猪狩がシロに漏らす愚痴を背中に聞きながら、ダイニングに通じる両開きの扉に手をかけた。乾いた湿度を感じることはなく、振り返ってシロを見ても特に言葉も鳴き声もない。ドアノブは簡単に捻られ、扉は呆気なく開く。北を向いた二つの窓明かりは、南のステンドグラスに敵うはずもなく照らされるダイニングの広さから虚ろさを大きく際立たせているようだった。
家の設計をした人物と、実際に暮らした人物の生活の差が虚ろさの原因である。東側のキッチンとの境がカウンター式の調理台のみということもあって広々とした空間だが、屋敷と共に誂えられたと思われる長く大きなテーブルは、端に一脚の椅子が置かれているだけだ。他人や生命を恐れた病弱な男は、この広い空間でひっそりと食事を取って過ごしていたのだろうか。
扉を開いた鱗道の横を猪狩が追い抜いていく。シロがその足下に尻尾を振りながらついていった。猪狩ならばこのダイニングを友人や家族でいっぱいにしたのだろうかと考える。鱗道では精々、シロを遊ばせてしまうだけだろう。
『私には勿論、摂食は不要ですが、昴は食事を取る時に私を同伴させました。小さなパンを鳥のように啄みながら、書籍を指で辿りながら読んで』
「ことの終いには、失敗作には無駄だろうが……ってやつか」
肩に乗ったままのクロの頭を追えば、たった一つの椅子に視線が注がれているようであった。書斎で出会った時の無機質さや無感情さは、鱗道には感じ取れなくなっている。失ったわけではなく、クロはこういう奴だという感覚を鱗道が自分の中に作りつつあるのだろう。
『ええ。そうです。手紙の文面を信ずるならば……その言葉もどこまで本気であったのか、もはや分かりません』
クロが鱗道の肩を離れ、長いテーブルの上に足を下ろす。硬く細い足で器用に埃の積もったテーブルの上を歩き、椅子の前で止まった。
『鱗道、貴方と接触を持ってから、私は大きく変わりつつあります』
高くも低くもない位置で、ぴたりと止まった嘴。椅子に誰か座っていたならば、顔の高さには少し低いが、相手が猫背であったならば丁度良い高さだ。クロから発せられる声の不規則さは、歩み寄る鱗道には意外なものであった。
『昴が他人との接触を恐れた気持ちが、今の私には少し分かる気がします。自分が思っていたこと、考えていたこととは別の角度、別の経験、別の視点を持つ第三者の言葉は、今までの私を壊していくかのよう。けれど、壊されたとしても失うわけではありませんから再構築していけばよい』
複雑で難解な声質、しかし軽やかで絶え間ない言葉、
『それを昴は恐れたのでしょうが、私は、楽しいと思っています。ええ、そう、楽しい――とても、楽しい』
鳥の囀りのように、自然と耳に届くかのような硬質な声は鱗道に向けられたものではなかった。遺されていた手紙の文面にあった、クロならば――鴉ならば為し得てしまうことが、楽しむということだろう。そうであるならば、自分は始まりへと到達したと――たった一人に伝えんが為、届かないかもしれぬと分かった上で、無駄かもしれぬと思いながらも、せずにいられないと祈るようにクロは囀ったのである。
「……俺と話した程度でそれじゃぁ、シロや猪狩と話すと大混乱必至で、楽しいどころじゃないだろうよ」
クロが椅子から頭を動かし、かちかちと足音を立ててテーブルを歩き出してから、鱗道はクロに向かって言った。クロが鱗道の肩に飛び乗ってから寄越した返事は再び硬質で凜と冴えている。
『そうですか』
「ああ、しんどい時もある。飽きないけどな」
鱗道は短く笑った。「グレイ!」と呼ばれ、顔を上げる。二つある窓――一つは、猪狩が前回の脱出時に壊した窓で、ガラスが割れたままになっている――の間に、腰ほどの高さがある空のキャビネットが壁にぴったりと押し付けて据えられていた。短くも湾曲した脚の隙間に、シロが鼻を突っ込んでいる。
