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「いってぇ! 目に入るだろうが!」
「後頭部も擦り傷があると言ったのはお前だ。手っ取り早いだろ」
 エントランスのステンドグラスは色付きの陰を失っていた。見上げればまだ外が暗いわけでもなく、ガラスの縁がちらついている。強く差し込む光よりも中から見る方が味があるなどと思いながら、鱗道は消毒液の蓋を閉めた。
「だからって本当に頭にぶっかける奴がいるか!」
 古い椅子に腰掛けた猪狩がまるで犬のように頭を振る。消毒液が飛び散るのを猪狩の背後に回りながら回避して、鱗道は救急セット――猪狩の鞄の中に入っていた小箱の正体である――に空になった消毒液を放り込んだ。代わりに絆創膏を取り出してやると、恨めしげな視線を寄越しながらもすっかり消毒液にまみれた髪を掻き上げて猪狩がひったくるように掴む。
「俺がいたな。これで少しは懲りてくれ」
 もう一脚の椅子に腰を下ろし、前傾の姿勢でわざとらしく溜め息をついてやった。猪狩は濡れた手で絆創膏の紙ケースを破り捨てているところだ。
「お前の性分は知ってるが、今回は無茶が過ぎる。二回、死にかけてるんだぞ」
「耳に痛ぇな。別に、甘く見てたわけじゃねぇんだが」
 猪狩は短く区切った笑い声を上げながら、手探りで器用に絆創膏を額の傷に貼り付けた。あっているかと鱗道に顔を向け、睨まれたまま返事がないのを肯定と捉えたらしい。椅子を軋ませながら深く腰掛けなおし、背もたれに後頭部を押し付けるように天井を見上げて、
「今回は反省しねぇとなぁ……っと、そうだ。グレイ、色々聞かせてくれよ。地下のお前、手足がぼんやりしやがって、目も妙だっただろ。それに、お前等が奥に行ったと思ったらすげぇ音がしたし、シロはなんであんなに濡れてやがるんだ」
 猪狩の親指が、二階の廊下を走り回るシロを指差した。時折足を止めて身体を振って水気を払うシロはすっかりいつも通りである。暑い季節ではないが、走り回れば乾くのではないかと鱗道が言ったのを素直に実行中なのだ。
「先に、シロから話すか……お前が怪我をしたことで、海の時みたいに穢れが動き出したみたいでな。頭を冷やさせるために、クロに給水パイプを壊して貰ったんだ。それが音の正体で、結果あの辺りは水浸しになってな」
 鱗道の口からクロの名前が出たことで、テーブルの上で救急セットの中身を興味深げに覗き込んでいたクロの頭が持ち上がる。猪狩がクロと鱗道の顔を交互に見ながら、
「給水の? ああ、井戸の汲み上げの奴か……マジかよ。そりゃぁ、すげぇ音も上がるし、派手な水音も――っておい、待てよ、じゃぁ、水が出っぱなしになってたんじゃねぇだろうな」
「いや。最初に勢いよく吹き上がったと思ったらそれっきりだった。すっかり涸れてたんじゃないか?」
 慌てて身を起こしかけた猪狩が、鱗道の言葉にゆっくりと背もたれに身体を預けた。椅子の悲鳴じみた軋みなど意に介さず、
「そうか。ずっと使われてなきゃ涸れるってよりは埋まっちまってたのかもな。後で発電機も止めりゃぁ大丈夫だろ」
 今度はテーブルの上に肘をついて、顔を向けないままに鱗道を指差した。
「それで、あのぼんやりとしたお前の腕や足、目は一体なんだったんだ? しかもあの時のお前……はっきりと見えたわけじゃねぇが、階段の方から飛んでこなかったか?」
 ゴン、と上がった音に、救急箱の蓋を閉じていたクロが一回だけ跳ね上がった。じっと猪狩にしばらく顔を向けてから歩き出し、テーブルの縁へと移動する。
「シロに借りるって言っておいただろ。あれがその結果で――ぼんやりとはいえ、お前にも見えてたんだな……使いどころは考えなきゃならん問題だなぁ」
 独り言じみた言葉を言いながら、鱗道は頬杖をついて考え込んだ。実際に、鱗道はシロの足を借りて跳躍して一足飛びに意思存在の前に着地した。あそこまで跳べるとは鱗道も想像をしていなかったことである。人間離れした動きは人前で出来るはずもないが、猪狩のような一般人にも借りているシロの形がぼんやりでも見えるとなればより一層使いどころを考える必要が出てきたのだ。
「ああ、じゃぁ、アレがイヌモードか!」
「その言い方はやめろ」
 思わず頬杖から顔が滑って、鱗道はそのまま猪狩を睨んだ。しかし、
