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『鱗道。貴方にお願いがあります』
 黒々とした砂山から離れようと身体の向きを変えたと同時にかけられたクロの言葉に、鱗道は視線を向けようとして諦めた。先ほどは視線を合わせるために離された身体が、再び寄せられている。強く押し付けられてはいないが見て欲しくないと訴えるような姿勢に従ってやり、なんだ、とクロの言葉を促した。
『意思存在の言葉を、晃には伝えないでいただけませんか』
 硬質な声は今までの中で最も冷たく、悲愴な感情に溢れている。猪狩にが意思存在の話を聞く意思があることは、クロも当然知るところだ。それを知ってもなお、伝えがたい内容であったと判断したのだろう。クロの言葉に鱗道は頷いて、視線を足下へと向けた。
「そのつもりだ。真っ先にシロの耳を借りてたんで……地下に降りたお前と意思存在の会話から聞いていたよ。動機とか……区別がついてなかったこととか。猪狩には何も言わん」
 それに、と言いながら鱗道は足下へ向けた目を細めた。目を細めたことで滲んだ視界で、濡れたコンクリートが懐中電灯の照り返しによって揺れているように見える。それからゆっくりと、砂山から離れるように鱗道は歩き始めた。
「アイツが変に熱くなってるのは身内に被害が出てるからだと思ってたが……どうもそれだけじゃなさそうだ」
 猪狩らしい台詞の一つだと、普段ならば終わる言葉だ。しかし、猪狩は今日一日、些細な言葉の全てに気を払いながら、時に本音や事実を滲ませてきた。で、あるならば、強く感情が滲んだ声には言葉以上に強く、確固たるものが込められている筈である。「人殺しが許せないだけ」だという、いかにも正義感に熱い猪狩らしい――しかし、まったく正義感など宿っていないような言い方をされた言葉にも、見えない何かが潜んでいる筈なのだ。
 だが、潜んでいる何かは、猪狩にも恐らく無自覚なものだろうと鱗道は思っていた。もう隠し事はしない、と当人が言い切った以上、猪狩の性格を考えれば意識的に隠すことは有り得ない。猪狩は至極自然に、シンプルに物事を考えた結果で言葉を発したのだ。そこに潜んだものは当人も無自覚のまま滲み出た物であり――だからこそ、それが何であったかと確認することは困難である。当人も無自覚の強い感情、その詳細が知れない状態で、人間の理外にある彼方の世界の感覚を伝えることは危険でしかない。
「……少なくとも、今は言うべきじゃないとは、俺も思ってる」
 言いながら考えながら歩いてしばし、そろそろ猪狩とシロも近いのではないかと思って前方に懐中電灯を巡らせると、
『目がいたい!』
「眩しいだろ! 気を付けろ!」
 地下室に反響するきゃいん! と子犬めいた鳴き声と低い男の声に思わず肩が跳ねた。全く反応がないのは鱗道の肩に落ち着いているクロくらいなものである。クロの場合は反応していたとしても周囲に気が付かれていないだけ、という可能性もあるのだが。
「すまん、わざとじゃない」
 鱗道は懐中電灯を自分の足下に向けながら、一瞬照らし出された影と声の方へ向かう歩を早めた。ただのコンクリートの地下室で、足場にそうそう危険が転がっているはずもない。経年劣化による多少の亀裂などがあっても、銀色の水面が広がるようなことは二度となかった。
 猪狩とシロは移動していたようで、出入り口から差し込む光が少しだが届いて、懐中電灯がなくとも多少はシルエットが見える所に座り込んでいた。それでもはっきりと顔色や表情が見えるわけではない。足の間に座らせたシロの顔をぐしゃぐしゃに撫で回しながら、
「お前の主人のわざとじゃない、は信用ならねぇぞ」
 と、愉快げに愚痴をこぼす猪狩の声色が楽しげであり、鱗道が近付いたことで懐中電灯が床に反射し、多少見やすくなった表情が普段と変わらないと分かる程度だ。
「猪狩、怪我の具合はどうなんだ」
「ああ、やたらとシロが舐めてきやがるからなんだと思ったら、額が少し切れてたんだな。血はもう止まってるぜ。後頭部はコブと擦り傷もあるかもしねぇが……ああ、コイツは完全にお釈迦だ」
 胸元でひしゃげていた偏光グラスを振りながら笑ってみせる猪狩であったが、晴れやかとは言い難い笑みであった。少し疲れて見えるのも当然である。鱗道を巻き込んだ猪狩が、一番散々な目に遭っているのだ。
「やってくれたか、グレイ」
「ああ。人間一人分を作る程固まってたんだ。あれが全部でないにしろ、殆どは砕いた。少し残っていたとしても、長く保つもんじゃない」
 そうか、という猪狩の声は溜め息が混ざっていた。シロの頭上を跨いで、猪狩は鱗道に手を伸ばし、
「ちょっと貸してくれ」
 要求しているのは懐中電灯らしい。鱗道によって乗せられた懐中電灯は、猪狩の慣れた手つきでくるりと回されてから床を照らし始める。何かを探すような光の動きに鱗道が、
