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 注射筒に吸い上げられる。これがどうやって、どのようにして、視覚情報や聴覚情報を得ているかは私でも分からない。注射筒の持ち主ですら正確なことを理解していない故である。それでも私は注射筒の中からそれを見ていた。一羽の鴉、めいた贋作。神も同種生命も介さずに、たった一人の人間によって作られたもの。どこから針が入れられ、どこに向かって注がれたのかは分からない。私は充分な量で贋作の中を満たし、流動した。多くの鉱石と金属の機構を動かし、情報を受け取り、反映させる。
 鴉の贋作の視覚機構を通じて見る世界は鮮明であった。機構を把握し、首を動かし、翼を動かし、足を動かした。彼はそれを見て大きな声を上げた。欣喜雀躍、歓欣鼓舞、有頂天外、狂喜乱舞。そのどれか一つでも足らず、全てを合わせても届かぬほどの歓喜であったことが今ならば分かる。「生まれた! 生きてる! 生きてるんだ!」とはしゃぐ姿は後に文献で知った子供のようであった。
 しかし彼の歓喜は数日と保たなかった。なにせ、私は彼に語る術を持たず、彼に伝わる体温もなかったのだ。動くだけであればネジ巻き玩具と変わらない、と彼は顔を伏せることが増えた。私を見なくなった。この世の頂点まで上った歓喜の失墜速度も落下エネルギーも元の高さに比例して強く彼を打ち付けた。床や机を爪で掻き、彼は書斎の机や椅子に溶けるように身を沈めて恨みを紡ぐように私に言った。
「お前は生まれてもいないし、生きてもいない。失敗作だ。何物でもない。ただの贋作だ」
 彼の言う通り、私は動くだけの一つの鴉の贋作であった。彼が目指した「生き物」ではなく、ただの物体である。
 彼は屋敷に一人きりになり――否、前から彼は一人きりだったのだけれど――動くだけの鴉である私を肩に乗せて屋敷の中を歩くようになった。病が進んだ彼の歩みは非常にゆっくりとしたものである。彼は私に語り続けた。まるで私が「生き物」であるかのように。しかし、話の最後にはいつも、
「失敗作の、生き物ではないお前に話したところで、全て無駄だろうな」
 酷く陰鬱に、肩を落とし、語るのである。
「この屋敷に生き物はいない。私もすでに生き物ではないのかもしれない。此処は贋作の屋敷だ」
 私は彼以外の「生き物」を殆ど知らなかった。ネズミや虫などを見掛けるが、それは「生き物」かと問うことも出来ず、密封された鴉の贋作の中でひたすら問答を繰り返していた。「生き物」とはなんであるか。どのような定義をされているものなのか。彼は、私は、「生き物」ではないならば、何者であるというのであろうか。
 彼が姿を見せなくなり、多くの人間が出入りをしては去りて、稀に何者かが此処以外の部屋に出入りをしているような音を聞き、そして、
「独り言のつもりだろうが、生憎、俺には聞こえてる」
 奇妙な「生き物」達が足を踏み入れたその時まで、たった、一つで。

「――いいって、この程度。つーか麗子から電話来てんだよ、ちょっと外出てるぞ」
 触角と聴覚を兼ねている振動を感知する機構が真っ先に働き始めたようである。が、触角として振動を感知したわけではなく、音の振動を感知しているのだから聴覚が真っ先に動いた、という方が正確だろうか。否、それらは常に関知し続けているのだから受容体である液体金属、もしくは其処に有る意思存在である私が認識し始めたとすべきだろう。と、すると先程までの回想はこの身体を構成するどの機構にて行われた物であったか――などと、クロの思考はすでに巡り始めていた。
「おい、止めとけ。下手に舐めるとまた文句言われて毛を毟られるぞ」
『だってクロ、ずっと動かないよ。どうしたの? 死んじゃったの? クロは寝ないのに死んじゃうの?』
「縁起でもないことを言うな」
 聞き慣れた鱗道とシロの言葉を聞きながら、クロは視覚機構の情報を受け取り始めている。この感覚自体は幾度も経験があった。外部からの光を取り入れる鉱石部分を覆われることや真の暗闇に閉ざされることでもクロの視力は簡単に奪える。だが、現在の視力の取り戻し方は、それらと微細な感覚のズレがあった。先程の回想といい、比較するならば初めて鴉の贋作に入れられて視覚機構から情報を受け取り鮮明な映像を認識した時が最も近い。もしくは、これがクロにとって初めて体験する、
『私は死んでいたのですか?』
 蘇りであろうか、などと考えた己の思考にクロは自ら首を傾いだ。一般的な生き物は死より蘇ることはない。それは生き物の世界では絶対の摂理だ。だが、例えばシロは死んだ生き物であるという。ではシロは蘇ったのか、と問うた時に鱗道は十分以上考え込んでから「分からん」と言った。
 開けた視界と明瞭化してきた触覚の情報から吟味すると、クロの身体は今、ちゃぶ台の上に仰向けにされているらしい。クロが発した生き物ではない声に、ちゃぶ台の横に座っていた鱗道とシロがクロを覗き込んでいる。先程傾いだ首を再度動かすと、
『クロ!』
