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「なんだよ、クロからは音沙汰なしか?」
一階の物には触れていい、と言われてから数個の行李を開け始めた猪狩が、ずっと天井を見上げている鱗道に声をかけた。鱗道は短い返事のために視線を下ろしかけたが、結局、すぐに天井を睨み付ける。
「睨み付けたとこで、天井は透けやしねぇだろ。お前の見立て通り、二階に物が多いなら単純に時間がかかってるだけじゃねぇのか。何かあった、ってな雰囲気もないのかよ」
「ああ、変わらん。相変わらず、言葉が聞き取りにくいだけで……」
ふぅん、という適当な相槌と、これも空だ、という猪狩の独り言を耳にしながら鱗道は目を細めた。二階から漏れ聞こえるような声にクロの凜とした硬質な声はないままだ。また、二階で交わされているらしい言葉は上手く聞き取れないが、好奇心や興味以外の感情が声質に滲んでいるということもない。
だが、思い直せば言葉が聞き取りにくいというのが、妙ではないか。「鱗道堂」の一階と二階では確かにシロやクロの言葉も聞き取りにくいが蔵の天井は低く、踏み台を二段も上れば鱗道でも天井に手が届きそうなものである。〝此方の世界〟の物体を加味しても建物の素材や作りも違い、距離も近いというのに店よりも聞き取りにくいというのは可笑しい。語っている付喪神の力が弱いのもあろうが、それにしては鱗道が声質から感情を感じ取っている。鱗道が〝彼方の世界〟に対する感覚で長けている「聞く」ことよりも劣る、「感じる」ことは出来ているのだ。
「っかし、お前が手入れが行き届いてると太鼓判を押すような神社が、いくらなんでも蔵一個、そんな中身が分かんなくなるまで放置しとくもんかよ。多忙ってんなら、もっと早くお前に言えばいいってのに、狸ジジイも死んでから頼みに来るかァ? ボケてたんじゃねぇのか、あのジジイ」
空の行李を閉じて担ぎ上げて蔵の出入り口近くに積み上げだした猪狩の一言に、鱗道は視線を下ろした。
「……そういえば、そうだな」
確かに、その点も妙である。鱗道が足繁く神社に足を運ぶようになったのはシロを迎えてからであるから、かれこれ十年以上は経っている。その間も勿論、狸神主とは顔を合わせていたし、互いに相談事を交わすこともあった。機会など幾らでもあったし、亡くなる直前までボケていた様子もない。なのに、蔵の話など狸神主から一度とて聞いたことがなかった。
「死んだ後にまで頼みに来たって事は、カミサマ沙汰は確定なんだろ? 俺としては飯種が決まったようなモンだから有り難ぇが、なんかあったら、俺に何が出来るってんだ」
首の後ろで雑に結んだ髪の付け根を掻きながら、猪狩が落ち着かないように言い捨てる。物事において用意周到に臨みたがる男を、鱗道の不注意で巻き込みかねないのは相手が猪狩であっても、あるいは猪狩だからこそ心苦しい。いや、しかし――と迷いながら、やはり帰るか――と、鱗道から聞き直そうとした直後、
『鱗道』
聞き慣れた硬質な声に鱗道は顔を上げる。待ち望んでいた声であり、言葉は聞き取れるがやはり――何か一つ隔てているような、いつもはないくぐもった響きがあった。クロの声は間を置かずに、
『申し訳ありませんが身動きが取れません。ご助力願います』
手短すぎる言葉で己の異常を報告する。
「どうした。どこかに挟まったか?」
鱗道は己の声が届くように階段に一歩足をかけて声を張り上げたが、最後の一言は息を飲む形で途切れた。クロの抑揚の少ない、冷静で平坦な声は状況の緊迫感を訴えるには不便すぎると、鱗道は眉をひそめる。
階段の上は、不自然に霞んで見えた。煙や埃にしては動きがなさ過ぎる。薄い葉や布を重ねた幕を下ろしている、と言った方が見た目の感覚には近い。だが、実際に幕が下りているわけは当然、なく――
