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シロが鱗道と散歩で訪れる商店街は通学路として利用され、平日休日問わずに時間帯によっては一般車両の通行止めが行われている安全な道である。加え、正月休み終盤となれば、S町全体が人通りも車通りも少ない。今日のクロにとっては貴重な幸福の一つである。
たいそう機嫌良く尾を振りながら歩くシロの頭上は酷く揺れた。自身に乗り物酔いが存在しなくて良かったと、これまた小さな幸福をクロは深く噛み締める。小さな小さな幸福を数多く集めて噛み締めでもしなければ、現状の居心地の悪さと釣り合うものは何もなくなってしまうのだ。
いくら人通りが少ないと言ってもゼロではない。商店街に足を踏み入れる前から通行人からは奇異の目が向けられていた。それはそうだろう。白い大型犬が一人、頭上に鴉を乗せて機嫌良く歩いているのである。しかも、その大型犬と鴉はリードで繋がれているのだ。クロが散策時に似たような光景を見れば凝視したことに違いない。そして鱗道に『異変あり』として報告しただろう。ただ、眼差しは受けども手を伸ばされたり、シロの進行を邪魔されたりもしなかった。これもまた、クロが噛み締める幸福である。天気がいいことも幸福か。そうして小さな小さな幸福を贋作の器いっぱいになんとか溜め込みながら、クロはひたすらシロの頭上で揺られ続け、ついに商店街に辿り着いた。
ここに来るまでの道中、一切の迷いがなかったことからシロが『知ってる!』と豪語したのは正しかったことが証明された。だが、鱗道が言っていたように「どうにかなる」ことは望みが薄い、というのがクロの印象である。商店街に建ち並ぶ店からあらゆる大人――店主に店員に客という面々が顔を覗かせている。その表情はやはり、当然、理解不能の類いであった。いつもは主人である鱗道とともに歩いている犬が一人で、しかも頭に鴉を乗せているのだから。
逃げてきてしまったのか、いやあの質屋の犬だから何かあってのことかもしれない、という囁き声をクロは聞き取っている。シロにも聞こえているはずだが、一向に構う様子はない。クロが感じている居心地の悪さなど、シロは微塵も感じていないのだろう。ぐるりと商店街を見回したシロは、ひゃんひゃんと例の歌を口ずさみながら、車両通行止めと書かれた看板の傍らを抜けて堂々と歩き出した。
『シロ、どこへ行くのですか』
クロはじっとシロの頭上に座り込み、嘴を開かぬままに問うた。こうして動かずにいることで珍妙な被り物であると思われて不可解な眼差しが避けられるのではないかと――現実的な考えではないが期待したのである。
実際、飼い犬に服を着せたり帽子を被せたりする飼い主は多い。鱗道がシロに服を着せようとしたことはなかった。『鱗道堂』が開店し三者三様に落ち着いた頃、猪狩が面白がって買ってきたハロウィンやクリスマスの仮装をさせたくらいである――と、思い返したクロの脳裏には体感とは違う記憶が混在していた。四月には桜や和菓子、五月には兜や鯉のぼりというような季節事の安っぽい被り物をシロが被って店頭に出ている記憶だ。買ってくるのは鱗道で、
「シロも子供に構って貰うと喜ぶだろ」
と言い、薄くにやつきながらシロの頭上に乗せている。そして、クロに操作説明を確認しながら、慣れぬ手つきで四苦八苦しつつスマートフォンで写真を撮るのだ。さすがにそのまま散歩に出たりはしないが、鱗道の季節事の楽しみとして定着しているような気がする。
『あのねぇ、まずはお肉屋さん! 鱗道が好きだから!』
クロの質問に、シロはすこぶる上機嫌に答えた。シロの選択が正しいかどうか、クロには判断出来ない。確かに鱗道は野菜を好まず、自炊と言っても味噌汁と時々炊飯する程度で、殆どを冷凍食品や惣菜で済ませている。特に大食いでもない独り身だとそれで充分だそうだ。普段の食生活として、健康面や栄養面に関して本当に充分に満たしているかどうかは、摂食の必要がないクロには分からない。一応、調べてみた限り、非推奨の食生活ではあるようなのだが。
正誤が分からない以上、普段通りを選択するのは悪くないと思う他にない。そう考えていたクロは、
『あっ!』
と、シロが足を止めて喜びの声を上げたことで前方を凝視し、自らの要である液体金属を硬く強く引き締めた。シロの視線の先では、遊びに行くか帰るかの道中であろう子供達が歓声を上げながら駆け寄ってきていたのである。
「シロだー!」
「えー! 本当だ!」
五人の子供達ははしゃぎながら、あっという間にシロを取り巻いた。シロは大きく尻尾を振って、ひゃんひゃんと鳴いて応えている。
