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 普段と変わらない、何の変哲も無い通学路。友人達が追い抜いて走って行くのを、鱗道は眠たげに見ていた。片方から大きな音が、あるいは声がしたところで記憶は一度途切れている。次に目を開けたのは奇妙な空間だった。感覚としては水の中に似ている。だが、苦しくはない。そもそも息をしているのかも分からなかった。底も上もなく、漂っているわけでもない。色の大半は黒く、白い大きな流れがあり、時に青く、所により緑であり、筆洗いの水のように淀んでいた。
 その淀みがぬらりと蠢く。色の混ざりは細かな鱗になり、流れは長い胴体を作って鱗道の周囲に蜷局を巻いた。人間の一人や二人、軽々と飲み込めるほどの胴回りを有した蛇は金色の眼で漂う鱗道を見下す。
 話に聞いていた死後の世界とは大分違う。そんなことを鱗道は考えていた。今になっても其処が死後の世界ではないと断言できるのは、開いた蛇の顎から、
『そうだとも、ここは死後の世界ではないからね』
 そんな声を聞いたからだ。太く二股に分かれた赤い舌が鱗道の顔の前で揺らされる。笑っているのか、嘲っているのか、威嚇しているのかも分からない。鱗道はゆっくり首を動かして蛇の顔を見た。体の大半は純白であった。部分部分で青や緑の鱗がある。目は金色、舌は赤。眉間に赤く輝く箇所があるが、あとは本当にただただ巨大な蛇だ。
『ただ、死はすぐ近くにある。少し、わたしが留めてやっているのさ』
 蛇の口が開くと目の下まで真っ赤に裂けて笑っているように見える。蛇の声は鱗道の体に直接響いているようであった。鱗道の耳や喉は機能を果たしていない。手も足も動かせず、ただ思考だけが少し緩慢ながらも動いていた。なぜ、と思うだけで、
『お前に選択肢を与えるためだよ、末代』
 蛇から答えが返ってくる。蛇が蜷局を絞めれば、鱗がこすれて砂の音のように空間中に鳴り響いた。それも、蛇の声を邪魔するものではない。
『鱗道。鱗の道。それすなわち〝わたし〟のことだ。お前の何代も何代も前から、お前の一族はわたしの世話役だった。だが、一人が大それた粗相を働いてね。お前達は一族を賭けて私への償いを果たしているのさ』
 蛇の声に感情らしいものはないが抑揚はあった。蛇の表情と同じである。変化はあっても人間が読み取ることが出来る感情はない。
『その償いも何代も何代も重ねてそろそろ終わる。お前か、お前の父で終わるところだった。だが、まさかお前が死ぬとはね』
 死ぬ、と鱗道は蛇の言葉を反芻する。おっと――と、蛇はわざとらしく言葉にし、体をくねらせた。
『失敬、まだ死んではいない。が、死ぬことも出来てしまう。お前はね、そんな淵にいるのさ――さぁて、それでは選びたまえ。鱗道家の末代』
 蛇の顎が鱗道の頭の上で開いた。視界いっぱいの、漆塗りのような赤。細く鋭い二本の牙。全ては濡れて、ぬらりと輝いている。
『此処で死ぬかい? 此処で死ねば全て終いだ。わたしへの償いはお前の父親が果たすだろうし、足らなくともほんの少しくらいはわたしだって目を瞑る。
 此処で死なぬかい? そうなれば償いはお前が引き継ぐことになる。お前がやらねばならなくなる。しかも、お前で精算は出来る筈さ。お前達と〝わたし〟の縁も終い。それすなわち、お前達一族の終いでもある。
 お前は末代だ。今此処で死のうと生きようと、それは絶対不変の確定事項よ』
 鼻も働いていないため匂いもしない。だが、蛇の口から放たれる息を、体のどこかは熱いと感じていた。喉の奥は黒く暗い穴が延々と続いているようだった。そこに何かを見いだすのは人間が恐怖から逃れるための手段だろう。
『誓って言うが本当にただの事故であったよ。お前の父親は当人で終わらせる決意をしていた。お前の一族は一度わたしを裏切ったとはいえ、その大半はよくわたしに尽くしてくれた。そうまでされればわたしは鬼ではないからね。お前達一族との縁が切れても、切れて終いで構わないと思っていた』
 だが、鱗道の目は何も見いださなかった。ただの、黒。ただの蛇の喉である。目をこらさずとも暗さに慣れれば喉の奥まで続くヒダが浮かび上がった。
