コンクリートを重く削る音を上げ、銀色の波と猪狩達を分かつように割り込んだ腕はどちらかと言えば痩せている。なにせ、運動もスポーツも大した経験を積んでいない一般的な腕だ。そんな一般的な腕の肘から先は、クロの目には白い霞が覆っているように見えていた。
伸び上がるように広がっていた銀色の波に、狭い間隔で四本の縦筋が刻まれた。振り下ろされたのは黒いジャケットを着込んだ人間の腕であるが、直接銀色の波に触れていない。一回り二回りと大きく肘から先を包む白い霞――白い被毛と獣の前肢を人間の形に押し込めたような異形の手が、太い爪で意思存在を縦に切り裂いたのだ。腕はすかさず横に薙がれ、また四本の筋が意思存在を両断せしめる。爪は太いが長いものではなく、意思存在が薄く広がっていたからこそ貫通して裂くことが出来たのだろう。切り離されたいくつもの破片が球形を作りながら飛散する。
腕の主、鱗道の視線は普段よりも高い位置にあった。猪狩が体勢を崩していなくとも見上げる位置にあり、足は直接床に触れていない。膝から下を白い被毛を纏った獣の後肢が包んでいて、コンクリートの床に太い四本の爪痕を刻みつけている。
鱗道が暗闇も見通す紺碧の双眸にて見やる、飛散した破片はどれもが球形になっていた。充分な流動性を得られない塊は、床に雨垂れに似た音を立てて落下する。蛇神で触れた時とは違ってすぐに粉々に割れるようなことはなく、床に落ちた意思存在はしばらく震えるように動いた後、表面が鈍色に変わってから砕けた。意思が消えたのではなく、液体金属が変質したのだ。
「蛇神のようには、いかん、か!」
金切り声めいた意思存在の悲鳴を頭に響かせながら、鱗道は獣の前肢を纏った腕を再度振るう。太い爪にかかる感触は、泥に腕を埋めるようなものであった。薄く広がっていた波や布状とは形状を変え、一塊になろうとして厚みを増したからだ。広がれば切断されることを学んだのだろう。ならば抉ってやろうと考えたが、元が犬の前肢であるからか思うように指が広がらない。意思存在に食い込んだ腕を力任せに掻き薙ぐと、白い被毛と爪に触れたところだけが硬質な音を立てて割れていき、腕の勢いに引かれて千切れた部位は鈍色に変わって砕ける。蛇神のように力が伝播して一度で多くを砕くことは出来ないが、千切り細分化していくことで意思存在を無力化することは出来るはずだ。
「遅ぇ、んだよ、グレイ」
ピンと立ち上がった犬の耳が、背後の猪狩の声を確かに聞き取っている。気が緩んだのか、単に体勢を崩したのか、尻餅をついたらしく上がった小さな悲鳴と、
「なんか、お前、変だぞ」
呻き声に紛れたかのような声と、そのまま倒れ込むような音もだ。しかし、すぐに振り返って確認し、返事をする余裕が鱗道にはなかった。
胸の中にある、地より湧くかのような獣の唸り。マグマのように密度の濃い、大きな蠢きと内臓を焼くような熱。
『血の、においがする』
ぐるりと轟く喉鳴りまで身体に響けば、腹の底が冷えるような気がした。鱗道の頭に響く口調は幼いままであるが、声は底無しに低くなり始めている。
『怪我のにおい。肉のにおい。血のにおい』
視界は、光度を増していくようだった。単に明るくなっているのではなく、朱色のインクを垂らされたように染まっていくのだ。
「シロ、待て、落ち着け! おい、猪狩! 怪我してるのか!」
両腕も足も、鱗道の意思から離れ始めていた。目の前にある意思存在を破壊せんと滾るシロの意思が、鱗道の手足を動かし始めている。なんとか隙を縫って背後を振り返れば、猪狩から力が抜けたのに合わせ、腕から抜け出したクロが猪狩の額を覗き込んでいた。
