-06-
無事、思考の沼から抜け出せたのは、シロの歩みに合わせて見えてきた薬局のおかげである。クロは思わず声を上げた。商店街のほぼ出口にあるこぢんまりとした薬局の外観は真新しい白塗りと草木の模様が描かれて近代的なものだ。掲げられた看板には黒松薬局と柔らかなフォントで書かれている。自動ドアの横にいるオレンジ色の象の日焼けが昔からここに居たことを主張していなければ、最近開かれたばかりと錯覚するだろう。店先には小さな椅子が置かれていて、老婆が一人腰掛けていた。
「うふふ。いらっしゃい」
暖かな上着に身を包んだ老婆は両手を膝に置き、上品な笑顔を浮かべてシロとクロを出迎える。シロが尻尾を大きく振りながら、
『こんにちは!』
と、ひゃんと一吠えすると同じく、
『シロ。黒松殿の前に座ってください』
と、クロが言った。シロは不思議そうに首を傾げかけ、クロの足が被毛を強く掴み直すのを感じ取って慌てて頭の向きを止めた。クロに言われた通り老婆の前に座りながら、
『クロ、おばあちゃんのこと知ってるの?』
と、問う。クロは商店街のことを知らない筈であるのに、老婆の名を言ったのがシロには不可解なのだ。
『ええ。彼女は私の希少な友人です』
クロは得意げに言うと、嘴を高く掲げ、
『こんにちは、黒松殿』
ゆっくりと下ろして、一礼を真似る。すると、
「ええ、こんにちは、クロちゃん。今日はお店に来てくれたのね」
黒松もゆっくりと礼を返した。視線だけで二人を見比べるシロの声には、
『おばあちゃん、クロの声が聞こえてるの?』
と、驚きが満ちている。黒松はにっこりと微笑んだまま、シロの鼻先にそっと手を伸ばした。
「シロちゃんもこんにちは。今日はお使いなんですってねぇ」
シロは鼻先をぴったりと黒松の手にくっつけたが、自身の疑問に返答がなかったことを不思議がっている。
『残念ながら黒松殿に私や貴方の声は聞こえていません。詳細な説明は省きますが、私は黒松殿と試行錯誤を重ね、ジェスチャーを用いたある程度の意思疎通を可能にしたのです』
黒松に代わり答えたクロの声は非常に得意げであった。黒松の上着には松葉をかたどったブローチがつけられている。神社での交流を重ねていくうちに、黒松が小さな雑貨屋で見つけたのだと着けてくれるようになった代物だ。シロの鼻先を撫でた黒松の手が大事そうにブローチに触れるのを見て、クロは贋作内の液体金属に膨張感を覚えている。胸がいっぱいになる、というのはこういった感覚なのだろうと解釈を持ってのことだ。
『なんか、クロ、すごいねぇ!』
シロの声は単純な尊敬に満ちているのでクロは嘴を高々と掲げかけた。が、それを堪えきる。黒松との意思疎通には音の回数の他に嘴の動きも使用していた。無闇に嘴を振り回せば意図しない意思が伝わってしまいかねないのである。
様々な感慨に浸っているクロと、おとなしい二人を見て微笑むばかりの黒松にじれたのはシロだ。前足で地面を掻いて、
『ねぇ、お店の中に入らないの? おばあちゃんもお使いって分かってるのに』
と、自動ドアに頭を向ける。黒松は幼子に言い聞かせるように、
「ちょっと待っててね、シロちゃん」
と、言ってゆっくりと立ち上がると、自動ドアの前に立った。ドアが開いても黒松は中に入らない。店内に向けて「来てくれたわ」と声をかけただけである。シロが立ち上がりかけたのを、クロは毛を掴むことと声をかけることで制止した。重ね、諭すように、
『この商店街では貴方はただのイヌですし、私はただのカラスです。店内に入ることは衛生観念上好ましくありません』
えーせーかんねん、とシロが棒読みで繰り返したので、やっとこの話が出来ると思い、
『鱗道達が土足で歩く地面と靴を脱ぐ生活空間は健康維持や清潔さの観点からきっちりと分けることが好ましいとされ、衛生を疎かにすることは食料品や医薬品を扱う店舗などでは特に忌避されるべき項目であり――』
と、つらつらと語り出したが、早々にシロから理解が追い付かないことを表す、はぁともうんとも言えない声が上がったので切り上げた。さて、どこまで噛み砕こうかと考え直し、
『家では、貴方は足を拭いてから居間に上がるように言われていますね? お店はかなり綺麗にしなければなりません。鱗道の店は家と地続きなので少し緩いのですが……食料品や薬を売っているお店は特に厳しいのです』
と、クロ自身の感覚ではかなり簡潔にまとめてみせた。シロからすぐに返事はなかったが、しばらくして、
『そういえば、鱗道が買い物するときも待ってろって言う。お家はいいのになんでだろって思ってたけど、そっか、えーせーかんねんの問題!』
シロの言い方に不安は残れど、クロはこの返答で妥協することにした。シロに説明するときは声が届かない場合とまた異なる意思疎通の困難さがある。