『いいえ。おそらく、何者かに拘束されたものと思われます。ただ、私の視覚には何も見えておりません』
だろうな、と鱗道は口の中で小さく呟いた。クロが語っている最中に、不自然な霞は溶けるように鱗道にも見えなくなった。二階にいる何か――クロを拘束し、霞を発生させている原因が一階に鱗道がいることに気が付いて見えないように調整したのだろう。二階の声が聞き取りにくいこともこの霞にあり、クロに気付かれないまま〝此方の世界〟の体を拘束するほどの影響を及ぼしていることを考えると、二階にいるのは相当な力を持った存在である。
クロは二階の灯りを灯していたらしく、暖色が階段上――二階を照らして浮かぶ陰影はある。四角い影は棚か箱か。それ以外らしい形は、少なくとも目には見えない。
「おい、グレイ。クロに何があった」
鱗道の僅かな表情の変化を見逃してはくれない猪狩が、鱗道の肩に手を乗せる。振り返れば、鱗道を退かして階段を覗き込もうとしている強い剣幕に思わずたじろぐ。前門の霞、後門の猪狩となれば、鱗道が進む先は決まったも同然。
「すぐに行くから待っててくれ」
まずは、猪狩に退かされないよう足に力を入れて二階へ声を上げる。クロから『はい』と短い返事を受け取ってから猪狩を振り返った。無謀に走らなくとも蛮勇を奮うことのある男は、異変を感じながらも鱗道からされる筈の状況説明を待っている。鱗道は猪狩に向かい合ったまま、少しの間言葉を探した。クロが何らかの存在に捕まったようだ、と端的に伝えれば猪狩は階段を駆け上がってしまうだろう。二階に満ちている霞は、得体も効果も分からない。そんな中に、霞が見えない猪狩を飛び込ませてしまってはクロの二の舞になりかねない。
二階に、何かが棲んでいる。だが、その正体も、性質も、力の使い方も分からない。その状況をどう説明したものか――と、考えてはみたものの、
「状況が一切分からん。クロじゃ感知できない相手らしいんで、俺が直接行って見てくる。何かあれば呼ぶから、お前は待っていてくれ」
誇張や偽り、隠し事などはせず、事実と率直な感想をいつものように述べる、という結論に着地した。猪狩は待機指示に一瞬不満げな表情を浮かべたものの、鱗道と鱗道に報告をしたはずのクロでも状況が分からない、という事で多くのことに気が付いている。「カミサマ沙汰」であり、実際に不可解な状況であり、現時点で猪狩に出来ることはない、ということに。
だからこそ、表情に不服を滲ませても黙って頷き、鱗道の肩を掴んでいた手を離して背中を押した。自らは一歩引いて、
「気ぃ付けろよ」
と、低い声で言うだけに留めて。
鱗道は猪狩の言葉に頷いて、狭い階段をゆっくりと上り始めた。階段の軋みは心なしか湿っている。足下を確認したが、階段には霞のような物は流れていない。霞に似ているだけで流動的な物ではないのか、力の主が上手く隠しているのかはまだ分からない。
『原因そのものが私には不可視のようです。二階に上がってしばらくの後、体に抵抗を感じ始めて動けなくなりました。翼を畳んだが最後、広げることが出来ません。翼や嘴を直接貼り付けられたというより、何かを巻き付けられた感覚ですから、粘着性の物とは考えがたく、故に拘束という説明になりました』
鱗道が階段を上り始めた音を聞いたクロが、再び状況説明を開始する。クロの場合、触角はないので感触の詳細は残念だが頼れない。だが、振動や機構に対する抵抗には敏感であるから、粘着質のもの――例えば、鳥もちめいたものにくっ付いて動けない、という状況ではないことは確かなのだろう。