「なんでだよ。すげぇ格好良いじゃねぇか!」
「……中学の頃からこの手の感想が、本当に変わらんなぁ、お前……」
 猪狩の目は煌々と輝いたままである。羨望も憧憬も足して割らずに撹拌しただけ、という三十路男の感想に思わず肩を落とした。浮かぶ表情も昔と全く変わっていない。映画やドラマでもアクション性が高い作品を好み、気に入れば真似できないか取り入れられないかと研鑽し出すような男である。趣味嗜好として仕方がないと言えばそうなのだろうが、どうにも気が抜けてしまう。更には、
「待てよ……じゃぁ、昴爺さんの残りを探す時にシロを借りれば俺も」
 などと意気揚々とした声が上がれば、
「いや、お前は混ざれんと思う。そういう意味で貸せるわけじゃない」
 叶わない願いを早めに砕いてやるのは人情というものだ。
「……つまんねぇな」
 本気の舌打ちと意気消沈を発して、猪狩が立ち上がった。救急セットをテーブルから掴み上げて、乱暴に鞄に放り込む。サバイバルナイフの鞘もそこに入れられていた。本体のナイフは後日に探すらしい。
 猪狩は鞄を肩に提げると、シロ! と大きな声で呼び掛けた。呼ばれたシロが階段の殆どのを飛び越してエントランスまで降りてくる。廊下を走り回っている間に毛はすっかり乾いたようで、白い被毛は妙な癖がついているものの先ほどまでの酷く痩せ細った姿からはほど遠い見慣れた形に近付いていた。
「扉を破るぞ! 思いっ切りぶつかっていいぜ!」
 従順にも猪狩の手招きに従って、玄関扉の前までついて歩くシロが、
『いいの!? 思いっ切りぶつかっていいの!?』
 ひゃんひゃん! と返事をする。勿論、猪狩に言葉は通じていないが、足下に絡み付くような動きや、扉の前で忙しなく伏せたり立ったり、前足で掻いてみたり後ろ足を蹴り鳴らしたりとした動作で意見は把握したのだろう。猪狩は誇示するように玄関扉を手の甲で三回叩いた後、低いタックルの姿勢を取った。
「手加減なんかするんじゃねぇぞ、シロ! せぇの!」
 人間でも大型の部類である身体と、犬でも大型の部類である身体が揃って勢いよくぶつけられれば、年代物の大きな玄関扉が耐えられるものではない。鈍い音と振動が屋敷中に響き渡り、蝶番がはじけ飛んで、扉自体も外に向かって倒れ込んだ。シロは扉と共に見事に屋敷の外へと転がっていく。シロをけしかけた猪狩は、残った扉をしっかりと掴んで身を留めながら口笛を吹いた。
「……酷いな」
「俺の屋敷だぜ? どう扱おうと俺の勝手だ」
 鱗道が遅れて椅子から立ち上がり、クロがその肩に乗った。猪狩に肩を並べて、鱗道は外を覗き込む。
「そっちじゃない。シロの方だ。おい、大丈夫か、シロ」
 鱗道がいた場所からでも、玄関の土台に倒れた扉の上で白い毛玉がワンバウンドするところまでは見えていた。砂利と雑草の上を転がって跳ね回ったらしく、シロは落ち葉や泥や土にまみれて真っ白い身体が見る影もないほどのブチ模様に変わっている。
『楽しかった! でも、扉壊れちゃった……』
 ヒャン! くぅん、と高低差激しい子犬の鳴き声に、耳と尻尾を完全にリンクさせながら、シロは自分達で倒した扉の縁を名残惜しそうに前足で引っ掻いた。
「外に出られるらしいな。屋敷の邪魔は入らねぇ、っと」
「……お前、シロで試したのか」
「その気がなかった、つったら嘘になるな。あんなに見事に飛び出すとは思ってなかったぜ」
「やっぱり、酷いな」
 シロを追おうとした鱗道の前を遮るように、猪狩が右腕を伸ばした。なんのつもりか、と猪狩の顔を睨んでみたが、猪狩は鱗道を見ていない。その目は真っ直ぐに、
「クロ。来いよ」
 鱗道の肩に止まっていたクロを見ていて、名を呼び、右腕を示すように左手で叩く。クロはしばらく動かずにいたが、跳ねるように鱗道の肩から離れて猪狩の腕に足をつけた。
「うぉ……っと。さっきも思ったが、結構重てぇな。グレイ、お前、よくこんなんを肩に乗せてたな」
 沈み込んだ腕を支えながら、猪狩は玄関に向き合って改めてクロに顔を向ける。ふっと、短く息を吐いた猪狩の表情は真剣であった。
「昴爺さんのことはよく知らねぇ。手紙を読んでも、屋敷を見ても、俺とは気が合わねぇだろうってのが分かるくらいだ。でもまぁ、お前の今後に関しちゃ、昴爺さんと考えは一致してると思うぜ」
