鱗道とシロが猪狩の車に揺られているのは、シロにまつわる一件の時に猪狩が言いかけていた「とある廃墟」に関係してのことである。当初はシロを連れてきたことで再び慌ただしくなった鱗道が落ち着いた頃に取り掛かろうとしていた話であった。しかし迎えたこの日は数ヶ月越しの季節もずれ込んだ秋口である。
と、言うのも、シロを連れて来てほどなく、猪狩の妻、麗子が無事に長女を出産した。妻の初産にあたって猪狩も暫く仕事を休んでいたが、育休などと言う言葉が出回る前となれば男が長く休んでいられない時期である。日本中を駆け回る情報業で家を空けることが多いことも関係し、退院後の母子は揃って麗子の実家で世話になることが決まった。そうなれば必要な道具の準備や移動、運搬、方々への挨拶回り――それらが済めば、休んでいた分を取り返し、かつ取り組むべき仕事にと猪狩は奔走し続けた。片付く目処が立ったからと鱗道のところに顔を出した時にはあの猪狩が痩せたように見えたのもあって、流石に少し休めと言い聞かせている間に夏の気配はすっかり消え去っていたのである。
秋口といえど紅葉が始まるにはまだ早い。しかし、日差しからは焼け付くような熱もない。山の緑も心なしか艶めいておらず、落ち着いた色を深めているようだ。駅を抜けて山間部の別荘地へと向かう道は、鱗道達以外に走っている車がない。避暑には遅く、行楽には早い時期だからだろう。
「シロ、また顔が出てるぞ」
『はーい』
鱗道の言葉に合わせた子犬のような返事を聞き、後部座席に引っ込む頭をバックミラー越しに見た猪狩が高い口笛混ざりに話し始めた。
「言葉が通じる犬ってのはいいよな。まぁ、普通の犬じゃない分、面倒なことも多そうだけどよ。海で遊んでやった時も妙に興奮したもんな――あれが、お前の言ってたケガレが云々とかいう奴だったんだろ? シロが普通の犬じゃねぇってのにちゃんと納得したのはあの時だったな。ありゃぁ、驚いたぜ」
「俺にとっては、こんなでかい犬が宙を舞った方が衝撃だったよ」
誇張もない事実だ。その日、シロは宙を舞ったのである。宙を舞わせたのは深い溜め息をつく鱗道――ではなく、そうか? と他人事のように言った猪狩だ。
H市の環境に慣れさせるため、鱗道は事あるごとにシロを散歩に連れ出した。何もかもが新鮮に映って楽しんでいるシロであったが、一番気に入ったのは海である。夏という季節もあってしょっちゅう海へ足を運んで、寄せる波を相手に遊んだり、岩場のカニやヤドカリを追いかけて突いてみたりと、夏バテ気味の鱗道を差し置いて連日海を満喫していた。
そんな時、たまたま通りがかった猪狩が車を降りて声をかけてきた。聞けば仕事明けで久し振りに家で寝るところだ、等と言う。夕暮れ、と言うには早いが日は傾き始めている時刻だ。労う鱗道の横から、シロがこれもまた最近お気に入りのロープ玩具を咥えて猪狩の前に差し出しす。疲れているのだからと咎めようとした鱗道であったが、当の猪狩は少しだけだぞとロープの端を手に取った。
一匹の大型犬と一人の大柄な男によるロープの引っ張り合いは見事に拮抗した。砂浜にてシロの大きな体躯を駆使した全力で引っ張られれば、はっきりいって鱗道では勝負にならない。だが、猪狩は上手くシロの力をいなしているようで、徐々に波打ち際に寄せられながらも一歩も引けを取らずにいる。見た目にも目立つ二人のロープ勝負は、散歩中の地元住民や海から上がったサーファー達、観光客などがギャラリーを作る程の名勝負に発展してしまった。だが、それほどの名勝負が続いてしまったことが不味かった。
ギャラリーの中でただ一人、鱗道にだけ分かる感覚であろう――シロが内包する穢れが動き始める気配など。これ程離れているというのに、急に溶け始めた鉄のように重く熱い塊がシロの中から感じ取れた。遠目ながらも紺碧の目に、うっすらと朱色が滲み出すのも確認が出来る。ロープの引っ張り合いが本能を煽ったのが原因であろうか。鱗道が止めねばと立ち上がって駆け寄ろうとしたのに前後して、シロの鳴き声にも変化があった。子犬のような唸り声が、地を割って這い出してきたかのような低いものに変わる。
