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 扉の建て付けも悪くなっていてこうでもしないと駄目なんだ、とぼやきながら、猪狩は木製の二枚扉のうち片方に体重を乗せるようにして押し開く。懐中電灯を片手に先に屋敷に入った猪狩が顔だけを覗かせて、
「灯りをつけてくるまでちょっと待ってろ」
 と、言い残して姿が見えなくなる。叔父が運び込んだという発電機は玄関脇の倉庫に置いてあるそうだ。
 扉の隙間から中を覗けば、玄関先――洋館なのだから、エントランスと言う方が正しいか――エントランスは非常に明るく見える。寒色系の光が影を落としているのが見えて、あの大きなステンドグラスのお陰かと合点がいった。待っていろという指示に反する必要はなく、鱗道は扉から離れて改めて屋敷を見上げた。当然だが、人の気配も生活感もない。であるのに、北側に回って以降感じる妙な「生々しさ」はなんだろうか。
 絶えず何かが動いているような、少し湿っているような――どれも稀薄すぎて断言は出来ないのだが、単なる建築物からは感じないものが鱗道の乾いた皮膚に触れてくる。屋敷に棲んでいるものが発しているのか、屋敷そのものから感じ取っているのかも分からない。なんとなく目の前が霞んでいるから霧が出ているのではないか――と、判断するような曖昧さは屋敷の外にいる限り進展することはなさそうだ。
「シロ。お前はなんか分からんか」
 猪狩の言葉も理解できるシロも建物に入っていない。入っていないが、開いた扉の隙間に顔を突っ込んで鱗道には尾を向けていた。前足は玄関を跨いでいないからいいんじゃないの? と指摘されれば無垢に首を傾げるだろう。
『見えないけど』
 シロは完全に彼方の世界の住人である。此方の世界に顕現して自他とも干渉できるように力を使い続けているとしても変わらない。生前は犬であることや、神に近付いた程の力もあって鱗道よりも多くを知覚できる。それほど優れたるシロの感覚だが欠点が一つだけあった。
『こうしてると、なんかぬるっとする』
「……ぬるっと?」
『ぬるっと。トカゲを鼻で潰しちゃった時みたいな、なんか、ぬるっとしてぬめっとして』
「いや……うん……そうか」
 独特の表現方法が、鱗道には伝わりにくいことである。人間と接していたのも遠い昔、社に取り残されていた間は外界との接触が皆無であったシロの精神的な面は犬であった頃から大きく成長をしていない。力も体躯も立派なものであるが鳴き声も語りも幼稚さが抜けないのは彼方の世界で精神的な成長が止まっていることが原因である。とは言え、犬としての感覚や感想が多くを占めるシロの言葉や表現方法も、日常の範囲ならば埋めるも飛び越えるも可能な溝だ。今回のような特殊な条件下だと、より一層わかりにくさが浮き彫りになるのは実際に遭遇していかなければ分からないことだ。とは言えシロの適応力は高いのだから、この手のコミュニケーションの問題も時間と根気で解決されるだろう。
 シロが頭を突っ込んでいる隙間が少し狭くなっているような気がして、鱗道は足下に視線を下ろした。玄関前は手入れもされておらず、多くの自然物が落ちている。拳大の手頃な石を拾い上げると、扉の根元に噛ませた。風や軋みで扉が動いたとしても閉じきることはないだろう。鱗道が石を噛ませるために屈んだので、シロが屋敷から頭を抜いて側に寄ってきた。冷たい被毛の大きな頭を強めに撫でて、鱗道は多少の渋さを噛み締めるように呟く。
「前に試したみたいに、お前の力を借りるかもしれんなぁ」
 ――あれを、猪狩とは言え人前でやる、というのはなかなか勇気が必要なんだが。そんなぼやきは口から外には出なかった。
 ここ数ヶ月の間にシロの力を借りる試みは何度かした。蛇神を降ろすように、霊犬であるシロの力や感覚を借りられれば、代理仕事はおおいに捗るし安全性も増すはずだからだ。上手くいったりいかなかったり、未だに試行錯誤の段階ではあるのだが、少なくともシロの力を借りる時に鏡を見てはいけないことだけは分かっている。シロの影響を受けている独特な姿の己というものは――見慣れる自信がない。