『鱗道。気になっていたのですが、何故、晃は貴方を「グレイ」と呼ぶのですか』
「……ガキの頃に付けられた渾名だ。話すと少し長くなる」
猪狩に呼ばれるまま歩を進めた鱗道であるが、クロの問いには億劫そうに返事をした。実際、説明をするとなると億劫である。特別、自分が楽しい話題でもない。が、
『さては精神界に通じ話をする貴方を晃は宇宙人と判断して「グレイ」と』
「髪色と下の名前からだ。シロも言ってただろ。大抵の人間はそうやって呼ぶんだ」
クロのズレた想像に、思わず口早になって返す。屋敷の本で知識ばかりを溜め込んだ鴉は妙な偏りがあると思いながら肩のクロを見上げたが、ふと、歪むはずもない嘴が笑っているかのように見えた。恐らく、少し角度を付けて掲げられているからだ。
『あまり長い話ではありませんでしたね、鱗道』
「お前……分かってて言ったか?」
鱗道がキャビネットの前に到着した時、猪狩はキャビネットの上に懐中電灯を転がしているところであった。不機嫌そうな表情の鱗道に首を傾ぎながらも、キャビネットの下を指差す。覗き込んだ下には、正方形の引っ張り上げて開くタイプの蓋が薄らと見えていた。特筆すべきは、キャビネットの四つ足から伸びて床に刻まれた傷である。風化が見て取れる物が一往復分――昴が地下に下りる時に動かしたものと、その後に屋敷が塞いだもの――と、比べれば明らかに新しい一往復分がある。発見した猪狩が動かしたものと、
「ちなみに、俺に戻す暇なんてなかったぜ」
「屋敷がまた動かして塞いだのか」
これで、全部で二往復。キャビネットは大きいが空であるし、扉を閉ざしたり剥製を落としたりなどと言う今までの荒技からすれば驚くほどの出来事ではない。だが、凄まじい執着だ、というのが鱗道の感想だった。シロはクロの「ぬるっと」と屋敷に染みた意思存在の「ぬるっと」は違う、と言っていた。だが、元を辿れば同じ物であることは明らかだ。「ぬるっと」とシロが評する乾いた湿度は、昴に注がれた呪いめいた思考や執着の指向性である。クロは拭い去ることは出来ねど前進する力に変えて過去の物にしつつあるようだが、屋敷に染みた意思存在はどうだろうか。クロの物とは違う乾き方をしているというのであれば過激な行動を取る動機として成立しうる、放っておけない物に変質している筈だ。
「シロ、下にいそうか?」
キャビネットの脚の隙間に鼻を突っ込んでいるシロを呼べば、ひゃんと小さな鳴き声と、
『うん、いる』
幼げな言い方の割に、緊張感のある響きが頭に届いた。キャビネットの端に潰されていた頭を抜くと、ぶるぶると三回ほど頭を振ってから太い足を蓋の縁に引っ掛けてガリガリと掻く。
『いるけど、蓋があるからかな……なんか喋ってそうな気がするけど、はっきりと聞き取れない』
「おい、コイツを動かすからシロもグレイもどいてくれ」
猪狩がキャビネットを手の甲で叩きながら言い、鱗道はシロを呼んで数歩分離れた。すぐに猪狩が身をかがめて肩を当てキャビネットを押していく。中身が入っていないのもあって大した重さはなさそうだが、車輪も付いていない四つ足は床材を削りながら進んだ。
『シロ。喋っている、と言っていましたね。会話が出来るのですか? ならば、何故、今まで私に何も、接触が無いままだったのです?』
クロが鱗道の肩からシロの頭に移動する。シロは頭を一度大きく沈めてから、再び真っ直ぐに首を伸ばした。くぅん、としか言わない鳴き声と返答に困って口ごもるシロの代弁と言わんばかりに、
「会話が成立すると決まったわけじゃない。言葉を使えても話が通じない相手もいる」
鱗道が説明してやると、シロが同意するように頭を振った。シロの頭の動きに対し、クロは翼を動かしてバランスを取る。結局落ち着かなかったのか、シロから降りて横に着地してしまった。
