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-07-

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 人の声、と聞いて鱗道は直ぐに駆け出した。
 分かっている。そんな筈はない。猪狩昴がこの屋敷にいる、等と言うことはありえないことは分かっているのだ。だが、否定しきる根拠を鱗道は持っていない。人間として居なくとも彼方の世界の住人としてならば――準ずる何かがいる可能性は、むしろ高いのだ。だからこそ、鱗道は二階に向かう南の階段を駆け上がり、手摺りを掴んで体を引き寄せるようにしながら西の廊下を更に進み、ダイニングの上――扉の前まで駆け抜けた。
 東寄りの一枚、中央近くに一枚。二階北側の扉はその二枚だけである。東側三分の一と残り三分の二、外から見た窓の配置と猪狩の言葉を思い出せば、東側が寝室、残りが書斎となる筈だ。ダイニングの上は書斎に通じると思われる扉であり、鱗道は手摺りにもたれるようにしてしばらくは呼吸を整えることに努めた。大して長い距離でないにも関わらず、脇が痛む。しっかりと鱗道の後ろを追ってきたシロには舌を出す様子も見られず、扉の前で耳をピンと立てている。
 扉の前に立った頃には、鱗道の耳にもシロが言った人の声は届いていた。耳に、届いているのだ。彼方の世界の声ではなく、此方の世界の音として。だからこそ鱗道は焦ることなく、呼吸を整えた。鱗道が立てた足音や振動も分かっているだろうが、扉の向こうから声が止むことはない。三度ほど深呼吸を繰り返してから、鱗道は扉に手をかけた。
 真鍮だろうか。くすんだ金色のドアノブは冷たい。握ってみても、玄関扉で感じたような乾いた湿度は感じなかった。手首を捻れば年月による錆び付き以上の抵抗もなくドアノブは回り、軋みはすれど扉は開いた。室内が明るいのは、ここの照明のスイッチも付けっぱなしにされていたからだろう。
 猪狩の言っていたとおりに書斎であった。室内に足を踏み入れて扉を閉めると、右手側には身の丈ほどの本棚が列を成している。本棚にはぎっしりと書物が詰まっていただろう事は想像がつくが、今はあまり面影がなかった。殆どの書物は本棚の足下に落ちていたのである。ただ、自然落下にしては不自然なことに、下方の端から順序よく落とされて、表紙が上向きに重ねられているのだ。誰かが抜いてそのように並べた、と言われれば納得するだろう。だが、本棚があり、棚に空白があり、それでも足下に並べるような人間はどれほどいるだろうか。
 二列の独立した本棚と、壁に沿った本棚から反対側に視線を動かせば、目につくのは外からも見えた嵌め殺しのステンドグラスである。多くの暖色が使われ、曲線と直線で描かれた自然のモチーフで満ちた鳥籠の中に、止まり木と黒い鳥の影が浮かぶような――と、いうところで鱗道は二度、瞬いて首を横に振った。ステンドグラスと、黒い鳥のいる止まり木は別の物だ。ステンドグラスの前にはいくつかの古い木の机が連なって大きな机として役割を任されていた。ステンドグラスの正面にある大きな引き出しを足下に有した古い机に止まり木が置かれているのである。黒い鳥は剥製だろうか。机の上には便箋や蓋が開いたままのインク壺、積まれたままの書籍の脇には万年筆が転がっていた。机は壁にぴったりとくっつけて並べられている。書斎の奥行きは屋敷の幅の三分の二には到底満たず、西側の壁には扉が一つ付けられていることから、廊下からは入れず、窓もない部屋が扉の先に作られているようだ。
 書斎には人の声が響き続けている。それ以外は、鱗道が立てる以外の音はなかった。鱗道はゆっくりと声の元へと歩み寄る。嵌め殺しのステンドグラスとは別の洋風の窓。側に置かれたキャビネットの上にある古い蓄音機。レコードが回り、埃を被った金色のラッパが女の声で歌い続けている。知らない歌だ。歌詞は英語のような気もするが、何を歌っているかまでは分からない。回っているレコードに埃は積もっていないが溝は何度も針がなぞってしまって、奏でられる音が不鮮明になっているからだ。