 鱗道が蛇神を降ろした時に生じる変化――顔や手を覆う白い鱗や漆塗りのような朱色、蛇の金眼に変わる眼球などは、単純に降ろす力の量や影響力にも左右されるが殆どの場合第三者に見えないことは昔から分かっている。蛇神の場合は鱗道の中に巣穴を作り、鱗道の中から力を降ろすものだ。感覚的にいえば鱗道の内側から滲み出てくるものと言えよう。それが、シロの場合では鱗道の外側に纏うような形になる。蛇神よりも見えやすい筈だ――もっとも、シロの力を借りている部位が目視可能だろうと不可能だろうと、その時の鱗道の外見や行動が一般人には奇っ怪に映ることは間違いないのだが。
 石がしっかり噛まれていることを確認した鱗道が、シロの鼻息をくすぐったげに首に置いた手で払いながら振り返る。シロは鱗道の背中に顎を乗せて、
『鱗道、首痒いの?』
 シロの言葉に、鱗道は一拍を置いて少し声を漏らしながら笑った。考え事の最中から首を掻いていた右手を下ろし、そのままシロの首を強く掻き毟ってやる。
「時々、な」
「グレイ、シロ、もう入って良いぞ――そんな隅で何やってんだ、お前等」
 玄関から顔を覗かせた猪狩が鱗道達の姿を少しの間探し、扉の脇に屈んでいるのを見付けて怪訝な表情を浮かべた。鱗道は立ち上がりながら再度、噛ませた石を足でしっかりと固め、
「扉が軋んでも閉まらんように石を噛ませたんだ。開かなくなるなら、そもそも閉じなきゃいい」
 とは言いながらも、期待を寄せた石ではない。この程度のことは誰もが思い付くし、実行されていることだろう。事実、猪狩は鱗道が噛ませた石を見て、
「役に立ってくれるといいけどな」
 やはり期待は望めないと言いたげにぼやいた。

 発電機が動いているからだろう。玄関を入って直ぐ、右手からは低い駆動音が聞こえていた。鱗道が顔を向けたので、閉じかけていた倉庫の扉を猪狩が開け直して中を示す。倉庫や物置として使われていた小部屋には、錆びているが除雪用や園芸用と思われるスコップやバケツなどの他、掃除用の道具や脚立など外で使われる道具が蜘蛛の巣や埃にまみれながら押し込められていた。壁のブレーカーからケーブルが繋がる先に、近代的で真新しい橙色の機械があった。発電機の駆動音に負けないよう、猪狩はいつもより声を張って、
「叔父貴が持ち込んだ時から入れる部屋のスイッチは全部点けっぱなしで、コイツに電源を入れりゃぁ屋敷の中はあらかた明るいって寸法だな。ガソリンは満タンに入ってるんで、とんでもなく長居しなきゃ切れるってことはないだろうが、なんかあったらここでなんとかしろ」
 説明書もあるしな、と発電機の上に置かれた紙の束を置き直して倉庫の扉を閉める。すると、機械の地響きはかなり聞こえなくなった。
 先程、玄関の扉から見た吹き抜けのエントランスを改めて見上げる。猪狩が発電機を動かしたので、壁や天井につけられた照明も灯っているが、やはり南側の大きなステンドグラスから差し込む光には敵わない。ステンドグラスに向かう階段と、そこから壁伝いに東西に分かれる階段、そして東西の壁際に張られた廊下の先――北側二階には扉が二枚見えた。やはり、二階の居住スペースは広くなく、部屋があるのは北側だけである。
 ステンドグラスを通った寒色の光が、階段とボロボロになった絨毯の名残がある床を水面のようにゆらゆらと照らしていた。一角には小洒落た木製の円テーブルと椅子が二脚ほど置かれている。洋館というものに入ったことが殆どなかった鱗道は、そういうものかと思っていたが、
「誂えからして元々は客室にあったもんみたいだが、邪魔になったらしい」