『それと、私にも僅かに聞こえていた声が、貴方に呼び掛けてから一切聞こえなくなっています。私の声は聞こえているのでしょう。当然、この報告も聞かれているものとしてお話ししています。今現在は語っていないのか、私には聞こえない声にされてしまったのかは分かりませんが――どうぞ、鱗道。お気を付けて』
聞き遂げている間に、鱗道は階段を上り終え、首はすっかりうな垂れていた。クロを拘束する手腕も、クロの言葉を聞いて内容を把握している筈の知性も、二階を霞ませるほどの影響を不可視にする加減も、一筋縄ではいかない実力者を体現しているからだ。そして、それ程の存在が、鱗道が階段を上り終えても未だに、何の反応も見せていない。唯一の幸いは、クロに対して攻撃ではなく拘束という手段を用いていることだ。攻撃的で排他一辺倒の存在ではなく、対話による解決の可能性が残っているとも言えよう。
顔を上げる。二階を見渡す。天井は低く、屋根の形そのままだ。梁は思わず身を屈めそうになるほどの高さだ。梁から垂れる電球はクロに灯されていて、暖色の光が床に落ちている。一階に比べて明るいと感じるのは電球との距離だけでなく、雰囲気や賑やかさで勝っているからだ。
鱗道が想像していたとおり、蔵の二階は物量が多かった。高さが腰ほどの和箪笥は二つしかないのだが、階段を除く三方には大小様々な紙箱や木箱、行李などが平積みで並んでいる。それらの引き出しや扉、蓋が素材に合わせた音を立てながら思い思いに開閉していた。入れ物自体や中身の好奇や興味の視線は今、階段を上ってきた鱗道に向けられている。殆どが単語か不明瞭ながら好奇心と興味深げな囁き声の種類も実に豊富である。二階にある物の殆どが、付喪神かまだ成れていなくても少々の意思を持つに至った物ばかりらしい。一階でこれ程の声が聞き取れなかったのは、やはり、今は見えない二階を満たしていた霞にあるのだろう。
「邪魔するが、俺は連れを迎えに来ただけだ。クロ、何処だ」
鱗道は手短に用件を告げ、クロへと呼び掛けながら中心に向かって歩み出した。歩み出した足に、薄手の何かが絡み付く感触が掠めて一歩引く。風に吹き飛ばされたビニール袋が絡んだような、海中でクラゲを引っ掛けたような――薄い暖簾を潜る時のような、軽くも確かな引っかかりであったが、目には何も映っていない。改めて踏み出した一歩には同じ感触はなかった。
『ここです。鱗道』
クロからはいつも通り、硬質な声での返答があり、足下に向けていた視線を上げる。声は、階段の対角より届いた。異様な光景の一角である。梁を渡り、梁に巻き付き、柔らかく緩い吊り橋のように架けられた煌びやかな数本の帯。規制線のように張られた帯からは、拒絶や隔絶の意図を強く感じる。その天井に、クロが逆さまにぶら下がっていた。足も付かず、翼も広げず、それこそ電球のように――しかし何にも繋がっておらず、中空で揺れることもなく、である。
『不可解でしょうが、私自身にも分かりません。ただ、本当に身動きが取れないのです』
異様な状態のクロに何かを言おうとして、しかし言葉は一つとして出て来ないまま足を止めた。ぽかんと開いたままの口を閉ざす前に、数多の囁き声が一層賑やかになり――
『リンドウ、などとカラスが呼んだ時にはまさかとよぎりはしたが』
――それらが、一斉に静まりかえる。たった一つのその声は、他の数多とは明らかに質が違った。布のように若葉のように薄く柔らかく、こよりや葉脈を思わせる細くも確かな筋が通っている。で、あるがただ繊細というよりは、華奢で脆弱という印象が強かった。悲嘆や憂鬱を思わせる低めの温度の声はまるで病人のような声と語り口をしているからだ。
『この気配。誠に、御柱様の代理殿のお出ましとは……妾を買い被っておられるな』