「なんで一人でいるの?」
『あのねぇ、お使いしてるの!』
「きっと逃げてきたんだよ! やっぱりあのおじさん、魔法使いなんだ!」
『違うよ、鱗道は風邪ひいてるんだよ』
会話は当然、成立していない。クロはやはり耳を閉ざせぬまま、しかし先程よりも一層、身動ぎもせず置物に徹している。息を潜めてやり過ごそうなどという考えではなく、子供達に取り囲まれる初めての状況に驚嘆し、面食らっているのだ。
鱗道の店の前も通学路になっていて、登下校の時間になると多くの子供達が通っていく。子供達は店内まで入ってくることはないが、特に下校時であれば店先で腹を出したり飛びかかったりとしつつ子供達に『おかえり!』と声をかけるシロを取り囲んで撫で回すのはよく見る光景であった。その時、クロは店の梁や棚の奥、子供達にはけっして目につかない場所に身を隠している。子供は苦手だ。生まれた屋敷にも近所にも子供はいなかった。『鱗道堂』に居座って人間を観察し始めると子供特有の予測も想像もつかない動きと機敏さ、思慮の浅さに苦手意識を募らせてしまったのだ。
一応、二人までならば猪狩の子供達と接したことはある。が、その時は麗子や――意外なことに猪狩も、子供達にクロには適切な距離を取るようにと言って聞かせた。それでも、クロの苦手意識は改善されていない。そんなクロが三人以上の子供に近距離で囲まれる状況で、適切な対応が取れようはずがなく、
「ねぇ、シロの頭、カラスが乗ってるよ!」
「キラキラして綺麗! こんな近くで初めて見た!」
子供達の興味が、クロに移っていることに気が付くのに遅れてしまったのである。
「カラスに何かぶら下がってるよ」
「触っていいのかな」
等、という声が聞こえてきた時にはクロは酷く慌てた。実際の経験が少なくとも子供という存在が自身にとって天敵であることは理解している。シロの扱われ方を見れば一目瞭然、彼らは加減を知らないからだ。自己修復が出来ないクロにとって――元いた屋敷から数少ない予備を持ち出して貰っているが――羽の一枚でも折られてしまえば大問題である。
すぐにでも飛び去って逃げ出したい。が、鱗道がシロのリードをクロの足にしっかりと結びつけている。子供の手が届かぬ高さにホバリングすることは出来ようが、結ばれているリードを引かれれば――血や背筋の代わりに液体金属が凍るような気分だ。
『クロ、ちゃんと掴まってて』
凍り付く表面を一撫でする日だまりのような、周囲の子供達と大差ない語調の〝彼方の世界〟の声。液体金属に宿った意思存在が直接聞き取った声に、クロは反射的に両足の爪でシロの被毛をしっかりと握り込んだ。
己で飛翔するのとは異なる浮遊感。大型犬の体躯が後ろ足二本だけで立ち上がれば、クロの視線は軽々と子供達を見下ろす高さまで上昇する。子供達は再び歓声とも悲鳴ともつかない声を上げてシロの周囲から数歩離れた。子供達の声を聞いて囁き合っていた店の大人達が集まり出す。シロは、周囲から子供が離れて安全になったと見るやゆっくりと前足を下ろした。そして一言、強く、ヒャン! と鳴いた。
子供達にとってはただの鳴き声である。シロが四つ足をつけば首を傾げながら近付きだす。そのうち誰かがまたクロに向かって手を伸ばそうとすると再びシロが立ち上がって――
『ダメ!』
と、やはり強くヒャン! と一喝した。
シロが大きく立ち上がる姿は子供達を驚かせも楽しませもしたようだが、何度も繰り返すうちに、
「ねぇ、カラスに触ろうとするとシロが立つよ」
「嫌がってるのかな」
と、ひそひそ囁き合いだした。それを聞いたシロは、
『そう。クロは触られるの嫌だからね。だからね、ダメなの』
と、ひゃんひゃんと会話に混ざりだす。ここに集まっている子供達の中には〝彼方の世界〟の声が聞き取れる者はいないらしい。言葉が分かるわけではないのだから会話が成立するはずもないが、
「そっか。カラスはシロの宝物だから触っちゃダメなんだね」
『大体あってる!』
シロは満足そうにヒャンと吠えた。クロは思わず頭を振ったが、
『いいえ、事実と大きく異なっています』
クロにはシロと違って子供達に聞き取って貰える声すらない。訂正の機会すら与えられず、
「動いた! 生きてた!」
と、定番の驚嘆を向けられ、
「そっかー、キラキラしてるの大事だもんね」
「お母さんもアクセサリーとかお化粧品とか、勝手に触ると怒るもんね」
勘違いとすれ違いが生じたまま、
「わかったよ、カラスには触らないね」
クロの身の安全は確保されたようであった。