『人の声。聞こえてたのはこの声だけど、人の声? 人、いないね。テレビみたい』
 シロが前足をキャビネットに乗せ、鼻先を蓄音機に近付けている。鱗道はあまり触れるな、という意味でシロの鼻先に手を伸ばそうとした。実際には伸ばして、
『やっと少し静かになり久し振りの音楽を聴いていられると思ったのですがやはり無理なのでしょう。私が聴いていることや止めてくれるなと伝える手段もないのですから』
 触れる前に手を止めたのだ。
『それよりもあれが犬でしょうか。図鑑を漁ったのは何時のことだったか流石に正確な日付は分かりませんね。犬種は一体なんでしょうか。はっきりと見比べて記憶していなかったことが悔やまれます。それよりも犬という生き物は語るのですね。やはり生き物は語ることが出来るのでしょうか。なればやはり私は生き物ではない。しかしネズミや虫から声を聞いたことはないのだから要素であって必須事項ではない可能性も否めない』
 ガラスの音かと一瞬耳を疑ったのは、語る声があまりに無感情で、一切の淀みも呼吸も隙間もなかったからである。ひたすら、ただ自身の思考でのみ区切られる文章以外の隙間などない言葉の羅列。それが届く先は疑われた耳ではなく、鱗道の頭の中だ。
『報告したくとも手段も先もない。それとも昴はやはり全てを承知の上で私を失敗作と判断したのでしょうか。されど私には明確な条件や要素の知識が与えられていないのだから検討を続ける必要がなくなったわけではない。しかし私の声は私以外に届かない以上現状よりどこへ進むことが出来るのか。進まねばならないことは分かっているのですが。邁進し続けることこそ私に出来る唯一であり停滞は忌むべき安易な結果への逃避です。昴は無駄を嫌いましたが失敗作である私は無駄を重ねることをためらっては進めない――』
 言葉を構成する音は硬い金属同士、あるいは鉱石同士、その両方を混ぜて擦り合わせ、ぶつけ合わせて奏でられているような硬質な物であった。怜悧で静か、ただ淡々とした音は無機質であり、使われている言葉からして嘆いていると分かる程度の感情しか感じ取れず、嘆きの深さや原因までは伝わってこない。
「独り言のつもりだろうが、生憎、俺には聞こえてる」
 鱗道が言葉を返すと硬質な音はピタリと止んだ。レコードの歌声だけが書斎に響いている。言葉を紡ぐ音は背後から、机とステンドグラスの方向から聞こえてきていた。
「シロの声ははっきりと聞こえてるみたいだな……どうした。もう喋らんのか? 返事をされたのは初めてで、驚いて反応できないってところか? まぁ、人間の中じゃシロやアンタみたいな声が聞き取れる方が稀だからな、驚くのも無理はない」
 蓄音機に向けていた体を、言葉の主がいる方へと向け直す。古い机と並べられた文房具。積まれたままの書籍。奥へ通じる扉とステンドグラス。止まり木と黒い鳥の剥製。目に入るものはそれで全てだ。そして、先程と大きく違っている箇所は一ヶ所だけ。
 机の便箋を見下ろしていた鳥の剥製が、蓄音機に向き直っている。
『――貴方は私の声が聞こえるのですか』
 太い嘴に七色の黒羽根――カラスの剥製の目は、ガラスよりも上質な反射をする赤い鉱石が填められていた。ステンドグラスの暖色の影を受けて、鱗道を見据えるようにきらりと輝いている。
「ああ、聞こえてる。この犬にもな。アンタは……なんだ? カラスの剥製……の、付喪神か?」
 カラスの剥製らしき物は鱗道の言葉を受けて嘴を開いた。が、鳴き声などは一切発せられない。
『確かに私の器はカラスをモチーフに作られたと聞いています。ですが実際のカラスでも剥製でもありません。また付喪神というものを長らく使われた物に魂が宿り動き出した物、という定義で仰っているならば――回答は、ノーです。客人』
 剥製ではないという鴉の言葉は語っている最中に文章以外の区切りが設けられ始めて聞き取りやすい会話へと変わっていった。だが、会話に見られる気遣いに反して、無機質さや無感情さは消えることがない。特に感情などというものは持ち得ていないかのようであった。鱗道は目を細めて鴉を見ながら、返された返答を咀嚼する。