 大らかで懐深いとも、大雑把で馴れ馴れしいとも言えるのだが、猪狩は基本的に真っ正面から向き合う性格だ。初対面であろうと旧友であろうと、生き物であろうとなかろうと関係がない。大きな一歩はあっさりと玄関を跨ぎ、クロを乗せた右腕は大きく振り上げられた。勢いに乗って広げられたクロの翼が風を掴み、黄昏を迎えようとしている青や橙の混ざった空を高々と黒い影が上った。
「やっぱりよぅ、鳥は空を飛んでこそだな!」
 天高く捻った軌道が倒れた扉の上を堂々と歩く猪狩の眼前に下りた。クロのホバリングは上下に揺れるがそれでも顔は正面、猪狩を真っ直ぐに見ている。
「お前は自由だ、クロ。後はお前の好きにしろよ」
 クロの嘴が大きく開かれ、強く閉ざされる。カツン、と澄み渡った音を打ち鳴らし、力強い羽音が再びクロを天高く上らせた。まるで黄昏を切り裂くように一般的なカラスよりも大きな影がぐるりと頭上を旋回するのを、屋敷から出た鱗道も見上げる。
「これで終いか? 猪狩」
 革ジャケットの背中はコンクリートの上を引きずられたせいでボロボロの酷い有様だった。じっと空を見ている猪狩にそれを知らせてやるため、背中を突いてやりながら鱗道は肩を並べる。鱗道の仕草にジャケットを脱いだ猪狩が、修復など到底無理な背中の状態に顔をはっきりとしかめさせて、
「まさか! まだまだやることが山積みだぜ。親戚になんて報告するかも考えなきゃならねぇんだよ。まさか、昴爺さんのオカルト趣味で、とは言えねぇだろうから、それらしいことを考えなきゃならねぇし……ああ、叔父貴は信じてくれねぇかな。あの人を味方にしとくと後が楽なんだよ。それから、金目のモンや土地なんかの手続きも確認しとかねぇと。なんにせよ時間が欲しいぜ。ジャケットを駄目にしちまったのも、麗子になんて言えばいいんだ……そろそろ落ち着いてとか、また小言を言われんのか……」
 言い始めはそれなりに覇気があった言葉も、徐々に弱くなっていく。現在直面する大きな悩みが麗子絡みであることが、如何にも猪狩らしいと思えた。
 麗子の小言が服を台無しにしたことではなく、猪狩を心配するが故であることに猪狩は当然気が付いている。だが、猪狩は麗子の言葉となると素直に聞きすぎるのだ。麗子も賢い女であるから分かっていて言葉を選び、手綱加減を調整している。日常では楽観視の傾向が強い猪狩を、想像の段階で締め付けて見せているのが良い証拠だ。
「本当に、麗子はお前の扱いが上手いなぁ」
 猪狩の睨むような視線から逃れるために鱗道は歩き出した。倒れ込んだ扉を下りた先で、汚れまみれのシロに手を伸ばす。一応、これから車に乗り込むのだから落とせるだけの汚れは落としてやらねばならないとその体を何度も叩いた。シロもまた大きく体を震わせて、被毛に引っかかっていた落ち葉や砂利を周囲に撒いている。
 シロの汚れを鱗道が落としている最中、屋敷の中に戻って発電機のスイッチを切ってきた猪狩が、
「……なぁ、グレイ。さっき、クロが俺の前に下りてきた時、クロはなんか言ってたか?」
 ジャケットを肩に羽織り、頭上を見てから鱗道に問う。シロの頭に絡まっている葉を摘まみ上げながら、鱗道は猪狩の言葉に対して首を横に振った。
「いや。何も言ってなかったが……なんだ?」
「大したことじゃねぇよ。何も言ってなかったなら、一回、ってことか」
 後半は殆ど独り言だったらしい。ジャケットの胸ポケットから車の鍵を取り出して破損がないか確認しながら、猪狩は自分の車に真っ直ぐ歩んでいる。シロを見る限り汚れが付いていないことを確認して、鱗道もまた猪狩の車に向かって歩き出した。
「お前、運転しても大丈夫なのか?」
 鱗道に呼ばれ、猪狩が肩越しに振り返る。鱗道が自分の頭をトントンと指で打ったことで、言わんとしたことは伝わったようで、
「痛くもねぇし、目眩もしねぇし、ふらつきもねぇよ。まぁ、帰るには時間がかかるが休憩を取りながら行くか。お前にハンドル握らせるよりはマシだもんな」
「人聞きが悪いことを言うな。まぁ……もう随分と運転してないが」
 鱗道の言葉を聞いた猪狩が、おお怖ぇ! と大袈裟に肩を竦めて足早に運転席側に回る。仏頂面のまま歩む鱗道の足下で、シロが『鱗道も運転するの? 車乗れるの?』と聞いて来たが返事はしなかった。

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