声は、帯に囲われた一角の最奥にて、深くたわんだ中から上がったものである。帯が揺れ、開き、包まれていた物が露わになった。大人の腕よりは短く細い程度の、古い直方体の木箱である。白茶の滑らかな表面には不釣り合いな、独特な艶のある大きな黒ずみは煤であろうか。特徴的な木箱の形に見覚えはあるが、何を入れる箱であったかが思い出せない。
箱からの言葉に誘発されたかのように、蔵がざわめきを取り戻す。御柱様の、蛇神様の、代理の、等と賑やかしの殆どは短い単語ばかりであった。が、お陰で「御柱様」が蛇神のことを言っているのだと確信を持てたというものである。
「蛇神を知ってるなら話が早そうだ。いかにも、蛇神の代理を務めてる者だが……今日は、それで来たわけじゃない」
鱗道の肯定に、蔵のざわめきは大袈裟な歓声に変わった。有名人を迎えた群衆のような歓声に、鱗道は肩を竦める。どうやら、蔵の住人達はこぞって蛇神を尊敬の対象としているようだ。あるいは、そんな歓声を語り始めるだけで一斉に鎮める、蔵の中で最も力が強く、恐らくは蔵の主であるこの箱――
『御柱様の代理たる人間がこのような辺鄙な場所に物見遊山とは思えませぬな……妾に引導を渡しに来たわけではない、と?』
蛇神に対する畏敬を声や言葉に露わにするこの箱が、蛇神の信奉者として皆に言い聞かせているのだろう。
「引導? 何のことだ」
鱗道には当然、疑問しかない。箱が蔵の主だとしてもその正体も、蛇神にそこまで畏敬を持つ理由も分からなければ、引導についても心当たりがないのだから当然だ。が、箱は鱗道の疑問に答えず、
『――お連れを迎えに、とのことでしたな。この奇妙なカラスは代理殿の遣いで?』
と、何らかの病の気配が色濃く憂鬱そうな、華奢な声で問うてくる。
「遣い……なんていうと大袈裟だが、確かに俺の協力者だ。アンタが捕まえているなら、離してやってくれないか。アンタらに害は加えんよ」
『申し訳ないが出来かねる。この蔵の中で、カラスを野放しになどしたくもない。括り絞めても効果のないカラスとなれば尚のこと。たとえ代理殿の遣いであろうとも、譲れませぬな』
蛇神の代理でしかない鱗道に対し、箱の声は慇懃無礼さが垣間見えるものの恭しく接してみせる。それ程蛇神を慕いながらも譲れないと断ずることが、言葉の内容以上に声の主のカラス嫌悪を浮き彫りにしていた。クロが拘束されただけに留まっていることや声や言葉から攻撃的な存在ではないと考えていたが認識を改めるべきらしい。クロをただのカラスだと思い込んでいたからこそ特別頑丈な体を持っているクロに、現時点で有効な攻撃手段を見付けられていなかっただけだ、と。繊細な触覚を持たないが故に自分が絞め殺されようとしていたと気が付いていなかったクロも、同様に認識を改めたようである。
『解放して頂ければ、すぐさま蔵より退出いたしますが』
クロが僅かに聞き取れていた声が、この華奢な声と同一かは分からない。が、鱗道に語りかける声はクロにも充分に聞き取れるようだ。クロの硬質な声に大きな変化はないが、弁明や焦りという感情が常より若干早口にさせている。当然、箱はクロの声が聞こえているはずだ。が、しかし、
『代理殿。貴殿はなにゆえ、ここに、カラスの遣いなどを伴っておいでになったのか』
クロの存在そのものを一切無視するように、華奢な声は鱗道としか語らない。憂鬱さと柔らかさに残る葉脈は、この頑なさの表れなのだろう。ここまでカラスを嫌悪するならば、鱗道がクロと同じ言葉を言ったところで素直に解放するとは思えない。
「神主――ああ、今の神主じゃなく狸……前任の神主に頼まれた。蔵の中を確認してくれ、と」
言い直したのは、狸神主という呼び方はあくまで人間同士の呼称であると思い出したからだ。しかし、狸という言葉にぽつりと、『奴か』と箱が、やはり憂鬱そうに呟いた。
『成る程――つまり、貴殿はただ、この蔵の中を見に来ただけ、と。しかし、見てどうなさるおつもりか? 我らがいると知って終い、ということはありますまい?』