キャビネットが床を削る音が止んでから、わざと目立たないように作られた地下への蓋の前に鱗道はしゃがみ込んで手を付けた。床の蓋一枚隔てた先に乾いた湿度がある。存在はあり、意思はある。が、鱗道が感ずるものは淀んで濁っていた。クロと比べれば密度が薄い、不純物の多い彼方の世界の気配――クロが何度か言ったとおりにクロほどの明確な意思を保てていないと考えるべきだろう。
鱗道の手を避けた位置に、分厚く頑丈な靴底がゴンと音を立てて落とされた。見上げれば当然、猪狩が立っている。キャビネットから取り上げた懐中電灯を右手で器用に回しながら、
「中は真っ暗だ。照明はあると思うが、スイッチが見付けられてねぇ」
足下を、蓋を、その下を睨むように見下ろす猪狩の目は解体場で見せたような物騒な敵意が滲んでいた。それでも、あの時ほど声や体が語る感情は押し殺されていない。だが、此方の世界に在るものの言外の声を鱗道は聞けなかった。故に、猪狩が何を考えているのかは問わねば分からず、答えられなければ知ることは出来ない。
手をどかせと言う手振りに従って鱗道は手を離して立ち上がり、敵意を滲ませる横顔を見た。
「猪狩、改めて言っておくが……意思存在から話が聞けるとも、理解できるとも限らんからな」
鱗道の言葉に猪狩が顔を上げる。猪狩の表情はきょとんとしたものであった。
「聞き出せるかどうか、ってな話なら、俺が口出し出来ねぇ領域だからお前に任せるって言ったろ?」
「それだけじゃない。内容も……お前が納得出来るものとは限らん」
鱗道はさらに言葉を続けた。
「彼方の世界に、俺達と同じような考えは求めるな」
解体場でもずっと危ぶんでいたことだ。変わらぬ敵意を向ける猪狩を見て、やはり釘を刺しておこうと思ったのである。猪狩は、ああ、と返事か相槌か曖昧な語を放って鱗道から視線を外した。
「俺が大仰な言い回しをしたからか? 珍しくえらく気ぃ回してるみてぇだがよ、グレイ。ごちゃごちゃ考えずに、シンプルに言うぜ」
再び、床へと向いた目に瞬き一つの間だけ――
「俺は、人殺しが許せねぇだけだ」
嘘もなく、正義感もなく、敵意も感情もなく冷淡とも見える無表情が浮かんだ。しかし、先の通りそれは瞬き一つの間に限った表情である。次の瞬きはふっと笑みを浮かべた物で、
「この蓋を開けりゃすぐ階段だ。入り口と階段は狭ぇようだが、あんまり離れんなよ。まぁ、グレイがカミサマの力でどうにかしてくれるんだろうが」
冗談めかして茶化す口調も、普段と大きく変わらない猪狩がいた。鱗道はすぐに言葉を言わず、少し考えてこれ以上言い聞かせることも追及も届かないと判断し、
「いや……蛇神じゃなくシロの力を借りる方がいい。シロは借りてる間も彼方の世界の声を聞いていられるからな」
と、シロを見下ろす。シロは鱗道の言葉にすっと背筋を伸ばし、胸を張るように頭をもたげて長い尾をゆっくりと誇らしげに振った。猪狩は床の蓋の側に膝をついて見事な口笛を吹き、
「なんだ? シロの力を借りるって。カミサマモードにイヌモードってか。なんかお前、すげぇことになってんだな」
からりとした笑いには、残念なことに揶揄がない。猪狩はスイッチを入れた懐中電灯を傍らに置いて、埋め込み式の取っ手に手を伸ばす。
「……その、子ども番組みたいな言い方は止めてくれ。恥ずかしい」
鱗道の盛大な溜め息に、猪狩がまた不可解そうに首を傾いだ。ぎ、っと握られた取っ手が軋み、
「なんだよ、格好良いじゃねぇか」
木材が擦れ合う音を立てて、蓋が開き――
『やっときた』
――鏡のような銀色の水面を露わにする。
猪狩が開く蓋の中を見ていたならば事態は避けられただろうか。否、それでも避けられはしなかった筈だ。どのような状況下において構えていたとしても、行動を決意している者より早く動くことは困難である。銀色の水面は長く伸ばした二本の腕を猪狩の首に絡めようとしていた今が、まさにそうであるように。