 と、南東側に二枚並んだ扉の内、古くも彫刻やドアノブの造形が凝った作りをした方を指さしながら言った。言われてよくよく見比べてみれば、扉に施されたデザインと扉や椅子の彫刻のデザインが似ている――ような気は、しなくもない。
「俺の前に来てた親戚や叔父貴が来た時にはもうここに出されてたってよ。客室はよく分からん道具や趣味の材料が木箱に並んでて倉庫として使われてたみたいだ。その隣の地味な扉の先は、地下の保管庫に通じてる。ワインや洋酒を置くにはいいんだろうが、飲む人じゃなかったんだろうな。客室と似たように木箱が並んでるだけで、酒はなかった」
 猪狩は語りながら二脚並んだ椅子の一つに腰を下ろした。客室、と言った部屋の扉にぴたりと指を向けると、そこから反時計回りに一つ一つ扉の先を上げていく。
「客室、地下庫の階段、で、玄関。さっき発電機が置いてあった倉庫、まではいいよな。北側の両開き扉はダイニングとキッチンで、俺が窓をぶち破ったところだ。外の、西側の端に勝手口があっただろ? あれと通じてんのがちょいと作りの違う西の扉の先で家主の趣味の部屋だ。そして便所や風呂、洗濯室と水回りが並んでる。水は近い井戸からの汲み上げ式だ。発電機を動かしてりゃポンプも動いてるかもしれねぇが……使える水じゃねぇぞ」
 一階を一周した猪狩の指は次に階段を差した。鱗道が指の先を覗き込むと階段の下に扉が一つある。階段の下も広くはなさそうだが部屋が作られているようだ。
「あそこが宝物庫だ」
「宝物庫?」
「宝石や時計や骨董品や……絵なんかもあったか。家主が溜め込んで、今じゃ誰も持ち出せない金目のモンが飾られてる。山奥で人目もねぇが、生活圏から遠すぎんで空き巣が入った形跡もなくてな。もしかしたら一人や二人は身内以外で入った奴がいたかもしねぇし、持ち出されたもんがあるのかまでは分からねぇが――多分、無いだろうな」
 猪狩の指は階段を上り、廊下をぐるりと示して北側の扉に向いた。中央寄りの一枚と、東寄りの一枚を順番に示しながら、
「二階は家主の書斎と寝室だ。お前が目を付けたステンドグラスは書斎に飾られてるもんだと思うぜ」
 猪狩の指に従ったことで、鱗道とシロの視線も屋敷を一周し終えた。耳や鼻をひくつかせるシロに気が付いて、屋敷からは出ずに階段も上らなければ後は好きにしていいと告げる。犬では扉は開けられないし、エントランスは屋敷の中央にある。屋敷を出ず、階段も上らせなければシロの姿を見失うことはない。鱗道も空いている椅子に腰を下ろした。古めかしいがすぐに壊れそうな華奢さはない。
 ステンドグラスに加え、発電機によって灯された照明、開かれっぱなしの玄関とエントランスは非常に明るい。だが、「生々しさ」は屋敷に踏み込んでから少し強くなったような気がしている。
「屋敷の案内はこんなもんだ。さて、後は何から話そうか」
「お前が俺を連れて来た理由を聞きたい」
 椅子に深々と腰掛け、足を組んでヒゲを掻く。屋敷の主として振る舞うのが様になっている男を見ながら、鱗道は開いた両足に肘を乗せて前のめりな姿勢を取った。猪狩を見据えるためである。
「言ったろ? 何か持ち出そうとしても出来ねぇ。扉や窓が開かなくなりやがる」
「ああ。聞いた。その後、運転しながら細かい話をするのは苦手だと言って、俺を納得させるためにと引っ張り出したのが人一人が行方不明になってるって話だった。だが、それは……お前の言い方をすれば、人間沙汰の話じゃないのか?」
 シロはあちこちの壁や扉の隙間から匂いを嗅いで、時に耳をいつも以上に真っ直ぐ立てて音を探りながらエントランスを壁沿いにゆっくりと歩いていた。開きっぱなしの玄関から頭だけ外に覗かせて、中と比べるような仕草も見せている。鱗道は時折シロの動向を確認するが、猪狩から長く視線を外さないように意識した。
「妙な屋敷に、行方不明者……他にもありそうだが、俺を呼んで報酬まで出してお前が片付けたい屋敷の問題ってのはどれの事なんだ? お前と家主の為に力を貸せと言われたが、屋敷を調べて、原因を除外して、それがお前の為になるのは分かるが、元の家主の為になる理由が分からん」