「俺は……報告して終いにしてもいい。前任の神主からは、昔の火事で避難させた物が曖昧になってるんで確認してくれ、と言われてる。古い蔵だから建て替えも考えるが、まずは中を知らなければ、って感じで」
火事、中、といくつかの単語を声は繰り返す。病人が身を震わせるような振動を伴う声は、恐怖や忌ま忌ましさを強く纏う。表面の煤からして、箱は火事の時に避難された物であることに間違いない。
『あの狸め。死んで妾の糸が外れたか――それで代理殿に頼むとは……執念よな。ああ、なればやはり、いよいよであるし、結果は変わらぬ。妾は引導を突き付けられるか、僅かな延命を再び繋ぐかという瀬戸際であるになんら変わらぬ』
箱の言葉は独り言である。鱗道にも聞きにくいほどの発声で、身震いを伴うようなか細い声はクロには聞こえていまい。だが、箱の言葉に蔵のざわめきは左右されていた。恐らくは、と思っていたこの箱――あるいは中身、宿った意思は、間違いなく蔵の主である。
『代理殿。申し訳ないがこのカラス、ただで離してやるわけにはいかなんだ』
再び明瞭に語りかけてくる蔵の主の言葉。物憂げで繊細であり、頑なさを秘めた声を聞いて、和箪笥の引き出しや引き戸、あらゆる箱の蓋など開くものの殆どが開いて中身が顔を覗かせる。書物、着物、様々な日用品。古めかしい道具ばかりの感情は好奇心、興味、不安――に加えて、蔵の主に鱗道がどう動くかと警戒しているものがある。
『妾は蔵から出ることはない。この蔵と共に潰れようとも、それは蔵の外に出されることと妾にとっては同義である』
「なら、俺はそれを神主に伝えるだけだ。無理にでも引っ張り出せとは言われてない。中を確認したら、判断は俺に任されてる。その鴉――クロを返して貰えればいい。出て行けと言われなくとも出て行くよ」
顔を覗かせた日用品の中には、少しの錆を浮かせている鈍色の針や刃を持つ道具もある。その中でも大きな裁ち鋏などは先程まで自分が収まっていた引き出しの端に、仁王立ちでもするように刃を広げて立ち上がっていた。一言、蔵の主が『行け』と言えば――否、言わずとも示唆すれば、あるいは鱗道が近付こうとするだけでも飛びかかってきそうな雰囲気がある。
『そうだろうとも。代理殿。貴殿としてはそれで済む、とお思いだろうが、貴殿の話を聞けば神社は妾を出すために動くだろう。それこそ、妾を引きずり出すために再び貴殿に頼むやもしれぬ。つまり、妾は貴殿に語られては困りまする――それ、故』
箱の声は一層の頑なさで強く引き締まっていた。か細さや繊細さが捻れて窮鼠の如き覚悟に満ちた声は『ご覧あれ』と、紡ぎ上げた。
きらり、と目の前に細い筋が一つよぎる。一つ去ればまた一つ、次にまた一つと続けば数える暇も無いほど目の前に現れる筋は、蔵の随所に張り巡らされ、濃厚な蜘蛛の巣か薄布のように所々を塞いで視野を霞ませていた。これが、階段から二階を見上げた時に霞んで見えた原因なのだろう。やはり煙や霧のように流動性のある物ではなかったのだ。
『妾は御柱様の牙先ほどの力も持っておらなんだ。だが、あの堂々たる体の鱗の一枚には及ぼうというもの』
宙に何の支えもなく浮いていたクロの姿が、幾重もの布に包まれたミノムシか繭玉のようになっているのが目に見える。全ては、最初に見えた筋一つ――細い糸から成っている。それこそ、蔵の主が発する声のようにか細い糸が収束して薄布を形成し、クロを包んで捕獲し、鱗道の視覚や聴覚を阻害している。
『妾の微力は、我が領土に広げさせて貰っておりまする』
「この蔵は……アンタの手中にあるって訳か」
『蔵全てとは恐れ多い――下階の全てまでは及ばぬ』