「猪狩!」
大して離れていたわけではないが、伸ばした鱗道の手も間に合わない。一度括られている故に、首に物が触れたからという反射で蓋や足下から手を離した猪狩の身体は、引きずられるままに銀色の液体――意思存在と共に地下へと落ちていく。猪狩が言っていたとおり、銀色の水面の失せた下は暗闇である。下から鈍い音と短い呻き声が幾つか上がったが、コンクリート製の階段の先を人間の目で見ることは出来ない。
「待ち伏せしてたのか……!」
軋みを上げて閉まりかけた蓋に気が付き、鱗道は抑えるように蓋の裏側に触れた。異常にざらついた感触に顔を上げて、はっきりと裏の惨状を視界に収めて呻く。元はただの木材である蓋の裏側を埋め尽くしているのは、爪痕に重なる爪痕、隙間に遺された爪の端や黒々と変色した血痕だった。
地下室。対決。屋敷に殺される。行方不明――手紙にあった言葉が、昴のただの誇張表現でなかったことを思い知る。蓋の裏に刻まれた痕跡は、この下で何があったのかを語るには雄弁すぎるほどだ。
「シロ! お前は待て!」
息を飲み込み、掠れた声を張り上げて、地下へ飛び込もうとしていたシロを制止すると、すぐさま、
『なんで!』
ひゃん! と強い抗議の鳴き声と言葉が鱗道に対し発せられた。が、鱗道はシロに返事をせずに扉を押さえたまま、
「クロ、お前、確か少しの灯りでも見える、みたいなことを言ってたな」
クロに声と視線を向ける。突然の出来事に驚いたかのようにぴたりと制止していたクロが、鱗道の言葉に素早く嘴を上げた、
『ええ、その通りです。鱗道。私の視覚機構は光源さえあれば』
「なら、懐中電灯を持って先に降りて猪狩を探してくれ」
懐中電灯は猪狩が既にスイッチを入れていた。片手を蓋から離し、円柱形の懐中電灯をクロの前に置く。頑丈そうな作りで、見た目に反して重く感じたがクロならば足に掴んだまま飛べるはずだ。
「もし猪狩が無事なら足止めとか、意思存在の好きにさせないように時間を稼いで欲しい。俺達も出来るだけ急ぐが、時間がかかるかもしれん」
入り口に顔を突っ込んでいるシロに視線を向ける。下手な唸り声を上げながら時折牙を剥くシロであるが、姿勢は前傾であっても鱗道の言いつけを聞いて飛び込む様子はない。
「ただ、一刻を争うようなら――あと、お前自身も危ない目に遭いそうなら、声を上げてくれ」
シロからクロに顔を向けた。手の平に汗が滲んでいることは分かっている。表情は強張っているはずだ。だからこそ、はっきりとクロに伝えねばならない言葉であった。
「お前の声を、俺は絶対に聞きのがさん」
クロの羽ばたきは素早かった。鱗道の言葉が終わると同時に舞い上がり、両足で懐中電灯を掴むとシロの頭の横をすり抜け、強力で明るい光を伴って漆黒の地下へと飛び込んでいく。光が拡散するタイプの懐中電灯ではない為、覗き込んだ鱗道の目に地下の様子が分かるわけではないが、白い光の筋ははっきりと見えた。
「シロ、お前の力を貸してくれ」
言いながらにシロを見れば、入り口に耳まで突っ込んでいたシロの顔が勢いよく跳ね上がった。先ほどまでは鱗道の制止に納得出来ないまま牙を剥いていた顔が、ぱぁっと明るく表情を変えた。ばさばさと毛量豊かな尻尾を大きく激しく振り回し、
『そっか! いいよ! 前にやったみたいにすればいいんでしょ? 何を貸せばいい?』
柔らかくも冷たい大きな体が、無遠慮かつ手加減もなく鱗道の体に擦り寄ってくる。普段と変わらない様子で、異常な状況下では全く頼もしい犬である。一度目は大きく鱗道の体を揺らしたシロの体は、
「まず耳だ。それから目と――」
二度目になると沈み込むように鱗道と部分的に重なり始めた。三度目となれば大きく崩れ、シロの姿は溶け込むように、背中から白い被毛の塊となって鱗道の体の表面を滑っていく。