 猪狩は鱗道に問い詰められている、という状況を当然分かっている。大きく構えてみせる姿勢に変化はなかったが表情はどこか物憂げであった。
「お前はなんで俺をここに連れて来た? 俺に何をさせようとしてるんだ」
「お前を連れて来た理由にちゃんとした根拠があるわけじゃねぇんだ」
 猪狩は顎にやっていた右手を、こめかみの近くに移して辛そうに目を細めていた。まるで頭痛に耐えているようである。
「ただ、物を持ち出せねぇ理由も、なんならスバル爺さんが行方不明になった理由も、俺は当人が関係してると踏んでる。踏んでるだけで、はっきりと分かってるわけじゃねぇから……どうも遠回しな言い方になっちまう。なにせその爺さんが変わった趣味の持ち主で、それが絡んでるとなるとお前のカミサマ沙汰になるんじゃねぇか、と」
 右手は右目を庇うように目元を覆ったまま、ついに猪狩が南側のステンドグラスを睨み付ける。その仕草で、猪狩が耐えているのは頭痛ではなく右目の痛みなのだと分かった。エントランスは確かに眩しい。ステンドグラスが落とす色つきの影は玄関から入り込む光で縁も明瞭ではないくらいだ。傷がついて光に弱くなったという目が痛みを訴えるには充分過ぎるほどの光量なのだろう。
「つまり、俺がお前に話すべきは、スバル爺さんについて分かってることからってわけだ」
 一言、悪いなと鱗道に告げてから、猪狩は胸元の偏光グラスをかけた。それでもしばらくは目を閉じているようで、右の眉が不自然に歪んだままだ。
「スバル爺さん――猪狩昴ってのは、俺の爺さんの兄弟だ。俺が生まれた時には行方不明で……そん時は四十後半から五十ってとこだったらしい。こんな所に独りで住んでたぐらいだ。親戚付き合いも密じゃなくて、叔父叔母も昴爺さんに関して結構曖昧なんだよ。会った回数が片手ほどなんて人もいるぐらいだ」
 偏光グラスで楽になってきたのか、眉の偏りが取れてくる。そうして浮かんだのは、親族に関して曖昧なことを恥じるかのような苦い表情であった。
「放って置いたって訳じゃねぇんだろうが、うちの家系じゃ珍しいタイプだったみてぇでな。偏屈で、内向的で、そんなんだから親戚中とも付き合いがねぇ。時代的に珍しく独身だったのは、病弱ってのも大きな理由なんだろうよ」
「……お前やお前の親父さんとは正反対のタイプだな」
「酷ぇ言い方だが、実際、うちじゃ突然変異だとか言ってたらしいぜ。ただ、体は弱いが学や先見の明があったみたいで、土地を転がしてかなり稼いでいたみたいだ。下の別荘地の一角も、ただの山だった頃に昴爺さんが買っておいたらしくて、別荘地を広げるって話が出た時に自分が住むところを残して売ったそうだ」
 鱗道が猪狩から目を離したのは、シロの動きがほぼ一ヶ所で停滞し始めたからだった。ずっとウロウロと歩き続けていたかと思えば、北西側の他とは作りが違って頑丈そうな扉の前に来て首を傾ぐ。またどこかへ歩き出しても、結局扉の前に戻ってきて壁や扉に前足をかけたり、隙間に鼻を付けてみたりとしているのだ。
「親戚付き合いもしなけりゃ人付き合いもしねぇ昴爺さんだったが、この辺りの猟師数人とは懇意にしてたみたいだ。懇意っていっても、仲良く酒を酌み交わしてたってわけじゃねぇが。昴爺さんの行方不明に気が付いたのも、猟師が姿が見えず、連絡が取れないことに気が付いたのが切っ掛けだった」
「猟師? 意外な相手だな」
 病弱で人付き合いを好まない人物が、近隣の山中に住んでいるとは言え猟師と親しくするというのは切っ掛けすら想像も出来ない。鱗道の言葉に、猪狩は同意するように肩を竦めた。
「それには昴爺さんの趣味の一つが関わってくる。さっき、趣味の部屋だって行った西の――行くか。見せた方が話が早ぇ」
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