後に聞いたが、ロープを引き合う猪狩にシロの目に浮かぶ朱色は見えていなかった。だが、声の変化とロープを引く力が増したこと、ロープに食い込むシロの牙が食い千切らんばかりに立てられていることで、危険信号は受け取っていたそうである。
シロの唸り声が、その日一番強く喉から放たれ、シロはロープを咥えたまま猪狩にのしかかるように身を躍らせた。猪狩はシロの襲撃を避けると、ハンマー投げでもするようにシロの勢いをそのまま乗せて海の方へ振り抜いたのである。真っ青な空にロープを咥えたままの白い犬が、フリスビーのように回転しながらこれまた真っ青な海に落下していく。水柱が上がった直後は静まりかえって息を飲み見守っていたギャラリーであったが、海からぐっしょりと濡れて二回りほど小さくなったように見えるシロが全身を震わせて水をふるい落とし、尻尾を振って見せた事で大きな歓声が上げられることとなった。
『海! あれね! 楽しかった!』
ひゃんひゃんとシロが楽しげに鳴き、楽しげに語るので鱗道の溜め息は一層重くなった。夏とは言え冷たい海に落ちたことでシロの頭はすっかり冷えたらしく、鱗道の元に返ってきた時には穢れの動きはすっかり鎮まっていた。その時のシロの感想も今と同じようなものだ。大事には至らなかったものの、シロが抱える穢れは鱗道が思っていたよりも些細な切っ掛けで反応することを思い知らされたのもこの一件からだった。
「おい、グレイ。シロの奴、なんて言ってんだ?」
「楽しかった、だそうだ……俺は未だに受け入れられんよ」
穢れの厄介さを噛み締める切っ掛けとなった一件でもあるが、それに匹敵するほど衝撃的な光景であったのが宙を舞う大型犬と宙に舞わせた友人であった。鱗道にとっては目を疑う光景であったし、話を聞いたところで簡単に受け入れられる出来事ではない。二つの衝撃が重なったからこその心労の重さである。
勝手に集まっていたギャラリー達が好き好きに解散する中、鱗道一人が血の気が引くような思いを味わっていたことなど誰も知るまい。一歩間違っていれば昔馴染みの友人か面倒を見ると引き取ってきた犬のどちらか、または両方を失うことになっていたのだと考えなければならなかったことなど――
「苦労人だよなぁ、お前は」
分かっている、と言うような猪狩の言葉に鱗道は視線を上げた。後部座席のシロは座席シートの隙間から鱗道の首筋に鼻先を当て、すぴすぴと鼻を鳴らす。鱗道はやはり溜め息をついた。先程よりも重くない溜め息だ。この二人が分かっていたところで、鱗道の心労を回避してくれるわけではない。それでも無自覚のまま振り回されるのではなく、多少の労いがあるだけマシかと思えてしまったのだから、鱗道自身もなかなかの物好きということだ。
「……そんなことより、猪狩、詳しい話を聞かせてくれ」
助手席に深く体を沈めながら、鱗道は視線をうねる車道に向けた。横は代わり映えしない山の風景が続いている。そちらばかり見ていれば眠ってしまいそうだ。
「詳しい話も何も、なぁ」
猪狩の言葉は珍しく歯切れが悪い。考え込んでいるような雰囲気から察するに、話は複雑なようだ。どこから話すべきかを決めかねているらしい。
「お前を連れて行こうってんだから、ただの廃墟じゃないってことは流石に察しがついてるよな」
ああ、と短く返事をする。猪狩が話を持ち出してから、ゆっくりと詳細を聞く機会はなかった。互い違いに落ち着かない日々であったのだから仕方がないとは言え、鱗道がここまで何も知らされていないのは珍しいことだ。
「結局、別荘地にある廃墟に行く、ってことしか聞いてない」
「そうか。それくらいしか話してなかったか」