店内に向けて声をかけてから、再び椅子に座った黒松には、二人がおとなしく店先で待っているように見えていことだろう。黒松は目を細めて、
「クロちゃんもシロちゃんも、本当にいい子ねぇ」
と、言いながら痩せた手をクロの首に提げられたホワイトボードに伸ばした。
「だから鱗道さんも安心して送り出せるのね。お薬と飲み物は、息子が準備してくれてるからね」
クロは黒松の言葉を聞き終えてから、嘴を一度だけ開閉させた。イエスの返答は黒松も承知している。そして、黒松はシロの紺碧の目としっかり目を合わせてから、
「お使いなんて偉いわねぇ、シロちゃん。もう少しだけ待っててね」
と、幼子に向ける口調ながら語りかけた。シロは普段通り、
『うん! 偉いでしょ! だからね、ちゃんと待ってる!』
ヒャンヒャンと鳴いて返す。黒松はシロが単なるイヌでないことを――シロが自身の言葉を理解していることを承知している故に、もう一度、
「本当に、いい子ねぇ」
と褒めながら、シロの目の間から鼻先までをゆっくりと撫で下ろした。
「今年のお正月は暖かかったり、寒かったりしたものねぇ。クロちゃんもシロちゃんも気をつけるのよ」
『私もシロも病とは無縁ですが』
と、言うクロの呟きは黒松に聞き取られない。分かっている上での呟きである。人は時折独り言を漏らすものだ。クロが嫌う無駄な行為であるが、昨今、呟かずにいられないこともあるのだという理解が深まっている。
『黒松殿、貴方もどうぞ、お大事になさってください』
クロは、シロの鼻先を撫でる黒松の手の甲に嘴の横を擦り付けた。シロが親愛を示すときの行動を真似たものである。カラスを模した体では人間の仕草を真似るよりも動物の仕草を真似た方が伝わりやすいのだと、黒松との遣り取りで学んだのだ。
「私の心配をしてくれてるのね、ありがとう」
クロの意思は無事に黒松に伝わった。クロは黒松の薄皮一枚であろうとも挟まないように慎重を期しながら嘴を鳴らす。〝此方の世界〟も〝彼方の世界〟も耳が遠くなってしまったという黒松にもクロの嘴が立てる鋭い音は聞き取りやすい。それだけでなく、こうして触れて鳴らせば震動でも伝えられる。黒松の嬉しそうな笑みを聞いて、クロは強い満足感を覚えていた。
しばらくすると自動ドアが開き、中年――鱗道より少し年上で、黒松の面影がある男性がビニール袋を片手に顔を出した。黒松はシロとクロに、自身の息子であると紹介する。店はすでに息子に継がせていて、黒松は時々顔を出すだけなのだ、と。イヌとカラスに丁寧に紹介された息子は呆れ顔を浮かべている。黒松と違い、〝彼方の世界〟を感じ取る力は受け継いでいないようだ。
「お金はどうしたらいいのかしらね」
「鱗道さんとこって分かってるから、ツケでもいいけど」
と、黒松親子が顔を見合わせているのを聞いたシロがヒャンヒャンと吠え立てた。
『お金! お金あるよ!』
シロの鳴き声とほぼ同時に、クロはシロの背中に飛び移って被毛に埋もれたがま口の紐を探し出した。子供達に囲まれたときと同様に何度か引けば小銭の音が立つはずである。だが、どうにも音は湿っていた。おや、とクロが思うのと前後して、がま口に気が付いた黒松の息子が手を伸ばしたが、
「うわっ、なんだ。濡れてるぞ」
と、呻くように言った。
「あら、あら……シロちゃん、よく見たら前がびしょびしょね。どうしたのかしら」
黒松が続けた言葉に、嗚呼、とクロは回想する。肉屋の前で池を作らんとばかりに流れたシロの涎。路面に作ったのは水たまり止まりであったが、水たまりを作るほどの涎が出てしまっていたのだ。滝として胸元を濡らすには充分な量と時間があったのだろう。シロの口元から濡れていることで、黒松親子も財布を濡らした原因はすぐに思い至る。と、なれば、当然、がま口を掴んだ手は引っ込められて、
『お金、お財布に入ってるよ?』
不思議そうに首を傾げるシロだけが取り残されてしまう。
霊犬の涎が現実のがま口をしとどに濡らすというのも不思議な話であるが、実際そうなってしまったのだから致し方ない。シロの抜け毛がすぐに消えてしまうことを考えれば、がま口も中身も単純に濡れたときより早く乾くだろうが――
『シロ。財布は貴方の涎で濡れて、汚れてしまったようです』
『えっ、お財布汚れちゃったの?』
『ええ。そして、貴方は先程学びましたね? お店は綺麗でなければならないのです』
『うん! えーせーかんねん! ……あっ』
シロの尾も耳も力なく垂れ下がった。シロは難しい話を苦手としているが、学んだことをすぐに忘れるほど愚かではない。だからこそ、今この場での支払いが不可能であることを遅れながらも理解したことだけは、
『……貴方が正しい結論を導いたことは素晴らしいことだと思いますよ』
褒められてしかるべきである、と、クロは心底から思っての言葉を紡いだ。