『此処で死なないのであれば、お前は子を成せない。伴侶を得られない。悪いがそれは譲れぬよ。わたしは度しがたく、我ながら呆れかえる程に嫉妬深く、執着が強い。そうでなければ何代にも渡って償わせるなど、元からさせないだろうが』
 先程まで感覚を失っていた、ただ体にぶら下がっているだけだった右手が持ち上がる。鱗道は頭上で開く蛇の顎に手を伸ばした。触れるのに叶ったのは、白く、鋭く、細い牙の一本である。
『此処で死んだ方が楽ではあろうよ。償いは決して楽な道ではない。お前の祖先達もそれはそれは苦労を――』
 死なない、と、鱗道は思った。手は動いたが口は動かない。だが、緩慢であった思考は先程よりも速さを取り戻しつつあった。蛇の言葉が途切れたので思考を繰り返す。
 死なない、と。
 足らないのであればもう一度。
 死なない、アンタは俺や親父を心配してくれているみたいだから、と。
 蛇の牙は冷たく硬かった。鋭くはあるが、鱗道を傷つける意思が全く伝わってこない。それどころか、わずかな震えは未練や後悔を伝えてくる。顔で分からずとも、声で分からずとも触れて通じた――感じたことを、鱗道は否定しなかった。
 と、言っても何をどうするかも分からないけれど、という鱗道の思考に蛇の顎が離れていく。再び金の目が鱗道の顔を覗き込んだ。
『それはお前の父親から聞きなさい。お前達は代々そうして繋いできたのだよ。わたしは鬼ではないからね。その猶予は与えるとも』
 縦に細い蛇の瞳孔が弓のようにしなる。それを見て今更ながら、鱗道はこの蛇が単なる蛇の化け物ではないことに気が付いた。その思考が伝わったのか、蛇は弓のようにしならせた瞳孔を丸々と広げた。目の下まで裂けた口が代わりのようにつり上がる。
『わたしは〝わたし〟だ。この地に棲んだ一柱の蛇だとも。まぁ、やはり詳しくはお前の父親に聞きなさい。話すことは多い方がいいだろう』
 丸く広がった蛇の瞳孔はそのまま鱗道の顔の間近に迫った。それどころか金色の眼球は黒々とした瞳孔を口のように開き、鱗道を頭から飲み込んでいく。
『済まないね、末代。恨むなら、最初にわたしを裏切ったお前の祖先を恨んでおくれ』
 視界が真っ黒に変わって、おそらく、鱗道はまた一度意識が途切れている。
 蛇と話した空間での目覚めを一度目とするなら、二度目の目覚めで飛び込んできた光景は病院の天井であった。蛍光灯の光を眩しいと思ったのが最初の感想であったと思う。不確かなのは誰かに補強された記憶ではないからだ。泣きじゃくる母親の顔と、安心しきって緩んだ父親の顔は覚えている。
 病院側は大騒ぎであったそうだ。巨大なトラックとブロック塀の間に挟まれた鱗道であったが、どのような奇跡か――トラックが真っ先にぶつかったのがブロック塀であって、ブロック塀が崩れたことでクッションになったのではないか、と後にはこじつけられた――鱗道は頭部に裂傷を負っただけで済んでいた。しかし、意識は戻らない。様々な検査をしても異常は見つからず、施す処置も不明のまま時が過ぎていた。両親には状況説明と共に、覚悟はしておいて欲しいという旨が伝えられていたという。だが事故から一週間後、鱗道はあっさりと目を覚まし、その後は後遺症も異常もなく、二日後には退院を果たした。
 それでも学校にはしばらく休むと親が連絡をしておいたらしく、鱗道は一週間を家で過ごし、その間に父親と長く、長く話をした。夢のこと、蛇のこと、償いやら一族やら――父親はその全てに関して分かる限り鱗道に説明をし続けた。
 父親も祖父から蛇の話を聞き、生活の傍らで償いをしてきたという。蛇はこの土地に棲まう土着の――広義で言えば守護神のようなもので、鱗道の一族は神官のような職業にあった。だが、一族の一人が蛇を荒神だ邪神だと言って、僧や武士に討伐を訴えた。数多の僧、数多の武士の大半は蛇の――誠の蛇神にとっては蚊ほどの意味も無い存在であったが、うち一人が蛇の眉間を剣で突いた。蛇神は負傷し、力の大半を失って土地を追われ――蛇神の領地は守護神を失って荒れに荒れた。なんとか領地に戻ったところで領地の惨状を目の当たりにし嘆いた蛇神は、己を荒神と称した鱗道家の一人を生きたまま丸呑みし、他の子々孫々は〝わたし〟に代わってこの地を清め整えよと、蛇神の代理仕事を命じたという。