『僅かに額を切っているようですが、多量の出血ではありません』
答えはクロから返される。猪狩も、再度意識を失ったというわけではないようだ。呼吸は荒いが、鱗道が振り返っているのを知ってか知らずか、手が無事を訴えるように振られている。
「シロ、猪狩は大丈夫だ! だから、落ち着け!」
鱗道は振り回される腕を抑え込むことに腕力を使い始めていた。一塊になって目の前の鱗道や奥の猪狩に手を伸ばそうとする液体金属を引きちぎる前肢と、床に広がるのを阻止せんと踏み潰す後肢。意思存在に向けられた、破壊と死滅を求める意思――穢れの衝動は、
「シロ!」
鱗道の声でも、意思存在が上げる金属を削るのと同一の悲鳴でも弛むことも止まることもない。
『ぎぃ、ぃい、いいい、生き物、すばる、すばる、スバル!』
シロの腕に千切られ、構成物である液体金属を削り取られていく意思存在が金切り声の叫喚を上げた。残った液体金属を幾重にも枝分かれするサボテンのように伸ばし、鋭く尖った鋒を形成して鱗道達に向ける。腕二本ではまったく足らない。鱗道がゾッと背筋を冷やしたのは、殺意もないまま死を厭わぬ攻撃に転じた意思存在に対してだけではない。
細かな声や音を拾う耳も暗闇を見通す朱色を宿した目も離れ、手足は自由を取り戻して地面に着地する。鱗道の胸から首にかけて、ずるりと這い出た白い被毛。人間の頭ほどある獣の頭部。鱗道が失ったものは全て胸を食い破るかのように身体から抜き出で、白い獣を形作った。
『僕は、お前を許さない』
緩慢にも見える動きで顎を開く、濡れた太い牙と穢れの熱。燃えるように揺らめく白い被毛に身を包んだ巨躯が銀色のサボテンを押し潰し、四肢の爪で蹂躙する。唯一鋭尖化せずに残った箇所は、赤黒い呼気を吐き出す凶暴な顎が一口で噛み砕いた。
重ねた金属板が一斉に割られたような強烈な音に、鱗道は思わず耳を塞ぐ。音は頭に響いているものだ。意味のある行動ではなかったが、せずにいられない程の音であった。
『ぅあ、あ あ、あ』
対して、嘆きに似た声はか細いものである。地下室の奥を向いている懐中電灯の光に、人間の形もサボテンの形も取れずに這いずり回る意思存在の姿が照らされていた。シロによって分断されながら残ったいくつかの破片が、光の中を這いずる一際大きな一つに戻ろうと蠢いている。コンクリートの床を這いずっているからだろう。薄く削り取られている鈍色が、進む軌跡に残っていた。
『あ、ぁ あ 生き物 に なる ならない と』
液体金属が分断された意思存在の言葉は不鮮明になりつつあった。外気に触れる面積も増えて硬質化していくのを考えれば長くは保つまいが、屋敷に染み込まれればどうなるかは分からない。
ここで、この地下室で、終わらせなければならないのだ。
更に、
『逃がさ、ない』
暗い地下室に白い残像を引いて、シロが駆け出す。本気で走れば風のように駆け抜ける足が蛇行しているのは分断した破片の一つ一つを踏むか噛むかして砕いているからだ。それに加え、重い破砕音が何度となく地下室に響いた。あの声、あの朱色、間違いなく穢れがシロの中で活性化している。穢れによって増長された力を、シロは制御し切れていないのだ。犬の社で、望まぬままに破壊していた時と同じように。
鎮めてやらねばならない。引き戻してやらねばならない。穢れはどれほどの時間でシロを染め上げるだろうか。犬の社の時とは違い、シロは意思存在に対して破壊や死滅という穢れと同じ思いを抱いている。ただ、まだ語調がシロのままであったから、急げば間に合う筈だ。いや、間に合わせなければならない。