 ノー、と返されたのは意外ではなかった。付喪神は意思を持った物、である。何かを叶えようという意思が長い年月や偶然などを切っ掛けに力を持って成る物であり、殆どが元となる物体に眼球や手足を得た形をしている。例外としては、元の物体が小さすぎて見付けづらい場合や、彼方の世界を覗かせて驚かせることのないように物体の中に収納しているような子どもの玩具などにありがちな場合などである。ただ、どちらも一見して分からないというだけであって、眼球や手足は存在しているのだ。物事を叶えるためには周囲を見るための眼球や、自他を動かすための手足は必須と言えるからだろう。
 だが、止まり木の鴉には眼球がない。鱗道に向けられている双眸はどう見てもただの鉱石である。そして手足もない。殆どの付喪神が体外に手足を作るのはその方が便利という単純で効率が良いという理由からだ。子どもと接するわけでもない剥製が、不便を押して内部に手足を作る理由はない。
『アンタはなんだ、と問われましたね。客人』
 会話は正確。鴉の思考力は高く、知識が豊富であることは容易に窺える。力を持っているとしたら相当強いはずだ。だが、鴉からは彼方の世界の力や片鱗を一切感じ取れない。鴉が語り出さなければ、鱗道は下手をすればいつまでもカラスの剥製であることを疑えずにいただろう。
『私はこの屋敷の主、昴によって作られた存在です。昴は私を多くの呼び方で呼びました。ホムンクルス、人造精霊、フラスコの存在、アクアヴィテ、蠢く水銀――最も多くされた呼ばれ方は、意思存在。神も同種生物も介さず、無より湧き出て器を選ばぬ生き物、の失敗作』
 言葉は終わった、と言うように鴉は嘴を閉ざした。そして己の存在を誇示するように翼を大きく広げてみせる。その動きが、やはり鴉をただの生き物ではないことを示していた。予備動作も余韻も、微かなブレもないのである。滑らかさは比べものにもならないが、まるでプログラムをなぞる機械のようだ。
『ねぇ、鱗道』
 蓄音機の置かれたキャビネットから足を下ろし、鱗道の前に進み出たシロは一見、鴉を警戒しているように見えた。だが、続いた言葉と声は妙な戸惑いが大部分を占めている。
『少しだけどお水の音がする。それに、この鴉、少しだけどぬるっとするの』
『水音が聞き取れているのですか? 犬という生き物は素晴らしい聴力を持っているのですね。しかし、ぬるっととは心外です。このような場所に長く置かれ水浴びもままなりませんが、羽根繕いを欠かしたことはありません』
 やはり、鴉の言葉は極めて理性的である。だからこそ、シロの言葉を受けた鱗道は鴉を鋭く睨み付けた。力の有無は未知数だ。だが、明確な意思と豊富な知識、高い知性をこの鴉は有している。状況を把握し、何を持ち込まれ、何を持ち出されようとしているのか――そんな判断は簡単にできるだろう、意思と知性を、この鴉は有している。
「この犬はただの犬じゃない。アンタは彼方の世界の声で語るが、この犬の区別はつかんのか」
 鱗道は足下のシロをどかそうとも避けようともせずに歩を進めた。驚いたシロが鱗道に蹴られずに済んだのは、とっさに顕現に用いている力を緩めて鱗道の足が通れるように透過させたからだ。それを見ていた鴉が驚いたように、すっと首を伸ばした。
『犬という生き物は透過性があるのですか。図鑑にそのような記述はありませんでした』
「……頂けない結論だな。普通の犬は透けやしない」
『そうですか。犬の実物を見るのは初めてです。生き物と接触したのは昴と客人である貴方、そしてその犬だけです。あとは観察として虫やネズミ程度。窓の外を行く野生動物を見掛けることもありましたが。それに、会話を交わすのはこれが始めてのことです』
 鱗道が眼前に立っても鴉は止まり木を離れなかった。先ほど広げていた翼も鱗道が近付く間に畳み、首は真っ直ぐに伸ばしたまま、目はもともと動く作りではないのだろう。町中で見掛けるカラスよりも一回りは大きい鴉を見下ろす鱗道の目は険しい。これ程の至近距離に立てば、鱗道にも鴉から湿度を感じ取ることが出来る。扉から感じたものと同じ、乾いた湿度を。
「俺達の他は、そこらの生き物と屋敷の主だけ、だと? 嘘を言うな。お前から扉を閉じたのと同じ物を感じるんだ。お前はもう一人知っているはずだ――猪狩を屋敷に閉じ込めたのも、剥製を落としたのもお前の仕業じゃないのか!」