 遡れば遡るほど償いの仕事は危険に満ちていたというが、祖父や父親の代では程度も頻度も酷くはなかったそうだ。蛇が精算も間近と言っていたのも誠らしい。蛇神の代わりを務める者は人間の世にあらざる者の声を聞けるようになるが、それも慣れでどうにかなると父親は時に笑った。己がしてきた仕事についても軽く話し、どうにかなると根拠もなく鱗道の背を叩く日もあった。
 これで話し終えた、と言い出したのは鱗道の退院から二週間後のことであった。その日は縁側で並んで夕焼けを見ていた。黄昏時だ、逢魔が時だと、父親は目を細めた。
 物事は白や黒でははかれない。大半が灰色である。だが、人はそれを簡単には認められず、自分が知らない物や知覚できない物を切って捨ててしまう。それは勿体ないことだ。知らないことで得られる幸福もあるだろうが、知らずとも灰色の世界は存在している。苦労が多い人生を歩ませてしまうだろう。それでも、知らぬから、分からぬからで切って捨ててしまうのではなく、知らずとも分からずとも在るのだと、在ると言うことを認められる人間になって欲しいと、己の息子に「灰人」と名付けた。
 たった数分間の父親の言葉であった。それが明確に思い出せる父親との最後の会話である。数日後、父親は心臓発作であっさりと死んだ。突然すぎて苦しみはなかっただろうと医師は言う。鱗道も父親は苦しまなかったことは分かっていた。父親が死んだその日、夢に蛇神が姿を現して告げたのだ。他に、鱗道を生かす手段はなかったのだと。
 鱗道に姿を現す前に蛇神は父親と不測の事態について話していたと言う。鱗道を生かすには蛇神の仕事を引き継がせれば良い。土地神とはいえ神の仕事だ。継げば容易に死ななくなる。だが、得る者がいれば失う者がいるのは世の道理。鱗道が仕事を継げば、父親は仕事を失う。その意味を蛇神に話させることなく、父親は息子に選ばせてやって欲しいと言ったという。息子の選択で息子が死んだとしても仕事は最後まで果たす、息子が生きるのであれば引き継ぎは果たす、と。
 父親は鱗道が意識を取り戻し、目を開けたときに己の死を覚悟していたのだ。その上で鱗道にあらゆることを話して遺し、妻にも何かを話して遺していったのだろう。子供は事故に遭い、父親は突然死――鱗道家の不運を周囲はずいぶんと嘆いたが、遺された妻子は大きすぎる悲観を抱かなかった。少なくとも鱗道は父親の最期について、死ぬと分かっていても息子や妻と話が出来た父親の最期は――幸福の一つの形であったと認めたかった。
 それから今に至るまでには、いくつもの出来事がある。猪狩という友の認識を新たにしたことや、恋人が出来ていい雰囲気になるとフラれるのが蛇神の言う『子を成せず、伴侶を得ない』というものであると分かったこと、周囲の集落を失って荒れた神社に取り残された一匹との出会いや、不気味な廃墟に残された本物の贋作との出会い等、等。
 鱗道は選択があったとはいえ、家に準じたことで灰色の世界を強制的に知らされた。関わらないという道は知った時点で皆無である。蛇神に従う者、鱗の道を歩む者――どう足掻いても、鱗道は「鱗道」から逃れることは出来ない。背を向けた期間もあるが、今は諦観に似て鱗道の足は鱗の上を歩き続けている。
 だが――勿論、超常現象を目の当たりにするのは珍しかろうが――どんな人間も似たようなものだと思うようになった。鱗道より選択肢がある者もいるだろうが、様々なことで侭ならず、歩きたい道を歩いている者などどれだけ居ようか。自由かつ自意識で歩く場所を決めているかのような猪狩でも「警察官」という道を歩むことは出来なくなった。似たようなことは誰にだって起こっている。
 ならば、己が歩む道が分かりやすい鱗道は楽な方だ。蛇神の言うとおり、鱗道自身に非がない以上、恨むならば祖先であろう。それにもし彼処で事故に遭っていなければ――どんな道を歩んでいたか想像も出来ない。意欲も興味も薄い己は平々凡々とした道を楽な方に楽な方にと歩んでいただろう。だがその道が今の道よりも楽だという保証はない。また、この年齢まで平々凡々とした道が続いているとも当然限らない。パラレルワールドだとか多重世界だとか――そういったものは在るのだろう。だが、それらが鱗道の歩む道と重ならない以上、嫉妬も羨望も意味はなさない。
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