さて、とやはり少し考えるような短い沈黙が降りた。とんとんと規則的に指がハンドルを叩いている。山道にはカーブが増えてきて、後続車もいない猪狩の車はスピードを落としてゆっくりと慎重に道を進んでいく。運転に気を払っているからか、言葉はどうしても途切れがちだ。
「その廃墟――屋敷は……簡単に言えば、今は俺の別荘ってことになってる。親戚が持て余したモンを格安で譲り受けたんだ。家財道具一式、屋敷の中にあるモンも土地もひっくるめて全部、な」
「全部……? 随分、気前がいい親戚だな」
「持て余したって言っただろ? 持ってても意味がねぇ、と言ってもいいかもな。なにせ、中のモンは何一つ持ち出せねぇんだから」
猪狩の語り口は先程までの日常会話と打って変わっている。静かな低い声は過剰な表現や誇張をしないように気を払い、事実だけを述べるために慎重な言葉選びを心がけているようである。
「屋敷ン中には、最初の家主が溜め込んだ金目のモンがあるんだが、それらも一切手が付けられねぇ。持ち出せねぇのは金目のモンだけじゃなく、ちょっとした家財道具や生活道具なんかもだ。廃墟って呼んでも差し支えねぇ空き家だし、誰か住む予定があるわけでもねぇ。が、中が片付かない以上取り壊すことも出来ねぇ、と、親戚中をたらい回しにされていよいよ俺のとこに来たってわけだ」
「持ち出せない、ってのはどういうことなんだ」
「そのままの意味だぜ。まぁ、俺も中に入ったのは割と最近――つっても、もう数ヶ月は前になるな。お前に話を切り出した手前、下見をしておこうと思って行ったのが初めてだった。その後は忙しくなっちまって、今日で二回目になるんだが」
ハンドルを絶え間なく叩き続けていた猪狩の指が数秒間、沈黙と共に止まる。再び叩きだしたのも、また言葉と同じタイミングだ。
「別の言い方があるかと考えたが、思い付かねぇもんだな。扉や窓が言うことを聞かなくなるんだ。開かなくなったり、動かなくなったりして、屋敷から出られなくなる」
無駄な装飾のない言葉は、猪狩の体感のみを語っている証拠と思われた。言葉が終われば指の動きも終わる。鱗道は腕を組んだまま暫くは猪狩が語り出すのを待ったが、それで本当に終いにするつもりであるらしい。鱗道の視線に気が付いた猪狩は、バックミラー越しに笑うばかりだった。
「お前が嘘をついているとは思わんが、お前がそれだけしか知らない訳がないだろ。何を隠しているんだ」
猪狩は確かな慎重さを持った男だ。鱗道が山に行くとなれば周囲に関して調べてくるように、蛇神が蛙のような稀有な男だと褒めるように、昔から豪快な言動に反して慎重に事を進める男である。そんな猪狩の性格を知っているからこそ、詳しい話を聞くのは当日で構わないと思っていた。猪狩の笑みを睨み付けて助手席に埋まるように深く座り込んだ今も、話がこれで終わりとならないことを確信している。
「運転しながら細かい話をするのが苦手なんだよ」
猪狩は鱗道の言葉を否定しなかった。指摘されることは分かっていたと言わんばかりに、浮かべたままの笑みが皮肉っぽいものに変わる。
「事の経緯だなんだを含めると、どうしても複雑になっちまう。向こうに着いたら順序立てて話をさせてくれ。少なくとも山道を抜けてからだ。事故ったんじゃ笑えもしねぇ」
猪狩がフロントガラスの先――続く山道を指差した。朝方に出立したのもあって日はかなり高いが、沢沿いを進む山道が長く続いているのが分かる。と、なればカーブが増えるのも当然なのだろうが、慎重すぎやしないかと鱗道は猪狩の顔を見た。なにをそんなに懸念しているのか、という怪訝な顔付きを見付けた猪狩は、鱗道の思考とは別の形で表情を受け取ってしまったらしい。
「そんな不審そうな顔をすんなよ。お前が納得しないことは分かってる」
それこそうがち過ぎだ、と鱗道が言うより前に、
「人がな」
猪狩の声が一段と低く言葉を放った。正面を見据える顔は真っ直ぐ。横顔は真剣そのもの。偏光グラスの隙間から見える目は鋭く、笑みすら浮かんでいない表情はまるで能面のようで――