 鱗道が鴉に伸ばした両手は、容易にその首を掴んで絞め上げた。ひゃん! とシロの鳴き声が上がり、
『鱗道! 待って! 待って!』
 慌てて鱗道のジャケットの裾を咥えて引くが、鱗道は鴉を手放さずに踏み止まって鴉を止まり木から引き剥がした。鴉は一切の抵抗をしない。鱗道の両手にずしりと尋常ではない重さがかかって、鱗道は息を飲んだ。
 鳥は飛ぶために見た目よりも非常に軽い体のつくりをしていると聞いたことがある。剥製になっても同じことで、実際に剥製部屋で写真立てを取るために触れたカラスの剥製も軽かった。が、今両手に掴んでいる鴉は酷く重く、酷く硬く、そして人体よりは低いが室温よりは高いぬるめの体温を保持していた。これは、カラスの剥製、などではないのだ。
『――客人、貴方の言葉が私には理解できません。私は嘘などついておりませんし、嘘を言うメリットもありません。ですが、扉を閉ざし、屋敷に閉じ込め、剥製を落とした何者かがいるというのですね』
 そして当然、生き物ではない。首を絞め上げられている鴉は暴れることも抵抗することもなく、そして言葉が淀むこともない。己が置かれている状況に全く動じず、ただ冷静に淡々と、鱗道に対して言葉を発し続けている。
『貴方の言葉にはっきりとした回答は出来ません。が、一つの可能性を提示することは可能です。確証はありませんが――その為には残念ながらこの部屋は不適切です。なので出来れば、場所を変えさせて頂けないでしょうか。私を信用できないのは当然ですので掴んだままで結構。私は呼吸などしていませんからこのままでも停止することはありません』
 一定の高さを保つ硬質な音が逆立っていた鱗道の神経を静めていった。シロのひゃんひゃんという鳴き声が、
『鱗道、鱗道! 鴉はぬるっとするけど、壁の中のとはちょっと違うよ! その鴉は違うよ!』
 ジャケットの裾を引く言葉が、ようやく鱗道の中に届いて落ちてきた。
「違う……?」
『壁の中?』
 鱗道は知らずに速まっていた呼吸を、意識的に深い物に変えていった。脈拍の高鳴りが耳にうるさいほど聞こえてくる。自分の、そして周囲の音が開けていくようであった。
『壁の中……まさか……ああ、なれば、私の提示する可能性は大いに高く、確実と言えるものになるかもしれません。客人、どうか隣の部屋の扉を開けて頂けませんか。百聞は一見にしかずと申します。不審を抱かれるのも当然と思われますが、私ではドアノブを回すことが出来ません』
 鴉の一翼が広げられ、書斎奥の扉を示す。古びた扉には書斎と同じく、回して開けるドアノブが取り付けられていた。確かに、鴉の翼と足では回すタイプのドアノブは動かせまい。鴉の体は書斎の外に出ることは出来ない、ということだ。鴉の体だけでは不可能である――別の手段を用いれば可能であるのだが。
 鱗道の視線が扉を確認したと見れば、鴉は翼を畳んで再び動かなくなった。人間や動物のように表情や動きから感情を読み取ったり、彼方の世界のもののらしく力の流れや使い方から思考を予想したりということがこの鴉には通用しない。シロは違う、と言ったが鱗道には扉に触れて感じたものと掴んでいる鴉から感じるものの――乾いた湿度の違いは分からなかった。ただ、扉の時とは違って鴉から乾いた湿度が移動することはなく、長く触れていられる。そして、この湿度が知っている感覚に似ているものだということが、鱗道に分かる唯一だ。まだ、断言は出来ないのだが。
 鱗道は鴉を、そっと机の上へ下ろした。鱗道の手が離れた鴉は数歩、体の位置や姿勢を整えるように机上を歩き、鱗道を見上げてくる。その目が、手を離されたことに対する疑問と驚きを浮かべているような気がしたのは――気のせい、なのだろう。
「アンタを持ったままじゃドアノブは回せんからな……手荒な真似をしてすまなかった。友人が危ない目に遭ってるもんで……俺も頭に血が上ってるらしい」
 奥歯を噛んで自身の行動を悔いる鱗道の表情を、鴉は首を傾けて覗き込んでいた。仕草は人間であれば興味深いと思っての行動に似ているが、続いた声はやはり無感情気味なまま、