『鱗道、シロは一体どうしたのです』
状況に翻弄されかけていた鱗道に、硬質なクロの声が涼やかに届いた。先ほどまで頭を占めていた獣の唸り声や金切り声とは一線を画す澄んだ声に、鱗道は知らぬ間に安堵の息を吐く。今は一人ではないのだ。心強い協力者がいる。
「大雑把に言えば、感情で暴走してるんだ。急いで頭を冷やしてやらないとならない」
『それは物理的に、で構わないのでしょうか』
鱗道の顔の横でホバリングするクロの身体は上下に動くが、頭は正面の鱗道を見据え続けた。とは言え、シロの目も灯りもない中ではシルエットが朧気に分かるだけである。ただ、クロの翼が巻き起こす力強い風が、顔に滲んでいた汗を心地よく冷やした。
「ああ、実際に冷や水をかけてやってもいい。そんなもんがあればなんだが」
『この屋敷の水は井戸水を汲み上げています。配管管理のための地下室ならばそのパイプもあるでしょう。水を扱う設備は西側に集中していますから、丁度、意思存在やシロが向かった方角です。お任せ頂けますか』
頼む、と即座に返した鱗道の言葉を聞き、クロの羽音が部屋の奥へと消えていく。漆黒の鴉は、白い獣とは対照的にその軌跡を全く残すことがない。鱗道は奥を照らしてばかりの懐中電灯を拾い上げると、迷わず床に倒れたままの猪狩の側に駆け寄った。すぐにクロ達を追いかけるつもりではある。だが、猪狩を放っておく訳にもいかず――また、その猶予を残すほど、クロの言葉は力強かった。
「おい、猪狩。大丈夫か」
人物を直接照らすには強すぎる光も足下に向ければ床に光が反射し、顔や姿形を見る光源としては充分であった。鱗道の言葉と肩に触れた手に呼応するように猪狩が短く呻き、のっそりと起き上がる。座り込むので精一杯だと言いたげに、立てた両膝の間に頭を落として右手で目元を覆った。
「傷は」
「大したことはねぇよ。それよりも」
クロが言っていた額を見ようと伸ばした鱗道の手を、猪狩が粗雑に振り払う。声は多少くぐもっていたが、言葉は明瞭かつ聞き取りやすく、
「やるんだな?」
持ち上げられた顔を覆う指の隙間から、左目が鱗道を真っ直ぐに見た。鋭い眼差しには、解体場で鱗道に頼んだ時と同様の冷淡さが強く宿っている。嫌悪や拒絶を明確に臭わせる敵意の眼光は、鱗道に向けられたものではない。分かっていてもやはり、息を飲んだ。
「ああ。始末を付けてくる……お前は、少し休んでろ」
絞り出すような、しかしいつも通りに掠れて感情による起伏の分かりにくい鱗道の声を聞き、猪狩の左目が細められた。目の険が、弦の手放された弓のように急に和らぐ。
「おう、なら、頼んだぜ」
雑に振られる左手は軽く、返された声も言葉も軽いものだ。笑むかのように和らいだ目であるが、瞳には冷淡さとはまた別の、乾燥しきった複雑な感情が滲んでいるように見えた。
猪狩の応答に問題はなかった。これ以上確認すべきことはないだろう。鱗道は猪狩の言葉に頷いて立ち上がる。背を向けた直後、
「すまない」
低い小さな声が不明瞭に、ぽつりと言葉を落とした。振り返ろうか、という逡巡は短く、
「……どういたしまして」
と、呟くように言うに留めた。猪狩には聞こえなかったかもしれないが構わず、鱗道は足早にその場を立ち去る。意思存在とシロと、クロの後を追わねばならない。懐中電灯が照らすコンクリートの床には標のように、四本の爪痕がそこかしこに刻まれていた。