梁を渡る帯が二本、蔵二階の観音扉を開け放つ。外は晴れての真っ昼間、強い日差しが差し込んでもおかしくなかろうが、それすらもカーテン越しのように和らいでいる。外の光により蔵の中で、蔵の主の微力という薄布の様子がよく見えた。風を受けて揺れ、棚や行李、あるいは薄布同士で引っかかるとすぐに千切れてしまう。だが、千切れるだけで消えはしない。クロはこの中を飛び回り、知らず知らずに薄布を引っ掛けて千切り、破片を纏う内に徐々に動けなくなっていったのだろう。
蔵の二階中に疎らに垂れ、あるいは張られた薄布だが鱗道には付いていない。鱗道が歩いてきた場所も、不自然なほど綺麗なものだ。階段を上りきった時に足に一瞬引っ掛けた感触が、すぐに失せたことを思い出す。蛇神の代理人であるということで、特別扱いを受けているようだ。ただ、その特別扱いもここまでらしい。
『しかし、領土は領土。ここより出るには、決まりに準じて貰わねばなりませぬ』
帯が再び観音扉を閉ざすことで、蔵の中は頼りない電球の光源のみとなった。外光を失った蔵の中は一時の間、酷く暗くなり、蔵全体が瞬きをしたかのようだ。
「決まり?」
『弱者には弱者なりの領土の守り方があるものよ、代理殿。それが、領土に在る者に決まりを強いるという手段。妾の決まりは単純にして明快。妾の問いに正しく答えさえすれば良い。代理殿もカラスも何事もなく、我が領土より出るが叶いましょうし、我が領土は貴殿の物。妾を蔵から出すのも御存意に』
蔵の主が蛇神に抱く敬意は誠のものであろう。だが、蛇神の代理に向けるのはここまで、という線引きを、鱗道は華奢な声から感じ取っていた。か細く、華奢で脆弱な中に剛情さの芯。そして、明確にされたのは取り繕った謙虚さである。己は人外であり、人間の世の理外に在るものであり、蛇神の代理であろうと鱗道は人間である、と理解し、把握し、
「俺が、問いに答えられなかった時にはどうなるんだ」
『蔵より出るは叶いましょうぞ。我が決まりの下とて、御柱様の代理に手出しなどという不義理は出来ませぬ。されど、この鴉はまた別件』
鱗道に触れぬのは、自由にさせているのは、あくまで蛇神の傘を被っているからの優遇にすぎないと突き付けるような、慇懃無礼さを隠すことも止めたらしい。
『この鴉は、奇妙な鴉でありますな。羽毛も目玉も、ただのカラスのものでない。どうりでいくら括ろうとも堪えぬわけだ。だが、御柱様や妾と同じ側ともまた違う。なれば――妾の糸もミノムシには劣れど細いのだから、いずれ隙間を見付けて中をきぅと絞めるも時の問題』
丁寧でゆったりとした語調であるが、芯としてある剛情の他に苛烈な性格も垣間見えつつあった。僅かな嘲笑、手中に他の存在を握る驕りが、声に張り付いた憂鬱や病人のような虚弱さを超えて滲んでいるのだ。
鱗道は下げていた両手を持ち上げ、胸の前で手の平を合わせた。動きはゆっくりとしたものであったが、手の平を合わせる時に大きな音を立てたのは意図的なものである。帯が箱を庇うように締まり、煌びやかな帯の中に箱が包まれる。しかし、蔵の主は帯をたしなめて隙間を広げさせた。白茶に煤をこびりつけた表面が、帯の隙間から覗く。
『下手な脅しは止めなされよ、代理殿。妾を食うのは蛇ではなかろうて』
「クロに手出しするなら俺も手段がある、という意味だ。事を荒立てようなんて思ってない。俺は、穏便に事を済ませたいんだ」
穏便、という言葉に帯が揺れた。正確には、帯に包まれた箱が揺れたのだ。華奢な声は、か細い笑い声を鱗道に聞かせてくる。先程、猪狩に意味深に笑われたことを思い出し、鱗道は眉をひそめた。そう言えば――あの男はちゃんと下で待っているだろうか。そろそろ状況を説明した方が良いはずだ。一階に下りられれば良いが、その許可も貰えないとなったら声を張り上げて会話をせねばならない。