『謝罪の必要はありません。貴方の立場を考慮した場合、私を手放す方が危険であると思われます。これから、私は己の無実を証明するつもりですが、現時点では証明の手段を有していないのですから』
 淡々と言葉を並べ続けてくる。鱗道は鴉の言葉――というより、声を聞くことで冷静さを取り戻そうとしていた。一律で一定、硬質な鴉の声は無感情であるからこそ、感情に走りやすい状態を抑制するには相応しい声だと思ったからだ。
「シロが、アンタは壁の中のもんとは違うと言った。それで充分だ。俺は、シロを信じてるもんで」
『シロ、というのはそちらの犬のことでしょうか』
 鴉の首が素早い挙動でシロに向いた。シロは全く動じることなく、口を開けて舌を垂らしながら小さくも元気よくひゃん! と鳴いて、
『そう! 僕、シロっていうの。鴉は名前、なんていうの?』
 机に前足を乗せたかと思うと、最近のお気に入りの質問を鴉にも投げかけた。何十年――あるいは百年近く、名前を呼ばれない日々を過ごしたシロは、鱗道に名前を呼ばれたことがよほど嬉しかったらしく、物を見掛ければ『あれはなんて名前?』、相手が語る手段があると分かれば『あなたはなんて名前?』と聞いて回っているのである。
 なんてことのない質問であるが、投げかけられた鴉はぴたりと動きを止め、それこそ全く動かなくなった。シロが首を傾げて鼻先を嘴近くまで近付けても逃げも隠れもせず、まるで電池が切れたロボットのようだった。
『私に名前はありません』
 数十秒の間があって、鴉は何事もなかったかのように言った。
『先程挙げた物を名前と言うのであれば、あの中より好きに選んでお呼びください』
 声は硬質、そこに変化はない。しかし、鴉の言葉には、動きを止めていた間に打ちのめされていたかのような悲哀が滲んでいた気がした。名前を問われ、名前がないことを自覚したことに、強い揺さ振りを味わったかのような悲哀。鴉の声に冷静さを取り戻しつつある鱗道が、そう勘違いしただけであるかも知れないが。
『シロを信じるという貴方の意思決定を否定するつもりはありませんが――そのシロが間違わない保証があるのでしょうか』
「まぁ、シロも結構抜けてるからなぁ……間違えたならその時だ。ただ、シロが間違える分には構わんと思ってるし、それで何か被っても仕方がない。生き物は間違えるもんだし、シロを信じたのは俺の判断だからな」
 シロが鱗道の足下でひゃんひゃんと喚いて『抜けてないもん!』と抗議の声と言葉を上げた。そうは言っても、と言いかけて鱗道もまたシロを見下ろす。顕現し続けることにすっかり慣れ始めたシロであるが、寝惚けて扉や壁に挟まったり体の一部がめり込んだりとしていることがままあるのだ。鱗道がそれらの出来事を思い返すだけで言葉には出さないからだろうか、納得のいかないシロがるる、と喉を唸らせている。
『――失礼しました。無駄な問いかけで時間を取らせてしまいました。どうぞ、客人、扉を開けてください。ただし、中には入らない方がよいでしょう。当時のままであれば足下にはガラスが散乱していて危険です』
 鱗道とシロを観察するように黙っていた鴉が発した言葉は、鱗道を急かし立てているようにも聞き取れた。言葉に出来るほど明らかな変化はないのだが、僅かであっても変化に一度でも気が付ければ、鴉も単純なロボットや機械とは異なり物事を受け止め、観察し、考察する――意思を持ったものであるということがよく分かる。
「ああ、分かった」
 しかし、付喪神ではない。鴉が並べ立てた小難しい自己紹介も一度で覚えられる物でもない。そもそも、直後にシロが鴉から水音がする、少しぬるっとする等と言いだした物だから余計に曖昧だ。ただ、気になることを言っていたことだけはかろうじて思い出せる。
 屋敷の主、猪狩昴に作られた存在、という言葉だ。自然発生でもなく、此方の世界にあったものが成ったものでもなく、彼方の世界のものが干渉しているのでもなく、人工的に作り出されたという意味ならば、鱗道ですら見たことも聞いたこともない。
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