「……骨なら粉々だ。多分、何十年と意思存在が抱えてたんだ。窓の木材と同じように、酷く脆くなってたんだんだよ」
 シロの目を借りている時に見た光景を、瞼の裏から引っ張り出しながら答える。クロを庇うために猪狩があっさりと手放し、床に落下した頭蓋骨の末路。砂で固めたように、まさしく粉微塵になっていくのをシロの目は見逃させてくれなかった。
「粉々になってくれりゃぁいいいさ。戸籍上も昴爺さんは死人扱いだ。変に残られても説明が面倒くせぇしな。ナイフと頭以外は……後日探すとするか。お前も手伝っていいんだぜ? グレイ」
 昴を殺した意思存在に対して壊して欲しい、始末を付けて欲しいと言ったとは思えない程の乾燥した物言いに、鱗道は目を細めた。やはり、猪狩の強い敵意は身内を殺された故に抱かれたものではなく、人を殺した存在そのもの、もしくは行為そのものに向けられているように思えた。
 当然の思考だ、とは思う。鱗道とは対照的に、元々正義感の強い男であったのだから余計に。だが、やはり妙だと、らしくないと思えてならない。嫌悪や忌避などといった倫理観や正義感から向けられる感情ではなく、いっそ憎悪に近いと感じるのだ。生憎、猪狩はただの人間であるから、鱗道が彼方の世界の住人から感じ取るようには出来ず、感ずる程度は知れているのだが。
「……それは、俺向きじゃないだろ。シロを貸すのは構わんが」
「そうだ! シロで思い出したぜ! お前、勿体ぶってやってきたなと思ったら、なんか妙だったな。ありゃ、何だ」
「ああ……話が長くなるな。まずはここから出ないか。お前のことだ。鞄に手当てできるようなもんも入ってるだろ」
 鱗道の言葉に猪狩は顎を掻いて、それもそうか、と言いながら立ち上がった。立ち上がった足は震えることもなく、懐中電灯を足下に向けたまま鱗道に差し出し、
「屋敷野郎はなんて言ってた?」
 猪狩は出入り口から差し込む光を背にしている。床の反射は長身である猪狩の顔まで届かない。低い声は常と変わらず、力強く腹に留まるようなものだが、逆光であり立ちはだかるような猪狩の表情は、なんの力も借りていない鱗道にはただ影が覆うばかりである。
「いや、何も。クロほど意思がしっかり残っていたわけじゃないらしい」
 間髪を置かない鱗道の言葉に、猪狩はしばらく黙っていた。影で顔を見ることは出来ないが、じっと見下ろされていることは分かる。言葉の真意を測るような目だ。居心地が良いとは言えない視線は、鱗道が想像していたよりも早く外された。
「まぁ、いいさ。お前が言わねぇと決めたなら、俺はこれ以上知ろうとしねぇよ」
 鱗道に対して呆れるような溜め息は苦笑いが混ざっている。鱗道から外された顔は薄明かりでもぼんやりと光るようなシロに向けられて、行こうぜと言葉と共に促した。半ば、鱗道に背を向けて逆光から抜け出た猪狩の表情は苦笑いが混ざっているとはいえ、おおよそ同い年には見えない溌剌としたものであった。
 シロが猪狩を先導するように歩き出し、猪狩はシロに何やら声をかけながら大股でその後を追う。足取りにふらつく様子は見られず、階段を跳ねるように上っていくシロには賞賛の言葉を投げているようだ。シロのひゃんひゃん、と楽しげな声が少しだけ地下室に響いた。
『すぐに嘘だと見抜かれましたね』
 二人に遅れてゆっくりと歩き出した鱗道の肩で、クロが驚きを伴う声で言った。階段を上りきる直前の猪狩が、蓋の裏を一度撫でてから上っていくのを見ながら鱗道もまた、階段に足をかける。
「そりゃぁ、アイツは元警官だ。嘘を見抜くのも仕事だったろうから、俺の嘘なんてバレて当然だ」
『鱗道。まさか、貴方は見抜かれると分かっていて嘘をついたのですか?』
 硬質な声に混ざる驚きが、さらに一段上がっている。鱗道は肩を竦めようとして、クロの重さにそれを諦めた。
「俺も言うつもりはなかったし、協力者の頼みを聞かないような冷血漢じゃないんでな」
 また一段、一段とゆっくり鱗道が階段を上っている間に、多弁な鴉から二の句はなかった。上りきる前に、階段を塞ぐ蓋の裏面を再度目の当たりにする。爪痕、爪痕、血痕――叶うことはなかったが、生きようと足掻いた証だ。最後まで可能な限り、諦めずに足掻いた証拠である。
 階段を上りきって、地下室を閉ざそうと蓋に手をかけた。ダイニングの灯りが階段に差し込んでいる。そこに、じっとりと濡れたような青いローブの裾から伸びる二本の足が見えた。足を辿れば胸程まではかろうじて見えるが、肩から上に関しては完全な影になり見ることが出来ない。透けた手は階段に向かって伸ばされていた。光の中では一層霞む痩せた手は助けを求めるようではなく、別れを告げているか天井もしくはもっと上を示しているような仕草に見えた。
 鱗道の三度の瞬きの内に人影はすっかり消えている。四度目の瞬きはそのまま目礼として、階段下の影に送った。

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