子供達はクロをまじまじと観察すれど手を伸ばして来ない。クロが微動だにしないでいれば、子供達の興味はまたすぐに移っていった。撫でればふわふわの毛並みで迎え入れ、尻尾を掴んでも怒らず、手を出せば舐めたり鳴いたりと反応があるシロの方が子供の欲求を満たすのだから。
「ねぇ、ねぇ、カラスにぶら下がってるのは、何?」
ひとしきりシロを撫で回し弄り回した子供達の中からそんな声が上がったのは、クロが自身の安全が確保されたことを確信した頃であった。そういえば子供達がクロに興味を示したときにも、クロの首にぶら下がっているものは何かと疑問を口にしていたことを思い出す。ホワイトボード以外の何物でもなかろうと思っていたが、改めて確認してみればホワイトボードは裏返ってしまっていた。道中の揺れか、子供達に手を伸ばされたときのゴタゴタでかは定かではないが。嘴や足を使って表に返すと、子供達の視線はホワイトボードに集中した。
「これ、漢字だね」
「習ってないね」
首を傾げて語り合う子供達に混ざるように、
『鱗道ね、風邪を引いたの。だから僕達、お使いするんだよ!』
シロがひゃんひゃんと鳴いて会話に参加する。だが、当然ながら進展はない。鱗道が朦朧としながら書いて読みにくく、学習前の漢字を見て子供達は首を傾げるばかり。シロはめげずに説明しようと試みるもひゃんひゃんと鳴いてばかり。
クロは強い決意の元に翼を広げた。力強い羽音と殆ど動かなかったクロの挙動に子供達は一斉に顔を上げてわぁ! と声を漏らす。注目を集めたクロはシロの被毛をかき分け、首輪とは異なる紐を咥えて引いた。引かれる紐に合わせてじゃらじゃらと、シロの胸元から音が立つ。
一人の子供がシロの被毛から、埋もれていたがま口を引っ張り出した。
「お財布だ」
さらに別の子供が、がま口とホワイトボードを見比べて、
「もしかして、お使いしてるの?」
と、シロとクロの顔を往復する。返事をしたのはシロである。
『そう! お使いしてるの! すごいでしょ!』
力強い言葉とヒャンヒャン! という鳴き声。小さな小さな歓声は波のように大きく膨れ上がって、
「すごーい! シロ、お使いできるんだ!」
「昨日、テレビでやってた奴だ!」
と、商店街中に届く声で騒ぎ始める。意図は伝わったが想像以上の反響にクロが身を強張らせていると、人集りの密度が高まっていく。シロや子供達を見守っていた大人達もお使いという言葉に反応したようでついに輪に加わったのだ。
「ああ、なんだ。鱗道さんのとこ、風邪だってよ」
「あら、大変。それにしてもシロちゃんにお使い頼むなんてよっぽどのことだわ」
「テレビでやってたからだろうな。ちょっくら薬屋のばぁさんに可愛い客が行くって言っといてやるか」
服屋に花屋に魚屋に。店先の出で立ちそのままで、大人達は子供達の頭上からホワイトボードを覗き込んで口々に語り出す。奇異の眼差しなどすっかり失せて、シロやクロがここに居ることが当然であるかのような空気の変化に、クロは先程までとは違う心地の悪さを感じていた。非日常として扱われるよりはかなりマシであるが、
『……素晴らしく寛容な方々ですね』
『うん! みんな優しいよ!』
シロの返事は快活であった。もっとも、クロの言葉には呆れや少しの皮肉が混ざっているが大半は感心が占めている。これも蛇神が治める土地柄が関係しているのかと思ったが、
「ま、鱗道さんとこは昔から変わってたから。今更だな」
と、言う声に好奇心が疼く。飼い犬を使いに出すという行動が、「今更」の一言で片付く昔からの行いとはこれ如何に――という疑問は解消されまい。
花屋の店主が子供達に、
「ほら、お使いの邪魔をしちゃダメよ」
と促せば、子供達は素直に、
「シロ! カラス! 頑張ってね!」
「ばいばーい!」
と、応援と別れの挨拶と共に素早く去って行く。子供の波が引いた後も、商店街の空気は暖かであった。イヌとカラスの始めてのお使いを歓迎するムードに様変わりし、視線も遠巻きながら見守る視線となっている。
『……ここまで伝わったならば、私達は待機し、代わりに全て調達してきて貰えないものでしょうか』
クロの考えは、
『ダメだよ! 僕たちのお使いなんだから! ちゃんとお店に行くの!』
と、シロの鼻息荒く意気揚々とした声に素早く否定された。
『別に、怠惰から出た言葉ではないのですが』
シロは長く人々の集落と共に生活してきた元イヌかつ現霊犬であり、社会性を有しているしているようだが、クロが衛生観念を懸念している事までは思い至らないらしい。最も、シロの初めてのお使いを受け入れている商店街ならば、その線引きは店ごとに行ってくれることだろう。