き取りにくくとも内容はおおよそ理解は出来た、というのだろう。瞼を半分落としたまま、
「……買いにいかなきゃならんか……」
くず入れにティッシュを投げ込んだ鱗道は、気怠げに呟いて再びティッシュを掴んだ。汚してしまったシロの頭部を乱暴に拭き取るために。鱗道に頭を揺らされながら、
『ダメだよ。鱗道、すごく熱いもん。危なくて歩けないよ』
シロの声は珍しくきっぱりと咎めた。鱗道も自覚はあるのだろう、低く呻きながら再びシロの被毛に顔を埋める。
『猪狩晃に連絡を取ってはいかがです? あの男にならば病人食も頼めるでしょう』
クロが夜通し考え抜き導いた最善策である。が、鱗道は普段に比べてゆっくりと語られるクロの言葉に呻きながら顔を上げて首を横に振った。
「ダメだ……久々の長期休みとかで……家族旅行に……」
『他に連絡の取れる友人はいないのですか?』
「……青山は……嫁さんの実家に行ってるな……青木は……海外出張中で……」
鱗道の細まっていく目を見ながらクロは相槌を打つ。両方とも鱗道の昔馴染みであり、クロも何度か顔を見たことがある。青山は不動産業を営み、鱗道の実家や現店舗の売買に関わった。ふくよかな体型をしたえびす顔の人物であった記憶がある。青木は大手会社の営業職であるとかで、鱗道とは――青木は離婚歴があるが故の――独身仲間である。男性にしては小柄でほっそりとし、ミーハーな性分で猪狩とはまた違う方向で喧しい。
と、思い返していたところで鱗道の声が続かないことに気が付いた。鱗道は呻きながらシロの体に顔を埋めている。
『鱗道、他に心当たりは?』
クロが促したところで変わりはない。
『鱗道、貴方はもう少し交友関係を持つべきですね』
クロの嘆きとも諭しとも取れる言葉に、唸り声が多少変質したものの、結局言葉らしい物は返されなかった。