「人が一人、家主の男が屋敷に殺されてる」
――隣でハンドルを握っている男が、長年の友人である猪狩晃であることを一瞬でも見失わせるには充分すぎる違和感だった。
とは言え、見失ったのが一瞬であるならば、無表情であったのもまた一瞬だ。たまたま、偶然、様々な出来事が重なって切り取られた結果の表情であったように、猪狩は自然と、昔から変わらない子供っぽさの抜けない笑みを口元に浮かべた。
「ま、行方知れずになったまま見つかってない、ってのがはっきりと言える話なんだがな。俺が生まれる前の話で、しかも別荘地の奥にあるような屋敷の住人だ。防犯カメラがあるわけじゃなし、偏屈で人付き合いをしないタイプだったらしくて目撃証言も有力情報も掴めねぇまま失踪宣告――死亡扱いになっちまったのさ」
違和感に声を上げようとしていた鱗道を置いてけぼりに、猪狩がつらつらと言葉を並べていった。鱗道は結局、横目で猪狩を睨み付けたまま、
「……細かい話をするのは苦手だったんじゃないのか」
「この程度じゃ細けぇ話にはならねぇよ。しなきゃならねぇ話だ、とは思ってたしな」
先程の顔は偶然の代物であった、と思うことは出来る。だが、今、そう単純に結論付けることは出来ない。鱗道は自身の不器用さを知っている。猪狩のように一度飲み込んだ後に吐き出せるような性分ではない。故に、頭の片隅に押し込んでおくことにした。後に振り返って、思い過ごしであったとなればそのまま忘れてしまえばいい。
「……ところでよ、グレイ」
呼ばれて視線を向ければ、猪狩の表情がまた真剣なものになっていた。だが、先程とは違う、何処か不真面目さが残ったままの、作ったような真剣な顔だ。
「お前は行方不明になる前に、ちゃんと俺には言ってけよ」
酷く深刻そうな口調は、わざとらしい表情にまったくお似合いである。恐らく、人付き合いをしないタイプ、というところで交友関係の広くない鱗道に結びついたのだろう。
「赤の他人と妙な所を重ねんでくれ。お前に言っていくくらいなら、書き置きを残した方が確実だよ」
鱗道の言葉を受けた猪狩が、大層愉快そうに笑っている。さては鱗道の返事を想像していて、大凡当たったのだろう。鱗道は面白くないという顔のまま、ジャケットの胸ポケットを漁った。出て来たのは使い捨てライターだけである。他のポケットを探しても肝心のタバコが出てこない。
「お前、まだ吸ってたのか? 言っとくが俺の車は禁煙だぜ」
「前ほどじゃないんだがな……切らしてたのを忘れるくらいだ。そのうち吸わなくなるんだろ」
ライターを胸ポケットに押し込みながら、
「仲間内で、真っ先に吸い出すのは猪狩だと思ってたんだがな。お前がよく見る映画は喫煙者ばっかりだっただろ」
ふと、そんなことを思い返す。実際、猪狩が鱗道を「グレイ」と呼び始めた切っ掛けの主人公も喫煙者だった。猪狩と映画の趣味が合うミーハーな友人とは、高校に上がってもタバコに似た菓子であの俳優の手つきがどうこうとタバコを吸う真似事をしていた記憶もある。だが、成人するまでは勿論、成人してからも猪狩がタバコを吸ったという話は聞いたことがない。
「そりゃぁ、お前……麗子に嫌われたくねぇからな」
なんとも形容しがたい言葉が鱗道の口から漏れる。猪狩を抜いた友人達と話したことはあったが、その理由は誰も想像できていなかった。大凡の予想はアウトドア趣味故に体力低下を嫌がったとか、挑戦してみたが体に合わなかっただけ、というものである。全く深い意味などなく「猪狩のことだから麗子絡みじゃないか」と鱗道が口にしたことはあったが、流石にそこまでは、と全員で笑い飛ばし合って終わってしまった。
「お前……本当に一途だよなぁ」
「なんだよ、悪ぃかよ」
悪いとは言っていない、と鱗道は手を振った。ちらりと見れば、視線は正面を向いているものの、隙間から見える顔や耳が真っ赤である。堪えきれずに笑い始めた鱗道の肩に、猪狩の左拳がなかなかの勢いでぶつけられた。