 ちゃぶ台の上を背から翼、腹と順番に擦るのを一回以上繰り返し、最後は腹這いとなってちゃぶ台の端でクロの身体は制止した。今の不可解な横転運動の切っ掛けがシロの鼻先であったことにクロが思い当たるには少しばかり時間がかかる。まだ、本調子という状態には到っていないのだ。
『……新鮮な体験ですね』
『わぁい! クロだ! おはよう! おはようでいいのかな? まぁいいか、楽しかったならもう一回やる?』
「シロ、止めろ。おい、大丈夫か、クロ」
 シロの鼻先を押さえながら、クロがちゃぶ台から落下しないように手を差し出していた鱗道がクロの目を覗き込む。クロは鱗道の顔を視界に受け止め、問いを聴覚で聞き取り、腹這いの姿勢より立ち上がった。少しばかり緩慢な思考とは正反対に、身体には僅かな引っかかりも不備もない。すっとちゃぶ台の上に立ち上がると、翼を一度大きく広げて見せた。当然、バランスを崩すこともない。
『ええ、問題ありません。鱗道』
 翼を畳んでから足、それから嘴や首といった身体の制動を実際に動かして確認した後に出した結論であったが、
「……身体だけじゃない」
 鱗道の声には不服さが滲んでいた。
「お前は大丈夫なのか?」
 分かっているはずだ、と念を押すように鱗道の語調は強い。クロは改めて鱗道を見上げた。四十余年が経過した皮膚や顔の筋肉、重ねた経験、社会性や共感、性格などといった複数の要素から組み上がる人間の表情は複雑であり、理解しきることは非常に困難である。特に鱗道は感情が顔や声には出にくい人間である。それ故に、顔に出る場合は人間社会やコミュニケーションを学んでいる最中のクロにもはっきりと分かる形で現れた。
『……ご心配をおかけして申し訳ありません。鱗道』
 この言葉だけで鱗道が納得していないこともクロには伝わっている。それでもクロは次の言葉に一拍以上の間を挟んだ。姿勢を整え、正面に鱗道をしっかりと見据える。これからクロが発する言葉による鱗道の表情を観察したかったのだ。
『正直に申し上げて動作に問題はないのですが、私自身の状況把握に一部不備があります。また、貴方に問わねばならないことも』
 鱗道が相手を心配する表情の大半はシロに向けられることが多い。見慣れてはいるが、その表情がクロに向けられているのは数少ない機会であった。クロの流暢な言葉に対する不満げな表情は、時折見掛ける表情である。
『私は、本当に呪われていたのですか?』
 クロの問いに鱗道は表情をはっきりと曇らせた。クロから明確に視線を外し、奥の歯を噛むように痩せた頬が引きつっている。その表情は、対人間――多くは客である人間に対して見せることのある表情であったが、クロやシロに向けられることは殆どなかった。
 つまり、問いの答えは半分以上返ってきた、ということである。
『鱗道、貴方は』
「グレイ! 悪ぃが俺は帰るぞ! 麗子の奴、俺が勝手に居座ってると思い込んでて、このままだとマジで飯抜きにされちまう……」
 勝手口が開き、涼しくも新鮮な風が居間に流れ込んだ。一方、扉を開けた勢いに反して今にも崩れ倒れかねない程に疲弊した面持ちの猪狩が、のろのろと携帯端末をズボンのポケットに押し込めながら顔を上げた。
「……お? クロ、生き返ったのか。大丈夫か?」
 猪狩の目に見つめられたクロが二歩ほどちゃぶ台の上で後ずさりをする。しかし、飛び去りはしなかった。こん、と嘴がちゃぶ台の上を一度叩く。猪狩はそんなクロの様子を見て、子供っぽく明るい笑みを浮かべた。
「猪狩、お前も縁起でもない言い方をするなよ」
「他に適当な言い方がねぇんだから構わねぇだろうよ。クロが大丈夫なら、もう安心だな」
 丁寧に靴を履き直す猪狩に鱗道が、帰ったら一応塩を撒け、何かあったら直ぐに来いと言葉を投げている。猪狩からは明確な言葉はなく、ひらりと上げられた左手だけが返事代わりであった。真っ青なシャツの左袖は肘から下が黒く変色している。手の甲には未だ血の滲む爪痕が幾筋も走っていた。クロは嘴を開いたが、そこより発せられる声はなく、声を発する機構もない。猪狩は靴を履き終えると身軽に飛び出して、勢いだけで扉を閉めていった。
『猪狩、すごく走ってる。お腹空いたんだねぇ』
 静かに嘴を閉ざしたクロの横で、すっかり元気を取り戻したシロが尻尾を揺らしながら暢気に言った。耳がピンとまっすぐ立っている。
「アイツの場合はそれだけじゃないが……まぁ、今回は俺が迷惑をかけた側だ。ちゃんと礼を言いに行かないとな」
 鱗道は呆れとも安堵ともつかない言葉と表情を、慌ただしく友人が閉めていった扉に向けた。灰色の髪を掻き混ぜた手があぐらをかく膝に落ちる。
「クロ」
 それから、酷く真剣な表情をクロに向けた。クロはそれを、やはり真っ正面から見据えて受け止める。
「お前の質問にも答えるが、まずはお前に何があったのか……お前が何をしたのかについて聞かせてくれ」
『了解しました。ですが、貴方が食事を取りながらにいたしましょう。短く話すことは困難な箇所がありますし、私も内容を精査、整理する時間を頂きたいですから』
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